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『イーダ』 パヴェウ・パヴリコフスキ(監督)

ヒッピーガールが修道女を演じたら、こうなった。

シンプルで硬質なのに、リリカルで鮮烈。1962年のポーランドを舞台にしたロードムービーであり音楽映画。

修道院で育った戦争孤児のアンナは18歳。修道誓願の時期が来たが、シスタ一から一度も面会に来ない肉親の存在を知らされ、修道女になる前に会ってきなさいと勧められる。アンナは外界に出て、唯一の肉親である叔母のヴァンダを訪ねる。

自分がユダヤ人で、本名がイーダであることを知るアンナ。ヴァンダと共に両親が戦時中に住んでいた家を目指すが、実はヴァンダもあるものを探している。それらを見つけることで、2 人の人生は大きく変わっていく。

ヴァンダはエキセントリックな検察官。酒を飲みながら白のヴァルトブルクを運転し、恋愛を投げやりに楽しみ、強面でやや壊れてもいる。こんな魅力的な女と4日間も一緒にいたら、イーダが影響を受けてしまうではないか。修道女の誓いを立てる前の、最初で最後の旅なのに。

イーダの硬さは簡単には崩れず、髪にはベールを被ったままだが、きっかけはファッションより前に、音楽が連れてくる。宿泊中のホテルの階下から聞こえてくるのはコルトレーンの「ネイマ」。なんて罪深く甘美なのだろう。兵役を逃れながら放浪しアルトサックスを吹くイケメンは、昼間ヴァンダの車をヒッチハイクし、ホテルまで一緒に来た男。舞台装置は完璧だ。
音楽という名の空気は、いつだって壁を越え、ピンポイントでターゲットの耳に囁く。国境や文化や言葉をすり抜ける突破力と、無関心な層には決して届かない選別力をもって。もしもイーダの心に響く音楽がロックだったら、ボサノバだったら、違う展開になっていたはず。音楽の趣味は人生を揺るがす。

イーダの場合、とりあえず初めて出会った男がそれほど悪い奴じゃなくてよかった。しかし彼女は、彼と人生を共にしようなんて思わない。初めて自由を知った彼女は、彼と生きる人生を自由とは思わないのだ。「アナと雪の女王」で13年ぶりに外界と接触し、他国の王子とあっさり恋に落ちてしまうアナとは格が違うのである。
イーダが鏡の前でベールを取り、髪をはらりとほどくシーンは「アナと雪の女王」でエルサが髪をふりほどき雪の女王に変身するシーンを思わせるが、そこにはエルサのような自己肯定の開放感はない。ポーランドとアメリカは違うし、1962年と現代は違う。イーダは自由を垣間見た瞬間に、その限界を悟っただろう。

髪を見せ、ハイヒールをはき、ドレスをまとい、酒を飲み、タバコを吸い、踊り、恋愛をすることはなんて楽しくて簡単なんだろう。なんて軽くて柔らかくて儚いんだろう。そうイーダは思ったはずなのだ。誰でもできることで状況を変えるのは難しい。柔らかさに流れるのは簡単だけど、イーダの武器は硬質さ。それを棄てない限り、彼女はたくましく生きていけるだろう。
音楽もなく規律正しい修道院での食事の時間にイーダは笑う。外界を知ってしまったら、自分だけが生き残った理由を知ってしまったら、もう他の修道女たちとは同じでいられない。彼女が今後どういう選択をしていくのか楽しみだが、イーダを演じたアガタ・チュシェブホフスカが、今後女優を続けるかどうかも興味深い(続けるつもりはないと言っているが)。

監督が「演技経験が一度もなく、演じたいとすら思っていない女の子」を探す中で主役に抜擢された彼女の第一印象は、イーダ役にはまるで似つかわしくない娘。「むやみに飾り立てたヘアスタイル、古臭い服、ウルトラクールな物腰の、人目をひくヒッピー」だったそうだ。
ヴァンダを演じたのはアガタ・クレシャという有名な女優だが、その強烈なキャラクターは、監督が慕っていた老婦人がモデル。煙草を吸い、酒を飲み、冗談を言う温かく寛大な彼女が、20代後半の頃、冷酷で狂信的なスターリン主義の検察官だったと知ったとき、ショックを受けたらしい。「このパラドックスは、何年もの間脳裏を去ることがありませんでした」と言う。

事実は想像を超え、妄想に貢献する。

2014-8-7

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『渇き。』 中島哲也(監督)

おっさんの匂いがしない役所広司。

「この映画、見たって言うのやめよう。だって気持ち悪いじゃん」

上映直後、橋本愛タイプの子が、小松菜奈タイプの子にそう言い放った。そのまま映画の宣伝コピーになりそうな言葉だ。

こんな気持ち悪い映画を宣伝したくないから?
こんな気持ち悪い映画を好む人間だと思われたくないから?

