『頭の体操 第23集』 多湖 輝 / 光文社 カッパ・ブックス

ネット上の危険は、ウイットで回避せよ!

ほぼ年に1冊のペースで出版されている「頭の体操」。 2001年バージョンは「永遠の謎 篇」と題され、「インターネット」が全編を貫くテーマとして取り上げられている。「プロローグ」の文中には、こんな例題があった。

「ネットで知り合ったクイズ・マニアの友だちがいるが、あるとき偽者が現れた。2人は同じようにホーム・ページで発言し、あなたにメッセージを送ってくるが、1人はあなたをだまそうとしている。あなたは本物の友だちとも会ったことがないので、顔を見ても声を聞いても本物と偽者の区別はつかない。さて、ごく簡単な質問をして、本物と偽者を見分けることはできないだろうか?」

本書には一応の回答が書かれているが、それはヒントに過ぎない。要は、ありきたりの質問をしても偽者はネットで調べて答えを出してしまうだろうから、もっともらしいウソの質問をしてみよということなのだが、この答えは示唆に富んでいる。人間の本性はベーシックなコミュニケーション部分に現れるのであるからして、アナログ的な「頭の体操」によって、危険を回避するコミュニケーション能力を磨け、というのが本書のメッセージである。「少なくとも『頭の体操』の読者であれば、何事にも好奇心をもって挑戦してもらいたい」と多湖先生は言うのだが、クイズマニアへの愛にあふれた、このポジティブさがいいではないか。

「ホームページで知り合った人はいい人なのか、あなたをだまそうとしているのか? こうした局面で、私たちが楽しんできた『頭の体操』的な発想が生きてくる。そう、あなたも人間なら、ネットの向こうにいる謎の人物も同じ人間なのである」

本編のクイズは、インターネットとはほとんど関係のない、相変わらずの内容だ。マッチ棒あり、コインあり、言葉の問題あり、イラスト問題ありといった安心のラインナップ。素直に「やられたー」と思えたり、「これは、ちょっとズルイんじゃないの!?」と怒っちゃったり、「面倒くさくて、やってらんないぜ」と全く考えずにページをめくってしまったり。
―そう、これこそが「頭の体操」の醍醐味なのだ。年に1度のイベントといっていいくらいの。

私が気に入ったのは、暗号のような以下の文章を指して「これはなんだろう?」という、ごくシンプルな問題。意外とインターネット的な発想だと思うのだが・・・。

つかすいも
くきんどに
ちげ

2001-08-01

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『A.I.』 スティーブン・スピルバーグ(監督) /

愛とは、同じ時代に死ぬこと。

同級生が亡くなった。彼女が好んだスマップの曲が、葬儀上のすみずみにまで絶え間なく流れ、花に埋もれた彼女の顔は、まるで白雪姫のよう。私は、笑ってるんだか泣いてるんだかよくわからないサイレント映画のような参列者たちを見回す。100年後には、おそらく全員が死んでいるのだろう。彼女はほんの少し、早かっただけなのだ。

「A.I.」を見た。映画には、お金のかかった映画とお金のかかっていない映画の2種類があるが、この映画はもちろん前者。平日なのに行列ができていて驚く。劇場の広さに驚く。冷房の強さに驚く。パンフレットの大きさに驚く。音響の迫力に驚く。ハリウッド系の大作映画を見るのは久しぶりなのだった。

愛という感情をインプットされたA.I.(人工知能)の子供、デイビッドと、彼のパートナーとなる旧式のスーパーロボット、テディ。彼らの「完璧ないたいけなさ」があざとすぎずに済んでいるのは、「A.I.」が、数千年にわたる技術の進化を軸に繰り広げられるクールで壮大な物語だからだ。

ある家庭にデイビッドが試験的にやってきて、捨てられるまでの話は、かなり面白い。感情をもったロボットが、日常生活でどこまで受け入れられ、どの辺が問題になってくるのかを丁寧にシミュレーションしてくれる。この映画、この部分だけでもよかったかも。

