『幸せになるためのイタリア語講座』 ロネ・シェルフィグ(監督) /

「不自由な映画」と「自由な写真」。

年齢を重ねても不器用な人は多い。この映画は、そんな生き方にスポットを当てた。かっこいいとこなんてないし、夢のようなことも起こらない。6人の男女が織り成すダサダサの恋愛映画。

とりわけ不器用なのが、パン屋で働いているのに何度もパンをひっくり返し、いつも髪が乱れていたりスカートがめくれていたりする問題解決能力のない女オリンピア。とても他人ごととは思えず痛い! 不器用な人をなめるんじゃないわよ、と言いたいところだが、映画の撮り方自体も不器用なので、まあいいかって感じ。

不器用な人がこの映画を見ても救われないし解放感もない。ベネチアまで行ってもロードムービー感すら漂わない。彼らが仲間とだけコミュニケーションしているからだ。牧師が「僕にはもう必要ない」とかいってマセラッティを手放すってのも、あまりに紋切り型。

この映画全体を貫く不自由さの理由は、ラース・フォントリアーを中心としたデンマークの4人の監督たちによる「ドグマ」のルールに従っているからかもしれない。許されているのは手持ちカメラを使ったロケーション撮影のみ。小道具やセットを持ち込んではならず、背景以外の音楽を使ってはならず、カラーでなければならず、人工照明は禁止。殺人や武器の使用、表面的なアクションも禁止…一体、何のためにこんな制約を? 1ミリも理解できない。

私は、この映画を見るために新宿へ行ったわけだが、photographers’galleryで開かれていた蔵真墨の写真展とセットにしたのは正解だった。

蔵真墨の写真は私だ―多くの人がそう感じると思う。女子高生やらビジネスマンやらおばさんやらおっさんやら多様な人物が写っているのに、圧倒的なシンパシーへと導かれる。美しいものを美しいとくくらず、不器用な人間を不器用とくくらないクールな客観性。ステレオタイプからの限りない自由。そこから生まれるエッジイな笑い。人+場所+瞬間の吸引力。それは、デンマークとイタリアで撮影された映画にすら欠けていたロードムービー感だと思う。

こういう写真は、偶然には撮れないはず。「普通の人」のキャスティングのセンスが素晴らしすぎるし、ほとんど正面から撮ってるし。一体どうやって仕込んでいるんだろう? それだけが知りたかった。だから、ギャラリーの事務所にいたフェミニンな女性が本人であることを知り、私は歓喜した。彼女の写真はなんと偶然の産物なのだそう。「いろいろ問題もあるんですけど」とミステリアスに微笑む彼女。ああ、それらの問題がいかなるものであってもオッケーです、あなたなら。

蔵真墨さんの写真に出会った「Photographers’gallery press」(No.3 1,600)は、仕事柄「コマーシャル・フォト」ばかり見ている私にとって、久々にエキサイティングなアート写真雑誌だった。

たとえば、小津安二郎が1937年に撮った静物写真の強さ。

たとえば、六本木の地下鉄の階段を上がったら目の前に交通安全ポスターがあり「おっとという感じでインパクトを受けて、よしこれ撮っちゃおう」というノリで森山大道が撮った「アクシデント」シリーズ(1969)が、他人の写真を勝手に撮って卑怯だとか、汚いとか、そういうことでいいのかなどと言われたというエピソード。

たとえば、肺がんに侵された肺と正常な肺を並べてあるような脅迫的な写真の場合、どちらがきれいかは趣味の問題であって「ただれた肺をきれいだとかバロック的な肺だとか言ってもいいんじゃないか」というようなことを主張する島田雅彦

真実に肉薄しようとするカメラマンを揶揄したしりあがり寿のマンガ「キャメラマン・シャッ太」も秀逸!

2004-05-29

amazon(パンフレット)

『永遠(とわ)の語らい』 マノエル・ド・オリヴェイラ(監督) /

セレブな映画には、何が欠落してる?

コンサバ系女性誌の言葉使いはおもしろい。
コスメ、ファンデ、ワンピ、アクセ、ローテ、リュクス、ミューズ、セレブ…

95才のマノエル・ド・オリヴェイラ監督が、昨年は、西洋文明をテーマに95分のセレブな映画を撮った。来日した監督は、生きていれば100歳になる小津安次郎の墓参りをしたという。小津監督なら、今年どんな映画を撮っただろう。日本やアジアの登場しないこの映画を観ながら、そんなことを思った。

