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『赤富士』黒澤明(監督)

見えない空気を凝視する 2

2015年10月8日、スウェーデン・アカデミーは、ベラルーシのロシア語ノンフィクション作家、スベトラーナ・アレクシエービッチ氏(67)にノーベル文学賞を授与すると発表した。ノンフィクションでの受賞、ジャーナリストとしての受賞、ベラルーシ人としての受賞、いずれも彼女が初めてだそう。500人の証言をもとに書かれた『チェルノブイリの祈りー未来の物語』(松本妙子訳・岩波書店2007年初版)で知られている。

「未来の物語」というサブタイトルの予言は的中した。アレクシエービッチ氏は、福島第一原発の事故直後、改めてこうコメントしていた。「わたしは過去についての本を書いていたのに、それは未来のことだったとは!」(中日新聞10月9日)

さらに日本の映画についてのコメントもあった。「原発の爆発が描かれた黒澤明監督の『夢』(1990)はまさに予言でした」(朝日新聞デジタル版10月8日)

『夢』は、黒澤明監督が見た夢を映像化した8話のオムニバス映画。アレクシエービッチ氏が言及したのはその中の『赤富士』だ。原発が次々と爆発し、富士山が真っ赤に溶解する中「狭い日本だ、逃げ道はないよ!」と叫びながら逃げまどう人々。人類は放射性物質を着色することに成功しており、赤はプルトニウム239、黄色はストロンチウム90、紫はセシウム137。だがそれは「知らずに殺されるか、知っていて殺されるかの違い」に過ぎないのである。

1990年にこの映画を見た時は悪夢だと思った。2011年にYouTubeで見た時は現実だと思った。2015年の今、もう一度見たら未来だと思った。黒澤明監督は、見えないものが見えても再び見えないふりをしてしまう愚かな私たちのために、放射性物質に毒々しい色をつけたのだろう。知っていて殺される未来が、迫っているのかもしれない。

着色された放射性物質が、最後に残った男女と2人の子供を包みこみ、この悪夢は終わる。いや、終わらない。『夢』という映画は、それぞれの夢が終わらずにつながっていく。

2015-10-10

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『22:19:43 – 23:04:40』園子温(監督)

見えない空気を凝視する 1

ワタリウム美術館で開催中の『Don’t Follow the Wind – Non-Visitor Center』展を見た。福島県内で行われている『Don’t Follow the Wind(DFW)』のサテライト展である。Don’t Follow the Wind(風を追うな)というタイトルは、原発事故による被曝を避けるため北西に吹く風とは逆に東京へ逃げた避難者の話に由来し、Non-Visitor Center(非案内所)というサブタイトルは、国立公園などのVisitor Center(案内所)に由来する。

DFWには12組のアーティストの作品が展示されているというが、今は見ることができない。開催場所が、東京電力福島第一原子力発電所事故に伴う放射性物質汚染のため、一般の立ち入りが制限された帰還困難区域内にあるためだ。年間積算線量が50ミリシーベルトを越える場所があり、事故後5年以内に20ミリシーベルトを下回ることが困難と判断されたこの区域からは、約2万4千人の住民が避難し、仕事や一時帰宅などが必要な人のみ国や自治体の許可を得て入ることができる。つまりDFWは、この区域の封鎖が解除されるまで見ることのできない展覧会なのだ。

ワタリウム美術館の2階から4階を利用したサテライト展には、DFWを想像させるためのさまざまな仕掛けがあった。2階にはDFW鑑賞券や関係者が展示会場に入る際に発行された許可証、展示会場の鍵などがあり、DFWが架空のイベントではないことが理解できた。3階の「疑似体験エリア」はエレベーターで行くと封鎖されており、2階に戻って急勾配の木造仮設階段をのぼり、やぐらのような狭い高所からガラス越しに展示を見なければならない。DFWの開催場所が快適な環境にはないことを思わせた。

4階へ行くと、さらに「現地」の空気に近づいたような気がした。いや、遠ざかったというべきか。照明を落とした部屋のメインディスプレイに、園子温監督による約45分間のドキュメンタリー映像が流れていた。東京とミラノとベルリンをスカイプで結び、DFWの参加アーティスト3組の対話をリアルタイムで撮ったライブ作品。その中心である東京は夜で、あえて屋上のような風の強い場所で収録がおこなわれている。園子温監督らしいドラマチックな演出に気を取られ、この部屋が別の映像を流す複数のディスプレイに囲まれていることがわかったのはしばらく経ってから。それらは、スカイプと同じ時間に撮影された帰還困難区域のライブ映像だった。

