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『メール道』 久米信行 / NTT出版

大量のメールに、愛は込められるか?

ライブドアの堀江貴文社長は、1日5000通のメールを読んでいるそうだ。しかも8時間寝ている!
こういう人は例外かと思っていたら、最近はそうでもないみたいで「月曜にパソコンを立ち上げるとスパムメールが1000通くらい来てるのよねー」と涼しげに言う人が身近にいた。インターネット関連の仕事をしている女性だが、要は、1日に処理するメール量が違うのだろう。

彼女のような人にメールを出す場合、タイトルは英文にしてはいけない。というような基本的なことも「メール道」を読むとよくわかる。じゃあ、どういうのがいいタイトルなのか? 本書には具体的で示唆に富んだ実例が満載されており、送信者名の設定から電子署名、返信を加速する方法、「礼儀正しさ」と「親しみやすさ」のバランスまで、ビジネスメールの書き方を手とり足とり教えてくれる。だが、最も重視されているのは、そんなふうに量産されるメールに「いかに心を込めるか?」ということだ。

著者は、親しい人へのメールは「こんにちは! くめです!」と、ひらがなで元気に始めるという。しかも「こ」と入力するだけで、いくつかのバリエーション(漢字バージョンとか肩書き付きバージョンとか)に変換されるのだ。私は思わず笑ってしまったが、ここは笑うところではない。「変換と同時に、頭の中で『こんにちは!』と復唱すると、一文字一文字打ったのと同様に心が込もるような気がいたします」と著者はいう。大真面目なのだ。

結びの言葉も、相手との関係や内容に応じて10種類ほどを使い分けて単語登録をしているそう。「しかしながら、本音をいえば、こうした大切なあいさつを、いわば手抜きで入力、変換することに、ささやかな罪の意識を感じています。一字ずつ打つのに比べて、心が込もらなくなるような気もするのです」。そこで著者は、表示されるあいさつ文を「目で追って、心で復唱」するのである。

極めるべき「メール道」は、各々の職業やキャラクターやメール量によって変わってくるだろう。私自身は本書に書かれていることをほとんど実践していないことがよくわかったし、今後も実践しないような気がする。だが、ゲーム感覚でラクしてボロ儲け!というトーンにあふれたネットビジネス界において、著者の説く「道」は救いだ。趣味よりも儲かることを仕事にしろと言い、メール速読術を提唱し、ビジネス処理能力を極限まで高めていく志向のライブドア社長とは、対極の立場だと思う。

「メール道」を通じて、豊かな人に近づいていきたいという著者だが、豊かな人の定義は「生活や趣味に困らないだけのほどよい『お金』を持ったうえで、『時間』『友人』『家族』『ライフワーク』『健康』『信条』もバランスよく持っている人」のこと。これは、村上龍が定義する成功者の定義「生活費と充実感を保証する仕事を持ち、かつ信頼出来る小さな共同体を持っている人」(人生における成功者の定義と条件/日本放送出版協会)と通じるものがある。

最後の章のタイトルは「『メール道』の先にある『道』」。メール道はここに行き着くのか!と驚き、ウケた。

私は、たまたま著者にお会いしたことがある。「メール道」も素晴らしいが、実際の人柄のほうがはるかに面白い。とりわけ、しょうもない馬鹿話をする時の生き生きとした表情といったら!
というわけで、大真面目な文体には、つい笑ってしまう私であるが、著者のキャラを思うと、本書は、おそらく笑ってもいい本なんじゃないかと思うのだ。(ちょっと不安)

2004-10-05

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『CLUB TROPICALNA 2003』 ハイラ & チャランガ・アバネーラ / GRIOT RECORDS

キューバ音楽最高峰のコラボレーションライブ!!(←CDジャケットコピーby村上龍)

村上龍のあまりの絶賛ぶりに、毎年ハウステンボスへ行っちゃおうかなあと思いつつ叶わなかった噂のライブを、渋谷のDuo Music Exchangeで見ることができた。リュウ ムラカミ&ブルガリ&ヴォーグニッポンのコラボレーション企画である。

