『ダンサー・イン・ザ・ダーク』 ラース・フォン・トリアー(監督) /

逃避としてのミュージカル映画

「説得力のあるミュージカル映画」である。ドキュメンタリー的なシーンと、つくりこんだミュージカルシーンの対比が印象的。ビヨーク演じる主人公は、ちょっとした物音に反応し、それは空想の中で音楽となり、やがて皆が踊り出す…….ミュージカルは、つらい状況にある彼女にとって「もうひとつの現実への逃避」なのである。そこでは皆がいい人になり、悲惨なシーンを補うような形で互いに許し合う。ミュージカルとは、絶望的な現実の中での自在な想像力なのだ、とこの映画は教えてくれる。

手持ちカメラによる日常シーンにはわくわくするし、いくつかのミュージカルシーンにもぞくぞくする。機械の音、風の音、列車の音がリズムを刻みはじめ、音楽になっていくプロセスは最もシンパシーを感じる部分だ。しかし、物語は次第にドラマチックになり、説明的な過剰表現へとエスカレートしていく。

60年代アメリカの片田舎。そこに移民してきた東欧の女(ビヨーク)は、失明寸前にもかかわらず、女手ひとつで息子を育て、危険な工場での昼勤と夜勤に加えて内職までこなし、トレーラーハウスに住む。眼の病が遺伝することがわかっていながら息子を産んでしまった彼女としては、彼の失明だけはなんとしても食い止めなければならない。だが、息子の手術のために貯めたお金は、秘密を共有した男友達に盗まれ、彼女は男友達を殺す「はめ」になる。裁判では息子のため(今、息子に眼のことを知らせると精神的ダメージにより手術は成功しないのだそうだ!!)、そして男友達との約束のため(彼女は息子思いなだけでなく、根本的にけなげなのだ!!)、真実を語らない…….。

これって、美しい話だろうか? 都合よくつくりすぎな感じは、まさにおとぎ話だ。「失明の部分は、別の作品に影響され、あとから加えた」というような監督のインタビューを読み、ますますそう思った。不治の病というのは、そんなふうにあとから軽々しくつけ加えるべきテーマではないのでは?と私は思う。

裁判における類型的な図式もすごい。移民である彼女は、エリートである男友達との対比において圧倒的に不利であり、観客は「弱くて正しい者の悲劇」に涙せざるを得ない….。ところが、飛行機恐怖症の監督は、裁判の国でありミュージカル発祥の国でもあるアメリカに一度も行ったことがないそうで、ロケはすべてヨーロッパでおこなわれた….。要は、この映画のすべてがセンチメンタルな幻想なのだという気がした。彼女がミュージカルに逃避するのと同様に、映画自体もまた、幻想の世界に逃げている。

好意的に解釈するなら、20世紀を総括する映画としてふさわしい懐かしさと力強さに満ちている。よくも悪くも「大作」なのだ。さまざまな名作のオマージュ的なシーンが楽しめるし、ミュージカルの意味を問い直す批評的視線は新しい。ビヨークの曲、歌詞、表情、動きは才気にあふれ、脇役としてのカトリーヌ・ドヌーブも、ただものではない演技を見せてくれる。

*ロードショー公開中(2000年 デンマーク映画)

2001-01-06

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『バトル・ロワイアル』 深作欣二(監督) /

美しく過酷な、サバイバルゲーム。

「リアリティがなくて嫌な感じのスプラッタ映画。だから見なくていいよ」。私をよく知る友人は、そう言った。だけど私は、もしや?と思って見に行ったのだ。その結果「リアリティがあって希望を感じる批評的な映画」と私は感じた。これだから映画は面白いし、やめられない!

ゲーム仕立てのわくわくするような展開、無人島でのサバイバルというオーセンティックな設定、殺し合いを余儀なくされるクラスメイト42人の見事な描き分け、はまり役としかいいようがないビートたけしの演技と彼自身が描いた1枚の絵、手抜きのない殺戮シーン、戦闘服としての制服のデザインセンス、ラストシーンの普通の街の美しさ、そこから流れるドラゴンアッシュの「静かな日々の階段を」のシンプルな旋律……どこをとっても、高水準の映画だった。

戦争を知らない私たちに向けて、戦争の馬鹿馬鹿しい本質をこれほどわかりやすく描き切った作品を、私は知らない。とりわけ、敵味方の単位が「顔の見えない集団」ではなく「顔の見える個人」であることが、きわめて現代的。最後の一人になるまで戦い続けなければならない極限状況の中で、人はどのような行動に出るものか? パニックに陥る者、一人だけ助かろうとする者、皆で話し合おうとする者、友人を信頼できなくなる者、裏切る者、ゲーム自体を楽しむ者、愛する人と過ごす者、自殺する者、最後の瞬間まで楽しもうとする者、システムの破壊や脱出を試みるもの……..自分だったらどうするだろう? これは空想の中の「残酷なゲーム」なんかじゃない。私たちの、身近な日常そのものである。今日、誰と何を食べようか、というような些細な日々の選択肢の重大さを、否応なくつきつけられる。

