『Mommy』 グザヴィエ・ドラン(監督)

美しい中二病。

今、事務所でバイトしてくれている19歳の大学生Y子は、グザヴィエ・ドランの映画が好きだという。うれしい。
6年前、グザヴィエ・ドランは、自ら監督・脚本・主演したデビュー作「マイ・マザー」(原題:I killed my mother)を19歳で完成させたが、脚本を書いたのは17歳、大学中退直後だったという。すごい。
30数年前、大学を休学し、映画の現場で働いていた諏訪敦彦監督は、もはや大学で学ぶことなどないと思っていたが、初めて自分の映画を作ってみたところ、クリエイションにおける未知の跳躍を可能にするのは経験ではなく自由の探求であることに気付き、大学に戻ったという。おもしろい。
35年前、ジム・ジャームッシュが撮ったデビュー作「パーマネント・バケーション」は、ニューヨーク大学大学院映画学科の卒業制作だったという。かっこいい。
今、大学の映画学科に在籍しているXはY子の同級生だが、往復4時間かかる通学時に、パソコンで映画を2本ずつ見ているという。うらやましい。

グザヴィエ・ドランは、映画と本に没頭した高校時代を経て、大学(ケベック州の大学基礎教養機関CEGEP)に入ったが、すべての文には主語と動詞があると主張する教師と議論になり、2か月で中退したのだった。「ぼくは彼女に言ったんだ。『先生、もしも偉大な作家がその種の規則を守っていたら、文学は存在しなかっただろうし、それを教えるあなたの仕事もなかっただろうね』と」(W magazine インタビューより)

彼の映画は、一瞬一瞬が月並みじゃない。諏訪監督がいうところの未知の跳躍? でも、扱っているテーマはごく普遍的だ。若くしてなぜ、世の中の成り立ちをそこまで理解しているのかと思うけれど、それは多分、誰よりも深く感じているから。既知の感覚をとことん突き詰め、濃密な映像や言葉へと爆発させるエネルギーの源泉は、大胆さではなく繊細さなのだろう。ぶっちぎりのファッションセンスで世のタブーを白日のもとにさらす才能は、成熟ではなく未熟さがもたらすものだ。わかりやすいのに意表を突かれ、ありふれた感覚に打ちのめされる。

「Mommy」の見所のひとつは、主人公のスティーヴがスケートボードで公道を走り、自分をフレーミングしている正方形のスクリーンを両手で左右に押し広げる場面。この無邪気な爽快感は、スピルバーグの「E.T.」で自転車がふわっと宙に浮く名場面に通じる。スティーヴが聴いているのはオアシスの「ワンダーウォール」という王道ぶりだが、この曲は、スティーヴの亡き父親が編集したコンピレーション・アルバムの一曲という設定なのだ。

閉ざされた場所から開かれた場所へ。グザヴィエ・ドランの映画は、自分を否定されることへの強烈な恐怖がベースになっている。登場人物は、閉ざされた不自由な場所で、愛する人を肯定し、否定する。自分自身を肯定し、否定する。答えが出ないから、しつこく繰り返す。そんなふうにじたばたする日常の中で、偶然のような風景が見える。何もしなければ、出会えなかったものだ。答えは得られなくても、その瞬間の官能性こそが希望。解決できない問題こそが希望であるということだ。

自分が発した「いちばん大事な言葉」を、大切な人は聞いていないかもしれない。大切な人が発した「いちばん大事な言葉」を、自分は聞き逃すかもしれない。それでも大丈夫。

デビュー作「マイ・マザー」(2009)は、母親に対する16歳の少年の視点が中心だったけれど、「Mommy」(2014)は、15歳の少年に対する母親の視点が中心になっていた。急激な進化は、切なくもある。ハリウッドへ進出しても、閉ざされた場所から開かれた場所を希求する思春期の感覚で、「美しい中二病」的な映画を撮り続けてほしいと思うから。

2015-5-6

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『さらば、愛の言葉よ』 ジャン=リュック・ゴダール(監督)