初めて食べるキューバ料理は、さつまいもの天ぷらみたいな青バナナのフライや、お赤飯みたいな豆のライスなど、和食と見まがうばかりの親近感。デザートの甘いクリームを舐めながらフレッシュミントの葉がたっぷり入ったラムのカクテル、モヒートなど飲んでいると、もう踊るしかないって気分になってくる。現地の料理でお腹いっぱいにさせてからノセるというのは、正しすぎる演出だ。

村上龍のナイーブにしてチャーミングな挨拶に続きステージに登場したラテンのビッグバンド、チャランガ・アバネーラは、ヴォーカル4人、ホーンセクション4人、パーカッション3人、ピアノ、ベース…総勢15名はいただろうか。まさに南国リゾートならどこにでもありそうな「**ナイト」っていうノリでスタートしたものの、そのテクニックは素晴らしく、振りはゆるく、パフォーマンスは官能的。全員がこれ以上ないってくらい楽しそうに演奏している。

ダイナマイトバディの歌姫ハイラは、ヒールの高い白のアンクルブーツで登場。全身「光る白」のコーディネートは、キューバの作家アレナスがハバナを回想しつつ眺めたニューヨークの雪を思わせて目にしみた。というのはこじつけ過ぎだけど、実にキュート!

というわけで大盛り上がりの帰り際、このCDをサイン入り生写真付きで手に入れた。ハウステンボスでのライブバージョンである。1か月待ちでようやく届いたばかりのブルーのiPOD miniで聴いてみたくなったのだ。

イコライザーを「ラテン」に設定してもいまひとつだったのに、「ダンス」にしてみると、これが決まった。低音が強調され、音の抜けも格段にいい。マンボのステップが体の内側から湧き出てくる。というのは言い過ぎだけど、iPOD miniに入れる最初の1枚として、最もふさわしかったラテン・ライブ・アルバム。

2004-08-30

『イタリアンばなな』 アレッサンドロ・G・ジェレヴィーニ+よしもとばなな / 生活人新書(NHK出版)

あまりに残酷な真実を暴くクリスマス。

林真理子の「20代に読みたい名作」(文藝春秋)には、古今東西54編の小説が紹介されている。
「この中の何冊を読んだ?」と20歳の女子大生A子とB子に聞いてみた。

「本はあまり読まない」というA子は、よしもとばなな「キッチン」のみ。「読書が好き」というB子は、村上龍「限りなく透明に近いブルー」村上春樹「ノルウェイの森」向田邦子の「思い出トランプ」山田詠美「放課後の音符(キイノート)」、よしもとばななの「キッチン」の5冊をあげた。ちなみに2人とも、林真理子の小説は読んだことがないという。

おそるべし、よしもとばなな!
彼女の人気は国内だけではない。イタリアでは、1991年に「キッチン」が出版されたのを皮切りに11の作品が翻訳され、約250万部が売れたそう。ばなな作品を数多く翻訳しているアレッサンドロ・G・ジェレヴィーニ(以下アレちゃん)によると、本を読むというのは沈黙の中の行為であるから「僕たちイタリア人にはあまり向いていない」とのことだが、よしもとばななは、まさに日本人作家として前例のない成功をおさめたのだ。イタリアでの売れ行きに触発され、彼女の作品は今、34の国や地域で出版されている。

本書には、よしもとばななのエッセイ、アレちゃんのエッセイ、仲良しの2人の対談などが収録されている。

博士論文を再構成したアレちゃんの一文「よしもとばななの原点を読み解くキーワード『家族』『食』『身体』」は素晴らしい。ばなな作品をここまで理解し、美しい日本語にまとめることのできるイタリア人なら、彼女も安心して翻訳を任せられただろう。「つぐみ」の一部のイタリア語訳とそのポイントまで掲載されているのだから、イタリア語を勉強中の身としては、そそられる内容だ。

「イタリア語はどの国の言葉よりも、いちばんいい感じに乗る気がします。乗る可能性の高い言葉の組み合わせというか。もともと、美しさとか哲学を表現するためにラテン語から発達していった言葉だから、形容詞の数が圧倒的に違う」(byよしもとばなな)

