2人を同時に好きになったら、真実は別のところにある。
情熱あるいはキリストの受難という意味をもつ「パッション」は、この映画の中で製作されるビデオ映画のタイトルでもある。出資者はイタリア人で、監督はポーランド人。レンブラントの「夜警」、ゴヤの「裸のマハ」、アングルの「小浴女」などの名画が、凝った衣装とモデルたちの動きによって再現される。だが「本物の光と物語」が見つからないため、撮影は進まない。
監督は、近くの工場でエキストラを探し、工場長の姪を裸にしちゃったり、不倫相手の工場長夫人(ハンナ・シグラ)を主役に抜擢しちゃったり、リストラされた女工(イザベル・ユペール)と二股かけちゃったりする。2人の女を昼と夜にたとえ、その中間に映画の主題を求めようとしたりもする。昼と夜は、経営者と労働者、昼の産業(工場)と夜の産業(映画)などのメタファーでもあるようだが、監督は撮影現場に行かず、女の髪を撫でながら「労働と愛は似ている」などとつぶやくのだから、しょうもないスケベ野郎だ。
「パッション」を見て思い出した映画が2つある。
1つめはパゾリーニの「リコッタ」(1963イタリア)。
オーソン・ウェールズ演じる映画監督が、キリストの受難を描いた宗教画を映像化する。キリストと共に十字架に張り付けられるエキストラの男は、昼食を食べ損ね、ようやく手に入れたリコッタ・チーズを食べ過ぎて本当に十字架の上で死んでしまう。つまり宗教画を演じながら、現実的な理由で死んでしまうというパロディで、ほかにも娼婦がマリア役を演じたりしていたことから、パゾリーニはカトリックを侮辱した罪に問われた。
2つめがキェシロフスキの「アマチュア」(1979ポーランド)。
工場のドキュメンタリーフィルムを撮り始めた工員は、アマチュア映画祭で入賞するまでになるが、映画のせいで仕事や家庭が破綻していく。彼は、ありのままを撮ることの困難をどう克服するか?共産党政権下、孤高のラストシーンで答えを出したキェシロフスキは、この作品でモスクワ映画祭グランプリを受賞した。
どちらの作品も、映画の原点というべき突き抜けた強さと面白さがあるが、ゴダールの「パッション」はその点、中途半端。工場経営はうまくいかず、ビデオ映画制作もうまくいかず、工場長夫人は恋敵の女工を伴い、監督はさらに別の女を誘い、彼らを乗せた2台の日本車は、別々に戒厳令下のポーランドへ旅立つのだ。なんと無責任で軽薄なエンディング!そんな突き抜けたチープさにも、やっぱり私は痺れてしまう。
「パッション」にはこんな会話が出てくる。
娘「どうして、ものには輪郭があるの?」
父「輪郭なんてないさ」
2人の女、昼と夜、労働と愛、絵画と映画、音楽と映画…異なる概念を自在に取り込み、揺れ動きながら、そのどちらでもない、まったく別の新しい真実を求めればいい。ゴダールがやっているのは、そういうことだ。輪郭を外し、映画らしくない映画を撮ること。映像とセリフは噛みあわず、クラシックの名曲はズタズタにされ、耳ざわりなクラクションやハーモニカが映画の邪魔をする。
歳をとるとは、輪郭を濃くすることかもしれない。生活を固め、社会的地位を固め、他者を威圧し、しかるべきものを残そうとする。ただし、そんな生き方をお手本として押し付けられるのは、ちょっとつらい。
過剰な荷物はいつでも捨てて、何の心の準備もないまま、さっとクルマに乗ってどこかへ行ってしまう。そんな輪郭の不確かな生き方を、忘れたくないと思う。
*1982年スイス=仏映画
*渋谷シネ・アミューズでレイトショー上映中
2002-08-19