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『コーヒー&シガレッツ』 ジム・ジャームッシュ(監督) /

コーヒーもシガレッツも、無意味である。

1日に何度も私をカフェに誘う人がいた。そんなに私と話がしたいのねと思っていたら、その人は単なるコーヒー&シガレッツ中毒とわかり、大笑い。

私自身はコーヒーを飲まないしシガレッツも吸わないけれど、それでも私はコーヒー&シガレッツが好きだ。コーヒー&シガレッツとともに過ごす時間の愛すべきばかばかしさや無意味さの中毒になったのかもしれない。

そしてこの映画も「映画」というよりは「中毒」とか「習慣」とかいうジャンルに分類したいような、意味のない映画である。モノクロで映されるコーヒーとシガレッツは汚くて、ちっとも美味しそうじゃないし、会話も面白くなんかないし、人間関係も当然うまくいかない。

会話なんて、もともと面白くないんだってこと。コーヒーなんて、かっこよくないんだってこと。シガレッツなんて、体に悪いだけなんだってこと。それでも人は会話したいしコーヒーを飲みたいしシガレッツを吸いたいのである。

映画のあと渋谷のワインバーに行ったら、私が手にしていたパンフレットを見てスタッフが言った。「それ、僕が明日見ようと思っている映画です」。デートですかと聞くと「こういう映画やゴダールは彼女を誘えないから必ず1人で」と笑った。圧倒的に彼は正しいと思う。そして、まさにこれは飲食店に勤める人には必見の映画。こういうニュアンスが感覚的にわかっていたら、最高のサービスができるはず。

コーヒーとシガレッツの汚さとは対照的に、ジャームッシュはモノクロ画面の中で女優の魅力を最大限に引き出す。とりわけ怪しげなニューヨーカー、ルネ・フレンチは前作「女優のブレイクタイム」におけるクロエ・セヴィニーを超える美しさだ。

ロベルト・ベニーニの演技が過剰でダサすぎると感じても、おかしな二人がトム・ウェイツとイギー・ポップだとわからなくても、ケイト・ブランシェットが一人二役だとわからなくても楽しめる。リチャード・ベリーをトリビュートしたイギー・ポップのテーマ「ルイルイ」は、秋冬コレクションでクラシック音楽にデビッド・ボウイの「ヒーローズ」を重ねたという気鋭のファッションブランド、ドレスキャンプのようではないか。

ジム・ジャームッシュ。1953年生まれ。洗練とはかけ離れた若さ。こんなつまんない映画に立ち見が出ている。

*2003年アメリカ映画
*シネセゾン渋谷で上映中

2005-04-17

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『カルヴィーノの文学講義/新たな千年紀のための六つのメモ』 イタロ・カルヴィーノ / 朝日新聞社

名前と涙―イタリア文学とストローブ=ユイレ

文学の価値を決める要素とは何か?
文体、構成、人物造詣、リアリティ、そしてユーモアである。
…などという凡庸なことをカルヴィーノは言わない。

現代イタリア文学の鬼才が出した答えは「軽さ」「速さ」「正確さ」「視覚性」「多様性」。
こんな章立てを眺めているだけでうっとりしてしまう本だけど、カルヴィーノは1984年、ハーヴァード大学で実際に6回の講義をおこなった。(6回目のテーマ「一貫性」のメモはない)

文学を語りながらイメージについて語るカルヴィーノ。文学の魅力は映画の魅力と同じじゃん!と私は思い、5つの要素にストローブ=ユイレがつながった。フランス出身だが、原作に合わせてドイツ語映画やイタリア語映画も撮っている監督夫妻だ。

彼らの映画の第一の魅力は「軽さ」だと思う。わずか18分の軽妙な処女作「マホルカ=ムフ」(1962)、あるいは、もっとも一般受けしたという「アメリカ(階級関係)」(1983-84)を見ればわかる。後者はカフカの未完の長編小説の映画化だが、船、エレベーター、バルコニー、列車へと移動する主人公の軽やかさは、何度見ても釘付け。カルヴィーノの「軽さ」についての講義も、まさにカフカの短編小説「バケツの騎士」の話でしめくくられているのだった。

「早すぎる、遅すぎる」(1980-81)という2部構成のカッコイイ映画の魅力は「速さ」。ロータリーをぐるぐる回るクルマの車窓風景から始まり、農村や工場を延々と映したり、田舎道を延々と走ったりしながら政治や歴史を語る風景ロードドキュメンタリーだ。

