MOVIE

『カンダハール』 モフセン・マフマルバフ(監督) /

答えのない真実。

イランの映画監督モフセン・マフマルバフの最新作「カンダハール」は、「東京フィルメックス」の特別招待作品として11月19日に上映された。

5月のカンヌ国際映画祭では、カトリックとプロテスタントの映画批評家が選出するエキュメニック賞(全キリスト協会賞)を受賞。だが、今回の上映会場が取材陣やカメラでごった返すほど熱気に包まれた理由は、たまたま米国で同時多発テロ事件が起き、アフガニスタンへの報復攻撃が開始されて以来、この地名が流行語のように私たちの口から発せられるようになったからだろう。

ここ数日、アフガニスタンは大きく動いている。タリバーンが撤退したカブールでは5年ぶりにテレビ放送や映画上映が再開され、カンダハルの明け渡しも時間の問題という。そんな激動のさなか、一人の監督の目を通した「米国の空爆以前のアフガニスタン」はどんな意味をもつのか。

主役は、カナダに亡命したアフガン人女性ナファス。彼女は、カンダハルに残した妹から自殺をほのめかす手紙を受け取ったことから、新月(自殺予告の日)までに何とかして故郷に帰ろうとイランからアフガニスタンに入る。ナファス役を演じた女性ジャーナリストの体験にもとづく物語だ。彼女は当初、自分の足跡のドキュメンタリー化を希望したが、危険なため実現せず、フィクションとしてこの映画が完成した。確かに、かなり作り込んだ映像である印象は強い。むきだしの義足がパラシュートで次々と落ちてくる光景や、女たちがマニキュアを塗りあい、カラフルなブルカの下でコンパクトを開いて化粧する姿などは、絵になりすぎている!

それでもこの映画が、ある真実を確実に伝えていると断言できる理由は、人間の描き方が一面的でないからだ。

信用できるかできないかを瞬時に見分ける癖のついた子供の目を「可愛い」と片づけることなどできないし、危険を回避するため、金を得るため、当たり前のようにつかれる嘘を「悪いこと」とはとても思えない。切実な思いでイランからアフガニスタンへの旅を続けるナファスもまた、信用されたい相手にはブルカから堂々と顔を出し、身を守るためのぎりぎりの嘘をつきながら、正解のない日々を生きのびる。

地雷のよけかたを親身に教える女学校や、戦闘知識や身体を激しくゆすりながらコーランを音読する作法を叩き込む神学校のシーンはリアル。1か月待たされるのが普通という義足センターでは、地雷の被害者たちが足の先端を見せながら「痛くて夜も眠れない」「このままでは腐ってしまう」と訴える。目に痛い映像の連続だ。

ただし、痛いだけではない。妻のために持ち帰る義足に新婚旅行の時のサンダルを履かせ、サイズと美観を点検する男の姿は微笑ましいし、金のためにナファスのガイド役を引き受ける少年は、信用できない子供として描かれながらも、彼女にとって忘れがたい存在であったことが強調される。人を疑うことと信じること。悲しみと喜び。ひとつの状況の中に相反する概念が共存しうるのだと、この映画は言っている。

映画は、ナファスがカンダハルに到着する前に終わる。緊張感の中で坦々と旅は続くのだ。
この物語は現実につながっており、現実にも決して終わりがないことを思い知らされる。

*2001年 イラン=フランス映画
*イタリア、フランス、カナダで公開。イギリスでも公開決定。日本では2002年、シネカノンで公開予定。
*ブッシュ大統領の要望により英語字幕をつけてホワイトハウスに空輸。

2001-11-22

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『GO』 金城一紀(原作)/行定勲(監督) / 講談社

たたかうベッドシーン。

ロミオとジュリエットから始まり、クリスマスで終わる小説。

民族学校から日本の高校へ進んだ著者を救ったのは、難解な思想書ではなくエンターテインメントだったそう。クリスマスのシーンで終わる在日文学なんて前代未聞だから、どうしてもやりたかったんだってさ。それは、苛酷な現実に立脚したぎりぎりの「だささ」であり「かっこよさ」であり「面白さ」でもある。ここまでエンターテインメントの意味を突き詰めた作品は、純文学と呼ぶべきかも。