ポルトガル人のローザは、7才の娘を連れ、地中海を巡る船旅をする。フランス、イタリア、ギリシャ、エジプト、トルコ…。最終的にはインドでシフトを交代するパイロットの夫と落ち合い、3人でヴァカンスを過ごす予定である。あえて船旅を選んだ理由は、本でしか見たことのない歴史を確かめるため。ローザはリスボン大学の歴史教授だから、娘の質問にも完璧に答える。観客にとっても有益で楽しい旅だ。

この船には、知性、経済力、美貌、知名度というセレブの条件を完璧に備えた3人の女性が乗船している。フランスの実業家(byカトリーヌ・ドヌーヴ)、ギリシャの大女優(byイレーナ・パパス)、イタリアの元モデル(byステファニア・サンドレッリ)という面々。ホストである船長(byジョン・マルコヴィッチ)を囲み夕食をとる彼女たちは、それぞれの国の言葉を話すが、何の問題もなく通じ合える。まさに、理想のコスモポリタニズムを体現したテーブルなのだ。が、彼女たちの会話が豊かであればあるほど「そこにないもの」が次第に際立つ。

ローザと娘がテーブルに招待されることで、それは明らかになる。ローザは他の3人に比べると若く無名だが、知性と経済力と美貌を備えているため船長にデッキでナンパされ、無理やりテーブルに迎えられるのだ。

表面的にはまず、セレブたちに欠落している「夫と可愛い娘」の存在が強調されるが、本当に欠落しているのは、もっと決定的なものだった。そのことを暗示するのが、船長が娘にプレゼントする人形。つまり、あとから加わった3人の女(ローザ、娘、人形)が、既存の3人の欠落を浮き彫りにするのである。すべての舵を握るのは、ポーランド系アメリカ人である唯一の男、船長だ。

オリヴェイラ監督は言う。
「映画を撮っていく上で一番難しいのはシンプルさをどう出していくかということです。これはいろいろなことを言いたい時に、長い文書を書くのは簡単でも、ほんの短い文章のなかで伝えるのは難しいのと同じです…現代は、いろいろなことが盛りだくさんになっていてスペクタルの様なものの方が、観客を惹き付けているような傾向にありますが、こういった類の映画はドラッグのようなものではないかと思っています」

「派手な作品であれば人は振り向きますが、それらには、実は魅力もなければ深さもありません。観客はおそらくそのようなものに値しない。観客とはもっとすばらしいものに値すると思うのです。私の映画が、観客に何かそれ以上のものを伝えられるものであって欲しいですし、そして、そこでまた観客が、それぞれのアイディアや考えを付け加えていけるような作品でありたい。その時に観客は、受け身ではなく能動的な主体となりうるのですから」

タイタニックを観たすべての10代にこの映画を観てもらい、どっちが面白いか訊いてみたくなった。なぜなら映画館のロビーは年配の観客であふれ、まさに豪華客船のデッキのようだったから。

この映画にもっとも欠落しているのは、若い観客である。
モードなガールにマストなシネマ!

*2003年 ポルトガル=フランス=イタリア合作

2004-05-11

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『負け犬の遠吠え』 酒井順子 / 講談社

広告業界版・負け犬の遠吠え

勝ち犬と負け犬は、簡単に2分できない。
本書によると「既婚・子あり」「既婚・子なし」「離婚歴あり」「未婚でモテる」「未婚でモテない」の順に勝っていることになるが、子供を手放した人や未婚の母はどうなのよ?と考え始めると話はややこしい。強引に線引きするなら「子育てという最も価値ある営みをしているか否か」という話になるようだ。なぜなら、ものすごく価値ある仕事をしているように見えるセレブリティーたちも、出産するや否や「どんな仕事よりも素晴らしい体験!」などとコメントし、素晴らしい仕事すらしていない負け犬たちをがっかりさせるのだから。

その点、林真理子という作家は、子供のことを書かないという原則を貫いている。しかも、彼女のポリシーは、負け犬への気遣いというレベルを超えた長期的な戦略。作家としての生涯ビジョンを優先するプロの姿勢に、負け犬は共感をおぼえるのである。

一方、鷺沢萠という作家は、著者の「負け犬物書き仲間」として本書に登場する。私は彼女が亡くなる3日前、JALの機内誌で、遺稿だったかもしれない彼女のエッセイを読んでいた。それは、波照間島のソーキそばについて綴られた生命力あふれる文章で、タイトルは「世界でいちばん美味しいそば」。私は、ポスターの撮影の仕事で、彼女がいつか住みたいと考えていた沖縄へ行くところだった。

私たちのチームは総勢10数人だが、撮影スタッフと制作スタッフの雰囲気が違う。「おしゃれ」という言葉ひとつとっても互いに共有できない決定的なスタイルの差。
ロケの最中、私はある真実に気がついた。撮影スタッフは、男女含め、全員が完全な勝ち犬だったのだ。カメラマン、スタイリスト、ヘアメイク、マネジャー、コーディネーター…。
一方、制作スタッフに、勝ち犬は一人もいなかったのである。プロデューサー、クリエイティブディレクター、アートディレクター、デザイナー、コピーライター(私)…。