「クリスマスの思い出」という日本初公開の彼女のエッセイも、日本語とイタリア語の両バージョンが収録されている。ここに描かれるイタリアのクリスマスの記憶は鮮烈だ。クリスマスなのに別れかよ?しかもこんなに美しく?少なくとも、日本のインチキなクリスマスにおいては、ここまで本当のことを突き詰めるシチュエーションなんて、ありえない!よしもとばなな特有の「一瞬にすべてを注ぎ込む大袈裟な感動の表現」は、イタリア語にこそふさわしいのかも。

インチキなクリスマスが終わり、凍えるような深夜、私が考えたいのは「キッチン」のことである。アレちゃんの論文では随所が引用されるが、私も、この小説の最も美しい一節を引かずにはいられない。

「ものすごく汚い台所だって、たまらなく好きだ。
床に野菜くずが散らかっていて、スリッパの裏が真っ黒になるくらい汚いそこは、異様に広いといい。ひと冬軽く越せるような食料が並ぶ巨大な冷蔵庫がそびえ立ち、その銀の扉に私はもたれかかる。油が飛び散ったガス台や、さびのついた包丁からふと目を上げると、窓の外には淋しく星が光る。
私と台所が残る。自分しかいないと思っているよりは、ほんの少しましな思想だと思う。」

2002-12-27

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『作家・文学者のみたワールドカップ』 野坂昭如・高橋源一郎・星野智幸・野崎歓・関川夏央・藤野千夜ほか / 文學界8月号

W杯の消化不良に、効くのはどれ?

島田雅彦(観戦記)、長嶋有(俳句)、吉本隆明(インタビュー)の3人を除き、以下の14人がエッセイで個性を競っている。

車谷長吉「空騒ぎ」
「(中田英寿は)実に凶暴そうな、人相の悪い人である。なぜこういう男を広告・宣伝に使うのか」「もう金輪際、キリンビールは飲まない」など企業、資本、広告への「愚痴とぼやき」(by野坂昭如)のオンパレード。

●松尾スズキ「わっしょいわっしょい。がんばれ日本」
「勝っても負けても盛り上がれるんなら、別にサッカーやってなくても盛り上がれるんじゃねえか。つうか盛り上がって行こうよ」

●庄野潤三「ワールドカップ印象記」
妻、長男、次男、孫まで登場し、サッカーより家族。

●保坂和志「天は味方した者にしか試練を与えない」
「これからさき戦争が起こったとしても、新聞の文化面とか社会面で文学者たちが書く文章は、W杯についてみんなが書いている今回の文章程度のものなのだ」

●坪内祐三「非国民の見たワールドカップ」
非国民を気取っていた著者も、いざW杯が始まると徐々に雰囲気に巻き込まれていく。が、「筋金入りの非国民」ナンシー関の死で、再び転向する。

●金石範「W杯のナショナリズム」
「サッカーの勝利に沸く熱狂的な歓声やアクションが即ナショナリズムではないと思う。そこにはいろんな”国”があり、かつて帝国主義国家だった大国もあれば、旧植民地の小国―発展途上国もある」

●陣野俊史「セネガルの『生活』」
フランス文学者らしい、セネガルの勝利に焦点をあてた考察。

●玄月「もっとひねくれろ、日本人サポーター」
韓国がイタリアに勝った直後、新宿・大久保のコリアタウン(著者が韓国人と知られていない場所)でのリアルな反応を取材。

●藤野千夜「ナマW杯の記憶」
サウジアラビアファンの著者は「くじ運はないけれど一日中ずっと電話をかけつづけるだけの暇はあった」ため3試合のチケットを手に入れ、くじ運のいい知人のおかげでもう2試合手に入れたそう。もっともハッピーな観戦記。

●関川夏央「様々な幻想―ワールドカップ決勝戦」
スタジアムでの観戦風景が短編小説風に仕立てられている。面白い。

●野崎歓「蕩尽の果て」
「アルナーチャラム」というインド・タミル語映画の話から始まり、W杯の眩惑的な魔術に言及しつつ「ハレが最終的にケを圧倒するということはありえない」と語る正統派エッセイ。気持ちいい。

●星野智幸「Don’t cry for Argentina,」
「自分の存在をアルゼンチンのフットボールに賭けようとした」と言いつつ「私の態度にはどこかねじれたものがあり、そのねじれは日本のナショナリズムの現れ方に根ざしているということも、気づいている」。自分の存在をイタリアのフットボールに賭けようとした私としては、個人的に共感。