映画化された「GO」にも、そんなぎりぎりのバランスが貫かれている。在日韓国人の抱える問題を扱いながらもディープになりすぎず、30代のスタッフの感覚が自然に表現されていた。時間軸を再構成した脚本のセンスは素晴らしく、キャスティングも的確。窪塚洋介は、ヒネクレ者でありながらロマンチストな発展途上の男、杉原に息を吹き込んだ。スタッフもキャストも皆、原作に惚れているのだとわかる。

男の子がまともな反抗期すらもてなくなっている今、山崎努が熱演する最強の父親像は魅力的だし、きちんと人と向き合い、距離を測り、自己紹介し、それでもわかんない奴は殴るというコミュニケーションの古典的作法も新鮮。村上龍の「最後の家族」でひきこもりの長男の暴力が迫力に欠けるのは、戦う相手や打ち破るべき枠が見えにくいからだ。あの家族が現代の主流だとすれば、マイノリティを描いた「GO」は圧倒的にかっこいい。杉原の友人のセリフは、多数派の情けなさを代弁しているといえるだろう。
「これでけっこう大変なんだぜ、日本人でいることも」

無敵の杉原も、桜井(柴咲コウ)と出会うことで何かが狂う。失いたくない女の出現によって、男は初めて臆病になるのだ。だが、全身でぶつからなければ恋愛は進まない。それは、いつもバトルなのだと私は思う。重要なのは一線を超えることではなく、ぶつかること。異質な者どうしが理解しあうには、そうするしかないわけで。

「GO」のベッドシーンは、とても美しい。杉原は、桜井と一線を超える前に国籍を打ち明けるのだ。私は、村上龍の最高傑作「コインロッカー・ベイビーズ」の最も美しいシーンを思い出した。それはキクとアネモネが初めて結ばれた後の描写。

「服を着終わったキクは、帰る、と小さな声で言った。アネモネは喉が引きつった。どうしたらいいのかわからなかったが嘘だけはつくまいと決めた。行っちゃだめ、キク、ここにいて、行っちゃだめ。キクは立ったまま、俺は、と言って言葉を呑み込んだ。深呼吸をしながら窓際まで歩いた。『俺は、』カーテンを開けてもう一度言った。(中略)俺は、コインロッカーで生まれたんだよ、でも、俺は、お前が好きだ、お前みたいなきれいな女は―、アネモネはキクの唇を指で塞いだ。何も言わなくていい、と囁いた。肩に手をかけて背伸びし頬を合わせる。濡れたアネモネの髪の先から水の粒が落ちて鳥肌の立った背中で割れた」

「コインロッカー・ベイビーズ」も「GO」も、システムへの憎悪と破壊へのエネルギーをもてあます男の子の成長物語だが、2つの作品の間には20年の隔たりがある。キク(肉体性)とハシ(精神性)の両方を備えた現代のヒーローである杉原は、だから、彼女を手に入れる前に国籍を告白し、こう言われてしまう。

「どうしてこれまで黙ってたの? たいしたことじゃないと思ってたら、話せたはずじゃない(中略)ひどいよ、急にあんなこと言い出して、こんな風にしちゃうなんて」

女の子の、切実な気持ちが現れたセリフだと思う。
でも、2人は終わらない。本戦はクリスマスに始まるのだ。

2001-11-14

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『エスター・カーン めざめの時』 アルノー・デプレシャン(監督) /

シンデレラ・ストーリーの嘘。

見たくないものを見せつけられる2時間25分。
殻に閉じこもった女が、それを打ち破るって、こんなにも大変なことなの?

ロンドンのユダヤ人街で育ったエスター・カーン(サマー・フェニックス:故リバー・フェニックスの妹)は、家族の中でも浮いてしまうほど内気で頑固で可愛げのない少女。理想の高い彼女は、やがて芝居に触発され、女優をめざすことになる。

もっとも女優に向いていないタイプの女が、女優に開眼するという話。それは怨念といってもいい。老優から演技指導を受け、「君には何かが欠けている。恋をしろ」といわれた彼女が、演劇評論家の男を選び、処女を失うくだりの不器用さには、不幸を超えた凄みがある。自分で相手を選び、自分で望んだできごとなのに、そこには恋愛の楽しさなんて微塵も感じられないのだから。貧しい家庭に育ち、満足に教育を受けていない彼女の野性は衝撃的。私たちはふだん、周囲の人々に愛され、美しく社交的に育った女性たちを見慣れすぎているのだろう。

