『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』 青山真治(監督) /

役に立たない音を、出してみたい!

ギターを手にした浅野忠信が、4つの巨大なスピーカーを据えた草原で爆音を轟かせるシーンを見て、ヴィンセント・ギャロが白い砂漠をバイクで疾走する「ブラウン・バニー」の印象的なシーンを思い出した。
バイクに乗る理由と、ギターを弾く理由は、似ているのだと思う。

人間を自殺に至らしめる「レミング病」のウィルスが世界中に蔓延しつつある2015年。「浅野忠信と中原昌也のユニットが演奏する音楽に、発病を抑える効果がある」という事実がつきとめられる。

職人的な2人が、海やスタジオで黙々と作業したり、岡田茉莉子のペンションで食事したりする日常の風景は気持ちいい。演奏以前の「音づくりの原点」の描写はそれだけで楽しくて、ちょっとしたセリフすらも邪魔に感じてしまうくらいだ。近未来という設定や富豪一族の盛衰、回想シーンなどの説明的な要素も、うっとうしい。

結局、彼らの音はレミング病にきくのだろうか? 「本気の自殺」と「病気の自殺」はどう違うのか? ・・・んなことも、どーでもいい。理屈っぽいことは抜きに、ただただ開放的なロケーションと音楽を心ゆくまで楽しみたいのですが、ダメですか?

ウィルスに感染しなくたって、先進国では多くの人が自殺する。死を選ばなければならないほど不幸な人が多いともいえるけど、自由に死を選べるほど幸福な人が多いともいえる。誰がいつ病気や事故で死ぬかわからないのと同じくらい、誰がいつ自殺するかはわからないし、その本当の理由や感想なんて想像できない。生きている人を観察したって、その人が今幸せかどうかなんて判別できないわけだし、他人が決めつけるほど失礼なことはないだろう。

誰かが死んだとき、近くにいる人は、必要以上にがっかりしたりせず、自分の仕事をまっとうしろ! そういう職業映画なのだと思う。浅野忠信は、恋人に加え、仕事のパートナーまで自殺で失うが、このことが既に「音楽で人の命なんか救えない」と証明しているようなものだ。

パートナーの遺影は、パソコンのモニターに映し出される動画。浅野忠信は、死後も作業を続ける彼の姿を見て笑う。岡田茉莉子は、何十年もかけてようやく美味しいスープがつくれるようになり、客なんて来なくてもペンションの営業を続けていく。生きている人は、生きている限り、淡々と生き続ける。

誰かを救うために演奏するのではなく、したいからする。音のききめは、天に訊け!
むしろ音楽は、死者のために演奏されるべきで、誰かが死んだら、生きている人が「もっと生きる」しかない。すべての音はレクイエムであり、すべての表現は、先人へのリスペクトからスタートするはずだ。 この映画から思い出されるのは、ギャロの「ブラウン・バニー」だけじゃない。小津「秋日和」ヴィスコンティ「異邦人」アンゲロプロス「こうのとり、たちずさんで」ロバート・フランク「キャンディ・マウンテン」ヴェンダース「ことの次第」・・・。

先人や先輩をリスペクトし、影響を受けまくる映画監督、青山真治の真骨頂。
敬愛する人々の声をききつつ、自分の音を奏でるこの映画は、「役に立つこと」や「元をとること」ばかりを目指す商業主義的な表現への、痛烈な皮肉でもあるのだろう。

非常識なくらい大きな音を出すというだけで、価値がある。
バイクに乗る理由と、ギターを弾く理由と、映画を撮る理由は、似ているのかもしれない。

2006-02-14

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『ボブ・ディラン「ノー・ディレクション・ホーム」』 マーティン・スコセッシ(監督) /

帰るための旅や、目的地をめざす旅は、つまらない。

ボブ・ディランの映画なんていっぱいあるのに、なんで今さら? しかも3時間半!
だが、ちらっと目にしたモノクロのスチール写真は、公開中のほかの映画と比べると素晴らしすぎて、劇場に足を運ばずに済ますわけにはいかなかった。