このチームの場合、制作スタッフのほうが明らかにコンサバだから「勝ち犬は面白いことを避けて生きる保守派である」という本書の定義は当てはまらない。どちらかといえば勝ち犬たちのほうが、無邪気でやんちゃ。めちゃくちゃな酔い方をしたり、異様にノリがよかったりする素直さが特長である。他方、負け犬たちは少々ひねくれた感じで、球を投げると必ず変化球が返ってくる…。

夕食時、撮影スタッフが泡盛、制作スタッフがスペインワインを注文しているのを見て、私はひざを打った。本書の「負け犬は都市文化発展の主なる担い手でもあるのです」という一文を思い出したのだ。
「青森県の漁港でほんの一時期しか水揚げしない珍しい魚が寿司屋で食べられるのも、決してメジャーヒットはしないであろうヨーロッパの小国で作られた地味な映画が見られるのも、深夜においしいフレッシュハーブティーが飲めるのも、負け犬が都市文化を底支えしているからなのです」。

思い返せば、東京でも、フレンチレストランでの打ち上げを企画したのは負け犬だった。その後カラオケに行きたがったのは勝ち犬で、負け犬たちの5倍歌った勝ち犬たちはさらにクラブへと元気に繰り出したが、私はといえば、負け犬同士でまったりとカフェでお茶を飲んでいたではないか。

広告業界における負け犬は、都市文化発展の担い手ではあるものの、体力がやや足りないのかもしれません。体力がないから素直になれず、変化球を投げ続けるしかないのです。

フレッシュハーブティーなど深夜に飲みつつ、素直な写真を見ながらひねくれたコピーを考えるのは、世界でいちばん素晴らしい仕事だと私も信じているわけです。が。

2004-04-26

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『やきそばパンの逆襲』 橘川幸夫 / 河出書房新社

キハクさという確信犯。

「やきそばパンの逆襲」は、「パン屋再襲撃」(村上春樹/1985)の実践編である。

「パン屋再襲撃」には、こんなアイテムが登場する。缶ビール、フレンチドレッシング、バタークッキー、中古のトヨタ・カローラ、午前2時の東京(代々木、新宿、四谷、赤坂、青山、広尾、六本木、代官山、渋谷)、24時間営業のマクドナルド、30個のビッグマック、ラージカップのコーラ、ソニー・ベーター・ハイファイの巨大な広告塔…。

あらすじはこんな感じ。学生時代、ぱっとしないパン屋を襲撃したところ、労働の代わりにワーグナーのLPを聴くという条件でパン屋の主人からパンを得てしまった主人公は、結婚して間もなく、原因不明の異常な空腹に襲われ、深夜、妻と一緒に再びパン屋を襲撃する。再襲撃先としてマクドナルドを選んだ理由は、ほかに開いているパン屋がなかったからだが、これは偶然ではなく必然。2人はクルマの中でビッグマックを腹いっぱい食べる…。

一方、「やきそばパンの逆襲」には、こんなくだりがある。
「おまえの親父は、『ハンバーガーみたいなジャンクフードは食べるな』と言うんだよな。でもオレはそうじゃないと思う…オレは時代のど真ん中に食らいついてやると思ってる…戦えよ、アキ、時代と向かい合うことを、サボったりしちゃダメだぞ! 鈍感な奴は、知らないうちに時代に流されてしまうんだからな」

広告代理店を経営する満(48歳)が、部下の明彦(25歳)にハッパをかける場面だ。ハンバーガーを食べることは時代と向き合うこと。つまり本書のメッセージは「マクドナルドを再襲撃せよ」ということなのだ。「パン屋再襲撃」の主人公がマクドナルド襲撃後に見たものは、ソニーの巨大な広告塔で、それが1980年代の真実であった。2004年の本書でははたして何が見えたか…?
やきそばパンである。

やきそばパンは、やきそばでもなくパンでもない。コンビニで両方を買い、ばくぜんと交互に食べているだけでは到達できない新しい概念だ。そんな概念に出会うために、著者はあらゆる既成概念の間を身軽にすり抜ける。本書を貫くトーンは「キハクさ」だが、流されないためのキハクさは確信犯。「この本は中身が薄い」と著者が宣伝していた意味が、読んでみてようやくわかった。それは、本書のもっとも売りの部分だったのだ。

