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『FAKE』森達也(監督)

ペテン師は監督のほう?

佐村河内守氏の自宅に密着し、その素顔に迫る映画ということになっている。キッチンカウンターのあるダイニングでカメラを廻していると思われる森監督も、ときどき喋ったり映ったりして「出演」する。

あるときは、佐村河内氏の妻がハンバーグを焼き、テーブルで食事を始める夫婦の様子をカメラが映し出す。豆乳ばかり飲んでいて、なかなかハンバーグに手をつけない佐村河内氏に、どうして食べ始めないのかと森監督の声がふいに飛ぶ。佐村河内氏のしどろもどろのゆるい回答に、映画館は笑いに包まれる。いい人か悪い人かはよくわからないけれど、突っ込みどころの多い言動を無意識に選択してしまう、天然な人だということはよくわかった。

あるときは、このテーブルで妻に手話通訳してもらいながら取材を受ける。あるときは、客が帰った瞬間に疲れたー!と脱力して森監督をベランダに誘いタバコを吸う。あるときは、自分を揶揄するテレビ番組を見て不快感を露わにする。夫婦が可愛がっている猫は、時折、カメラに向かってFAKEかどうかを品定めするような動きをする。

メディアに翻弄され続けている人という印象だ。善人なら善人なりの、悪人なら悪人なりの、もっと器用な対処の仕方があるのではないか。あやふやな人は、メディアリンチの餌食となる。聞こえるのか聞こえないのか、1か0かはっきりしろと言われる。ゼロでないならどこまで聞こえるのか、いつからゼロでなくなったのか、どんな時に何がどう聞こえるのか、と。

本当はいい人なのに、不器用なせいで戦略に乏しくいかがわしい人に見えてしまうのかもしれないし、本当はペテン師なのに、詰めが甘く哀れな人に見えてしまうのかもしれない。素直で憎めない人のようではあるが、素直なゆえに乗せられやすく発言をころころ変え、結果的に人を欺いているのかもしれないし、もしかするとそのすべてが演技であるのかもしれない。

このような誤解を与えやすい曖昧なキャラクターに目をつけ、操作していく森監督はとてもおもしろい。佐村河内氏をどう口説いたのだろう。真実を伝えるから一緒に心中しようと言ったのだろうか。

佐村河内氏を年末のバラエティ番組に出演させるために、テレビ局の責任者が3人がかりで説得に来るシーンがある。それなりに誠実な言葉で口説いてはいたが、佐村河内氏は後日、出演を辞退する。この選択ははたして賢明だったのか。オンエアされた番組はとんでもないものだったのだ。まるで出演を断った報復であるかのように。

傷心の佐村河内氏に、森監督はこんなことを言う。「テレビには信念なんてない。出演した人をどう使って面白くするかということしか考えていない」と。このとき森監督は、強いアドバンテージを感じただろう。佐村河内氏は、森監督だって同じじゃん、と気付いていただろうか。森監督は、そこまで俺はひどくないけど似たようなものだよ?わかってる?大丈夫?俺はやっちゃうよ!と自白しつつ布石を打ったようなものだ。このあたりから、映画の主体は森監督になっていく。

「そこまで俺はひどくない」の部分が、映画監督としての矜持だろう。そのとき森監督は、映画のクライマックスにつながる2つめの重要な口説き文句を思いついたのではないかと思う。あんなことをこんなふうに言われたら、誰だって腰が砕け、自分は愛されていると嬉しくなるだろう。もはや森監督の独壇場。弱みにつけ込みつつ、それを強みに転換しようという、独創的だがFAKEかもしれない提案にしびれた。

映画のパンフに寄せられた長文の中に、緑川南京氏の『同業者から見た森達也と「FAKE」』という一文があった。森監督の素顔に迫る内容で、毒舌ぶりが冴えている。この2人の関係ってスゴイなあと2回も読んでしまったが、緑川南京氏がどういう人なのかを調べ、騙されたことに気付く。自分も佐村河内氏と同じ穴の狢ではないか。この映画を読み解いたつもりになってはいけないと改めて思った。

2016-6-26

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『山河ノスタルジア』ジャ・ジャンクー(監督)