現在のボブ・ディランの語りをベースに、アメリカとボブ・ディランの60年代くらいまでを検証するこの映画は、回顧的ではなく現在進行形。音楽がどうやって受け継がれていくかに焦点をあてたものだった。彼はフォークやロックの創始者というわけじゃなく、継承者の一人に過ぎない。それは、ごく普通の若者の軌跡のように見えた。ロックとは素直さ。かっこよさとは純度。そう断言したくなる理由は、彼の原点がバンドではなくソロだからだ。

昔の映像はもちろん、現在のボブ・ディランのかっこよさといったらどうよ? 彼は今もノー・ディレクション・ホーム、道の途中なのだ。「たいした野心があったわけじゃないが、自分のホームを見つけたかった」というような、みずみずしい言葉にあふれた10時間におよぶインタビューは、長年の友人が撮ったものという。D.A.ペネベイカーの「ドント・ルック・バック」(1967)のほか、アンディ・ウォーホルジョナス・メカスによる映像も登場し、イタリア系アメリカ人監督、マーティン・スコセッシのセンスが光る。

監督はインタビューの中で「今、世の中で起きているあまりにもたくさんのことによって自分自身を吸い取られるな」「ただ人が話をしているだけで、すばらしいロードムービーになりえるんだ」と言っていたが、ボブ・ディランが普通に話しているだけで、観客は心洗われてしまうのだから参っちゃう。人はこんなふうにしゃべればいいし、こんなふうに生きればいい。でも、それが難しいから、彼の発言のひとつひとつにクギづけになる。私たちの体はふだん、紋切り型のカサカサした安っぽい言葉に埋もれ、血が出そうになっているんじゃないだろうか。

ポリティカルソングの旗手として喝采を浴びたボブ・ディランがエレキギターを手にしただけで、ライブはブーイングの嵐。「商業的なポップミュージックじゃなくてフォークを聴きにきたんだ」と怒るファン。「この曲はどういう意味なのか?」と迫るマスメディア。しかし、今となってはジャンルなんてどうでもいいし、彼の詩に「意味」なんてない。ビート詩人アレン・ギンズバーグが「激しい雨」を聴いて自分もずぶ濡れになったと語るシーンや「ライク・ア・ローリング・ストーン」は50番まで歌詞があったという事実にこそ意味がある。ボブ・ディランは7年連続でノーベル文学賞候補になっているらしいけど、その理由がわかる気がした。

ファンは勝手だとか、マスコミは馬鹿だとかそういうことじゃなくて、通りすぎる景色というのは、自分とは関係ないことがあまりにも多い。困惑しながらも、そんな状況に対処するボブ・ディランの姿にはしびれてしまうけれど、心奪われるものだけに影響を受けていれば前を見失うことはない。インチキなものに取り囲まれていても、取り込まれないで生きることは可能なのだと、彼は、全力で示した。

How does it feel どんな気分?
To be on your own ひとりぼっちで
With no direction home 帰る場所もなく
Like a complete unknown だれにも知られず
Like a rolling stone? 転がる石のように生きるのは

*シアター・イメージフォーラム、シアターN渋谷、吉祥寺バウスシアターで上映中

2006-01-26

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『東京タワー』 リリー・フランキー / 扶桑社

「オトン」と「ボク」。

パリの三ツ星レストラン「ピエール・ガニェール」が東京に進出した。
この店の主役は、肉や魚じゃない。お菓子のようにちまちましたスパイシーなアミューズ、とろけるような球形のバター、コース料理のように次々と登場するデザートのお皿・・・。
メインディッシュは夜景である。といってもそれは、宝石箱のような窓にトリミングされた、ブローチのような東京タワー。「厨房のピカソ」といわれるフランス人シェフのこだわりなのか、ここまで貴重品のように扱われる東京タワーも珍しい。

リリー・フランキーの小説「東京タワー」は、その窓と同じくらい、私にとってリアリティーのないものだった。

母というのはこうでなくちゃ、女というのはああでなくちゃという女性像を押しつけられる感じが強く、読んでいて苦しい。「ボク」にとっての踏み絵は「オカン」だ。「オカン」と相性がよくなければ「ボク」のテリトリーには入れない。

東京へ出てきた「ボク」が極貧の生活から這い上がり、徐々にまともになっていくのは、「ボク」が呼び寄せた「オカン」が「湯気と明かりのある生活」を実現し「ボクが家に居なくても友達や仕事相手がオカンと夕飯を食べているという状況」が珍しくなくなるほど、オカンのキャラクターが多くの人に愛されたからだ。
どこの誰がきても食事をふるまう「オカン」。こんな母親ってうらやましい。だが、この食事もまた踏み絵なのだ。

