MOVIE

『わらの男』 ピエトロ・ジェルミ(監督) /

男には、愛人以前に友人が必要だ。

W杯の決勝で、マテラッツィはジダンに何と言ったのだろう?
「娼婦の息子!」(figlio di puttana)と中傷したという説があるが、この言葉の意味は伊和辞典を引いても「こんちくしょう」であり、単なる悪態にすぎない。ジダンは以前ユヴェントスに所属していたからイタリア語は堪能なはずだが、ユヴェの本拠地である北のピエモンテ州とマテラッツィの出身地である南のプーリア州では、言葉もカルチャーも雲泥の差。南イタリアには、トマト、黒オリーブ、ケッパー、アンチョビを使った「娼婦風スパゲッティ」(spaghetti alla puttanesca)というのがあるくらいだ。

しかし、マテラッツィが「わらの男!」(uomo di paglia)と言ったのだとしたら?
この言葉はT.S.エリオットの詩「The Hollow Men」(うつろな男たち・1925年)に出てくる「Headpiece filled with straw」(わらのつまった頭)に由来するそうで、英語でもフランス語でもイタリア語でも、わらの男といえば、中身のないつまらない男という意味である。男にとって、これほど致命的な中傷の言葉はないんじゃないだろうか。どこまで掘り下げても実態のないわらのイメージの恐ろしさに比べると、「娼婦の息子」という言い方は出自がはっきりしていて、ほめ言葉にすら感じられる。

「わらの男」(1957)は、結論がタイトルになっているような映画だが、本当に救いがない。監督自身が演じる主人公の男は、妻子が不在の期間に、同じアパートに住む美人だがちょっと影のある22歳の女に手を出してしまう。妻子が戻ってきたとき、彼は女と別れようとするが、女は取り乱し始める。こうして彼の生活は破滅へと突き進む。

もともと家庭を捨てる気などない「わらの男」の中に、女への「面倒だな」という気持ちが生まれるあたりが面白い。いかにもありがちな不倫ストーリーだが、1957年の映画であり、ディティールはあまりにみずみずしい。男のずるさ、女の未熟さ、妻の怖さ、口説いた側ではなく口説かれた側が壊れてしまうという理不尽さ。恋愛の残酷な本質がつまっていて、身につまされる。

諸悪の根源は「わらの男」にあるが、つきあう相手の選び方もまずかった。相手が成熟したものわかりのいい女なら、違う展開になっていたはず。でも、それじゃあ、ぜんぜん面白くない! わらの男は、自分がわらであることにすら気づかないだろう。この映画は、若く美しい女の未熟さによって、もう若くはない男のダメさを際立たせたことに意味がある。

「わらの男」に唯一救いがあるとすれば、それは男友達だ。彼は、わらの男を客観的に見ており、心配そうに不倫の協力をし、破綻したときも見捨てない。この友人のおかげで、わらの男は、かろうじて生き延びているのかも。そう、わらでできているような男は、互いに助け合わなければいけない。誰かの友達であるとき、男は、わらの男ではなくなるのだ。

イタリアでは同じ頃、もっとすごい破滅映画「さすらい」(1957)ミケランジェロ・アントニオーニによって撮られた。ソフトなタイトルと思いきや、原題は「叫び」。それこそ、元も子もない結論そのままのタイトルだ。破滅に向かって一直線のストーリーは鮮やかすぎる。
「さすらい」の主人公には男友達がいないから、それは、真の破滅となるのである。

2006-07-25

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『ジダン-神が愛した男』 ダグラス・ゴードン&フィリップ・パレーノ(監督) /

サッカー × アート = 見たことのない肖像。

2005年4月23日のレアル・マドリード対ビジャレアル戦。
ヨーロッパで初めて使用される高解像度カメラを含む17台のカメラがジダンを追った。
監督は、現代美術の分野で活躍する2人の映像アーティスト。この映画をジャンル分けするなら、商業映画でもなく、スポーツドキュメンタリーでもなく、ファンのための映画でもない。まだ誰もやったことのないことに挑戦した実験映画だ。

準備に1年、製作に1年を費やし、カンヌ国際映画祭に出品。日本では話題になりそうもなかったのに、W杯決勝の「頭突き事件」がタイムリーなプロモーションとなった。この映画(試合)の結末も、たまたま「ジダンのレッドカード退場」だったのだから。

上映時間が95分で、終盤に退場ときいて、試合の流れをリアルタイムで撮ったドキュメンタリーを想像した。ジョナサン・デミがトーキング・ヘッズのライブを撮ったパゾリーニの言葉をヒントにしたという。17人のカメラマンが、ひとりのプレーヤーを主観的に追うことで「サッカー生活」の実像に近づいた。

主観的な視点を増やすことは、ドキュメンタリーから遠ざかることを意味するんじゃないだろうか? とても広告的な実験だと思う。編集にかけた時間と作り込みの凄さは、半端じゃないはず。ジダンの息遣いまで聞こえるような臨場感ある音づくりやナレーションもそうだし、ハーフタイムには、その日に起きた世界情勢の映像が流れる。音楽は、今年のフジロックにも出演するイギリスのロックバンド、モグワイの書き下ろしだ。