とりわけキハクさが際立つのが男女の描き方で、それらは、村上春樹が描写した暴力的な空腹感やソニーの広告塔と同じくらいリアルに切なく美しく、涙を誘う。

「今は、やりたいことが見えてきたから、男はいらない」「ふーん、男は、やりたいことがない時のもんなのか」
「セックスはお互いを知り合うための有効な手段だとは思うが、お互いが知り合ったあとでは、セックスする意味が半減するような気がした」
「複数の女との共同生活は、ハーレムではないが、新鮮な喜びと充実感があった」
「すぐ隣の部屋にいるのに、メールでの交信は直接会うのとは違う器官でコミュニケーションするような新鮮さがあった。まるでベッドで腕枕をしながら、おしゃべりしているような感覚であった」
「3人の他人が集う食卓は、どこの家庭よりも家庭的であり、幼友だちのような懐かしい信頼感が漂っていた」…

現代の恋愛は、おそらく何かと何かの間をすり抜けているのだと思う。だからきっと、正面から傷つくことも、思い切り笑いとばすこともできないのだ。

2004-04-16

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『ヴァンダの部屋』 ペドロ・コスタ(監督) /

汚い部屋でヘロヘロになる3時間。

ポルトガル・リスボンのスラム街。そこに住む人々の暮らしをそのまま撮ったという感じの映画だ。ヴァンダというヒロインの部屋のシーンがいちばん多いが、最初、私はヴァンダを男だと思った。声もしゃべり方もしぐさも着こなしも、女とは思えなかったのだ。

個人的な信頼関係なしに、プライベートな空間をここまで密着撮影することは不可能だろう。自室でのヴァンダは片時も麻薬を手放さず、ヤク中であることは疑う余地がない。妹と一緒にいることも多く、男が訪ねてくることもあるけれど、ほとんど布団から動こうとしないヴァンダは、ライターでアルミホイルを焙る手先だけが妙に注意深く、その行為ばかりが不毛に繰り返される。ちょっとヤバイんじゃないのお?って誰もが思うような変な咳をして、布団の上にゲーって吐いたりするヴァンダを見ていると、お願いだからその布団を今すぐ洗ってくれ!と言いたくなる。

セクシュアリティすら削ぎ落とされたかのように見えるジャンキー女の部屋を、固定カメラで延々と撮る意味があるんだろうか? ヴァンダの部屋を一歩出れば、居間には赤いソファやテレビや野菜があるし、お母さんだっているし、ヴァンダ自身もけっこう普通に生きている。ブルドーザーで破壊されつつある路地の風景や、世間から追いやられているように見える人々の会話が希望に満ちたものとは言い難いけれど、その色や光は美しい。そういうものだけを撮ってくれればよかったのに、と思うのだ。

だけどこのフィルムは、ヴァンダの部屋というホームポジションを撮らなければ、映画にならなかったかもしれない。外へ外へとカメラは出て行き、ここがリスボンのどういうスラム街で、どのような状況にあり、この国の政治経済はどうかということまでを偏った「神の視点」で斬る、凡庸な構造的ドキュメンタリーになってしまったことだろう。監督はその逆をやった。徹底して個人に迫り、個人を描写した。

自分の部屋というのは本来、人に見られたくないことをするための場所でもあるのだから、絵に描いたような幸せを享受している某国の女の部屋だって、案外こんなものかもしれない。親の目が届かない自室で危ないものを吸引したり、危ない男を連れ込んだり、危ないネット取引をしている女も珍しくないだろう。この映画は、見る人を観光客ではなく訪問者の気分にしてくれる。ヴァンダのそばにいることで、うっそーと思いながらも、いつの間にかなじんでいく感じ。どこへも移動しないのに、個人的な体験に根差したロードムービーになっている。

私は終始、ぼーっとしながらこの映画を見ていた。普段ぼーっとしてるのに、映画を見ているときだけ画面に集中しなければいけないのは不自然だ。その点、この映画は半分くらい寝ていたって大丈夫。あんた誰?って思う人も出てくるけど、自分の周囲を見回したって、よくわからない人だらけなのだから、わからない人物が存在することのほうが自然に決まってる。

娯楽映画やテレビやエンターテインメント翻訳は、とてもわかりやすくて面白いけれど、その多くをすぐに忘れてしまうのはサービス精神が過剰だからだと思う。わからないものはそのまま見たいし、翻訳は直訳のほうがいい。翻訳できない部分にこそ面白さはあるのだ。サービス精神に満ちた編集フィルムを集中して見ていても、体は何も感じない。それは受身の風景にすぎないから。

うとうとしながらヴァンダと過ごした3時間と彼女を取り巻く空気を、私は忘れないだろう。

*2000年 ポルトガル=ドイツ=スイス
山形国際ドキュメンタリー映画祭 最優秀賞受賞
*上映中

2004-03-30

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