たぶん彼女は友達に宣伝するだろう。「気持ち悪いよー、見ないほうがいいよー、『告白』と違うからー」って。https://www.lyricnet.jp/kurushiihodosuki/2010/06/28/843/

中島監督は『告白』に安易に感動したファンの感受性を試しているのだろうか。意味を剥奪するスピード感と残虐さは、もはやレッドカードレベル。絶賛されるとブチこわしたくなる男の子の衝動か。「ボクのこと好き?本当に?ボクってこうなんだよ?ちゃんと見てくれてる?」と果てしなく鎌をかけられるような悪夢。主役のふたり、高校生の加奈子(小松菜奈)も父親の藤島(役所広司)も相当くるっているけれど、それ以上に心配になるのが監督の病だ。

アメコミとバイオレンスとファンタジーとガールズポップをコラージュするセンスは笑えるほど素晴らしいし、残虐さを美しいメロディーで中和させるテクニックは中毒性をはらむ。迷いのない編集は痛快で、クリスマスの狂騒や住宅メーカーのCMの虚飾を容赦なく暴くあたりにCMディレクターとしての破壊力が冴える。

監督が惚れ込んだキャラクターである加奈子は「相手がいちばん言ってほしいと思うことを言い、引きつけて、メチャクチャにする」女。私は最近、星野智幸の『夜は終わらない』村上春樹の『女のいない男たち』の書評を20〜30代女性向けの媒体に書いたが、これらの小説には加奈子に似た女が登場する。今、この手の古風な悪女が旬なのだ。成熟世代の男たち(中島哲也星野智幸村上春樹)がコントロール不能な女に抗いがたい魅力を感じ、自分もまた同種の衝動を抱えていることに気づく。女たちが、そういうねじれた状況を許容すれば世の中は楽しくなるのかなと思い、私は本を紹介する。

音楽のミスマッチな使い方は『アッカトーネ』(1961)の暴力シーンでバッハのマタイ受難曲を使ったパゾリーニのようだ。美しい旋律を唐突に分断するゴダールとは異なり、中島監督は音楽をファッションアイテムとして取り入れる。音楽プロデューサーの金橋豊彦氏によると、中島監督が提示した選曲の条件はスタイリッシュであること。さらに考慮すべきこととして、加奈子は「美しく、せつなくある一方で、狂った感じ」、藤島は「古臭く、男臭く、でもおっさんの匂いはしない」という方向性が求められたという。

血まみれになって汚れていく脂ぎった藤島の暴力を、かろうじて最後まで見ることができた理由はここだったのか。監督は藤島から「おっさんの匂い」だけを巧妙にそぎ落としていたのだ。それは「かっこわるい保身」と言い換えてもいい。この映画は、かっこわるい保身くささが主役の現実世界よりは、はるかにましなのである。

藤島のスーツの色に、黒ではなく白を選んだスタイリストの申谷弘美氏、坊主ではなくロンゲを選んだヘアメイクの山﨑聡氏。この2人のおかげで、藤島がイエス・キリストのように見えるシーンが生まれた。そう、彼は、世の中の十字架を一手に引き受けたヒーロー! 私には確かにそう見えたのだけど。

でもやっぱり、この映画、見たって言うのやめよう。だって気持ち悪いじゃん。

2014-6-28

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『ほとりの朔子』 深田晃司(監督)

原発から逃げない人々。

「ほとりの朔子」は日本のバカンス映画だ。バカンスとは、夏の数週間を何人かの人とともに無計画にだらだら過ごす退屈な日々のこと。小さな非日常を繰り返す中で、無意味に笑ったり、ケンカしたり、誰かを好きになったり、失望したりしながら、最後にはうんざりして終わること。だけど帰り際には、泣きたくなること。疲れ果てて帰った場所は、もとの場所とは違って見えること。