*2006年フランス=アイスランド
*シネカノン有楽町で上映中

2006-07-18

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『夜よ、こんにちは』 マルコ・ベロッキオ(監督) /

少女漫画のように美しい政治映画。

何時に人とすれ違っても「こんにちは」と言ってしまう。
お昼前後には「おはよう」なのか「こんにちは」なのか、深夜から早朝にかけては「こんばんは」なのか「おはよう」なのか、とっさの判断が難しいからだ。馬鹿のひとつ覚えみたいに「こんにちは」と決めてしまえば悩む必要がない。
いずれにしても、深夜から早朝にかけては「おはようございます」または「こんばんは」と相手から返されて(直されて)恥ずかしい思いをするわけですが。

というわけで「夜よ、こんにちは(Buongiorno,Notte)」というタイトルに特別なものを感じなかった私だが、監督はエミリー・ディキンソンの詩“Good Morning-Midnight”にヒントを得たそうだ。どうせなら「夜よ、おはよう」にすればよかったのにと一瞬思ったが、この映画には「おはよう」は爽やかすぎて似合わないし、そもそもイタリア語には「おはよう」という言葉がない。朝から午後4時ごろまで“Buongiorno”で通せてしまうのだから、夢のような快適さだ。

「夜よ、こんにちは」は、1978年ローマで起きた「モロ元首相 誘拐暗殺事件」に新しい解釈を与える映画。人間の希望というのはパーソナルな部分にしかないのだという、イデオロギーを超越した「場所」を提示してくれる。それは想像力といってもいい。非力だが、無限の可能性をひらくかもしれない扉だ。

若く美しいのにお洒落もせず、図書館で地味に働くキアラ。彼女に向かって同僚の男は言う。「もっと服装を変えたらよくなるのに」「この仕事で満足してるの?」と。まるで少女漫画のような設定だ。キアラは極左武装集団のメンバーだが、ごく普通の生活者を装い、周囲の目を欺きながら仲間の男たちをサポートしている。

彼らが共同生活を営み、元首相を監禁するアジトは、新婚夫婦などが住むローマの素敵なアパート。その一室が改造され、監禁という仕事がおこなわれている。陰鬱な室内のシーンが多いが、光あふれるベランダ、ネコ、カナリア、上階に住む住人、その赤ん坊などが、外の空気を運び、キアラがメンバーと一緒に新婚夫婦を装って物件を下見するオープニングから、ある人物がそこから出ていくラストシーンまで目が離せない。

人質を監禁することは、ペットを飼うこととは違う。彼らは覆面をして人質と会話し、要求をきき、自分たちと同じ食べ物を与え、残せば自分たちが食べたりもする。人質のほうも、くつ下のたたみ方で、彼らの中に女がいることを理解する。元首相が監禁されたという大ニュースはテレビに映し出されるが、人質と共同生活する現場の人間は、淡々とした日々の中で、外の世界にはない何かをオリのように蓄積していく。生活とはそういうものだろう。そのオリをていねいにすくいとり、ピンク・フロイドとシューベルトを効かせながら結実させたラストが素晴らしい。

プロレタリア革命を目指す左翼組織の話なのに、左でも右でもない、ポジティブな前向きの力に貫かれている。
それは、映画という表現形式がもつ、美しい特性であるにちがいない。

*2003年 イタリア映画
*ユーロスペースで上映中

2006-06-02

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『ブロークン・フラワーズ』 ジム・ジャームッシュ(監督) /

25年たっても変わらない男。

これは僕の物語の一部だ
僕のすべては説明できない
物語というものは点と点を結んで
最後に何かが現れる絵のようなもので
僕の物語もそれだ
僕という人間がひとつの点から別の点へ移る
だが何も大して変わるわけじゃない
「パーマネント・バケーション」より)

ジム・ジャームッシュの最高傑作といったら、彼がニューヨーク大学大学院映画学科の卒業製作として撮った「パーマネント・バケーション」(1980)に決まってる。と私は思うのだが、最新作「ブロークン・フラワーズ」(2005)を見て確信した。ジャームッシュの映画は、いまだにどこへも行けない。25年前のパーマネントバケーションのままだ。

中年男が身に覚えのない息子探しの旅に出る物語、という意味ではヴィム・ヴェンダース「アメリカ、家族のいる風景」(2005)とそっくりだが、アプローチは似て非なるもの。「アメリカ、家族のいる風景」が男の夢やロマンを全部説明し、全員の気持ちに決着をつけ、元の場所へ戻っていくのに対し「ブロークン・フラワーズ」は何も決着をつけず、元の場所へも戻れない。