映画館は満席。その大半が、映画に登場してもおかしくないような高校生だ。彼ら、彼女らも、登場人物たちと同様、一人ひとりが全く違うことを考えているにちがいない。そして、そういったさまざまな想像力をかきたてる点、多様な可能性を提示し、許容する点こそが、この映画の素晴らしさだ。

私と友人の見解の相違も、この映画の包容力の豊かさと問題意識の強烈さを象徴している。未解決の問題が山積みで、わけのわからない様相を呈している現代社会は、過酷だがいとおしい。こんなにも愛にあふれた映画が、高校生で満席になるなんて…….それだけで、21世紀の日本に希望を感じてしまった。

2000-12-22

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『ストレート・レザー』 ハロルド・ジェフィ / 新潮社

殺しと殺しのあいだをどう生きるか?

説明を極力省いたミニマムな描写。最先端テクノロジーを駆使したカルチャー。倒錯したセックス。意味をはく奪された刺激的な暴力行為…。しかし、この短編集のいちばんの特長は、そぎ落とされた文章の中に、不安定で気弱で理性的でどこか懐かしい「普通の感情」がときおり混じることだと思う。それは、涙が枯れ果てたあとの泣きぼくろのようでもあり、荒廃した世界に咲く最後のバラのようでもある。

「今日の、この時代に、セックスに誠実さを求めるなんて、ズレてるってことわかってるけど、でもわたしって理想主義者なんだわきっと」(「ゴム手袋」より)
「よもや人を食うなんてことはなかろう、と。ときどき、自信がなくなるが…」(「ネクロ」より)
「こちらがなにもかも譲歩して、それでいてこのふたりのほっそりとしたパンクスタイルの十代の娘たちが、屈強な成人の男に居心地の悪さを与えるというのはなぜなんだ」(「ストレート・レザー」より)
「そこでパーティはおひらき。あらゆる幻覚が終わらねばならないように。あるいは、そのように人が言うように」(「迷彩服とヤクとビデオテープ」より)

「ストーカー」という短編の中には、こんな一節がある。「殺しだけをしていれば、そいつはすごいことだ。しかし、殺しと殺しのあいだに間がある」。この短編集全体のコンセプトを見事に言い表した文章だ。殺しをやっている間は、皆ハイなのであり、ハイな小説が、私たちをある程度興奮させることは間違いない。ただし、問題は、殺しと殺しのあいだをどうやって生きるかということなのだ。我に返って孤独と向きあったときにこそ、人間の真価が顔を出すし、小説の真価もあらわになる。

この短編集のハイな部分を読んでいると、何がかっこよくて何がかっこ悪いのかわからなくなり、男女の区別や善悪の判断がつかなくなる。ぐちゃぐちゃにされて、あっさり放り出される気分だ。結局、他人のことなんて理解できないし、自分がいつ死ぬかもわからない。そんな結論にたどりつく。

だが、その後、じわじわと勇気がわいてくる。人生短いんだから、いくところまでいってみよう、と。で、その結果、すげえ!という境地に到達したとしても、「ストレートレザー」の主人公のように、「自分のパンツで血を拭きとり、鞄にあったもうひとつのズボンをはいた。黒い「執務用」ズボンだ。注意深くロープを巻き、鞄の中にしまった」というふうに、命ある限りは淡々と目の前の現実を処理し、次の場所へ向かいたい。それが、タフということだと思う。たとえ内面がぼろぼろに崩れ落ちそうになっていたとしても。

第1回インターネット書評コンテストで最優秀賞をいただきました。ありがとうございました。

2000-12-15

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『ザ・ブラック・パフォーマンス』 ゲイリー・ヒル / ワタリウム美術館 企画

ひとりで死んだUへ。

携帯電話にとどくメールは、電報のようだ。ゲイリー・ヒルのパフォーマンスに向かうタクシーの中で、かつて仲良しだった男友達のUが死んだという知らせを受け取った。メールをくれた友人は、これから新幹線でUの田舎へ向かうという。

運転手がミラー越しに心配そうな目を向けるのを見て、私は、自分が放心していることを知る。友人たちと一緒にお通夜に行くことをやめ、一人でパフォーマンス会場である明治神宮の参集殿へ向かうことを選んだのは、結局のところ、Uにとって特別な存在であり続けたかったからだ。