方法なんてものはない。作業があるだけだ。ジャン=リュック・ゴダール

村上春樹が読者の質問に答えて書いていた。「正直言いまして、ゴダールって若いときに見るべき映画ですね。そう思います」。そうなのか? 村上春樹としては、ゴダールの映画は成熟していないが僕の小説は成熟している、と言いたいのかもしれない。

たしかにゴダールの映画はいまだに成熟していない、と新作を見てよくわかった。一方、最近の村上春樹の小説はハードボイルドさが薄れ、理由を突き詰めているような気がする。

昨年出た村上春樹の短編集『女のいない男たち』は、浮気する女たちのせいで傷つく男たちがテーマになっていた。ゴダールの『さらば、愛の言葉よ』のベースも人妻と独身男がおりなす物語ではあったが、女はなぜ簡単に二股をかけるのか?と糾弾する勢いの村上春樹に比べ、ゴダールはそんなことはどうでもよくて、大事なのは犬であるというのが結論だ。サルトルの『存在と無』デリダの『動物ゆえに我あり』などが引用され、人間批判が展開される。

たとえば「登場人物って嫌い」と女が言う。
人は世の中に登場した瞬間から、他人に意味づけされる。その結果、他人の言葉はわかるが自分の言葉がわからない状態になる。登場人物とは、自分の言葉を失った人間のことなのだ。

たとえば「自由な生き物は干渉しあわない。手にした自由が互いを隔てるのだ」という言葉が愛犬ロクシ−の動画に重ねられる。
不自由な人間は、自由を求めて不毛に争い合うというわけだ。

たとえば、子供をつくろうと男に言われた女が「犬ならいいわ」と答える。
これほど未成熟な映画があるだろうか。ゴダールに理由なんてない。あるのはロクシ−への愛と3Dへの好奇心のみだ。

ゴダールの映画を3Dで見る日が来るとは思わなかった。しかも気分としては『勝手にしやがれ』を3Dで見ているような、3Dカメラが初めて街に出て自由に動き出した歴史的瞬間を目撃しているような。『Stand by me ドラえもん』によって昔のドラえもんの記憶までが3Dに塗り替えられてしまったように、84歳のゴダールは3Dと一気に仲良くなってしまった。

スムーズで見やすいわけではない。3Dが立体感をリアルに見せる技術だとすれば、ゴダールの3Dは真逆で、過剰な実験を繰り返す。左右のずらし方を極端にして見えづらくし、挙げ句の果てには、左右の眼に異なった画像を映し出す。奥行き表現への挑戦も半端ではなく、画面は絶えず斜めに切り取られ、ついにはシャワーをカメラに向かって吹きつける。3Dの意味がなさそうなものさえ、あえて撮ってしまうのも痛快。

面白そうなものは、とりあえずすべて撮ってみた感じ。裸のロクシ−、裸の男女、四季の水や自然の比類ない美しさ。そして暴かれたのは3Dの滑稽さで、もっともらしいものに対する強烈な一撃だ。要するに誰かがつくった3Dシステムを解体し、自分でゼロから試している。既成のシステムに無自覚に乗っかって作品を発信することは、まさに自分の言葉を失った、他人の物語の登場人物のような状態をさすのかもしれない。

69分という短さの理由は、ひとつは目が疲れるから。もうひとつは、左右2倍楽しめるから。音楽の耳あたりはよくて、不滅のアレグレットといわれる映画音楽の定番、ベートーヴェン交響曲第7番第2楽章進曲のイントロ部分が繰り返し使われる。

『さらば、愛の言葉よ』はゴダールらし過ぎるタイトルなので、いっそのこと『こんにちは、ワンちゃん』とでもすれば、間違って見に来る人が殺到するかも。

2015-2-2

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2014年書籍ベスト10

●ニッポンの音楽(佐々木敦)講談社現代新書

●東京の家(写真:ジェレミー・ステラ)ル・レザール・ノワール

●離陸(絲山秋子)文藝春秋

●穴(小山田浩子)新潮社

●エヴリシング・フロウズ(津村記久子)文藝春秋

●春の庭(柴崎友香)文藝春秋

●サラバ!上・下(西加奈子)小学館

●よるのふくらみ(窪美澄)新潮社

●2035年の世界(高城剛)PHP研究所

●エースと呼ばれる人は何をしているのか(夏まゆみ)サンマーク出版

2014-12-30

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2014年映画ベスト10

●トム・アット・ザ・ファーム(グザヴィエ・ドラン)

