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『JLG/自画像』 ジャン=リュック・ゴダール(監督) /

規格外の孤独をもとめて。

「JLG/自画像」(1994)の前に、12分の短編「フレディ・ビュアシュヘの手紙」(1981)が上映された。
この短編のみずみずしい余韻に浸ってしまい「JLG/自画像」はどうでもよくなってしまった。ゴダールの映画は短いほどいい、と思う。

スイスのローザンヌ市500年を記念して、市の発注でつくられた短編だそう。映画づくりに関するメタ映画であり、ローザンヌという街のスケッチであり、この街をよく知るゴダールの心象風景でもある。ゴダールの原点はドキュメンタリーなのだ、と確信した。

道路での撮影を警察にとがめられ「緊急事態なんだ」と強行しようとするシーンがある。「この光は2度とないんだから」というわけだ。確かに映画監督にとって、光との出会い以上の「緊急事態」はないかもしれず、私も自分の中で、そんな「緊急事態」を設定しておきたいなと改めて思った。最優先事項と言い替えてももいい。世の中は、緊急でないことに急ぎすぎているのではないだろうか。

「水はロマンだが、街はフィクションだ」という言葉が出てくる。つまり、自然は曲線でできているのに、街は直線でできているという意味。「青と緑を取り違えてもいい」というような誰かの言葉も引用されるが、本当にそう!自然の色は、ディックの色チップでは指定できない。スクリーンに映し出される水面は、生きているかのようだ。

直線が優先される世の中を思う。ロマンよりフィクションが優先される本末転倒な社会。つくられたもの、不自然なもの、がちがちの規格。私たちは、そんな街に抱かれて生きていかなければいけない。自分の今立っている地点から、すべては始まるのだというこの短編のメッセージはとても本質的で、励まされた。

「JLG/自画像」は、本人が登場するせいか、メッセージが直接的で愚痴っぽい。だけど、風景や室内の撮り方は洗練されている。セリフに関しては「おやじ」だが、風景に関しては「おじさま」なのだ。

途中、大きな影がスクリーンの中央に現れた。上映前に「傷などは作品にもともと収録されているものなのでご了承ください」というアナウンスがあったのだが、日本語の字幕がほとんど消えてしまうこの影は、明らかに事後トラブルである。誰かが文句を言いに行き、映画は中断。途中から再上映された。もしも影が小さくて字幕に影響しない程度であれば、私は「別にいいや」と思っただろう。でも、シネマコンプレックスで上映されるハリウッド映画だったら、我慢できなかったはず。

映画の形式をこわし、わがままにつくられた作品が何らかのアクシデントでこわされた場合、「本人がこわしたか、後でこわされたか」の判断は難しい。規格外の作品は、自由であるがゆえに議論されにくいのだ。エンタテインメント作品が「ひどいSFXだ」とか「犯人がわかっちゃうからつまらない」などと具体的に厳しく攻撃されがちなのに対し、規格外の作品は、つまらなくても「嫌い」「見苦しい」「勝手にやれば」などとしか言われようがない。

「誰もが規則を語る。タバコ、コンピュータ、Tシャツ、TV、観光、戦争を語る。(中略)みな規則を語り、例外を語らない」
(「JLG/自画像」より)

自分が生きているうちに、自分の作品についてもっと多くの人に語ってほしいというのが、ゴダールの最大の希望なのではないかと思う。

*渋谷・ユーロスペース、大阪・扇町ミュージアムスクエアで上映中。

2002-09-18

amazon(JLG/自画像) amazon(フレディ・ビュアシュへの手紙を含む)

『フォーエヴァー・モーツァルト』 ジャン=リュック・ゴダール(監督) /

めくってみる。走ってみる。挫折してみる。

ゴダールの映画を見ると、ボルヘスの「伝奇集」プロローグを思い出す。
「長大な作品を物するのは、数分間で語りつくせる着想を五百ページにわたって展開するのは、労多くして功少ない狂気の沙汰である。よりましな方法は、それらの書物がすでに存在すると見せかけて、要約や注釈を差しだすこと」

ゴダールは、1つの短編で世界を語りつくしてしまうボルヘスのように、1ショット1ショットに膨大な情報をエネルギッシュに詰め込む。一瞬も見逃すことができないけれど、一瞬だけ見ても満足できる。とっても燃費がいいのだ。

「フォーエヴァー・モーツァルト」には、一応のストーリーがあり、映画の企画から上映までの話になっている。そして、それは、いちいちうまくいかず、雇われ監督はこんなふうにつぶやく。
「映画で途方もなく悲しいのはこういう時だ。無限の可能性がありながら、根本で放棄した痕跡」