ビル・マーレイ演じる「ブロークン・フラワーズ」の主人公ドン・ジョンストンは「パーマネントバケーション」の主人公アリー(16歳)の40年後の姿かもしれない。どちらの男も一人身で、一緒に暮らしている女とも別れ、ちょっとだけおかしな人たちと場当たり的な交流をもつ。まったく進歩していない。

・・・
他人は結局 他人だ
今僕が語ってる物語は―
「そこ」から「ここ」
いや「ここ」から「ここ」への話だ
(「パーマネント・バケーション」より)

「ブロークン・フラワーズ」に登場する、ちょっとだけおかしな人たち。それが「20年前につきあった女たち」であることが唯一、主人公の成熟をうかがわせるわけだが、ジャームッシュの描写する女たちの姿は本当にリアルに面白く、現代のアメリカの最前線の病を写し取っている。

昔の女を訪ね歩くというギャグのような設定でありながら、いかにも自然で、音楽や小物のセンスも、相変わらず弾けている。たとえばドン・ジョンストンがこんな馬鹿げた旅に出ることを決めた心理は、彼の表情とシャンパンと音楽だけで表現されるのだった。

20年も昔の男から突然の訪問を受けたとき、女たちはどんな反応を示すのか? 次の家はどんな家で、どんな女で、どんな生活をしており、どんな扱いを受けるのか? 楽しみでたまらない。そして、ありがちな息子探しの物語を強烈に皮肉り、どこにも着地しないエンディング。

こんなお洒落な映画をいつまでも撮っている男って、かっこ悪すぎる。
そんな男を好きだと思ってしまう自分もまた、かっこ悪すぎるのだが。

・・・
去ると いた時より そこが懐かしく思える
いうなれば僕は旅人だ
僕の旅は ― 終わりのない休暇(permanent vacation)だ
(「パーマネント・バケーション」より)

*2005年アメリカ映画
カンヌ映画祭 グランプリ受賞

2006-05-12

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『文盲―アゴタ・クリストフ自伝』 アゴタ・クリストフ(著)/堀茂樹(訳) / 白水社

書くことは、戦うことだった。

なぜ、こんなシンプルな文体に力が宿るのか? 不気味なほど冷徹な意志はどこからくるのか? ハンガリーの作家、アゴタ・クリストフを世界的に有名にした「悪童日記」三部作を貫く感覚は、自分の身近からはどう転んでも生まれてきそうもない種類のものだった。

そして今、彼女の自伝ともいえる「文盲」によって、長年の疑問がとけた。

言葉を知り尽くし、美辞麗句を並べたてることは、想像力のじゃまにしかならない。作家に必要な資質とは、形容詞をたくさん知っていることでもないし、高等教育を受けていることでもない。「知らないこと」と「強いられること」が、彼女の意志を強固にし、読み書きへの熱意を切実にした。母語からドイツ語、ドイツ語からロシア語、ロシア語からフランス語へと、何度も言葉を捨てざるを得なかった運命が、真理を志向させたのだろう。彼女は、決してマスターすることのない「敵語」の違和感を永久に引き受けることを自らに課し「文盲者の挑戦」を続けようと決めたのだ。

彼女の生きるモチベーションは、戦いだ。したがって「革命と逃走の日々の高揚」を失った亡命先のスイスでの労働生活は、砂漠でしかない。言葉が通じないことが砂漠だったわけじゃなく、変化や驚きのない、判で押したような時計工場での労働生活そのものが砂漠だったのだと思う。彼女のアイデンティティは、読み書き以前に「歴史を画することになるかもしれない何かに参加しているのだという、そんな印象を抱き得た日々」だった。

アゴタ・クリストフのこのようなメンタリティは、同じハンガリー出身の女性監督、フェケテ・イボヤの映画に見い出すことができる。社会主義崩壊後、民族と言語と情報が交差する都市の熱狂を描いた「カフェ・ブタペスト」。あるいは、切実に何かを探し、移動し、サバイバルを繰り返す男のアイデンティティ・クライシスをテーマにした「チコ」。仲間のいなくなったかつての戦場を訪れるラストシーンは、まさに砂漠だ。

だが、もともと砂漠のような環境で生まれ育ち、その平穏さを愛している私は、アゴタ・クリストフの「敵語」という感覚を共有できない。平和と順応がスタンダードである私たちの日々は、革命と逃走をスタンダードとするアグレッシブな日常からはもっとも遠いのだ。「敵語」で書かれ、日本語で届けられた彼女の文章は衝撃的だが、それらが共感といえるようなヤワな次元に至ることはない。

アゴタ・クリストフは、世界的な作家になったことで、砂漠から脱出できたのだろうか?現代のフランス語圏での生活は「革命と逃走の日々の高揚」をますます遠ざけんじゃないだろうか? 彼女は今もフランス語を「敵語」と意識しているだろうか?

「悪童日記」三部作を凌駕する作品が、その後、ひとつも発表されていないという事実が、戦いという最大のモチベーションを失いつつある彼女の現状を、物語っているような気がしてならない。

2006-04-25

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