MOVIE

『セッソ・マット(sesso matto)』 ディーノ・リージ(監督) /

1973年のレオンとニキータ。

つっこみどころの多い扇情的な特集タイトルで話題のペア雑誌といえば、「ちょい不良(ワル)」でおなじみの「レオン」と「艶女(アデージョ)」でおなじみの「ニキータ」。
10月号の見出しは、こんな感じだ。

●スーツからジャケパンまで選びのキモはちょいタイト 「モテピタ」オヤジの作り方 (レオン)
●小僧のツルツル顔よりも、オヤジの「渋顔」がい~んです! イタリアオヤジの「味出し美容」 (レオン)
●大いなる日本人女性の勘違い!! 「上品」こそが「SEXY」の極み (ニキータ)
●マンネリメイクじゃ老け込むばかり! 30オンナの艶(アデ)化粧四変化 (ニキータ)

シアターイメージフォーラムで上映中の「セッソ・マット(=色情狂)」にぴったりのキャッチフレーズ! この映画、雑誌のように9の短編が楽しめる、お洒落でエッチなイタリアン・コメディなのだ。70年代のファッション、インテリア、クルマとともにモンドミュージックのシャワーを浴びることができる。

正しい不良(ワル)を目指すなら、中途半端なジーンズの下げばきはもうやめて、股上の深いピタGやド派手スーツを着こなすイタリアン伊達男、ジャンカルロ・ジャンニーニこそを見習うべきだし、真のSEXYを目指すなら、スーツ、ドレス、白衣、水着、ランジェリーなどをまとったり脱いだりしつつ大胆な9変化を見せるイタリアのセックスシンボル、ラウラ・アントネッリこそを目に焼きつけるべきだろう。

ふたりが演じる9つの関係は、楽しすぎる。召使いとセレブなマダム、子だくさんの貧しい夫婦(ネオレアリズモ風)、老女マニアの夫と若妻、客と娼婦、シチリアの種馬とデンマークの看護婦、死者と未亡人…。

逃げられた妻への思いを描いた「帰っておいで!僕のLittle Girl」などは泣けてしまう。妻(ブサイク風)に執着するマニアックな男が、娼婦を家に上げ、妻のようにコスプレさせる話だ。「妻のほうが美人だけどね」と言われた娼婦役のラウラ・アントネッリが、日本語のような発音で「え~」と言いながら浮かべる困った表情にノックアウト。心が通うはずのないふたりの間に何かが生まれる、というようなウソっぽいドラマに仕立てないところがディーノ・リージのセンスのよさで、部屋の中には何ともいえないリアルで愛すべき空気が流れ始めるのだ。

世の中、捨てたもんじゃないと思う。ブサイクは愛しいのであり、不幸は幸福なのであり、キライはスキなのであり、体は心なのだ。

さらにいえば、ディーノ・リージはヴィスコンティである。
ディーノ・リージがこの映画を撮った2年後、ヴィスコンティは同じ2人の俳優を起用して、遺作「イノセント」を撮ることになるのだから。

「色情狂」は「純粋無垢」に結実したのである。

*1973年 イタリア映画

2005-09-01

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『リンダ リンダ リンダ』 山下敦弘(監督) /

どぶねずみのように美しい風景。

結果の説明もないし、後日談もない。それがすごくよくて、4人の姿をもっと見ていたいなと思った。映画の続きを求める人たちが、パンフレットやCDや彼女たちの写真集に群がっている。

ローリング・ストーンズ「悪魔を憐れむ歌」を完成させるプロセスをゴダールが撮った「ワン・プラス・ワン」のようなシンプルさだ。4人の女子高生が、ブルーハーツのコピーを3日間で完成させていく。文化祭の直前にメンバーが抜けたことからオリジナルができなくなり、たまたま部室で聴いて盛り上がったブルーハーツをやることになるのだが、音楽的動機がヤワな分、バンドの意味が際立ってくるあたりが面白い。

延々と廊下を歩く響子(前田亜季)をとらえた横移動のカメラワークだけで、つかみはオッケー。雑然とした各クラスの様子が伝わってくるし、外廊下に出たところで、校舎全体を包む文化祭ムードがぱっと開かれる。その間に、彼女は多くの人と会話を交わすのだ。

