MOVIE

『世界の中心で、愛をさけぶ』 片山恭一(原作)・行定勲(監督) /

映画化という仕事。

はじめに原作を読んだ。
ヒロインのアキが死ぬことは最初からわかっていて、そのことが随所で強調される。朔太郎は、アキに恋する日々の中で突然「どんなに長く生きても、いま以上の幸福は望めない」という「恐ろしい確信」にとらわれてしまう。あまりにもベタな伏線。

が、その後アキが入院し、朔太郎が彼女の自宅に侵入するシーンの鮮やかさといったら。
「自分がすでに彼女を失い、遺品をあらためるために、この部屋に足を踏み入れたような錯覚にとらわれていた。それは奇怪で生々しい錯覚だった。まるで未来を追憶しているようだった」

映画では外されたこのシーンで、小説のテーマが「未来への追憶」そのものであることがわかる。好きになった瞬間に、失うことを恐れなければいけない繊細な季節の物語。アバウトな大人になる前の、理屈っぽく悲観的な思春期の…。

大人になってしまったら「失われた過去」を追憶しても前へ進めない。自分の過去も誰かの過去も、自然に受け入れればいい。それが人を好きになるということだ。現実を太く生きるために。失うことを恐れずにすむように。

2人の現実離れした会話は、小説ならではの気恥ずかしさに満ちているが、映画ではもう少し普通の会話になっており、長澤まさみと森山未來が軽やかに普遍化してみせる。小説には小説の、映画には映画のよさが生きていて、幸福に共存しているのだ。片山恭一いわく「小説のなかで描かれているシーンと、小説にはない映画独自のシーンとが相互に補い合う感じで、決してぶつかっておらず理想的でした」

ウォークマンでカセットテープを聞く柴咲コウがアップになり、彼女の目の色が変化し、涙がひとすじ落ちる。まるでCFみたいなオープニングの表情が、私を釘付けにした。これが女優だ、と思った。限られたシーンで彼女は圧倒的な存在感を見せるのだ。「GO」に引き続き、山崎努の演技もすごかった。どうしてこんなに面白い人物造詣ができるのだろう。

大人になった朔太郎(大沢たかお)が暗い街を走り、その姿が彼に良く似た少年(森山未來)に変わり、高校時代のまぶしい四国の町につながる。クルマなんかなくても、ある風景を駆け抜ければ、映画はロードムービーになる。過去の明るさと現在の暗さの対比、それだけでこの映画は成功している。

いい原作だから、いい肉づけができるのだろうか。俳優の解釈が冴え、表情や走りに凄みが出る。スタッフのリアルが積み重なり、よりピュアなものになる。
映画が面白くなるか、つまらなくなるかの分かれ道について考えた。この映画を見る前に、大好きな監督の、ものすごくつまらない作品をDVDで見てしまったからだ。原作はなく、キャスティングも悪かった。監督の個人的な観念が空回りしていた。

観念を描写に変換し、描写に愛を注ぐ。原作の映画化とは、そういうことだ。何かを何かに変換して納品するのがあらゆる仕事の本質なのだとしたら、自分もそんなふうに仕事をしたいなと思った。右から左へ納品するのではなく、勝手に壊して納品するのでもなく、愛と必然性に基づいた職人的な加工をして納品する。まったく別物でありながら、左右がつながるような。1+1が2以上になるような。

柴咲コウは、原作を泣きながら一気に読み、それがダ・ヴィンチで紹介された。編集担当者はそれを知り、彼女の言葉を小説の帯コピーに使った。行定監督は、原作を愛している女優に頼もうという気持ちで彼女をキャスティングした。まさに愛の連鎖!

女子高生たちが「この映画、まじやばいよ」と言いながら泣いていた。私もそう思う。ウォータープルーフのマスカラでよかった。

2004-06-20

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『幸せになるためのイタリア語講座』 ロネ・シェルフィグ(監督) /

「不自由な映画」と「自由な写真」。

年齢を重ねても不器用な人は多い。この映画は、そんな生き方にスポットを当てた。かっこいいとこなんてないし、夢のようなことも起こらない。6人の男女が織り成すダサダサの恋愛映画。

とりわけ不器用なのが、パン屋で働いているのに何度もパンをひっくり返し、いつも髪が乱れていたりスカートがめくれていたりする問題解決能力のない女オリンピア。とても他人ごととは思えず痛い! 不器用な人をなめるんじゃないわよ、と言いたいところだが、映画の撮り方自体も不器用なので、まあいいかって感じ。

不器用な人がこの映画を見ても救われないし解放感もない。ベネチアまで行ってもロードムービー感すら漂わない。彼らが仲間とだけコミュニケーションしているからだ。牧師が「僕にはもう必要ない」とかいってマセラッティを手放すってのも、あまりに紋切り型。