高橋源一郎「2002 FIFAワールドカップと三浦雅士さん」
話をそらし続ける著者だが、日本におけるW杯の気分を的確に伝えている。

●野坂昭如「サッカーからサッカへ」
「サッカーに、まったく興味がない」という著者の文は、ほかの13人(+3人)と比べて格段に歯切れがよく、プロフェッショナル。読み手が求めているのは、主張の正しさよりも主張の明快さなのだ。
「控えのキーパーだけじゃなく、なんだか人相のよくない、表現大袈裟、鬱屈している感じのプレイヤー皆さん、作家に向いてるんじゃないか。監督は編集者。Wカップも捨てたもんじゃない、観客数万、これが本を買ってくれりゃ、こりゃ、いいぜ。村上龍は判っている、えらい」

2002-07-09

『猛スピードで母は』 長嶋有 / 文芸春秋2002年3月号

かっこいい母の息子はマザコンか?

現在bk1ランキング1位の「世界がもし100人の村だったら」(マガジンハウス)の中に、こんな記述がある。

「もしもあなたが いやがらせや逮捕や拷問や死を恐れずに 信仰や信条、良心に従って なにかをし、ものが言えるなら そうではない48人より恵まれています」

誰かが、ほかの誰かよりも恵まれているなんて、第三者にどうやって決めることができるのだろう?
大雑把なたとえ話を断定形で語るのは、私たちに安っぽい優越感を与えてくれるため?
それとも、読み手にこれ以上考えることを止めさせるため?

「知識の民主化を装った大規模な思考破壊工作」という言葉を私は思い出す。蓮見重彦が以前「ソフィーの世界」(日本放送出版協会)を評し、そう書いていた。

芥川賞受賞作「猛スピードで母は」の主人公「慎」は、第三者にどう思われようが、恵まれている。そのことが主観的に書かれているからだ。母子家庭、いじめ、母の恋愛、失恋、祖母の死、祖父の看病など、ある意味でハードな経験を重ねる慎だが、男勝りでかっこよくて知的な母のもとに生まれたおかげで、ぜんぜん動じないよっていう話。控えめながら圧倒的な優越感に貫かれている。

状況への決定権や選択権のない不安定な小学生時代がナイーブに表現されるが、約20年前を回想するというスタイルだから、痛みは穏やかだし悪人も出てこない。安全圏から過去を反芻する気持ちのいい小説なのだ。どんなできごとも等質であり、水が流れるように淡々と描かれていく。

「母がサッカーゴールの前で両手を広げ立っている様を慎はなぜか想像した。PKの瞬間のゴールキーパーを。PKのルールはもとよりゴールキーパーには圧倒的に不利だ。想像の中の母は、慎がなにかの偶然や不運な事故で窓枠の手すりを滑り落ちてしまったとしても決して悔やむまいとはじめから決めているのだ」

慎の母親自慢は、こんなふうに、子離れできない現代の母親への批判にもなっている。この親子は考え方が似ており、慎自身も、母と母の恋人によって置き去りにされそうになったとき、状況をきちんと受け入れるのだ。ほどよい距離をクールに保つ母と息子の姿は、教育的で示唆に富んでいる。

この小説を村上龍はこう選評していた。
「状況をサバイバルしようと無自覚に努力する母と子を描いた」
「一人で子どもを産み、一人で子どもを育てている多くの女性が、この作品によって勇気を得るだろう」
「社会に必要とされる小説だ」

一方、石原慎太郎の選評は冷たい。
「こんな程度の作品を読んで誰がどう心を動かされるというのだろうか」

積極的に人の心をつかんで揺さぶっちゃうような小説ではなく、必要な人がそこから勝手に学んだり考えたりする、道徳の教科書のような作品なのだと思う。

ただ、いくら距離を保っているとはいえ、小学校高学年の息子が、自分の母親をこんなにも容認し、自慢し、かしずくっていうのはどうよ? マザコン度はかえって高いような気がするのだが。
慎は20年後(つまり現在)、母親の運転手にでもなっていそうで、ちょっとこわい。

2002-02-22

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