MOVIE

『ブラックボード ―背負う人―』 サミラ・マフマルバフ(監督) /

テアトル池袋は、飲食店になっちゃうのか?

黒板を背負い、イランの険しい山道を歩く教師たち。学校が爆撃されたため、彼らは生徒を求め、読み書きや算数を教えるべく教師のいない村を回っている―
宣教師のような男たちの姿が絵になりすぎており、当初はいささか鼻についた。 イランには実際にそんな教師がいるのだろうか? 生徒がたくさんいるわけでもないのに一人ずつが重い黒板を背負う必要があるだろうか? と。

教師の一人は、密輸物質を背負う「運び屋」の少年たちと出会うが(彼らの表情はとても魅力的だ)、「勉強なんて必要ない」「早く道をあけてくれ」と拒否される。一緒に歩くうちに「読み書きを教えてくれ」という少年が出てくるものの、自分の名を黒板に書けるようになった瞬間、少年は銃弾に倒れてしまう。

もう一人の教師は、イラクに帰る途中のクルド人の集団と出会う。子連れの未亡人に惹かれた教師は、路上で結婚式をあげてもらうが、彼女は勉強しようとせず、夫となった教師を無視するのである(この女性の不思議な雰囲気も妙に気になる)。国境で二人は離婚し、彼女は黒板を「物」として受け取って歩き出す。そこには、彼が伝えようとした愛のメッセージが書かれているが、彼女は永遠に読むことができないだろう。

どちらの結末も救いがない。黒板は生活の小道具、すなわち映画的な小道具として役立つばかりだ。だが、この映画は黒板という「絵になるシンボル」のあざとさによってフィクション性を強調しているのだと考えると、解釈は少し変わってくる。集団の状況を象徴するメッセージボードとしての黒板は、学ぼうとする者がいる時には意味のある文字が書かれ、そうでない時には文字は消され、非常事態には単なる板として役立つ―

読むことのできない愛のメッセージを背負う女のうしろ姿は、「学ぶことは拒否したが、気持ちは受け取った」ということなのだ。黒板を背負った時点で、彼女はその意味を背負い、多くの人がその文字を見るだろう。愛を意味する美しい文字は、そうやって広まっていく。意味がわからぬままメッセージは受け継がれていくのである。

同じことが、自分の名を書いた瞬間に死んでしまう少年にもいえる。少年の渾身の筆跡を、多くの別の少年たちが目にするだろう。

息子からの手紙を読んでくれと老人に頼まれ、教師が読んでやるシーンがある。何語かもわからないのに、教師は適当に意味を伝え、老人を安心させるのである。「ひどい」ともいえるし、「そんなもんだ」とも思えるが、老人が息子からの手紙を大事にもっているというだけで、手紙の役割は半分くらい果たされているといっていい。メッセージとは、「意味」よりも前に「気持ち」なのだと信じたい。別れも死もムダにならないほど、読み書きという行為は重要なのだ。

いい映画を見たんだな、と数日後にようやく思えた。この手の映画は、地味だけど長く記憶に残り、熟成し、数年後に必ずまた見たくなる。この映画はイランの20歳の女性が撮った作品だが、そのころ彼女はどんな映画を撮っているだろう。

アジア系の映画を中心に公開しているテアトル池袋での単館上映。カンヌ映画祭で審査員賞を受賞し、オフィス北野も出資している作品だが、客席はガラガラだった。西武系資本のテアトル池袋は、このままでは近日中に飲食店になってしまうという噂だ。いい映画館なのになあ。2年前には正面にセゾン美術館があったっけなあ・・・・・。

てっとり早く楽しめる映画や、てっとり早く稼げるビジネスばかりが生き残っていく状況は、ちょっとつらい。

*2000年 イラン映画/テアトル池袋で公開中

2001-04-10

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『風花』 相米慎二(監督) /

湿度の高い、おとなのロードムービー。

日本製のロードムービーが2本、同時に公開されている。青山真治監督の「ユリイカ」と、相米慎二監督の「風花」である。

「ユリイカ」が「バスで4人が九州を走るモノクロな象徴ドラマ」だとすれば、「風花」は「レンタカーで2人が北海道を走るカラーな人間ドラマ」。しかも、このカラーは、桜、ビール、ピンサロ、川、温泉、残雪、雪解け水などのリリカルなアイテムに象徴される湿度の高いカラーであり、ピンサロ嬢(小泉今日子)の頬は、いつも艶やかに光っている。彼女のウエットな魅力を引き出しただけでも価値ある映画だ。そして、謹慎中の文部省エリート官僚(浅野忠信)の性格と酒癖の悪さといったら!