だけど、一箇所だけ、うまくいくシーンがある。「ウィ」と女優が言うだけのテイクを600回以上繰り返すシーンだ。やけになった女優は走り出し、一緒にカメラも走り出す。浜辺に倒れ込んだところで、女優は最後の「ウィ」を言うのだが、このとき、雇われ監督は、オリヴェイラの美しい言葉を引用する。
「私は映画のそこが好きだ。説明不在の光を浴びる。壮麗な徴たちの飽和」

「勝手にしやがれ」(1959)「ワンプラスワン」(1968)のラストを思わせるみずみずしさだ。大切なのは、とりあえずやってみること。動くこと。前に進むこと。

映画のラストはモーツァルトの演奏会で、最終的に残るのは楽譜をめくる音のみ。ゴダールは、フィルムがカタカタまわる音で「映画史」(1988-98)を表現したが、この映画では、パサッパサッという紙の音で「音楽史」を表現したのだろうか。譜めくりの音はやたらと速く、まるで、この映画自体のテンポの速さと節操のなさを表しているかのよう。モーツァルトの楽譜をめくっても、映画のシナリオをめくっても、ただの白い紙をめくっても、だいたい同じ音がするはずなのだから、やっぱり、大切なのは、めくり続けること。音が出なくても演奏をやめないこと。

人は、「自分がやらないこと」に関しては、口だけで大きなことを言うことができる。映画を撮らない限りは映画を罵倒することができるし、俳優にならない限りは彼らを揶揄することができる。会社経営をしない限りは経営者を大声で批判できる。それは「やらないでいることの強み」だ。

子供が堂々と正論を言えるのは、まだ何もやったことがないからだが、大人になっても何もやらないでいれば、いつまでも「自分ならうまくできる」という幻想を抱くことができる。やらないでいる限り、子供のころからの夢はこわれない。夢をこわしたくないから、自分の能力がないことがわかってしまうのがこわいから、いつまでもやらないでいる。

いったん楽譜をめくり始めれば、夢は消えるだろう。うまくいかないことばかりのはずだ。
恐ろしいが、幸せなことだと思う。
「やらないでいることの強み」という幻想を捨てること。それが自由への第一歩なのだとゴダールは教えてくれる。

*1996年 仏・スイス・独合作
*渋谷ユーロスペースで上映中

2002-07-27

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『ウイークエンド』 ジャン=リュック・ゴダール(監督) /

こわされる快感!

新鮮なニュースはインターネットで届くけど、斬新なメッセージは不意に過去からやってくる。
1967年の映画が、2002年の現実にくさびを打ち込む驚き!
ポップでキッチュでおしゃれで笑えるポリティカル・ロードムービー。それが「WEEK-END」だ。

悪夢のような週末は、こんなシーンから動き出す。遺産目当てにオープンカー(ファセル・ベガ)で妻の実家へ向かう夫婦。彼らはアパートの駐車場を出発する際、バックした勢いで後ろのクルマ(ルノー・ドーフィン)にぶつけてしまう。子供が騒ぎ出したため、夫は金を渡してなだめるが、彼は再び騒ぎ出す。かくしてルノーの持ち主である子供の両親が登場し、各自がペンキ、テニスラケットとボール、弓矢、猟銃といった武器を駆使しての乱闘となる。「成り上がり!」「ケチ!」「コミュニスト!」となじりあう2家族。徹底的にふざけたシーンだが、こんな些細なケンカこそが、あらゆる争いの原点なのだ。

延々と続く渋滞。おびただしい死体と事故車。非現実的なシーンの連続は、嘘っぽいけれど嘘じゃない。週末って本来こういうものなんじゃないの? 実はみんな知っている。気付かないふりをしているだけ。

さまざまな困難が夫婦を襲い、実家への道のりは遠い。親を殺すという目標があるから、夫婦は力を合わせて生き延びる。が、本当はそれぞれに愛人がいて、遺産を手にした後は互いに死ねばいいと思っているのだ。クルマが事故った時、妻が絶叫する理由は、大切なエルメスのバッグが燃えてしまったから。このシーン、コメディなんかじゃない。人間って本来こういうものなんじゃないの? 実はみんな知っている。気付かないふりをしているだけ。

妻が男の死体からジーンズを脱がして履こうとすると、夫は「それを脱いで道路に寝転んで足を開け」と言う。ヒッチハイクのためだ。妻が通りすがりの男に乱暴されたときも夫は平然としているのだが、最終的にこの夫婦、どっちが勝つか?ラストシーンは、一見残酷なように見えて、ちっとも残酷じゃない。 弱肉強食って本来こういうことなんじゃないの? 実はみんな知っている。気付かないふりをしているだけ。