ほかのメンバーにも、それぞれのキャラクターを象徴するシーンがある。煮つまった恵(香椎由宇)はプールで死体のように浮いているし、冷静な望(関根史織)はスーパーでショッピングカートを押しつつ皆を仕切るし、どこかズレているが熱いソン(ペ・ドゥナ)は、夜の校庭を踊るように走りぬけ、体育館でひとり、感動のリハーサルを演じてみせる。

4人の女優(ひとりはミュージシャンだが)は、制服をリアルに着こなしながら、高校時代の面白さやつまらなさや一触即発な気分やそれでもなぜか一緒にいてしまう感覚を自然に演じている。大げさな友情はないかわりに遠慮もほとんどなくて、ただ集まって食べたり会話したり練習したりいつのまにか寝てしまったり・・・そう、眠くなる以外に、何かをやめる理由なんてありえないから。

シネセゾンの客席には「高校生友情プライス」を利用している3人連れ女子が多く、映画のリアルさとリンクしていた。ロビーの自販機を見て「高い。買ってくればよかった」なんて言いつつ、熟考のうえ付加価値のあるお茶を買っていたり、帰りに売店のパンフを指さして、どの子が可愛くてどの子が可愛くなかったかをシビアに論じていたり。

夜の屋上で望が言う「本番のライブなんて、たぶん夢中ですぐ終わっちゃうけど、こういう今のことは忘れないんだよね」というようなセリフはちょっと浮いてるけど、この映画にはクライマックスなんてないんだよと暗に予告している重要なシーン。「結果を出す」という言葉が蔓延する社会とは異次元のピュアな衝動を描いたこの映画もまた、結果を出すことを第一の目的にはしていないように見え、それでいて大ヒットしているという素晴らしさなのだった。

そう、結果はあとからついてくるもの。結果を出すという言葉は、結果が出そうもないことはやめようという合理的消極性につながるが、やってみなければ、変化に富んだプロセスの風景は見えてこない。「NO ATTACK, NO CHANCE」とF1ドライバーの佐藤琢磨も言っている。

説明できない衝動を大切にしたいなと思う。つい足が向いてしまう場所とか、理由なく会いたい人とか、倒れるまでやらずにはいられないこととか。この世で愛を注げるものはごくわずか。だから、一瞬も逃せない。生まれた瞬間から死ぬ瞬間まで、いつだって目の前の風景が最初で最後。

かけぬける日々の中で、とどまりたいと思える出会いがあればいい。

2005-08-22

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『エレニの旅』 テオ・アンゲロプロス(監督) /

太陽よりも、くもり空。

沖縄でのモデル撮影に同行したが、雨だった。1年分のポスターを撮影しなければならないのだから、予定調和的にいえば、夏のポスターはピーカンの海岸でということになる。だが、ちっとも晴れないし「晴れ待ち」の時間もない。
撮影がスタートすると、意外といいんじゃないかと思い始めた。モデルの肌が濡れるのもいいし、まぶしすぎて表情が固まってしまう心配もない。雨の海岸はちっとも沖縄らしくないけれど、そもそも沖縄のイメージというのが、あまたのピーカンポスターによってつくり出されていることは間違いない。

一方、私にとってギリシャのイメージといえば、どんよりとしたモノクロームの海と空である。これは間違いなく、陽光に満ちた地中海ロケにおいて断固たる「曇り待ち」をするアンゲロプロス監督のせいだ。

最新作「エレニの旅」は水没する村の物語だから、雨のシーンも多かった。監督はCGを使わず、映画のために2つの村をつくってしまった。ひとつの村は、1年のうち数か月だけ水が干上がる湖に建設し、水が満ちるのを待ったのである。

沈むことを前提とした村をつくるなんて、どこかのディベロッパーみたいだ。売ることを前提としたビルを建て、テナントを誘致して付加価値を高めて…。しかし、アンゲロプロスは企画屋でもブローカーでもない。撮影によってイメージが具現化する瞬間こそが喜びと語るピュアなアーティストだ。「一番好きな工程は撮影なんだよ。今までこの世に存在しなかったもの、自分でも予想しなかったものが生まれる瞬間がね」