二人が演じる雪の中のシーンがいい。最低な男が、ある事実を前にして最低でなくなっていくプロセスには、誰もが釘づけになってしまうだろう。情けなさと真摯さと意外性という「自覚しにくい男の魅力3点セット」を浅野の演技はきっちり満たしているのだ。動揺しながらも、女に自分の服を着せ、抱きしめ、さすり、おぶり、ふらふらになって歩く男。実のところ、男というのは相当弱い存在で、ここまでして、ようやく女からの愛を獲得できるのかもなー、なんて思ったりした。このシーンの浅野は、ほんとうに愛しい。自分の弱さを絶望的に自覚し、プライドを脱ぎ捨てたとき、「最低な男」は「裸の男」になるのである。そして、女は、男が何と言おうと「裸の男」が好きなのだ。浅野は、雪の中の過酷な撮影の際、体力がどんどん消耗したと述懐している。「もう、本当に自分が情けなくて、情けなくて、そのまま演じたら、ああなってしまいました」。

先日、最終回を迎えた野島伸司のTVドラマ「SOS(ストロベリー・オンザ・ショートケーキ)」にも同様のシチュエーションがあり、タッキーがフカキョンに対して「裸の男」になったりしていた。ただ、ドラマの二人が青春まっさかりの高校生カップルであるのに対し、この映画の二人は、謹慎中に解雇通告される酒びたりでインポテンツのエリート官僚と、夫に先立たれ自分の子供に会うことすら許されないピンサロ嬢という、かなり絶望の色が濃いカップルなのである。したがって、これは死んだふりごっこなどではなく、死の影が本気でちらつく大人の映画だ。疲れた大人どうしが出会い、雪の中でああいうことになったら、もう結ばれるしかないだろうという有無をいわせぬ感動があった。子供の扱い方も自然で、私は、彼女の生き方に最初から最後まで素直に感情移入できてしまった。

それにしても、最近の邦画パワーはちょっとしたものだ。音楽もファッションもそうだけど、メイドインジャパンの文化レベルが着実に上がっている。若い監督もベテラン監督も、競うようにいいものを撮っている状況が、とりわけ嬉しい。

*ロードショー上映中

2001-03-23

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『ユリイカ(EUREKA)』 青山真治(監督) /

静かだから、伝わるもの。

『ユリイカ(EUREKA)』 青山真治のイメージ、バス

現代を描いた映画なのに、どうしてモノクロなんだろう? 「ユリイカ」を見た後、ゴダールとジガ・ヴェルトフ集団による映画「東風」(1969年、カラー)をたまたま見て、答えに近づけたような気がした。

傷つけられた画面、肝心な部分で途切れる会話、ペンキを血に見立てた革命のパロディー・・・・・まるで教育ビデオのような「東風」という作品は、「映画らしい映画」に対する挑戦であり、資本化・技術化がもたらす結果としての「美しさ」や「本物っぽさ」や「物語」へのアンチテーゼだと思う。映画の中で流れる血は、すべて、ペンキやケチャップで十分なのかもしれない。スクリーンに映し出されるのは、本当の死じゃないし、本物の血であるはずがないのだから・・・・・

人間がどんなふうに死ぬのか、私は映画によって知っているような気がするし、戦争がどのようなものかさえ、わかっているような気がするけれど、それって怖い。 本物っぽくつくりこまれた映像や、意図的に切り取られた表現に慣れきっているせいで、私たちは、真実を理解しようとする意欲まで奪われているかもしれないのだ。

「ユリイカ」の中では、死や狂気や暴力が、ちっとも本物っぽく見えない(そのことを最初は不満に感じたほどだ)。モノクロであるために、血のようなものが出ても冷静に正視できるし、センセーショナルに感情を煽られることもない。この映画では、大切なものや、より際立たせたい部分を集中的に伝えるために、あえて情報量を抑えたモノクロという表現形式が選ばれたのだという気がする(最後にカラー画面が効果的に使われるが、その必要さえなかったと思う)。

新聞をにぎわすような大事件が起こるのに、画面は一貫して静かだ。事件の渦中にあっても、当事者の日常というものは、それほど騒がしいものではないのだろう。そのことが淡々と描かれていく。

主要人物は、バスジャック事件で「生き残ってしまった人々」。自分のバスで被害者を出してしまった運転手と、事件の二次被害によって家族を壊されてしまった兄と妹。悪人でもなく、ヒーローでもなく、直接的な被害者ですらない中途半端な3人だ。この映画は、そんな地味で中途半端な人生に光をあてた。その視点が、限りなくやさしい。ドラマチックでありえない3人は、淡々とむしばまれ、だからこそ淡々と回復していくしかない。

この映画で唯一リアルなのは、九州の風景と言葉だ。これらに圧倒的な敬意が払われており、物語は二次的なものとすらいえる。自然に対する謙虚さから、説得力が生まれ、その結果、3時間37分という必然的な長さが生まれた。ロードムービーの王道だと思う。

カンヌ国際映画祭国際批評家連盟賞受賞/ロードショー上映中

2001-02-19

『溺れる魚』 堤幸彦(監督) /

クボヅカくんの、時代

窪塚洋介が、キムタク以来といっていいほどのブームになっている。野島伸司脚本のドラマ「ストロベリー・オンザ・ショートケーキ」(金曜夜10時からTBSで放映中)の彼は、とりわけすごい。何がすごいのか? 窪塚くんがセリフを言うと、それは実在の言葉となる。窪塚くんが誰かを見つめると、それは実在の恋愛になる。