大学受験に失敗した朔子(二階堂ふみ)の中途半端な心情は、プチ逃避としての2週間のバカンスにはうってつけだ。朔子が水に入った足もとに広がるほとりの波紋や健康的な夏のファッションが、所在なさを引き立てる。美しく知的な叔母、海希江(鶴田真由)のモテぶりも光っている。だが、ジャック・ロジェの「オルエットの方へ」のようなフランス的バカンスの抜け感はなく、海辺の町の閉塞感が色濃く感じられた。それは、退屈な町の濃密な色っぽさと言い換えてもいい。

朔子は、学校に通わず叔父の経営するラブホテルを手伝う孝司(太賀)に出会い、やがて彼が福島からの疎開者であることを知る。原発がテーマではないバカンス映画に「登場人物が何人かいたらサッカー好きが1人はいるでしょう」という感じの自然さで、原発の問題が立ち現れるのだ。朔子が孝司に寄せる気持ちは、同情ではなくモラトリアム同士の共感であり、ほのかな恋心にすぎない。これは、福島の問題がここまで日常に溶け込み、背景のひとつになってしまったという現実なのだ。もはや日本のどこで何を撮ったとしても、福島が何らかの形で、どこかに映ってしまうのかもしれない。

フランス的バカンスの抜け感はないものの、この映画の退屈とときめきの同居は新鮮だ。退屈とときめきは相反するものと思っていたし、恋愛はスピード感であるとも思わされていたけれど、実は退屈こそがときめきと近しいのだ。所在なさや逃避モードの波長が合ったとき、たぶん人は恋に落ちる。効率優先のランチ婚活なんかで恋愛が生まれる確率は低いだろう。

映画とともに現実に帰ると都知事選だ。津田大介さんのメルマガ「メディアの現場」は特別号外を連日発行し、多彩なジャンルの識者の原稿を掲載している。順番も毎回工夫されていておもしろい。合コンを盛り上げる幹事さんのようだ。

1 月29日の「号外その7」は「脱原発を目指す側の人が宇都宮候補を支持すればいいのか、細川候補を支持すればいいのか、またそれを考えるうえで持っておきたいほかの視点は何かということにフォーカスして」コンパイルされた5本の原稿だった。映画と同様、都知事選に原発が映り込むのは必然だと思うけれど、最後の1本はアップリンク主宰の浅井隆さんの原稿だった。つまり都知事選に映画が映り込んでいた!

脱原発派の浅井さんは、フィンランドのオルキト島にある高レベル放射性廃棄物の最終地下処理場(通称オンカロ=隠し場所)を描いたドキュメンタリー映画「100,000年後の安全」(マイケル・マドセン監督)を、震災前の2010年に買い付けていた。震災後の4月2日、東京で緊急公開されたこの映画は、連日多くの人々で溢れ、TV報道もされ、浅井さんは脱原発へと社会が変わる勢いを感じたという。だが、2011年7月の都知事選は261万票で石原知事が当選、2012年12月の都知事選では433万票で猪瀬知事が当選という結果になり、自分と考えの違う人に共鳴してもらうのは容易ではないことを思い知ったという。

しかし浅井さんは諦めない。昨年、小泉元首相がこの映画のTV版(55分)を見てオンカロを視察し、脱原発へと考えを改めたことを知り、一人でも多くの人に観てもらおうと、YouTubeでの無料配信に踏み切ったのだ。

「僕は、小泉政権時の郵政民営化、規制緩和など新自由主義といわれる大企業のための政策が格差社会を生み出したことは支持していない。だが、脱原発というシングルイシューで選挙を戦う小泉元首相が推すのが細川護煕候補というのなら、脱原発を実現するために細川候補に都知事になってもらいたい」

自分が買った映画を評価した人の志に1票!というのはとても明快だ。きれいごとでもなく、独善的でもなく、その原点は映画という仕事への愛であり信念なのだ。私もそんなふうに誰かを信頼し、投票してみたいなと思う。

「100,000年後の安全」は、安全なレベルに達するまで10万年を要する放射性廃棄物についての映画だ。最終地下処理場であるオンカロは2100年に閉鎖され、半永久的に埋葬されるという。後生の人々が、オンカロを見つけて掘り起こすことだけは避けねばならないが、危険な場所であることを彼らにどうやって伝えるかが虚しく論議される。10万年後の人々は、人ですらないかもしれないのに。