屋外で、ピアニストが下手なモーツァルトを弾きながら「深刻な現代音楽」を批判するシーンも印象的。これって、NYの個人映画作家たちへの当てつけだろうか? その代表的存在であるジョナス・メカスは1968年、「メカスの映画日記」の中で、「(ゴダールは)いまだに自由になるための最後のきずなを断ち切っていない」「いまだに、資本主義の映画、親父の映画、悪質な映画と通じ合っている」と断じている(by ミルクマン斉藤氏)。

たしかに「WEEK-END」は「深刻な現代音楽」(個人映画)ではないし「モーツァルト」(ハリウッド映画)でもない。商業映画へのアンチテーゼを同じ土俵で提示した「下手なモーツァルト」であり、モーツァルトの和音に基いた「POPな現代音楽」なのだと思う。

世の中のキレイ事やガチガチの文法を鮮やかに解体するこの映画は、感動や趣味や思想を一方的に押し付けたりしない。ただひたすら、こわすのみ。だから、見終わった後、とても軽くなれる。こんな映画がGWに上映されるなんて面白すぎ。渋滞の中をクルマで出掛けるか?この映画を観るか? 夢のような選択だ。

個人的には、登場人物の一人ジャン=ピエール・レオーのごとく、ホンダS800でエゴイスティックに逃げ切る旅が楽しいと思う。だけど、この映画を観てからお気に入りのクルマを選んでも遅くはない。人生100倍楽しくなることは確実!

*1967年 仏=伊合作 仏映画
*渋谷ユーロスペースで上映中

2002-05-03

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『路地へ 中上健次の残したフィルム』 青山真治(監督) /

言葉より前に、風景がある。

ユーロスペースの狭いロビーの隅に、エキゾチックな雰囲気の女性が佇んでいる。中上健次の長女で、作家の中上紀だとすぐに気づいた。「路地へ」の上映後、彼女と堀江敏幸のトークショーがおこなわれるという。ラッキー。

地味な印象の男(紀州出身の映像作家、井土紀州)が運転する地味な印象の国産車。その後部座席から撮った映像が延々と続き、ただひたすらクルマが走るだけで、十分に面白い映画ができるんだなってことがわかる。ダム工事だけを撮ったゴダールの「コンクリート作戦」もそうだけど、まさに映画の原点。「路地へ」の場合、あとから音楽をつけていたのがちょっと残念。エンジン音のみのほうが気分が盛り上がったのに。

ほぼ同様のルートを走ったことがあるので、映像による追体験はとても楽しかった。中上紀によると、父親の生前、毎年家族で帰省していたのと全く同じルートだという。

クルマを降りた井土紀州は、中上健次の小説の断片をさまざまな場所で朗読する(中上紀は、紀州弁の朗読を素晴らしいと誉めた)。 そして、ときおり挿入される色の濃い映像が「中上健次の残したフィルム」だ。かつての路地の輪郭は、井土紀州が立つ現代の白っぽく抜けのある風景とは対照的で、被差別部落と呼ばれた場所が本当に失われてしまったのだということが伝わってくる。

中上健次は、空をほとんど撮らず、路地の隅々を記録している。そこに宿っているもの、たまっているものを捉えようとする強烈な意志。人間は、自分がいま生きていることを実感したい時には空を見るが、確かに自分がそこにいたのだという事実を記憶にとどめたい時には地面の隅っこを凝視するのではないか ― そんなことを考えた。駄菓子屋、トラック、蓋をされた井戸、おしゃべりなおばあさん、自転車に乗る子供、カラフルな傘をさす人、干してある布団・・・そこに映る汚れや淀みのようなものまでが美しく見える。

「そのアホな人から始まった路地が、道の鬱血のようなところだったと思った。鬱血した道であろうと、太い流れのよい動脈であろうと、道である事に変りはない。道の果てはどうなっているのだろうかと考えた」(「日輪の翼」より)

ラストシーンの海を見て、「海へ」という初期の短編を読み直してみようと思った。吐き気に耐えながら海辺の城下町のバスにゆられ、途中で降り、海へと歩き、海と一体化する話。意味よりも映像がくっきりと浮かんだ。映画を観たせいだろう。

「言葉(それは禁句だった)が口唇の先で映像に還元される」 (「海へ」より)