彼の魅力って一体なんだろう? セクシーにして清純、野島的デカダンスの最高の体現者であることは確かだと思うけど・・・・・ドラマの初回から、彼のことが気になって気になって気になって仕方なかった。

あまりにも気になったので、映画「溺れる魚」を見た。窪塚ブームの走りとなったドラマ「池袋ウエストゲートパーク」の堤幸彦監督による映画である。浅田彰氏は、2月13日付の「i-critique」(iモードサイト内のコラム)の中でこの映画の窪塚くんをこう評している。「ここまでヘナヘナな人間というのは世界的に見て新しいのではないかとすら思わせる、これはやはり監督の腕の差だろう」。

窪塚くんは、確かにヘナヘナだった。女装趣味でマゾの巡査という役柄であるからして、「ストロベリー・オンザ・ショートケーキ」のような正統派の恋愛シーンはない。要するにまったく違うキャラクター。だけど、スクリーンの中の窪塚くんは、やっぱり実在の人間なのだった。

「・・・・・この映画が繰り広げる、徹底して深みを欠いた混沌は、これこそ現代の日本そのものなのかもしれないと思わせる」と浅田彰氏は書いているが、窪塚くんの存在こそ、現代の日本なのだと思った。今っぽい気分を象徴する無数のアイテムや、超いい加減なセリフに満ちたはちゃめちゃな映画。その中心に窪塚くんがヘナヘナと立っている。ヘナヘナとは、言い換えれば、男女を超え、主義を超え、現実とフィクションを超え、その場の役になり切るしなやかさ。現代を生き抜くために必須の武器だろう。

ずっとこのままでいるのは、さすがにマズイのかもしれないけど、少なくとも今はこれしかないだろうっていう、そんな感じ。とりあえず、窪塚くんの時代なのだ。

*ロードショー上映中

2002-02-14

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『ダンサー・イン・ザ・ダーク』 ラース・フォン・トリアー(監督) /

逃避としてのミュージカル映画

「説得力のあるミュージカル映画」である。ドキュメンタリー的なシーンと、つくりこんだミュージカルシーンの対比が印象的。ビヨーク演じる主人公は、ちょっとした物音に反応し、それは空想の中で音楽となり、やがて皆が踊り出す…….ミュージカルは、つらい状況にある彼女にとって「もうひとつの現実への逃避」なのである。そこでは皆がいい人になり、悲惨なシーンを補うような形で互いに許し合う。ミュージカルとは、絶望的な現実の中での自在な想像力なのだ、とこの映画は教えてくれる。

手持ちカメラによる日常シーンにはわくわくするし、いくつかのミュージカルシーンにもぞくぞくする。機械の音、風の音、列車の音がリズムを刻みはじめ、音楽になっていくプロセスは最もシンパシーを感じる部分だ。しかし、物語は次第にドラマチックになり、説明的な過剰表現へとエスカレートしていく。

60年代アメリカの片田舎。そこに移民してきた東欧の女(ビヨーク)は、失明寸前にもかかわらず、女手ひとつで息子を育て、危険な工場での昼勤と夜勤に加えて内職までこなし、トレーラーハウスに住む。眼の病が遺伝することがわかっていながら息子を産んでしまった彼女としては、彼の失明だけはなんとしても食い止めなければならない。だが、息子の手術のために貯めたお金は、秘密を共有した男友達に盗まれ、彼女は男友達を殺す「はめ」になる。裁判では息子のため(今、息子に眼のことを知らせると精神的ダメージにより手術は成功しないのだそうだ!!)、そして男友達との約束のため(彼女は息子思いなだけでなく、根本的にけなげなのだ!!)、真実を語らない…….。

これって、美しい話だろうか? 都合よくつくりすぎな感じは、まさにおとぎ話だ。「失明の部分は、別の作品に影響され、あとから加えた」というような監督のインタビューを読み、ますますそう思った。不治の病というのは、そんなふうにあとから軽々しくつけ加えるべきテーマではないのでは?と私は思う。

裁判における類型的な図式もすごい。移民である彼女は、エリートである男友達との対比において圧倒的に不利であり、観客は「弱くて正しい者の悲劇」に涙せざるを得ない….。ところが、飛行機恐怖症の監督は、裁判の国でありミュージカル発祥の国でもあるアメリカに一度も行ったことがないそうで、ロケはすべてヨーロッパでおこなわれた….。要は、この映画のすべてがセンチメンタルな幻想なのだという気がした。彼女がミュージカルに逃避するのと同様に、映画自体もまた、幻想の世界に逃げている。

好意的に解釈するなら、20世紀を総括する映画としてふさわしい懐かしさと力強さに満ちている。よくも悪くも「大作」なのだ。さまざまな名作のオマージュ的なシーンが楽しめるし、ミュージカルの意味を問い直す批評的視線は新しい。ビヨークの曲、歌詞、表情、動きは才気にあふれ、脇役としてのカトリーヌ・ドヌーブも、ただものではない演技を見せてくれる。

*ロードショー公開中(2000年 デンマーク映画)

2001-01-06

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