変身の後ろめたさと快楽。
歩いている時や乗り物に乗っている時は、誰にも会いたくないなと思う。
移動中はぼーっとしていたいし匿名な自分でいたい。そんな無防備状態の時、いきなり声をかけられようものなら、悪いことなどしていなくても後ろめたさを感じてしまう。
路上の勧誘に対しては「完全無視」を決めているが、数年前から、すれ違いざまに「あれー?」と大げさに反応し「ばったり出会った知人」を装うという巧妙な手口が出現した。このように驚かれると、私はつい振り返ってしまうのだが、その後は「額に変わり目の相が出ていますよ」などと言われてしまうのだから拍子抜け。彼らが何を売ろうとしているのかは知らないけれど、先週も、青山通りで2人に引っかかってしまい、そのたびに「知り合いか?」と緊張してしまう私は、とても悔しい。
そういう意味では、タクシーという乗り物は個室に近く安心感が高い。だが、同じ場所で乗ることを繰り返していると同じ運転手に当たってしまうこともしばしばで、こちらが口を開く前から「3つめの交差点を右ですね」などと言われてしまうのだから油断は禁物だ。
この映画は、ある女の2日間の行動を追跡する。
彼女は愛人とアパートで愛し合い、オープンカーの助手席に乗り、タクシーに乗り換え、幼い息子を拾い、飛行場で夫を迎え、家に帰り、夫と話をし、子供を寝かせ、風呂に入り、客と夕食をとり、夫とレコードを聴き、愛し合い、昼ごろ起き、メイドと話をし、モデル撮影を見学し、カフェで過ごし、産婦人科医へ行き、タクシーに乗り、空港の映画館で再び愛人と会い、ホテルで愛し合う。
すべての断片が、ポストカードにして持ち帰りたいほど完成されている。ラウル・クタールのカメラは、どうしてこれほどセンスがいいのだろうか。部屋の中のシーンが多いが、印象に残るのは、むしろ、それらをつなぐ移動のシーン。移動時間というのは、自分の役割をひそかにスイッチするための神聖な時間なのではないかと思う。だから人は、仕事に行く時も、得意先へ行く時も、家へ帰る時も、飲みに行く時も、なるべくならそっとしておいてほしいのでは?変身にはただでさえ緊張感や後ろめたさが伴うものだから、そのプロセスを知人に見つかるとドキっとしちゃうのである。
興信所の尾行を撒こうとしている彼女の場合、その後ろめたさは本物だ。愛人のオープンカーに乗る時は外から見えないような体勢をとるし(チャーミング!)、タクシーだって何度も乗り換える。飛行場に夫を迎えに行くシーンでは、画面がふいに90度傾くが、この浮遊感・不安感は衝撃的だ。彼女を乗せたタクシーの走行と、夫が操縦する小型飛行機の着陸とが瞬間的に交差し、彼女の役割の転換(愛人から妻へ)と夫の役割の転換(パイロットから夫へ)が、不自然な「ねじれ」として体感できる。
この作品の主要なモチーフは、不倫、下着、雑誌、広告、職業、乗り物など。ひとくくりにするなら「ファッション」で、これらは私たちを手軽に「どこか別の場所」へ連れていってくれる。
時間と場所と人がたまたま交錯し、人は日々、出会ったり別れたり一人になったりする。そんな偶然の中で大切なことは、美しく、かっこよく、おしゃれに生きることに尽きるのではないだろうか。そんなふうに結論づけたくなるこの映画は、まさに究極のファッション映画。悩みがある時には、映画の中の彼女がそう見えるように「美しく、かっこよく、おしゃれに悩んでいる人」を演じてみると、意外と楽しいかもしれない。
*1964年フランス映画
*シネセゾン渋谷、テアトル梅田でレイトショー上映中
2002-12-02