この映画全体を貫く不自由さの理由は、ラース・フォントリアーを中心としたデンマークの4人の監督たちによる「ドグマ」のルールに従っているからかもしれない。許されているのは手持ちカメラを使ったロケーション撮影のみ。小道具やセットを持ち込んではならず、背景以外の音楽を使ってはならず、カラーでなければならず、人工照明は禁止。殺人や武器の使用、表面的なアクションも禁止…一体、何のためにこんな制約を? 1ミリも理解できない。

私は、この映画を見るために新宿へ行ったわけだが、photographers’galleryで開かれていた蔵真墨の写真展とセットにしたのは正解だった。

蔵真墨の写真は私だ―多くの人がそう感じると思う。女子高生やらビジネスマンやらおばさんやらおっさんやら多様な人物が写っているのに、圧倒的なシンパシーへと導かれる。美しいものを美しいとくくらず、不器用な人間を不器用とくくらないクールな客観性。ステレオタイプからの限りない自由。そこから生まれるエッジイな笑い。人+場所+瞬間の吸引力。それは、デンマークとイタリアで撮影された映画にすら欠けていたロードムービー感だと思う。

こういう写真は、偶然には撮れないはず。「普通の人」のキャスティングのセンスが素晴らしすぎるし、ほとんど正面から撮ってるし。一体どうやって仕込んでいるんだろう? それだけが知りたかった。だから、ギャラリーの事務所にいたフェミニンな女性が本人であることを知り、私は歓喜した。彼女の写真はなんと偶然の産物なのだそう。「いろいろ問題もあるんですけど」とミステリアスに微笑む彼女。ああ、それらの問題がいかなるものであってもオッケーです、あなたなら。

蔵真墨さんの写真に出会った「Photographers’gallery press」(No.3 1,600)は、仕事柄「コマーシャル・フォト」ばかり見ている私にとって、久々にエキサイティングなアート写真雑誌だった。

たとえば、小津安二郎が1937年に撮った静物写真の強さ。

たとえば、六本木の地下鉄の階段を上がったら目の前に交通安全ポスターがあり「おっとという感じでインパクトを受けて、よしこれ撮っちゃおう」というノリで森山大道が撮った「アクシデント」シリーズ(1969)が、他人の写真を勝手に撮って卑怯だとか、汚いとか、そういうことでいいのかなどと言われたというエピソード。

たとえば、肺がんに侵された肺と正常な肺を並べてあるような脅迫的な写真の場合、どちらがきれいかは趣味の問題であって「ただれた肺をきれいだとかバロック的な肺だとか言ってもいいんじゃないか」というようなことを主張する島田雅彦

真実に肉薄しようとするカメラマンを揶揄したしりあがり寿のマンガ「キャメラマン・シャッ太」も秀逸!

2004-05-29

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『永遠(とわ)の語らい』 マノエル・ド・オリヴェイラ(監督) /

セレブな映画には、何が欠落してる?

コンサバ系女性誌の言葉使いはおもしろい。
コスメ、ファンデ、ワンピ、アクセ、ローテ、リュクス、ミューズ、セレブ…

95才のマノエル・ド・オリヴェイラ監督が、昨年は、西洋文明をテーマに95分のセレブな映画を撮った。来日した監督は、生きていれば100歳になる小津安次郎の墓参りをしたという。小津監督なら、今年どんな映画を撮っただろう。日本やアジアの登場しないこの映画を観ながら、そんなことを思った。

ポルトガル人のローザは、7才の娘を連れ、地中海を巡る船旅をする。フランス、イタリア、ギリシャ、エジプト、トルコ…。最終的にはインドでシフトを交代するパイロットの夫と落ち合い、3人でヴァカンスを過ごす予定である。あえて船旅を選んだ理由は、本でしか見たことのない歴史を確かめるため。ローザはリスボン大学の歴史教授だから、娘の質問にも完璧に答える。観客にとっても有益で楽しい旅だ。

この船には、知性、経済力、美貌、知名度というセレブの条件を完璧に備えた3人の女性が乗船している。フランスの実業家(byカトリーヌ・ドヌーヴ)、ギリシャの大女優(byイレーナ・パパス)、イタリアの元モデル(byステファニア・サンドレッリ)という面々。ホストである船長(byジョン・マルコヴィッチ)を囲み夕食をとる彼女たちは、それぞれの国の言葉を話すが、何の問題もなく通じ合える。まさに、理想のコスモポリタニズムを体現したテーブルなのだ。が、彼女たちの会話が豊かであればあるほど「そこにないもの」が次第に際立つ。