デイビッドの冒険が始まる第二章は、SFXのオンパレード。このあたりから私は眠くなってくる。まるで徹夜明けにディズニーランドに遊びにいったような気分だ。 「手に汗握る技術自慢のシーン」こそがハリウッド映画の真骨頂なのだろうが、おかげで、どの映画も画一的な印象に見えてしまう。かなり残酷な内容であるというのも、お決まりのパターンか。ファンタジーとはいえ、いや、ファンタジーだからこそ、暴力や差別意識への予定調和的な想像力が、私は怖い。

泣かせるための強引な設定も、気になるところ。この作品のキモとなるクローン再生技術については、「1回限り・しかも有効期間1日」というタイムリミットが説明されることで、ずいぶん白けてしまう。

とはいえ、ディズニーランドは楽しい。よくできている。永遠に死ぬことのない人形や動物や超人が「人間になりたい」と願う話はよくあるが、「A.I.」は、この定番化されたストーリーを美しくスクリーンに定着することに成功していると思う。 水に包まれた近未来と、さらに2000年後の氷に包まれた世界が、甘すぎるファンタジーを冷たく中和し、忘れがたいシーンとして脳裏に刻まれる。

たまたま同じ時代に生き、同じ時代に愛し合い、同じ時代に一緒に死んでいく偶然とは、なんとかけがえのない摂理だろう。誰もが恐れている死の概念を、限りなくやさしく描くラストシーンには、力づくで泣かされてしまう。

*2001年 アメリカ映画

2001-07-22

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『ゲーム業界 危機一髪!!』 浅野耕一朗 / 翔泳社

こんな仕事、やめてやる!

ITビジネスを解説した「図解 そこが知りたい!」シリーズの1冊。 学習参考書っぽい装丁とはおよそ似合わない、リアルな語り口の本だ。制作現場のディレクターからみたゲーム業界の現状が、熱っぽく(どちらかといえば愚痴っぽく)暴かれ、テレビゲームというものをほとんどやったことのない私にも面白く読めた。創造の楽しさよりも資本の原理が優先され、短期間でヒット商品をつくらなければならない業界特有のストレスが、たたみかけるような文体から感じられる。

「何故ゲームをまだ作り続けるのか」
「まだまだ捨てたものではない」
「ゲームは『表現』か、どこまで『表現』になるのか」
「ゲームは『表現』それ自体を目的とした媒体ではない」
「ゲーム企画者の創造性、ゲーム技術者の創造性を擁護する」
「ゲーム制作者たちよ、胸を張ろう。映画や音楽、現代美術に対して抱いているコンプレックスから自由になろう」
・・・かなり自虐的なトーンである。ゲーム業界、大丈夫なの?

どうやら、大丈夫ではないらしい。携帯電話が普及し、1、2分の暇を埋めたいという欲望が新たに開発された結果、単純なゲームのみが求められるようになり、ゲームの質ひいてはクリエイターの質が落ち、やがてゲーム産業は行き詰まるだろうという救いのないメカニズムが、わかりやすくチャート化されていたりする。

たとえば、「プレイステーション2」にしても、もはやゲーム機ではなく、家庭用デジタルコンテンツの総合端末なのだ。映像や音楽など、デジタルに変換できるコンテンツをすべて取り込んで再生できるため、ゲームにこだわる理由は何もない。じゃあ、ゲーム機はなくなってしまうのか? 著者は任天堂の「ゲームキューブ」(9月14日発売)がゲーム制作者の未来を分けると断言する。これが失敗に終われば、ゲームは携帯やDVDプレーヤーやパソコンなどにくっついてくるオマケとしての地位に転落するのであると。

「いつのまにか、名実ともにゲームに真正面から取り組むマシンは、『ゲームキューブ』だけになってしまった。すべては『ゲームキューブ』の行方にかかっている。ゲームキューブが失敗することは、あってはならない」。
・・・そ、そうなの? 思わず手に汗握ってしまう!