トークショーでは、岐阜が故郷だという堀江敏幸がチャーミングな感想を述べ、それに呼応する形で、中上紀が、トンネルや橋にさしかかる時には必ず皆が興奮して大騒ぎになったという家族のエピソードなどを披露してくれた。彼女は、そこを通るたびに自分がゼロになって生まれ変わるような気がしたそうで、映画にはその辺がちゃんと表現されているという。ある作家をテーマにした作品の細部が、彼の娘によって、ひとつひとつ承認されていく。まるで映画に生命が吹き込まれるみたいに。

父のおもかげを残しながらも、まったく別の時代の、別の空間を、別の感覚で生きているように見える彼女が、「自分の中に既にある幼いころの記憶の意味がわかってきた」というようなことを言い、やわらかく微笑んだ。これは、一人の女性に認められた幸福な映画だ。

*東京・渋谷 ユーロスペースでレイトショー上映中(64分)

2001-08-30

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『ベレジーナ』 ダニエル・シュミット(監督) /

負けるな!高級コールガール。

耽美的な作品という予想を軽やかに裏切るオープニングだった。 だって、いきなり主演女優らしき女性が銃殺され、シーンは一転。個人的に最もかっこいいと思う映画のひとつ、トリュフォーの「柔らかい肌」のラストを思わせる歯切れのよさだ。つかみはオッケー。

ダニエル・シュミットの近作は、舞踏家の大野一雄を密着撮影した「ダニエル・シュミットの大野一雄」(95)と坂東玉三郎が主役の「書かれた顔」(95)。 日本を舞台にした、えもいわれぬ映像の美しさに衝撃を受けた。 今回の「ベレジーナ」は、スイス人の彼が自国と正面から向き合った作品だが「スイスってこんな国なの?」という驚きがあり、心地よく混乱した。スイスに関する知識がないと、一体どこまでが本当なのかまるでわからない。もしかして冗談?と気付くまでに時間がかかった。そう、この映画は、正統派ブラック・コメディなのだ。

それでも私は、最後までマジメに見た。冗談だとしてもパロディだとしても、それらを含めた「本当のスイス」が描かれていると感じられたから。 笑えるシーンはたくさんあるが、何よりも圧倒的に感動した。スイス人が愛を込めてスイスを撮る。皮肉や批判もすべて撮る。そのシンプルな姿勢が、永世中立国の光と影を浮き彫りにしている。かなり過激な問題作だが、観光ガイド的な撮られ方ではない、リアルな息遣いの作品だからこそ、スイスの魅力を肌で感じることができたのだと思う。

ロシアからきた「スイス好きの高級コールガール」を主役にした点が秀逸。彼女の魅力は本当に素晴らしい。コールガールという職業をこれほど肯定し、魅力的に描いた作品があるだろうか。スキャンダルにまみれた政財界の要人たちが彼女のもとへ通い、つかのまの変態プレイ(レザープレイ、首締めプレイ、女装プレイ、戦争ごっこなど)を楽しむ。スイスを愛し、伝統的な民族衣装が似合う彼女を、愛国主義の元陸軍少尉は「可愛いスイス娘」と呼び、地下に張りめぐらされた国家機密基地にまで案内しちゃうのだが、このセットで繰り広げられる幻想的なシーンには泣けてしまう。

彼女は、パトロンたちを「お友達」と呼び、皆がよくしてくれて私は幸せです、と故郷に手紙を書く。スイス国籍を取得して家族を呼び寄せたいと願う彼女は、少しずつ夢に近づいていくのである。故郷では母親らしき女性が大家族の中心に立ち、彼女の手紙を読み上げるが、これはもう、笑いながら泣いちゃうっていう領域。

無垢で世間知らずなコールガールが、体目当ての男たちに騙されている―という典型的な構図ではあるのだけれど、パトロンたちが彼女にひかれ、彼女とすごす時間は嘘ではない。そう思える。政治的な世界を生きる彼らは、彼女との約束を結局は守れなかったりするが、そのことがそれほどひどい仕打ちとも思えないのは、描き方のベースに愛があるからだ。これは女性賛美の映画だろうか。それとも、監督のスイスへの思いがそう見せるのだろうか。 死を決意した彼女が軍帽をかぶり、ある命令をくだすシーンは、めちゃくちゃかっこよくて惚れた。忘れられない。

正統派コメディの本質は、愛なんだと思う。だから、ラストもぶっ飛んでいて、いい。スイスに一度も行ったこともない私を、たった1本の想像力にあふれた映画が「スイス好き」にしてくれた。

*ユーロスペースにて上映中/1999年 スイス・オーストリア・ドイツ合作

2001-05-24

amazon(チラシ)