ローザと娘がテーブルに招待されることで、それは明らかになる。ローザは他の3人に比べると若く無名だが、知性と経済力と美貌を備えているため船長にデッキでナンパされ、無理やりテーブルに迎えられるのだ。

表面的にはまず、セレブたちに欠落している「夫と可愛い娘」の存在が強調されるが、本当に欠落しているのは、もっと決定的なものだった。そのことを暗示するのが、船長が娘にプレゼントする人形。つまり、あとから加わった3人の女(ローザ、娘、人形)が、既存の3人の欠落を浮き彫りにするのである。すべての舵を握るのは、ポーランド系アメリカ人である唯一の男、船長だ。

オリヴェイラ監督は言う。
「映画を撮っていく上で一番難しいのはシンプルさをどう出していくかということです。これはいろいろなことを言いたい時に、長い文書を書くのは簡単でも、ほんの短い文章のなかで伝えるのは難しいのと同じです…現代は、いろいろなことが盛りだくさんになっていてスペクタルの様なものの方が、観客を惹き付けているような傾向にありますが、こういった類の映画はドラッグのようなものではないかと思っています」

「派手な作品であれば人は振り向きますが、それらには、実は魅力もなければ深さもありません。観客はおそらくそのようなものに値しない。観客とはもっとすばらしいものに値すると思うのです。私の映画が、観客に何かそれ以上のものを伝えられるものであって欲しいですし、そして、そこでまた観客が、それぞれのアイディアや考えを付け加えていけるような作品でありたい。その時に観客は、受け身ではなく能動的な主体となりうるのですから」

タイタニックを観たすべての10代にこの映画を観てもらい、どっちが面白いか訊いてみたくなった。なぜなら映画館のロビーは年配の観客であふれ、まさに豪華客船のデッキのようだったから。

この映画にもっとも欠落しているのは、若い観客である。
モードなガールにマストなシネマ!

*2003年 ポルトガル=フランス=イタリア合作

2004-05-11

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『ヴァンダの部屋』 ペドロ・コスタ(監督) /

汚い部屋でヘロヘロになる3時間。

ポルトガル・リスボンのスラム街。そこに住む人々の暮らしをそのまま撮ったという感じの映画だ。ヴァンダというヒロインの部屋のシーンがいちばん多いが、最初、私はヴァンダを男だと思った。声もしゃべり方もしぐさも着こなしも、女とは思えなかったのだ。

個人的な信頼関係なしに、プライベートな空間をここまで密着撮影することは不可能だろう。自室でのヴァンダは片時も麻薬を手放さず、ヤク中であることは疑う余地がない。妹と一緒にいることも多く、男が訪ねてくることもあるけれど、ほとんど布団から動こうとしないヴァンダは、ライターでアルミホイルを焙る手先だけが妙に注意深く、その行為ばかりが不毛に繰り返される。ちょっとヤバイんじゃないのお?って誰もが思うような変な咳をして、布団の上にゲーって吐いたりするヴァンダを見ていると、お願いだからその布団を今すぐ洗ってくれ!と言いたくなる。

セクシュアリティすら削ぎ落とされたかのように見えるジャンキー女の部屋を、固定カメラで延々と撮る意味があるんだろうか? ヴァンダの部屋を一歩出れば、居間には赤いソファやテレビや野菜があるし、お母さんだっているし、ヴァンダ自身もけっこう普通に生きている。ブルドーザーで破壊されつつある路地の風景や、世間から追いやられているように見える人々の会話が希望に満ちたものとは言い難いけれど、その色や光は美しい。そういうものだけを撮ってくれればよかったのに、と思うのだ。

だけどこのフィルムは、ヴァンダの部屋というホームポジションを撮らなければ、映画にならなかったかもしれない。外へ外へとカメラは出て行き、ここがリスボンのどういうスラム街で、どのような状況にあり、この国の政治経済はどうかということまでを偏った「神の視点」で斬る、凡庸な構造的ドキュメンタリーになってしまったことだろう。監督はその逆をやった。徹底して個人に迫り、個人を描写した。

自分の部屋というのは本来、人に見られたくないことをするための場所でもあるのだから、絵に描いたような幸せを享受している某国の女の部屋だって、案外こんなものかもしれない。親の目が届かない自室で危ないものを吸引したり、危ない男を連れ込んだり、危ないネット取引をしている女も珍しくないだろう。この映画は、見る人を観光客ではなく訪問者の気分にしてくれる。ヴァンダのそばにいることで、うっそーと思いながらも、いつの間にかなじんでいく感じ。どこへも移動しないのに、個人的な体験に根差したロードムービーになっている。