このインスタレーションには、東京のノイジーな夜を福島と対比させる意図があるのだろう。帰還困難区域の夜は暗い穴のようで、逆にそちら側からひっそりと見つめられているようだ。夜の東京は、昼のミラノやベルリンとは簡単につながるのに、同じ時間の福島とは遮断されている。なぜなら、そこには人がいないから。同じ空を共有していても、心理的距離はヨーロッパよりも遠い。

3組のアーティストはDFWについて話していた。率直な質問が飛び交い、自分の作品や帰還困難区域に入った時の体験が交互に語られる。ミラノのアーティストは、以前入ったチェルノブイリの印象と比較していた。放置されゴーストタウン化したチェルノブイリに比べ、多少なりとも人の往き来がある福島には、何とかしようとする意志のようなものが感じられたという。このような未来への思いをつなぐのがDFWの役割なのだろう。

DFWの展示会場は、荒れたままの民家であるらしい。福島に関する報道が減っていることもあり、現地の人々は概ね協力的だという。忘れたい人、思い出したくない人、報道に辟易した人も、チェルノブイリのような未来は望まないはずだ。これまでの報道が取りこぼしてきたのは、たとえば、何事も起きていないかのように見える静かな夜を映し続けることだったりするのではないかと思った。

2015-10-1

『Mommy』 グザヴィエ・ドラン(監督)

美しい中二病。

今、事務所でバイトしてくれている19歳の大学生Y子は、グザヴィエ・ドランの映画が好きだという。うれしい。
6年前、グザヴィエ・ドランは、自ら監督・脚本・主演したデビュー作「マイ・マザー」(原題:I killed my mother)を19歳で完成させたが、脚本を書いたのは17歳、大学中退直後だったという。すごい。
30数年前、大学を休学し、映画の現場で働いていた諏訪敦彦監督は、もはや大学で学ぶことなどないと思っていたが、初めて自分の映画を作ってみたところ、クリエイションにおける未知の跳躍を可能にするのは経験ではなく自由の探求であることに気付き、大学に戻ったという。おもしろい。
35年前、ジム・ジャームッシュが撮ったデビュー作「パーマネント・バケーション」は、ニューヨーク大学大学院映画学科の卒業制作だったという。かっこいい。
今、大学の映画学科に在籍しているXはY子の同級生だが、往復4時間かかる通学時に、パソコンで映画を2本ずつ見ているという。うらやましい。

グザヴィエ・ドランは、映画と本に没頭した高校時代を経て、大学(ケベック州の大学基礎教養機関CEGEP)に入ったが、すべての文には主語と動詞があると主張する教師と議論になり、2か月で中退したのだった。「ぼくは彼女に言ったんだ。『先生、もしも偉大な作家がその種の規則を守っていたら、文学は存在しなかっただろうし、それを教えるあなたの仕事もなかっただろうね』と」(W magazine インタビューより)

彼の映画は、一瞬一瞬が月並みじゃない。諏訪監督がいうところの未知の跳躍? でも、扱っているテーマはごく普遍的だ。若くしてなぜ、世の中の成り立ちをそこまで理解しているのかと思うけれど、それは多分、誰よりも深く感じているから。既知の感覚をとことん突き詰め、濃密な映像や言葉へと爆発させるエネルギーの源泉は、大胆さではなく繊細さなのだろう。ぶっちぎりのファッションセンスで世のタブーを白日のもとにさらす才能は、成熟ではなく未熟さがもたらすものだ。わかりやすいのに意表を突かれ、ありふれた感覚に打ちのめされる。

「Mommy」の見所のひとつは、主人公のスティーヴがスケートボードで公道を走り、自分をフレーミングしている正方形のスクリーンを両手で左右に押し広げる場面。この無邪気な爽快感は、スピルバーグの「E.T.」で自転車がふわっと宙に浮く名場面に通じる。スティーヴが聴いているのはオアシスの「ワンダーウォール」という王道ぶりだが、この曲は、スティーヴの亡き父親が編集したコンピレーション・アルバムの一曲という設定なのだ。

閉ざされた場所から開かれた場所へ。グザヴィエ・ドランの映画は、自分を否定されることへの強烈な恐怖がベースになっている。登場人物は、閉ざされた不自由な場所で、愛する人を肯定し、否定する。自分自身を肯定し、否定する。答えが出ないから、しつこく繰り返す。そんなふうにじたばたする日常の中で、偶然のような風景が見える。何もしなければ、出会えなかったものだ。答えは得られなくても、その瞬間の官能性こそが希望。解決できない問題こそが希望であるということだ。

自分が発した「いちばん大事な言葉」を、大切な人は聞いていないかもしれない。大切な人が発した「いちばん大事な言葉」を、自分は聞き逃すかもしれない。それでも大丈夫。

デビュー作「マイ・マザー」(2009)は、母親に対する16歳の少年の視点が中心だったけれど、「Mommy」(2014)は、15歳の少年に対する母親の視点が中心になっていた。急激な進化は、切なくもある。ハリウッドへ進出しても、閉ざされた場所から開かれた場所を希求する思春期の感覚で、「美しい中二病」的な映画を撮り続けてほしいと思うから。