開場まで1時間も外で待たされた参集殿は、まさに葬儀場のようで、全員が焼香のために並んでいるみたいだった。パフォーマンスが始まっても、私の心臓は、終始どきどきしながら別のことを考えていた。

途中、死の直前のような動きと、それを冷静に見つめるもう一人の目がスクリーンに映し出され、こわくなる。私はUの死因を知らないが、聞きたくないなと思っていた。Uが死んだという唯一の真実の前では、人づてに聞く死因など無意味なことのように思われたから。

でも、その映像が延々と続くにつれ、現実的な恐怖の感覚に襲われた。死の瞬間、Uは何を考え、どんなふうに死んでいったんだろう。痛々しいほど繊細だったU、プライドが高くてかっこつけていたU、話をするときに人と目を合わせなかったU、だけど話をちゃんと聞いてくれたU…….

私は思わず声を出しそうになったが、その瞬間、ポーリーナ・ワレンバーグ=オルソンがステージに登場し、代わりに叫んでくれた。四方に向けての、振り絞るような、祈るような叫び。ゲイリー・ヒルの作品が見たかった私としては、前衛臭の強いポーリーナとのコラボレーションに終始した今回のパフォーマンスには失望するところだが、そんなことは忘れて彼女に共鳴した。人はみな、叫びたいんだ。

Uと私は、かつてさまざまな感情や感覚を共有したが、ここ数年会うこともなくなっていた。今年の夏、1度だけ、Uが初めて携帯からメールを送ってきて、くだらないやりとりをしたのが最後となった。生き残った人間は、 自分勝手に過去を引っ張り出してきて、陳腐な意味づけを試みるしかない。ずっと生きていれば二度と会わなかったかもしれない人なのに、Uを失ったことが、悲しくてたまらない。

私はこのフォルダーを、自分自身のための純粋な覚え書きとして使っているが、今回に限っては、Uに読んでもらいたくて書いた。プライベートとパブリックの境界線上に位置するこのフォルダーは、私にとって、とても不思議なもの。だからこそ、私が理解できない場所に行ってしまったUも、読んでくれそうな気がしてしまうのだ。どこからかUが携帯で「恥ずかしいからやめてくれー(笑)」とメールをくれないだろうか。

2000-12-11

『メモランダム』 ダムタイプ /

記憶は、なぜ美しいのか?

演劇でも、ダンスでもなかった。強いていえば「映像と音と身体による1時間15分間のパフォーマンス」。テーマは「記憶」だ。セリフはないが、パフォーマーがその場で書くメモの内容が、背後のスクリーンに映し出されるなど、全編を通じて言葉に満ちている。

印象的だったのは、書いたばかりのメモを男がちぎって捨てたあと、メモの断片でいっぱいになったゴミ箱を女がひっくり返す行為から始まるシークエンスだ。女の動きにあわせてメモの断片が雪のように舞い、その様子は4つのスクリーンに映し出される。天井からぐるぐるまわりながら床に接近する小さなカメラによってとらえられる映像は、万華鏡のような美しさだ。
言葉の書かれたメモが曖昧な美しいイメージに収斂されていくプロセス。その感動を言葉で表現するのは愚かだろう。目の前で散っていく記憶の断片を、ただただ見守っていたいと切実に思う。

部屋のシークエンスも面白かった。舞台上の部屋と酷似した状況が4つのスクリーンに映し出される。それぞれの時間の流れ方は微妙にずれ、起こるできごとが違うのだ。
小物の色使いや配置はきわめてシンプルで心地よい。だが、複数の似た状況が繰り広げられるにつれ、同じ結末に向かっているというイメージが強調され、不安にかられる。やがて訪問者がドアを開け、部屋の住人に凶器でなぐりかかる….。 それぞれの部屋でヒゲをそったり電話をかける過程が見られるが、結末はすべて「無」だ。つまり、細部の記憶は複数だが、現実はただひとつ。美しくて恐ろしくて洗練された、元も子もないドラマである。

テクノビートのダンスパフォーマンスも見事だった。デジタル映像と有機的な身体のシルエット。その対比だけでスティルフォトとして完成されているのだが、そこに、めくるめくスピード感や空間を引き裂く音響、光と色のパフォーマンスが加わるのだから。パフォーマーの息遣いまで感じられる小さな劇場自体が最新のボディソニック装置となり、至福の「記憶体験」に導いてくれる。

演劇やダンスというジャンルは、「独特の集団臭」や「クライマックスの感動」に辟易させられるケースも多いが、ダムタイプは、最後の舞台挨拶に至るまで何ひとつ過剰なものがなく、不足するものもなく、世界に通用するセンスのよさを感じた。さまざまなジャンルのアーティスト集団なのだと知り、納得した。

*新国立劇場小劇場「THE PIT」にて12月16日まで公演中

2000-12-06

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