「視覚性」を追求した映画は「セザンヌ」(1989)。セザンヌの絵やゆかりの風景を、評伝の朗読とともに凝視することで、地層の奥や歴史までもが見えてくる。

「正確さ」なら、レナート・ベルタのカメラが冴える2本「フォルティーニ/シナイの犬たち」(1976)と「労働者たち、農民たち」(2000)だ。前者は人がしゃべり終わって沈黙した後もずーっとカメラを回し続け、ゴダールよりも徹底している。演技やそれっぽさを排除することで、引用の意味が際立つ。映画化とは、原作を正確に伝えるための方法を選ぶことなのだ。

神話、家族、故郷、対話といった「多様性」の魅力は、同じくヴィットリーニを映画化した「シチリア!」(1998)とパヴェーゼの映画化である「雲から抵抗へ」(1978)で味わえる。棒読みの演技、寓話的な物語、そしてストレートな対話の魅力は、ロッセリーニとゴダールとパゾリーニワイズマンを足したような面白さ。

原作と風景と人間へのリスペクト。そこには必然性と自由がある。「シチリア!」という映画であれば、シチリア出身者をシチリアで撮ることに最大の意味がある。料理と同じで、テクニックやレシピよりも、大切なのは素材なのだ。

ヴィットリーニといえば「名前と涙」という掌編(新読書社「青の男たち-20世紀イタリア短篇選集」に収録)が印象に残っている。よく見るために目をつぶり、そのものを描かないことで浮かび上がらせるような作品だ。ある名前を地面の奥深くに書き付ける主人公の姿を思うと、それは映画の一場面になる。その名の人物は姿を現さず、涙をふいたハンカチだけがあとに残る、失われつつある記憶についての物語。

言葉を追っているのに、いつのまにか言葉が消えてしまうような…そんな映画がいいなと思う。

2005-01-27

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『シェフ、板長を斬る悪口雑言集(1、2)』 友里征耶 / グラフ社

レストランという名の、固有の物語。

本書に取り上げられている店は、フードジャーナリストたちが絶賛するレストランや料理店。東京のフレンチ、イタリアン、和食店が中心だ。

著者が批判するのは、店や料理人に都合のよい情報だけを垂れ流す自称料理評論家や、実名取材で受けた特別待遇を店の評価につなげるジャーナリスト。あるいは、テレビでは美味しい料理をつくるのに店では美味しくないものを出す鉄人や、バブリーな再開発ビルに他店舗展開したせいでモラルが低下したシェフなど。

いまいちかなと感じていた店が厳しく批判されている場合、そこまで言うか?と思いながらも笑いながら読んでしまう。そうそう、そうなのよねー。
例1「こんなイタリアン、いや、お店が存在していてよいのだろうか。味、サービスどれをとってもシャレにもならない」(笄櫻泉堂/神宮前)
例2「こんなはずではない、何かの間違いだろう」(トゥール・ダルジャン/ホテルニューオータニ)

自分が素晴らしいと思う店が絶賛されていれば、安心して読める。うんうん、最高だよねー。
例1「やはり今現在では東京でいちばんおいしいフレンチだ。料理だけでなく、ワイン、サービス、価格などのバランスを考えても最高峰だろう」(ロオジェ/銀座)
例2「人気イタリアンとしては価格もリーズナブル。リピートしてメニューを制覇したくなる店と考えます」(トラットリア・ダ・トンマズィーノ/北青山)

だが、自分が素晴らしいと思う店の評価が低かった場合には、心をかき乱される。あんなに美味しかったのにー? なんでなんで!
例1「さすが隠れ家レストランだ。うまくなくて高かった。それにしても、あの階段は危ない。保険に入っているのかな」(SIMPEI/上大崎)
例2「ネタ、揚げ方などに傑出したものを感じない。近くに行った際には、一度は立ち寄ってみてもよい店と考えます」(てんぷら深町/京橋)

そして、最も孤独を感じるのが、自分が最低と思う店が好意的に書かれていた場合だ。
たとえば、なぜか皆が絶賛する超人気イタリアンA。仕事場に近いため「来週あそこでランチしよう」などと言われるたびに、満席とわかっていながら電話してみるが、応対は決まって高飛車。電話するだけで嫌な思いをさせられる店のサービスがどんなものかって、そりゃあもう! 著者にだけはわかってほしかったのに。