映画は観客を「何らかの理由でオンカロの入り口に来てしまった子孫」に見立て、手紙のように語りかける。10万年後の状況に確信を持とうとすることの無意味さと傲慢さ。退屈もときめきもなく、ばかばかしいほど美しく静謐な映画だ。

2014-1-31

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『かぐや姫の物語』 高畑勲(監督)

美女と醜女の人生は、どれだけ違うのか。

「姫の犯した罪と罰」というキャッチコピーにつられて見に行った。え、竹取物語ってそういう話だっけ?と思った。まんまと引っかかったというわけだ。日本最古の物語も、コピー次第で時代にコミットする。
溝口か黒沢かっていう大胆にして繊細な絵づくりを、最前線のジブリアニメが実現してしまった。四季折々の自然をはじめ、日本古来のファッションやカルチャーが、スーパー・カルチャーであるアニメによって世界に発信されるのだと思うと興奮する。制作費50億というのが気になるが、この映画が、かぐや姫を財宝でくどく男たちみたいにならないことを願う。

竹取物語をベースに、かぐや姫の心情を強調したリアルファンタジーに仕立てあげた。あこがれだったはずの地上は理不尽なことに満ちており、傷つくことも悩むこともない天の暮らしのようにはいかない。幼い頃は楽しいけれど、成長するにつれ美貌目当ての面倒な男たちが現れ、自由に行動することもままならなくなる。

これ、人間もだいたい同じだ。悩みのない子供時代に戻りたいと、多くの大人が言っている。
月に戻ったかぐや姫は、幸か不幸か地上の記憶をなくし、でも、なぜかあの「わらべ唄」だけは覚えていて、口ずさむたびに意味もわからないまま涙を流すのだろうというところまでが想像できる。

よく似た映画を見た。越谷オサムの恋愛ファンタジーを『ソラニン』『僕等がいた』で知られる三木孝浩監督が映画化した『陽だまりの彼女』。ヒロインの真緒(上野樹里)は、異なる世界からやってきたかぐや姫といっていい。わらべ唄のかわりに、ビーチボーイズの『素敵じゃないか』が繰り返し流れ、真緒が姿を消したあと、その曲を聴いた浩介(松本潤)は、真緒の記憶をなくしたというのに美しい涙を流すのである。

『かぐや姫の物語』のコピーは「姫の犯した罪と罰」。
『陽だまりの彼女』のコピーは「最初で最後の恋(うそ)だった」。
どちらも、地上で欲望をかなえようとする罪深い女の話なのである。別の世界に帰ることが前提で、別れることがわかっていながら恋をし、地上で生きたいと願う。だけどだんだん、いろんなことを経験し、疲弊し、タイムリミットが迫ってくるというお話。それは子供時代や青春の終わりということで、しとやかな化粧を強要され、エネルギーを奪われていく。

あらゆる出会いにつきまとう別れの運命。それは誰のせいでもなく、世の中はそういうふうにできている。だからせめて、美しい女は、タイムリミットをできるだけ先延ばしにして、罪も罰も恋(うそ)もまるごと引き受けて、できるだけ輝いて、勇敢かつ奔放につまらない男たちを翻弄し、あさっての方向を夢見てほほえむお姫さまであればいい。2つの映画のヒロインのように。

条件は、身軽であることだ。どちらの映画のお姫さまも、かけまわることが許されない地上で、ぎりぎりまでかけまわっていた。ジャングルジムに一瞬でかけのぼる真緒。桜の樹の下でぐるぐるまわるかぐや姫、窓からジャンプして子供を助ける真緒。十二単を脱ぎ捨てて野山をかけぬけるかぐや姫。まさにザ・ファンタジーだった。

鬱陶しい現実から逃避するために、身軽さは必要なのだ。今だって、多くの女がダイエットし、身体を鍛えている。いつでも、どこからでも逃げられるように備えているのだ。
美しくないお姫さまにおいては、どれほどスペシャルな能力をもっていればいいのかと考えさせられる映画でもある。実写(陽だまりの彼女)であれば演じる生身の人間に多様な解釈が成り立つが、アニメ(かぐや姫の物語)は残酷だ。美女は美女に、そうでないものはそうでないものに描かれていることがわかってしまう。つくり手の美意識や好みがわかりやすく現れすぎてしまうことが、エンタテインメントとしてのアニメの限界だ。