私は終始、ぼーっとしながらこの映画を見ていた。普段ぼーっとしてるのに、映画を見ているときだけ画面に集中しなければいけないのは不自然だ。その点、この映画は半分くらい寝ていたって大丈夫。あんた誰?って思う人も出てくるけど、自分の周囲を見回したって、よくわからない人だらけなのだから、わからない人物が存在することのほうが自然に決まってる。

娯楽映画やテレビやエンターテインメント翻訳は、とてもわかりやすくて面白いけれど、その多くをすぐに忘れてしまうのはサービス精神が過剰だからだと思う。わからないものはそのまま見たいし、翻訳は直訳のほうがいい。翻訳できない部分にこそ面白さはあるのだ。サービス精神に満ちた編集フィルムを集中して見ていても、体は何も感じない。それは受身の風景にすぎないから。

うとうとしながらヴァンダと過ごした3時間と彼女を取り巻く空気を、私は忘れないだろう。

*2000年 ポルトガル=ドイツ=スイス
山形国際ドキュメンタリー映画祭 最優秀賞受賞
*上映中

2004-03-30

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『「シャガールの愛の詩」展』 アニヴェルセルギャラリー /

愛とブランドとワイン。

アニヴェルセル表参道は、記念日(=アニヴェルセル)をテーマにした複合施設だ。ギフトアイテムやファッション・セレクトショップのほか、イタリアンレストランとウエディング施設があり、オープンカフェは連日大賑わい。チャペルで結婚式を終えたカップルは、このカフェの前を通り、居合わせた人々から一斉に祝福を浴びる。

だが、この地下に、500円で入場できる「もうひとつの教会」があることは、あまり知られていない。経営母体の会社が収集したシャガール・コレクションを展示するアニヴェルセルギャラリーである。

表参道を挟んだ向かいには、グッチ青山店がある。このブランドのブームを再燃させた米国のクリエイティブ・ディレクター、トム・フォードが去り、数日前、社内のデザイナー3人が後継者に決まった。この事件によりブランドのスターシステムは崩壊したともいわれるが、ブランドにとっていちばん大切なものとは何だろう。 創業者? 経営者? 社名? ロゴマーク? 創業者一族? たたき上げの職人? 社内の先鋭チーム? それとも外国から招かれたカリスマデザイナー?

アニヴェルセル表参道の場合は「アニヴェルセル」という1枚の絵である。シャガールが最愛の女性ベラと宙を舞うようなキスをし、心づくしのケーキや花で誕生日を祝う部屋。この絵を見ていると、アニヴェルセル表参道が扱う「おめでたいコトやモノ」には根拠があるのだとわかる。ページェントスタイルのウエディング、100種類以上のシャンパン、ハートをモチーフにしたショコラ、半永久的に美しいプリザーブドフラワー…すべてが愛を大切にし、記念日を祝福する「アニヴェルセル」の精神に基いているのだ。

シャガールは、この絵を2度描いた。ベラと結婚した年でもある1915年版はニューヨーク近代美術館にあり、アニヴェルセルギャラリーにあるのはグッゲンハイム美術館経由で渡ってきた1923年版。幸せの絶頂にあったであろう彼は、散逸してしまった「記念日」をもう一度描き直したのである。が、欲をいえば、この絵には悩みがなさすぎる。シャガールの絵は幻想的なほど面白いのだ。ベラを亡くした後に描かれた「天蓋の花嫁」(1949)は、一緒に暮らし始めた女ヴァージニアを抱きしめているはずなのに、顔の半分がベラになっているというスゴイ絵。その後結婚した3番目の女ヴァヴァによって、長年封印されていたという。

ギャラリーでは数ヶ月に一度、作品の一部を入れ替え、今は版画と詩が展示されている。詩を読むと、シャガールが夢のような絵ばかりを描いていた理由がよくわかる。愛する人の死は、そう簡単に受容できるものじゃない。昨日キスをしたはずの相手が、いま目の前にいないはずがない。シャガールは生涯、空を飛びながらベラを探し続けたのだと思う。

1970年のシャトー・ムートン・ロートシルトのラベルは、シャガールが描いたものだ。私は数年前、26年分のムートンを試飲するというマニアックな企画に参加したが、シャガールラベルのムートンは驚くほど赤みが濃かった。熟成香の強い1973年のピカソラベルや、酸が主張する1975年のウォーホールラベルよりも断然フレッシュだったのだ。奇跡的に酸化が止まり、永遠の余韻を秘めたワイン。それは98歳で亡くなるまで愛を追い、夢を見続けた少年シャガールのマジックだったかもしれない。

ベラが亡くなって60年、シャガールが亡くなってからは19年が経った。2人は天国で再会できただろうか。それは、彼が繰り返し描いた絵のようにロマンチックな光景であるに違いない。

2004-03-17

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