総合的に考えると、いちばん面白く読めるのは、行ったことのない店がメッタ斬りされている場合かもしれない。たとえば、恵比寿の「ル・レストラン・ドゥ・レトワール」。著者はこの店のシェフに「さっさと出て行け、二度と来るなよ、塩をまいとけよ」という捨て台詞を吐かれたという。私は、著者の態度に問題ありと感じたが、シェフも相当くせのある人みたいだ。1冊めのこの対決だけでも面白いのに、著者はなんと、2冊めでこの店を再訪しているのである。

さて、今、レストラン業界&ファッション業界で最大の話題といえば、12月4日にオープンするシャネル銀座ビルの「ベージュ東京」だろう。フランスのトップシェフ、アラン・デュカスとシャネルのジョイント・ベンチャーで、ビルの設計とダイニングのデザインはピーター・マリノ、ユニフォームのデザインはカール・ラガーフェルド、キッチンのデザインはポール・ヴァレ、総支配人はソムリエ界の石田純一こと渋谷康弘氏である。既に予約受付が始まっており、クリスマスや土日のディナーは満席になりつつあるらしい。コースの価格しか発表されておらず、どんなものが食べられるのかわからないのに、だ。
私は、この店に対する著者の評価を、予約したいなという気持ちだ。

2004-11-15

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『ダイアログ・イン・ザ・ダーク 2004 TOKYO』 梅窓院 祖師堂ホール /

南青山で、透明人間になる。

耳の聴こえない夫婦の家を訪問し、インタビューしたことがある。
いちばん鮮烈だったのは彼らの赤ん坊で、母親に抱かれながらも、何か要求があるたびに彼女の体をバシバシたたき、強引に自分のほうを向かせる。夜中もそうやって母親を起こすのだという。泣く前に、たたく。それが、泣き声の通用しない世界における、彼のサバイバル法なのだ。

真っ暗な空間を歩き、視覚以外の感覚でさまざまな体験をする展覧会「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」が南青山で開催中と知り、思い出したのはそのことだった。見えない世界で、自分は何を頼りに生きていくのだろう? それを知るチャンスだと思った。世界70都市で開催され、既に100万人以上が体験しているらしい。

スニーカーを貸し出され、光るものや音の出るものはすべてロッカーへ。白杖(はくじょう)とアテンドスタッフだけを頼りに、見知らぬ7人と共に会場に入る。

完璧な暗闇だった。最初はこわくて一歩も動けないが、アテンドスタッフがリラックスさせてくれる。水の音や鳥のさえずりが聞こえる森林浴のような演出に救われた。蒸し暑かったり息苦しかったりしたらパニックになるところだ。

アテンドスタッフは視覚障害者。赤外線メガネをかけているわけでもないのに、彼だけが8人の位置を把握しているみたいだ。ダンゴ状態でそろそろと移動する8人をナビゲートしつつ、自分は普通の速度で動きまわり、ディズニーランドのスタッフみたいなトークで楽しませながらガイドしてくれる。すごいなと思った。

揺れるつり橋を渡る。わらを踏みしめる。木がある。街がある。スタジアムがある。改札をくぐる。駅がある。駅の喧騒は怖い。ホームから落ちる人がいる。2人乗りのブランコに乗る。ぬいぐるみにさわる。オレンジの匂いをかぐ。階段を下りる。バーがある。サービススタッフがいる。椅子に案内される。テーブルを囲む。ワインを注文する。グラスについでもらう。「アルコールの匂いだ」と声がする。乾杯する。ひと口飲んでみる。「赤?白?」と隣の人に聞かれる。「赤」と答える。サービススタッフに「正解です」と言われほっとする。

なんでもない手すりや椅子、テーブルの心地よさは驚きであった。人が触れることを想定したプロダクツには、やさしさがあるのだと知った。闇の中では、人とぶつかるのも、それほど嫌ではない。誰ともぶつからないよりは、はるかにましなのだ。

見えない世界で、私はふだんより饒舌になっていた。黙っていると置いていかれるかもしれないし、誰も助けてくれないかもしれない。足を踏まれるかもしれないし、踏んでしまうかもしれない。絶えずしゃべっていることが身を守ることにつながるのだ。そう、私は「見えない人」になったのではなく、誰からも見られることのない「透明人間」になったのだった。だから、しゃべることにした。それが私のサバイバル法だった。だが、他の人は違うかもしれない。全然しゃべらない人もいた。バーでテーブルを囲んでいても、静かな人はそこにいるかどうかもわからず、私は、テーブルの形や座席の配置を最後まで把握できなかった。