エスター・カーンは、演劇評論家に別の女ができることから嫉妬に狂い、周囲に迷惑をかけまくる。それはほとんど「困ったちゃん状態」で、「手におえない嫉妬やわがままが許されるのは、明るくて魅力的な女だけじゃなかったっけ?」といいたくもなってしまう。恋愛の本当の楽しさ以前に、本当の苦しさを知ってしまった彼女は、自分の顔を何度も殴りつける。この凄まじい自傷シーンは、本来なら封印されるべきものだ。

こんな映画は、一人で見にいくしかないじゃない? 少なくとも、私は誰も誘えない。暗いし長いし悲惨だし。それでも、これを今、日本で見ることのできる幸福を強く感じた。

口当たりのよい物語や、興味本位の映像の断片に慣れきった目には、一人の監督の思いが注入された陰鬱な映画が安らぎと映り、灰色に閉ざされたイーストエンド・ロンドンの古い街並みや寒々した気候さえもが心を浄化してくれるのだろうか。この作品は、現実逃避のためのエンターテインメントでもなく、どこかの国のPR映画でもない。

エスター・カーンは結局、真の女優となることに成功するのだが、この結末はハッピーエンドですらない。単なる可愛げのない少女が、今後は、単なる屈折した女優になっていくことを予感させるのみだ。ちまたにあふれるシンデレラストーリーの、なんと表面的であることか。どんな物語も、人の醜さを本質的に変えることはないのである。

自己表現の手段を獲得することで苦しみが軽減されるなんて幻想だし、軽減されることがないからこそ、彼女はずっと女優でいられるのだろう。それは、表現や職業への逆説的な希望でもある。彼女は、これまでと同じように、一生、醜い人生を送るにちがいない。不器用に男に体当たりし、自分を殴り、共演者に迷惑をかける。でも、それでいいのだ。 私は表面的な希望の物語が嫌い。この映画は好きだ。

*2000年 仏・英合作
*東京(11/9まで)愛知(11/23~)大阪(11/24~)札幌(12/1~)

2001-11-06

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『路地へ 中上健次の残したフィルム』 青山真治(監督) /

言葉より前に、風景がある。

ユーロスペースの狭いロビーの隅に、エキゾチックな雰囲気の女性が佇んでいる。中上健次の長女で、作家の中上紀だとすぐに気づいた。「路地へ」の上映後、彼女と堀江敏幸のトークショーがおこなわれるという。ラッキー。

地味な印象の男(紀州出身の映像作家、井土紀州)が運転する地味な印象の国産車。その後部座席から撮った映像が延々と続き、ただひたすらクルマが走るだけで、十分に面白い映画ができるんだなってことがわかる。ダム工事だけを撮ったゴダールの「コンクリート作戦」もそうだけど、まさに映画の原点。「路地へ」の場合、あとから音楽をつけていたのがちょっと残念。エンジン音のみのほうが気分が盛り上がったのに。

ほぼ同様のルートを走ったことがあるので、映像による追体験はとても楽しかった。中上紀によると、父親の生前、毎年家族で帰省していたのと全く同じルートだという。

クルマを降りた井土紀州は、中上健次の小説の断片をさまざまな場所で朗読する(中上紀は、紀州弁の朗読を素晴らしいと誉めた)。 そして、ときおり挿入される色の濃い映像が「中上健次の残したフィルム」だ。かつての路地の輪郭は、井土紀州が立つ現代の白っぽく抜けのある風景とは対照的で、被差別部落と呼ばれた場所が本当に失われてしまったのだということが伝わってくる。

中上健次は、空をほとんど撮らず、路地の隅々を記録している。そこに宿っているもの、たまっているものを捉えようとする強烈な意志。人間は、自分がいま生きていることを実感したい時には空を見るが、確かに自分がそこにいたのだという事実を記憶にとどめたい時には地面の隅っこを凝視するのではないか ― そんなことを考えた。駄菓子屋、トラック、蓋をされた井戸、おしゃべりなおばあさん、自転車に乗る子供、カラフルな傘をさす人、干してある布団・・・そこに映る汚れや淀みのようなものまでが美しく見える。

「そのアホな人から始まった路地が、道の鬱血のようなところだったと思った。鬱血した道であろうと、太い流れのよい動脈であろうと、道である事に変りはない。道の果てはどうなっているのだろうかと考えた」(「日輪の翼」より)