アンゲロプロスならではの、決めのシーンが随所に登場する。そのたびに笑いや拍手が起こってもいいんじゃないかと思うくらいのサービスぶりだ。ロビーでは「あれがアンゲロカラーだよねえ」なんて語り合うファンの声も。

1シーン1カットの長回しも、むしろ短く感じられるほどで、あげくの果てには「え、もう終わりなの?」って感じ。2時間50分の映画をこんなふうに感じるのは、私が重篤なアンゲロ中毒患者であると同時に、この映画が3部作の1つめに過ぎないからだろう。

アンゲロプロスの映画の特徴は、国境を越える難民。そして、たとえ殺される寸前であっても相手の国籍をたずね、自らを名乗ることだ。私は誰であなたは誰なのか? この映画では、エレニのうわごとに集約されている。
「看守さん、水がありません。石鹸がありません。子供に手紙を書く紙がありません。また違う制服ですね。あなたはドイツ人ですか? 私の名前はエレニです。反逆者を匿った罪です。私は難民です。いつどこへ行っても難民です。今度はどこの牢獄です?」

映画のあと、傘もなく、雨の銀座をさまよった。日曜だったため目指す店がすべてクローズし「夕食難民」になってしまったのだ。霧雨の中、しっとりとぬれた街は映画の続きのようだったが、お気楽な難民である私には、水没する町が美しい理由、悲劇の物語を限りなく美しく撮る理由がわからなかった。

ボートの群れ、木に吊り下げられた羊たち、別れの赤い毛糸…この映画の決めのシーンは、すべて哀しみに満ちている。それは難民という、旅をせざるを得ない人々を象徴する美しさだ。「必然性をもった旅」という推進力によって映画は進み、監督のピュアな想像力によって風景や音楽が具現化される。現実の物語をなぞったものではなく、まさに「今までこの世に存在しなかったもの」の美しさなのだろう。

アンゲロプロスの映画には、一国の階級意識に縛られることの下品さとは無縁の清清しさがあると思う。

*2004年 ギリシャ映画(ギリシャ・フランス・イタリア・ドイツ合作)

2005-05-03

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『コーヒー&シガレッツ』 ジム・ジャームッシュ(監督) /

コーヒーもシガレッツも、無意味である。

1日に何度も私をカフェに誘う人がいた。そんなに私と話がしたいのねと思っていたら、その人は単なるコーヒー&シガレッツ中毒とわかり、大笑い。

私自身はコーヒーを飲まないしシガレッツも吸わないけれど、それでも私はコーヒー&シガレッツが好きだ。コーヒー&シガレッツとともに過ごす時間の愛すべきばかばかしさや無意味さの中毒になったのかもしれない。

そしてこの映画も「映画」というよりは「中毒」とか「習慣」とかいうジャンルに分類したいような、意味のない映画である。モノクロで映されるコーヒーとシガレッツは汚くて、ちっとも美味しそうじゃないし、会話も面白くなんかないし、人間関係も当然うまくいかない。

会話なんて、もともと面白くないんだってこと。コーヒーなんて、かっこよくないんだってこと。シガレッツなんて、体に悪いだけなんだってこと。それでも人は会話したいしコーヒーを飲みたいしシガレッツを吸いたいのである。

映画のあと渋谷のワインバーに行ったら、私が手にしていたパンフレットを見てスタッフが言った。「それ、僕が明日見ようと思っている映画です」。デートですかと聞くと「こういう映画やゴダールは彼女を誘えないから必ず1人で」と笑った。圧倒的に彼は正しいと思う。そして、まさにこれは飲食店に勤める人には必見の映画。こういうニュアンスが感覚的にわかっていたら、最高のサービスができるはず。

コーヒーとシガレッツの汚さとは対照的に、ジャームッシュはモノクロ画面の中で女優の魅力を最大限に引き出す。とりわけ怪しげなニューヨーカー、ルネ・フレンチは前作「女優のブレイクタイム」におけるクロエ・セヴィニーを超える美しさだ。