彼はまだ、何もしていない。

中国の山西省を舞台に、タオという女性の半生を3部構成で描いた作品。
●過去(1999年-)小学校教師のタオは、羽振りのいい実業家と結婚し、男の子を出産する。男の子はダオラー(=ドル)と名付けられる。
●現在(2014年-)夫婦は離婚し、ダオラーは実業家の父とともに教育環境の整った上海へ。祖父の葬儀でタオのもとに一時帰省した7才以降は、オーストラリアへ移住する。
●未来(2025年-)オーストラリアで学生生活を送るダオラーは中国語を忘れ、母を語らず、先が見えぬまま父に反発するが、あるきっかけで、封印していたタオの名前を口にする。

えー、これで終わり!と叫びそうになった。この驚きは「南へ」という日本語サブタイトルがついていたのに南へ行く前に突然終わってしまったビクトル・エリセの『エル・スール』以来かもしれない。『エル・スール』は、予算の関係で後半が撮影できなかったとも、プロデューサーが後半をカットしてしまったとも聞いたけれど、かなり驚いた。驚きの本当の理由は、大事な部分を描いていないのにも関わらず素晴らしい映画だったことなのだけど。

『山河ノスタルジア』は、物語を始めるにあたっての設定を、美しい映像で、時系列に沿って淡々と描写したに過ぎず、まだ何も始まっていない。登場人物は皆、静かな悲しみを抱えており、これからそこを埋めていく日々が始まるはずなのだ。「愛とは痛みを知ること」という言葉が出てくるが、ここにはまだ、痛みの萌芽しかない。

幼なじみ2人に言い寄られたタオは、炭坑で働く男を選ばず、炭坑を買収した実業家の男と結婚する。離婚した後は、息子の将来を第一に考え、親権を手放す。かつて振った男が身体を病み、困窮していると知れば、ほかに何もできないからと札束をポンと渡す。「愛はお金で買える」を赤裸々に具現化した映画であり、こういうことを1人でサクサク実行していくタオの生命力と、折に触れて流す涙のリアリティに圧倒される。実際、タオが間違っているようには全く見えず、中国という国の底力を見せつけられる思いだ。

だが、経済成長やIT化やグローバル化のひずみは、登場人物一人ひとりの心に蓄積していくのである。近視眼的には見ることができない、そのひずみの正体を、25年(映像としては2時間5分)かけて丁寧にあぶり出し、これは愛の映画になった。

記憶がふいに呼び起こされる瞬間が美しい。どんな些細な過去の片鱗も、葬らずにアップデートしていくことで、かけがえのない未来が開けるのではないかという確かな予感を残して映画は終わる。人生はたぶん、どの瞬間からも、より美しく書き変えることができるのだ。

これからダオラーは、自分のルーツを探す旅に出るだろう。母に再会し、父を理解し、天職を見つけ、愛する人と出会い、初めて父を乗り越えることができるはず。そんなこんなを、あと4時間くらい見ていたかった。ダオラーはまだ、何もしていない。

2016-4-30

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『父を探して』アレ・アブレウ(監督)

道があって、約束があって、ちょっとの運があれば、また会えます。ー曽田練

昨日乗ったバスの運転手さんは、とびきり感じが良かった。声のトーンだけで乗客を安心させ、安全に導き、幸せな気持ちで包んでくれる、そんな人。終点で最後の一人が降りたあとも、バスの中から好ましい空気がこぼれていることに気付き、思わず振り返ったが、遅かった。一度もその人の顔を見ていなかった。

『父を探して』(英題「The Boy and the World」)は、音と色と質感の映画。ブラジルの監督による手描きのアニメーション作品で、セリフはない。わずかな息づかいや歌うようにささやかれる音が耳に心地よく、意味がとれないおかげで、父探しの旅に出る主人公の小さな男の子のように、誰もが初めての世界と素直に対面できる。するしかない。言葉の通じない国へ行ったとき、ぼーっとして記憶があやふやになったときみたいに。それはまさに夢の世界。その夢が日本製でもアメリカ製でもヨーロッパ製でもなく、ブラジル発のワールドミュージックに彩られたインディペンデントな世界であることが、いっそう現実感を遠ざける。