「ゲーム業界は現在、間違いなく過当競争に追い込まれつつある。過当競争というのは関係者全員が不幸になる仕組みだ。極限まで下げられた原価をなお下げさせられて、しかもクオリティを下げてはならないのだから。いきおいやっつけたような仕事になり、できあがったものは、見た人までも痛々しい気持ちになる製品だったりする。もし自分がいる場所が過当競争に巻き込まれたら、とっとと逃げ出すに限る」。
・・・ちょ、ちょっと待って! 要するに、転職をすすめてるわけ? 実際、著者は親切にも、ゲームクリエイターのスキルはほかの仕事にも広く生かせるはずと、さまざまな具体例をあげているのだ。

しかし、著者自身は、ゲームクリエイターをやめるつもりでこの本を書き出したものの、ぜんぶ書いちゃってすっきりした、というようなことを「あとがき」で述べている。すっかり吹っ切れて、この仕事は辞めないような気がしているのだそう。
「『書く』という行為は不思議なものだと思う」と彼は述懐するのだ。あー、よかった。なんだかほっとした。

著者は、かようにも読者を振り回す。まるで、この本自体がゲームのよう。
なにしろ、タイトルが「危機一髪!!」である。やられたー

*著者からメッセージをいただきました。THANK YOU!

2003-07-17

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『ゆっくり歩け、空を見ろ』 そのまんま東 / 新潮社

子供は、誰に殴られるべき?

別冊宝島「腐っても『文学』!?」に、そのまんま東のインタビュー(by大月隆寛)が載っていた。坪内逍遥や五木寛之が好きで、現在、早稲田大学第二文学部で文芸を専攻する彼は、父親に一度も殴られたことがないことを引け目に感じており、殴ってもらうために「たけし軍団」に入ったそう。

「男の子は、母への恋慕から、心の中で父を殺し、父を超えた時、真の『男』になるらしい。エディプスコンプレックスというやつである。僕は、そういう大切な作業を省略して今日まで生きてきた」。
謹慎の憂き目にあった98年の「淫行騒動」で、彼がもっとも迷惑をかけたのは8歳の息子。奇しくも、彼が実の父親と別れたのも8歳の時だった。「あの時、父は僕に悪いと思ったのか」という問いが彼の中でふくらみ、かくして父親探しの旅がはじまる。

文体といい、テーマといい、純文学とはこういうものだ、というような紋切り型の表現は新鮮なほど。何かに似ていると思ったら、たけしの映画だ。彼は、実の父親「北村」と、師匠「北野」の血を両方受け継いでいるのだろう。

地元の名士であり不動産業を営む酒乱の父を「気絶するくらい臭い」「ぶざま」と罵倒しながらも、彼は父に関する豊かな思い出やドラマチックなエピソードを得々と語る。サーカスを呼んで自宅で乱痴気騒ぎをしたり、妾である彼の母親と気が触れたようにセックスしたり。妾の子である彼とは微妙な距離感があるものの、「やはり僕の中には、北村のどうしようもない淫蕩の血が流れているのだ」という言葉すらも自慢に聞こえるほど。

一方、北村と別れたあとに母が再婚した「北村や僕とは全く真反対の性質」の新しい父に対してはどうだろう。
「人の人生が一本の映画というなら、とても映画にはなりそうに無かった。始めから終わりまで全て同じシーンの繰り返しなのだ。ただ歩いているだけの映画。科白もない。そんな映画誰も観ないだろうし、もし観たとしても退屈で眠ってしまうに違いない。退屈な平行線。平行線的恋愛。スポンサーだってつかない。スポンサーのつかない人生。しかし彼にはスポンサーなんかいらないのだ。というのも、彼自身は退屈していないし、眠りもしない。ただひたすら平板的に歩き続けるのだ。山も登らないし、谷も下らない。勿論振り返りもしない。たとえ振り返っても全部同じシーンなのだから。きっと彼は我慢していたのだ。様々な感情や出来事の量を、人が生きるのに必要最小限以下の量にセーブしていたのだ。それでよく今日まで生きてこれたものだ。もっと感服するのは彼はそのことに今でも大方満足しているということだった。全く信じられない。とうてい僕のような人間には出来そうもない。だからいつも彼に敬意を抱いている」。