「お嬢様大学に通いながらゼミの紹介で出版社のアルバイトをしている女学生」が「ボク」のイラストを受け取りに来るが、「オカン」がすすめるお茶や食事にまるで手をつけない。その態度が遠慮ではなく「奇異であり迷惑」の表明と見極めた「ボク」は激しく憤り、彼女が帰ったあと、それを平らげてくれるアシスタントを呼び「マスコミ志望のヤリマンが残したもんだけど」と言うのであった。

この彼女のほか、「オカン」が亡くなった日に原稿の催促の電話をかけてきた女性編集者、そして「オカン」とうまくいかなかった父方の祖母、さらに「オカン」を幸せにしてやれなかった「オトン」に対しても「ボク」は厳しい。アパート暮らしを始めたころに通っていた別府の定食屋のおばさんがつくる、古い油のにおいがするおかずや具の少ないクリームシチューに対しても…。

この本の厚さは情の厚さであり、普通の男なら、きっと1行も書かずに心にしまっておくような内容だ。表現しない限り、他人に侵される心配もないのだから。だが「ボク」の場合は逆で、他人に侵されないようにするために、渾身の愛を臆面もなく綴った。守りのためのナイーブな攻撃性は、痛々しくもある。

「ボク」がそっくりなのは、「オカン」ではなく、実は「オトン」である。父親から受け継いだ恐るべきDNAを自覚し始めるとき、「ボク」の攻撃性は和らぐのかもしれない。「オトン」は、自分の母親と相性の悪かった「オカン」をテリトリー外に追いやった人。その不器用でカタクナな愛は、「ボク」が守り抜く「オカン」への愛と相似形を描く。

東京の人々に愛され、華やかな葬式に加えB倍ポスターまでつくってもらった「オカン」の魅力ってマジですごいなと思うけど、私は、あまり人には好かれそうもない「オトンの母親」のほうにリアリティーを感じる。老人介護施設にいる彼女を「オトン」と「ボク」が揃って見舞う風景は美しい。映画なら、いちばん残るシーンはここ。
父探しの物語は、まだ始まったばかりだ。

2006-01-16

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『野ブタ。をプロデュース』 白岩玄 / 河出書房新社

内面のない男の子。

ドラマ「野ブタ。をプロデュース」が終わった。
まわりには「ドラマなんて見てない」「そのタイトルはどーかと思う」「KAT-TUNって何?」な人が多く、そのたびに私は「ドラマの中で『修二と彰』を演じたKAT-TUNの亀梨和也クンとNEWSの山下智久クンが歌うレトロな主題歌『青春アミーゴ』は今年初のミリオンセラーであり10代から40代まで幅広く売れている」とか「原作は文藝賞を受賞し芥川賞の候補にもなったステキな小説である」とか「1983年生まれの著者は『修二と彰』を足して2で割ったように見えなくもないジャニーズ系の男である」とか、たいして意味のないフォローをしたものだった。

私が本当に言いたかったのは、修二のキャラクターがいかに面白かったかってこと。自分の気持ちで動かない主人公、修二。要するに彼には「強い思い」がないのだ。現実へのイラだちや飢餓感とは無縁で、ちっともひねくれていない男。もしかしたら、原作を書いた著者にも「強い思い」なんてないんじゃないだろうか? と思ってしまうほど、それはリアルだ。

「変わりない生活はだらだらと続いていく。俺たちのだらだらぶりは多少時代のせいもあるはずだ。若者はいつだってその時代を如実に映している」

ただし必要以上に近づいてきて、内面に入ってこようとする奴に対してはビビりまくる修二。自分が実は冷たい人間なんじゃないかってことがバレちゃうからだ。ほとんどこの1点のみに怯えながら、人気者としての自分をプロデュースし、完璧に取り繕ってゆく修二。外見も育ちも要領も完璧に生まれついた男の子の、これは新しい悩みの物語なのか? コンプレックスがないことのコンプレックス。内面がないことの恐怖。だから今日も、修二は外側を着ぐるみで固めて学校へ行く。誰も入ってこれないように。