ふだん見慣れている日本製やアメリカ製のアニメは、主人公が可愛かったり目立っていたり強かったりすることが多く、弱い場合も強い者を打ち負かしたりする。だけどこのアニメの主人公は、ごく単純な線で描かれる、ごくごくひ弱な存在だ。オトナたちの外見も同じように単純で、主人公は父を見分けることすらできない。一方、背景となる世界は、鮮やかに形を変えながらどこまでも広がっていく。幸せのイメージが炸裂する反面、過酷な労働や戦いがあり、ときに不穏なノイズも混じる。

小さな男の子には、傷つかずに世界を見る才能があるのだろう。いちいち傷ついていたら死んでしまうから、目や耳や肌にリアルに届く感覚以外は、遠く感じるようにできているはず。だが世の中には、小さな男の子にも届いてしまう残酷な音があることがわかる。幸いなことに、この主人公はたいして成長もしないし、絶望もしない。ただ目を見張るだけ。父探しの動機もナイーブなもので、手掛かりは父が吹いてくれたフルートのメロディのみ。そこには、人はやがて強くならなければいけないというメッセージすらない。そのことに、ほっとした。

『光りの墓』(2015)で、現実から遠ざかる方法としての睡眠を映画化したタイのアピチャッポン監督はこう言っていた。
「僕は銃や血の映像で話をしたくありません。恐怖や悲しみが映画を作らせる真の力であったとしても、人間的なユーモアの形で表現をしたいんです」

2016-4-4

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『愛しき人生のつくりかた』ジャン=ポール・ルーヴ(監督)

素直すぎる20代男子の未来は?

昔は上司に「やる気がないなら帰れ」と言われたら、部下は「イヤです」と踏ん張ったものなのに、最近の若者は本当に帰ってしまう。というようなことがネット上で話題になっていた。この映画の中心人物であるフリーターのロマンは、まさに帰ってしまうタイプだと思う。

流れにまかせて素直に行動するが、器用さや強さはない。小説を書いているらしいが、定職も恋人もない。そんなロマンは、ぼんやりした性格が気に入られたのか、ホテルの夜勤のバイトに採用される。ジャン=ポール・ルーヴ監督が演じるホテルの主人は「やる気がないなら帰れ」と鎌をかけるタイプではもちろんなく、勤務中にしばしばボジョレーやムルソーを開け、一緒に飲みたがる男。ロマンがいきなり祖母探しの旅に出たときも「久々に夜勤をやって若返ったよ」と言い、ロマンも「あなたがいるのになぜボクを雇ったんですか?」なんて聞く。つまり、とってもゆるい職場なのだ。

というわけで、ロマンは心置きなく旅をする。パリのモンマルトルから、美しい断崖で知られるノルマンディーのエトルタへ。失踪した祖母は、はたしてどこにいるのか?

憂鬱な顔だとか、自殺しそうだとか、小児性愛者だとか、ロマンが他人に与える第一印象は散々だ。しかしそんな彼が、祖母や父母をはじめとする「複雑な問題を抱えた人生の先輩たち」に光を当てる。未来があり、急いでいないことだけが取り柄の、寡黙なインタビュアーとして。世の中にはきっと、傍観者にしかできないことがある。与えられた使命を果たしたロマンは、ようやく自分自身の幸せの片鱗をつかむのだ。

エトルタへ向かうシーンで流れるのは、ジュリアン・ドレが歌う《Que reste-t-il de nos amours》。あの美しい日々の何が残っているのだろうと、切なく畳みかける歌詞。緻密なリズムを吐息のような囁きで刻む、ナルシスティックなボーカル。スタンダードナンバーのリメイクとは思えない新しさだ。ジュリアン・ドレは、2007年、雑誌ELLEで「最もセクシーな男15人」のトップを飾った1982年生まれの歌手。この曲とコラージュされるいくつもの風景が、映画の要となる。

原作者のダヴィド・フェンキノスは、脚本の共同執筆者でもあるジャン=ポール・ルーヴ監督をこう評価する。「ジャン=ポールには驚くべきユーモアのセンスがあります。どんな状況においても面白い側面を浮かび上がらせることができる人です。喜劇的な視点を強調する会話を見つけようとし、望んだ通りにできるのです。これは演出の問題でもあります」

この才能が、愛しき人生の源だ。「やる気がないなら帰れ」「イヤです」のような優等生の茶番劇ではない。お茶目な会話の端々に意表を突かれ、ふいに遠くへ心をさらわれる。幸せとは、予想外なリアクションの積み重ねであることを確信した。

2016-2-6

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