●やさしい人(ギヨーム・ブラック)

●エレナの惑い(アンドレイ・ズビャギンツェフ)

●アクト・オブ・キリング(ジョシュア・オッペンハイマー)

●そこのみにて光輝く(呉美保)

●ドライブイン蒲生(たむらまさき)

●フランシス・ハ(ノア・バームバック)

●グロリアの青春(セバスティアン・レリオ)

●罪の手ざわり(ジャ・ジャンクー)

●NO(パブロ·ラライン)

2014-12-30

『6才のボクが、大人になるまで。』 リチャード・リンクレイター(監督)

37才のチャーリー・セクストンが、45才になるまで。

2002年から2013年まで、毎年、数日間の撮影を積み重ね、トータル45日の撮影期間で完成した映画。終了時、主役を演じたエラー・コルトレーンは18才になっていた。

エラー・コルトレーンの父をイーサン・ホーク、母をパトリシア・アークエット、姉をローレライ・リンクレイター(監督の娘)が演じており、それぞれの経年変化から目が離せない。普通の映画によくある「事実をよそおった滑らかな変化」ではなく「事実であるがゆえのグロテスクな変化」だからだ。

人は日々、成長したり老化したりするが、見た目の印象を決定づけるのは自然な経年変化ではなく、むしろ人為的なスタイルの変化なのだとこの映画は教えてくれた。髪の色や長さ、ピアス、体の動き、表情などのファッション的要素が、いかに雄弁であるか。これらに注目する限り、12年という歳月は思いのほか濃密で、子供にも大人にもいろんな浮き沈みがあるのだなと胸を打たれる。

演じている役柄やストーリーはだんだんどうでもよくなる。登場人物の見た目だけが重要になってくるのだ。観客は、まるで家族のことを心配するみたいな目線で、この長い映画を飽きずに見続けることになる。

イーサン・ホークは「妻とは離婚するが、子供の目にはそれなりにかっこよく見える父」を演じていたが、注目すべきは、彼のミュージシャン仲間で同居人のジミー。エラー・コルトレーンが10才の時、父の家に泊まると、散らかったその家にジミーがいる。「え、この人誰? 父はもしかしてゲイだったの?」と思うくらいの、ただならぬ美しいオーラを放っている。

ジミーは、8年後のライブハウスのシーンでもう一度出てくる。ギタリストの彼はバンドメンバーとともにリハーサルをやっている。エラー・コルトレーンが2階で父に悩みを相談していると、ジミーがステージから2人を見上げ「もしかして、あのときの坊やかい? まいったなあ」みたいなことを言う。父はジミーのことを「夢をあきらめた僕とは違って、こいつはまだ音楽をやっていて、いまだにかっこいいんだ」みたいなことを言う。

いや本当にジミーはかっこいい。8年前よりもずっと。彼は成長したエラー・コルトレーンにThe dog songという曲を贈るのだが、父があれこれアドバイスしていたことを、瞬時にちゃらにしてしまう説得力だ。音楽を続けるとは、この映画が示唆したような夢と生活の二択ではなく、続けずにはいられない衝動なのだと思う。それは夢ではなく才能だ。

この瞬間、映画は真のドキュメンタリーになり、主役はジミーになってしまった。なので調べた。ジミーって何者?

彼の名はチャーリー・セクストン。1985年、17才でソロデビューし、1986年には日本公演をおこない、1999年ボブ・ディランのバックバンドに加入。1987年にデヴィッド・ボウイとマイクを分け合い演奏している姿をYouTubeで見て驚愕した。YouTubeありがとう!
 
The dog songはチャーリー・セクストンの実の息子であるマーロン・セクストンがつくった曲だとか、エラー・コルトレーンの実父もブルース・サーモンというミュージシャンで、この映画に出演してGobbelinsという曲を演奏しているとか、そんなことまでわかってしまうと、2組のリアル父子のストーリーのほうが気になりはじめ、映画のストーリーはますますどうでもよくなってしまった。

2014-12-09

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