中身がないのに外見や口先がそれっぽくて、頭もよくて、根拠のない自信に満ちているって、どんな気分? 自分がプロデュースしたかっこいい自分。嘘でぬり固めた日常。だが、この小説には、そのことの底知れぬ空しさが描かれているわけではない。

「近過ぎたら熱いし、離れすぎたら寒い。丁度良いぬくいところ。そこにいたいと思うのはそんなに悪いことか?」

修二は、ださださの転校生をプロデュースし、人気者に仕立てる。プロデューサーってのは、客観的に人を見て、遠隔操作していくことだから、これは修二の得意技。だけど、相手は彼に感謝し、踏み込んでくる。そう、修二が苦手なのは、他人の心なのだ。その重さ。その深さ。そのまじめさ。そのうざったさ。やがて修二の冷たさは、思いがけないところで露呈してしまう。いったん着ぐるみがはがれると、何もかもうまくいかない。

「本当は、誰かが俺のことを見ていてくれないと、不安で死んでしまいそうだったんだ」

流暢な会話ができなくなり、しどろもどろになる修二はいとしい。丁度良い距離というのが、実はそれほど簡単には手に入らない、特権的なものだったことを彼は知る。

でも、そんな修二に対して、私は思う。
いつまでも冷たい、他人の気持ちなんてわからない修二でいてほしい。
弱みなんて見せない、表面的にかっこいい修二でいてほしい。
― この小説は、そんな思いにちゃんとこたえてくれる。

とりあえずラーメン食う。とりあえずマンガ読む。とりあえずテレビつける。悩みなんてなーんもないようにみえる。それが、男の子のあるべき姿なのだ。

2005-12-22

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『平成マシンガンズ』 三並夏 / 河出書房新社

15歳のジレンマ。

「あたしも何故かこのマシンガンは人を殺さないような気がしていたから特に気にせず、浮かび上がった父や母、愛人や友達を適当に撃った。撃って何が起こるというわけではない、相手が死ぬわけではないし怪我もしないし心の傷も与えない」

なんて健康的な夢だろう。大人の作家なら、クールな視点や変化球で突き抜けようとするところだが、この小説はどこまでも王道。逃げないし、ひねてない。つまらない同級生やつまらない大人たちを過剰な自意識で見下しながらも、自分自身もまた相当つまらない人間であることがわかってしまっていて、それはどうしようもないことなのに、どうにかしようと思っている。

彼女のジレンマは「相手にダメージを与えないマシンガンで打ちまくる」というゲーム的なモチーフに結晶している。それは、手ごたえがないということではなく、自分自身だけにダメージを与えるという建設的な意味を含んでいる。

相手をなぐったり傷つけたりしてはいけないことになっている時代。なんとなくきれいに整備されている日々。生まれたとき既に1990年だった平成生まれの彼女は、何事もなかったかのような不自然さでアメリカナイズされた退屈な学校生活の中で「本能に従って自分の意思でしていること」はいじめだけと言う。

彼女たちの世代が可哀想ってわけじゃない。いつの時代も、子供たちの仕事は、大人たちに反抗することなんだから。だけど一体何に反抗すればいいかわからないのだとしたら、パワーがあり余るかも。いじめたり、いじめられたりを延々と繰り返すことで、かろうじてバランスをとっていくわけだ。

生々しいものは、とりあえずゲームの中にしかない。だからゲームで練習するしかない。この世に生まれ落ち、好きなことが見つかるまではゲームを続けてもいいし、ゲームを続けるしかないし、何なら一生ゲームに熱中したっていい。

そう、そのくらい、ゲームは子供にとって必要不可欠。もしもゲームが手に入らなければ、夢にゲームが出てきちゃうだけの話だ。夢にはいつも、現実にたりないものが登場して、私たちを満たしてくれる。だからせめて、大人の妄想がつくったゲームから選ぶのではなく、オリジナルな妄想を夢の中に構築したいもの。彼女はそれをやった。だから小説になった。思考停止状態からの、正面からの脱却を試みた。

「討つべき標的を知りたいと思った。闘うべき敵の正体を知りたいと思った」

まずは、世の中をまんべんなく撃ってみる。
そして、自分自身に跳ね返ってくるダメージを感じてみる。
やがて彼女は、本当に撃つべき相手のみを、正確に狙い始めるだろう。怖い!楽しみ!

2005-11-29

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