会場全体がどんなレイアウトだったのかもわからない。私には、どうしても地図が描けないのだ。だが、描けるという人もいた。会場を明るくしてもう一度歩いてみたいなとその時は思ったが、そんな種明かしはしないほうがいいのかもしれない。何も見えなかったのに、まるで映画のような記憶として思い返すことができる。そのことが単純に面白い。

*完全予約制・9月4日まで開催中

2004-08-26

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『負け犬の遠吠え』 酒井順子 / 講談社

広告業界版・負け犬の遠吠え

勝ち犬と負け犬は、簡単に2分できない。
本書によると「既婚・子あり」「既婚・子なし」「離婚歴あり」「未婚でモテる」「未婚でモテない」の順に勝っていることになるが、子供を手放した人や未婚の母はどうなのよ?と考え始めると話はややこしい。強引に線引きするなら「子育てという最も価値ある営みをしているか否か」という話になるようだ。なぜなら、ものすごく価値ある仕事をしているように見えるセレブリティーたちも、出産するや否や「どんな仕事よりも素晴らしい体験!」などとコメントし、素晴らしい仕事すらしていない負け犬たちをがっかりさせるのだから。

その点、林真理子という作家は、子供のことを書かないという原則を貫いている。しかも、彼女のポリシーは、負け犬への気遣いというレベルを超えた長期的な戦略。作家としての生涯ビジョンを優先するプロの姿勢に、負け犬は共感をおぼえるのである。

一方、鷺沢萠という作家は、著者の「負け犬物書き仲間」として本書に登場する。私は彼女が亡くなる3日前、JALの機内誌で、遺稿だったかもしれない彼女のエッセイを読んでいた。それは、波照間島のソーキそばについて綴られた生命力あふれる文章で、タイトルは「世界でいちばん美味しいそば」。私は、ポスターの撮影の仕事で、彼女がいつか住みたいと考えていた沖縄へ行くところだった。

私たちのチームは総勢10数人だが、撮影スタッフと制作スタッフの雰囲気が違う。「おしゃれ」という言葉ひとつとっても互いに共有できない決定的なスタイルの差。
ロケの最中、私はある真実に気がついた。撮影スタッフは、男女含め、全員が完全な勝ち犬だったのだ。カメラマン、スタイリスト、ヘアメイク、マネジャー、コーディネーター…。
一方、制作スタッフに、勝ち犬は一人もいなかったのである。プロデューサー、クリエイティブディレクター、アートディレクター、デザイナー、コピーライター(私)…。

このチームの場合、制作スタッフのほうが明らかにコンサバだから「勝ち犬は面白いことを避けて生きる保守派である」という本書の定義は当てはまらない。どちらかといえば勝ち犬たちのほうが、無邪気でやんちゃ。めちゃくちゃな酔い方をしたり、異様にノリがよかったりする素直さが特長である。他方、負け犬たちは少々ひねくれた感じで、球を投げると必ず変化球が返ってくる…。

夕食時、撮影スタッフが泡盛、制作スタッフがスペインワインを注文しているのを見て、私はひざを打った。本書の「負け犬は都市文化発展の主なる担い手でもあるのです」という一文を思い出したのだ。
「青森県の漁港でほんの一時期しか水揚げしない珍しい魚が寿司屋で食べられるのも、決してメジャーヒットはしないであろうヨーロッパの小国で作られた地味な映画が見られるのも、深夜においしいフレッシュハーブティーが飲めるのも、負け犬が都市文化を底支えしているからなのです」。

思い返せば、東京でも、フレンチレストランでの打ち上げを企画したのは負け犬だった。その後カラオケに行きたがったのは勝ち犬で、負け犬たちの5倍歌った勝ち犬たちはさらにクラブへと元気に繰り出したが、私はといえば、負け犬同士でまったりとカフェでお茶を飲んでいたではないか。

広告業界における負け犬は、都市文化発展の担い手ではあるものの、体力がやや足りないのかもしれません。体力がないから素直になれず、変化球を投げ続けるしかないのです。

フレッシュハーブティーなど深夜に飲みつつ、素直な写真を見ながらひねくれたコピーを考えるのは、世界でいちばん素晴らしい仕事だと私も信じているわけです。が。

2004-04-26

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