『陽だまりの彼女』で唯一、真緒に再会する元同級生役の女だけが、ステレオタイプな悪役の演技をしていた。彼女が真緒に罵声を浴びせるシーンは明らかに浮いていたが、この映画が現実離れしたファンタジーであることをアニメ的な直球で表現したのだろう。ただし、この女を演じたのは、実際には可愛らしい女優(森桃子)である。「ファンタジックな醜女を演じても現実の世界では可愛い」というあたりが、実写の深い力なのだと思った。

2013-12-09

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『三姉妹 雲南の子』 ワン・ビン(監督)

ドラマは、撮影対象の中にある。

さまざまな映画祭で大賞やグランプリをとり、国際的に高い評価を得ているワン・ビン監督。特集上映でドキュメンタリー作品3本を見た。中国からすごい人が現れたなと思う。

さびれた工場地帯を結ぶ鉄道と、その周辺に生きる人々を撮った「鉄路」(2003)は、9時間に及ぶ3部作「鉄西区」のPart3。きれいな暮らしではないが、食事時には湯気が満ちるアジアの原風景から目が離せない。監督は撮影対象の環境を尊重し、話しかけたり空気を乱したり都合よく切り取ったりしない。適切な距離を保ち、息を潜めるように撮ることで、撮られる側にも見る側にも安心感が生まれ、自由に解釈できる特別な世界が生まれるようだ。父親の拘留にショックを受けた息子が、長い沈黙の後、写真の束を取り出し訥々と話し始める時に、「ちょっといいですか?」とそれを奪い取って1枚1枚別カットで撮り直したりしないのである。ナイーブさの塊であるような息子が大切にしているものは何なのかが、そのままの形で伝わってくる。

「鳳鳴(フォンミン)— 中国の記憶」(2007)は、元新聞記者の74歳の女性が自宅で半生を語る約3時間の作品。彼女の体験のひとつひとつが、空や星の輝きまで伴って見えるよう。監督が控えめに声をかけるのは、暗くなり過ぎた部屋に電気をつけてもらう時のみ。ドラマチックに盛り上げる演出は必要ない。ドラマは彼女の中にあるからだ。家路を行く彼女の後ろ姿から始まり、執筆する後ろ姿で終わる構成も冴えている。

「三姉妹〜雲南の子」(2012)は、雲南省の高地の村で撮影された約2時間半の作品。ジャガイモを育て、わずかな家畜とともに人々が暮らす、中国で最も貧しい地域のひとつだ。
10才、6才、4才の三姉妹の母親は家を出て行き、出稼ぎ中の父親も、たまにしか帰らない。妹たちの面倒をみる長女は、学校に通うのも難しいが、ここに映っているのは圧倒的な貧しさだろうか。そうは思えない。貧しさとは比較であり、監督は豊かさと比べて同情するためでなく、理解するために三姉妹を撮っているからだ。父親と次女、三女がバスで町へ行くシーンで、初めて村の人以外のスタイルや持ち物が映り、現代の映画であることを思い出す。「鉄路」では、鉄道が道路を横切るとき、町の人々やクルマが映っていた。だけど、カメラはそっちを追わない。何かを撮ることは、何かを撮らないことであるという事実を刻み込むのみだ。

ワン・ビン監督の映画に登場する女性は、困難な状況においても別の星に住んでいるような強さを携えている。たとえば「三姉妹」の長女は、10才にして周囲への甘えや期待が希薄に見え、湿った家の中よりも、高地の開かれた風景が似合う。下界を眺める切れ長の視線とありあわせの服のリアリティは、どんなファッション写真もかなわない。父親にも次女にも三女にも似ていない彼女は、家を出た母親のDNA を受け継いでいるに違いない。

長女は男友達に「あんたの家に遊びにいっていい?」と聞く。「なんで?」とそっけない反応をする彼は、彼女と似た境遇にあり、女性に何かを与えようという余裕は感じられない。生きることに必死である父親と祖父だって似たようなもの。彼女はそろそろ村を出るべきなのだろう。チャンスが早く訪れることを願うばかりだ。

長女はぼろぼろの靴を脱ぎ、火で乾かしながら、病的な足のふやけ度を自分と比べたがる次女に言う。「そんなことを競っても、意味ないよ」。本当にそうだと思う。競うべきは足の速さや美しさであり、知識の豊かさだ。彼女は、これからの人生で直面することになる、さらに過酷な世界を予感しており、そこに踏み込んでいく覚悟を決めているのだろう。

2013-07-02

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