ラストシーンの海を見て、「海へ」という初期の短編を読み直してみようと思った。吐き気に耐えながら海辺の城下町のバスにゆられ、途中で降り、海へと歩き、海と一体化する話。意味よりも映像がくっきりと浮かんだ。映画を観たせいだろう。

「言葉(それは禁句だった)が口唇の先で映像に還元される」 (「海へ」より)

トークショーでは、岐阜が故郷だという堀江敏幸がチャーミングな感想を述べ、それに呼応する形で、中上紀が、トンネルや橋にさしかかる時には必ず皆が興奮して大騒ぎになったという家族のエピソードなどを披露してくれた。彼女は、そこを通るたびに自分がゼロになって生まれ変わるような気がしたそうで、映画にはその辺がちゃんと表現されているという。ある作家をテーマにした作品の細部が、彼の娘によって、ひとつひとつ承認されていく。まるで映画に生命が吹き込まれるみたいに。

父のおもかげを残しながらも、まったく別の時代の、別の空間を、別の感覚で生きているように見える彼女が、「自分の中に既にある幼いころの記憶の意味がわかってきた」というようなことを言い、やわらかく微笑んだ。これは、一人の女性に認められた幸福な映画だ。

*東京・渋谷 ユーロスペースでレイトショー上映中(64分)

2001-08-30

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『レクイエム・フォー・ドリーム』 ダーレン・アロノフスキー(監督) /

恋愛は、クスリより輝けるか?

いい映画は、体に刻まれた記憶のようだ。
まるで自分の体験みたいに、懐かしく思い返すことができる。

「レクイエム・フォー・ドリーム」を見終わった後、頭が痛くなった。ヒップホップ・モンタージュと名づけられた神経症的な薬物使用シーンが何度も繰り返されるせいか、自分までヤク中にさせられちゃったような気分になるのだ。

主人公のハリー(ジャレッド・レト)と、彼の恋人マリオン(ジェニファー・コネリ)、彼の母親サラ(エレン・バースティン)、彼の友人タイロン(マーロン・ウェイアンズ)の4人が際限なく墜ちていく様子が描かれる。クスリに依存すれば、ここまで悲惨なことになるのだということを徹底して追及した作品。彼らが依存しているのは表面上はクスリだが、実は愛情だったりするものだから、その根は深い。

図らずも、数日後に私が思い返したのは、美しいシーンばかりだった。ストーリーの枠組みを超える俳優たちの存在は大きい。彼らは苦しみ、狂気に陥り、本当にやつれたりするが、それでもなお魅力的だ。最もインパクトのあるのは後半の母親で、最も身につまされるのは、ごく普通の恋人どうしである前半のハリーとマリオン。恋愛は退屈な日常をドラスチックに変え、しらふの2人を昂揚させる。一緒にいれば何とかなるんじゃないかという甘い期待に依存しあう無力な2人。恋愛の初期スパートは、それだけで薬物と同様の効果をもつのだ。

それでは、恋愛の純粋な昂揚感は、一体いつ失われるのだろう。相手を知り、慣れ親しむことがなぜ、エゴをむきだしにしたり嘘をついたり倦怠を感じたりすることにつながるのだろう。どこで何が狂うのか。

そんな不安を先延ばしにしてくれるのがクスリだ。永遠に続くかと思われる昂揚感。全能感。幻覚。幻聴。それは、自分の限界を認めることへのささやかな抵抗であり、普通だったらあきらめるような事柄に根拠のない自信を抱くための手段である。しかし、ダメなものはダメで、かような恋愛はいずれ破綻へと向かうはずなのだが、この映画は、恋愛のラスト・スパートとでもいうべき可能性の片鱗を見せてくれる。

ハリーからの最後の長距離電話に「今日、帰ってきて」というマリオン。「きっと帰る」とこたえるハリー。2人とも、無理だとわかっているのに交わすウソの会話。だが、2人の言葉は圧倒的に真実だ。だって、恋愛において重要なのは、今すぐ会う、ということに尽きるのだもの。たとえ会えなくても、そういうシンプルな気持ちを表現すること。それ以外に恋人どうしが伝え合うべきことなんてあるのだろうか?

もちろんハリーは帰れず、2人はさらなる地獄を見ることになるのだけれど、魂を射貫くような電話のシーンのおかげで、彼らはこのままでは終わらない、と信じたくなった。

*2000年アメリカ映画/北海道・東京・愛知・京都・兵庫・広島・福岡で上映中

2001-08-17

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