2015-5-6

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『さらば、愛の言葉よ』 ジャン=リュック・ゴダール(監督)

方法なんてものはない。作業があるだけだ。ジャン=リュック・ゴダール

村上春樹が読者の質問に答えて書いていた。「正直言いまして、ゴダールって若いときに見るべき映画ですね。そう思います」。そうなのか? 村上春樹としては、ゴダールの映画は成熟していないが僕の小説は成熟している、と言いたいのかもしれない。

たしかにゴダールの映画はいまだに成熟していない、と新作を見てよくわかった。一方、最近の村上春樹の小説はハードボイルドさが薄れ、理由を突き詰めているような気がする。

昨年出た村上春樹の短編集『女のいない男たち』は、浮気する女たちのせいで傷つく男たちがテーマになっていた。ゴダールの『さらば、愛の言葉よ』のベースも人妻と独身男がおりなす物語ではあったが、女はなぜ簡単に二股をかけるのか?と糾弾する勢いの村上春樹に比べ、ゴダールはそんなことはどうでもよくて、大事なのは犬であるというのが結論だ。サルトルの『存在と無』デリダの『動物ゆえに我あり』などが引用され、人間批判が展開される。

たとえば「登場人物って嫌い」と女が言う。
人は世の中に登場した瞬間から、他人に意味づけされる。その結果、他人の言葉はわかるが自分の言葉がわからない状態になる。登場人物とは、自分の言葉を失った人間のことなのだ。

たとえば「自由な生き物は干渉しあわない。手にした自由が互いを隔てるのだ」という言葉が愛犬ロクシ−の動画に重ねられる。
不自由な人間は、自由を求めて不毛に争い合うというわけだ。

たとえば、子供をつくろうと男に言われた女が「犬ならいいわ」と答える。
これほど未成熟な映画があるだろうか。ゴダールに理由なんてない。あるのはロクシ−への愛と3Dへの好奇心のみだ。

ゴダールの映画を3Dで見る日が来るとは思わなかった。しかも気分としては『勝手にしやがれ』を3Dで見ているような、3Dカメラが初めて街に出て自由に動き出した歴史的瞬間を目撃しているような。『Stand by me ドラえもん』によって昔のドラえもんの記憶までが3Dに塗り替えられてしまったように、84歳のゴダールは3Dと一気に仲良くなってしまった。

スムーズで見やすいわけではない。3Dが立体感をリアルに見せる技術だとすれば、ゴダールの3Dは真逆で、過剰な実験を繰り返す。左右のずらし方を極端にして見えづらくし、挙げ句の果てには、左右の眼に異なった画像を映し出す。奥行き表現への挑戦も半端ではなく、画面は絶えず斜めに切り取られ、ついにはシャワーをカメラに向かって吹きつける。3Dの意味がなさそうなものさえ、あえて撮ってしまうのも痛快。

面白そうなものは、とりあえずすべて撮ってみた感じ。裸のロクシ−、裸の男女、四季の水や自然の比類ない美しさ。そして暴かれたのは3Dの滑稽さで、もっともらしいものに対する強烈な一撃だ。要するに誰かがつくった3Dシステムを解体し、自分でゼロから試している。既成のシステムに無自覚に乗っかって作品を発信することは、まさに自分の言葉を失った、他人の物語の登場人物のような状態をさすのかもしれない。

69分という短さの理由は、ひとつは目が疲れるから。もうひとつは、左右2倍楽しめるから。音楽の耳あたりはよくて、不滅のアレグレットといわれる映画音楽の定番、ベートーヴェン交響曲第7番第2楽章進曲のイントロ部分が繰り返し使われる。

『さらば、愛の言葉よ』はゴダールらし過ぎるタイトルなので、いっそのこと『こんにちは、ワンちゃん』とでもすれば、間違って見に来る人が殺到するかも。

2015-2-2

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2014年映画ベスト10

●トム・アット・ザ・ファーム(グザヴィエ・ドラン)

●やさしい人(ギヨーム・ブラック)

●エレナの惑い(アンドレイ・ズビャギンツェフ)

●アクト・オブ・キリング(ジョシュア・オッペンハイマー)

●そこのみにて光輝く(呉美保)

●ドライブイン蒲生(たむらまさき)

●フランシス・ハ(ノア・バームバック)

●グロリアの青春(セバスティアン・レリオ)

●罪の手ざわり(ジャ・ジャンクー)

●NO(パブロ·ラライン)

2014-12-30