ここまで畳み掛けるように「普通の人」を悪く書いた文を、私は読んだことがない。この父は、母親をようやく幸せにしてくれた男であるというのに。「敬意」と書かれているが、これは明らかに「敵意」だろう。この男を見ていると、彼は自分の中に流れる「北村の血」を強烈に意識せざるを得ないのだ。

だが、妾をつくり、その妾からも愛想をつかされた北村に比べると、彼自身はどこか中途半端。彼の妻は「風俗店に出入りした事実より、このような騒ぎになったことで子供達に及ぶ影響を懸念し、僕に対する怒りを顕わにした」というが、淫行とは、妻に女としてちゃんと怒ってもらえない程度の些細な不祥事なのである。単に運が悪かった芸人である彼もまた、息子を殴れないのだろうか。芸人の徒弟制度も崩壊しているらしいし、これからの男の子は、一体誰に殴られればいいの?

2001-07-13

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『偶然の祝福』 小川洋子 / 角川書店

純文学は、読まなくても面白い。

純文学とエンターテインメント小説の違いは、自由度の違いだと思う。途中で寝たり、読みとばしたり、勝手に想像したりといった行為が許される(ような気がする)のが純文学。書き手が自由に書いているのだから、読み手も自由に読めばいい、というような懐の広さを感じる。ルールがないから、どう解釈したっていい。

現実には、読みにくくて退屈な純文学が多いが、「そこには自由なことが書かれているんだ」と想像するだけで、なんだか楽しい。一冊もちゃんと読んだことがないのに、新作がたまに出たりすると「嬉しい」とつい思ってしまう作家がいる。たとえ頁をめくることはなくても、その作家の本を買うことで、自由の存続に一票を投じたいような気持ちになるのだ。

「偶然の祝福」はとても読みやすいけれど、これは、まぎれもない純文学である。だって、いきなりこんな書き出しだ。「真夜中過ぎ、寝室兼仕事部屋で小説を書いていると、時折自分がひどく傲慢で、醜く、滑稽な人間に思えてどうしようもなくなることがある。(中略)私はいつだって、上手に小説を書くことができないのだから」

私は今から、傲慢で醜く滑稽な人間の書いた下手な小説を読もうとしているんだ・・・・・それだけでもう、この本の世界に引き込まれてしまう。つかみはオッケー。普遍性や時代性やコストパフォーマンスとはほとんど関係のない、ごく個人的な贅沢としての読書の時間が始まる。

過去の記憶と想像が入り混じる、童話のような連作短編集だ。心臓に穴があいている絨毯屋の娘、嘔吐袋をコレクションするおばさん、左腕が下ろせなくなった水泳選手の弟、なくしものを必ず取り戻すお手伝いさん、無数のポケットに「私」のすべての著書を入れて持ち歩く男などが登場するが、どの短編にも、現実や夢や思い出や作り話の合間に、必ず「小説を書こうとしている私」があらわれる。

「長編小説を書いている時、私はなぜか自分が時計工場にいるような錯覚に陥る。(中略)いつしか世界そのものが、自分の手に収まっているのを感じる。世界が私の掌で鼓動している。私の身体はこんなに弱々しく、世界の片隅に追いやられているというのに」

弱いのに強く、醜いのに美しく、傲慢なのに誠意があり、儲からないのに自由。純文学の魅力は、そういうものかもしれない。とりわけ、小川洋子の小説がそうだ。書くことを楽しんでいる感じがビシビシ伝わってきて、それだけで、やっぱり嬉しくなってしまう。

2001-07-13

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