ロベルト・ベニーニの演技が過剰でダサすぎると感じても、おかしな二人がトム・ウェイツとイギー・ポップだとわからなくても、ケイト・ブランシェットが一人二役だとわからなくても楽しめる。リチャード・ベリーをトリビュートしたイギー・ポップのテーマ「ルイルイ」は、秋冬コレクションでクラシック音楽にデビッド・ボウイの「ヒーローズ」を重ねたという気鋭のファッションブランド、ドレスキャンプのようではないか。

ジム・ジャームッシュ。1953年生まれ。洗練とはかけ離れた若さ。こんなつまんない映画に立ち見が出ている。

*2003年アメリカ映画
*シネセゾン渋谷で上映中

2005-04-17

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『MOOG(モーグ)』 ハンス・フェルスタッド(監督) /

ピュアな冒険家 ― モーグ博士とフラハティと中村史郎。

電子楽器の神様、ロバート・モーグ博士は、物理学と電子工学が専門。
1964年に初のシンセサイザー「モーグ」を世に送り出した人だ。

モーグを愛するミュージシャンへのインタビューやライブが楽しめる映画。ビースティ・ボーイズの1月来日公演にも同行したマニー・マーク、ラウンジ系モンドミュージックをファッションにしたステレオ・ラブ、プログレで名高い元イエスのリック・ウェイクマン、ファンクな下ネタ連発のバニー・ウォレルなど、モーグをマジで叩きまくるパワフルな旧世代から、ゆるゆるのレトロ感覚で取り込む最近の世代までバラエティに富んでいる。

モーグの魅力を100%引き出すことに成功しているのが、エド・ケイルホフというシンセプレイヤーによるシェイファービールのCF。1969年ごろNYで撮影されたらしいが、「男は黙ってシェイファービール」というコピーに驚いた。このコピーはサッポロビールのオリジナルかと…。

シンセサイザーの電子音というのは、もはや癒し系の音なのだと気付く。そう、初期のシンセは、コンピュータを使わないアナログな機械。「素晴らしい楽器をありがとう」とモーグをリスペクトする人たちが博士と会話する様子はハッピーそのものだ。

サビついたトヨタ・ターセルに乗るモーグ博士は、シンセの電子回路を「感じる」ことができる。新しいアイディアも、自分のものではなく、どこからかやってくるのだという。博士はそれを感じとり、次のプロセスにつなげるだけなのだ。

「ある映画作家の旅-ロバート・フラハティ物語」(みすず書房)の中の「先入観なしに」という言葉を思い出した。ドキュメンタリーの父、ロバート・フラハティがエスキモーの生活に密着した代表作「極北のナヌーク」(1922)を見て衝撃を受けた私だが、このひとことで映画の謎がすべて解明されたような気がしたのだった。モーグ博士の生き方も、まさにこれだと思う。何かを見つけるために勇んで冒険するのではなく、自然に外へ出て自然に帰ってくるような趣味的な冒険家。

エスキモーの子供が、複雑なシャッター機構をもつカメラを、その目的も知らないまま監督に代わって組み立ててくれたというエピソードも印象的だ。「極北のナヌーク」の上映会では全員がスクリーンに突進したというほどイノセントなエスキモーの人々が、カメラという機械に対する天性のセンスを持ち合わせているというのだから目からウロコ。エスキモー語には、「作る」「創造する」という言葉がないというが、ロバート・フラハティも、そんな彼らを映画として撮る前に、先入観や目的なしに「感じた」のだと思う。

先日、日常のものをプロがデザインしなおすというコンセプトの番組「ニューデザインパラダイス」の総集編を見た。面白いものがないなと感じる中、ひとつだけすごいものがあった。日産のデザイン本部長、中村史郎がつくったクリスマスケーキである。クリスマスに家路へ向かう雪道を表現したという高さのある白いケーキ。これには驚いた。だって、ケーキである前に、道なんだもん。クルマや道路のことばかり考えている異分野の人だからこそ、子供みたいな感覚で、どこにもないものがつくれるのだろう。

チョコレートについての雑誌のインタビューでも、結局は日産のマーチにショコラというボディカラーがあるという話になり「あのクルマはトリュフに似てませんか?」なんて言っていた中村史郎さんは、ロバート・フラハティやモーグ博士と、どこか似ている。

*2004年アメリカ映画
*シブヤ・シネマ・ソサエティでレイトショー上映中

2005-04-07

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