MOVIE

『グラン・トリノ』 クリント・イーストウッド(監督) /

「不機嫌」と「やんちゃ」のあいだで。

妻を亡くしたウォルト(クリント・イーストウッド)の家の周辺は、人種のるつぼと化し、荒廃している。隣家の住人はアジア系のモン族だ。CIAは、ヴェトナム戦争でラオス高地のモン族を傭兵として雇ったが、彼らは戦後、難民として亡命。米国には現在、20数万人のモン族が暮らしているらしい。

ウォルトの頑固な不機嫌をほぐすきっかけとなるのが、隣家の姉(スー)と弟(タオ)であるという設定がすばらしい。実の子や孫にはうんざりし、モン族の年寄りとは通じ合えなくても、英語を話しジョークを解するモン族の新世代とは、新しい形の交流ができてしまうのだから。ウォルトがスーの誘いでモン族のホームパーティーに出向くシーンと、その後、意気地なしのタオに口汚い会話や男の処世術を伝授していくプロセスは、忘れられない。

人生とは、目の前の状況を何とかすることの連続なのだろう。ウォルトは、家を修理し、芝を刈り、思い出のクルマ、グラン・トリノを磨き、不良たちの目にあまる悪行に対処する。そう、それだけでこんなドラマができあがってしまうのだから面白い。

彼は何度も銃を手にする。もう、銃なんて持ちたくないのに。アメリカという国は、引退生活すら優雅に送ることのできない国なのである。血の気の多い男の怒りを誘発する材料が、日常的にあるということだ。そしてウォルトは決定的な失敗をする。老人とは思えない<やんちゃぶり>で。

しかし、悲劇と同様、救いもまた、荒廃した状況の中にある。この状況をなんとかしたいと最後まで思えること。死ぬまで後悔をかかえ、失敗をし、それでも誇りと希望を失わないこと。かっこいい人生じゃないか? 人生は、最後までうまくなんていかない。むしろ、だんだんうまくいかなくなり、死んでいくのが人生なのだ。だからせめて、自分の気持ちに、そのつど決着をつけて生きていくしかない。穏やかな日々なんて望んではいけない。洗練なんて求めてはいけない。だって、世界が穏やかになったことなど、かつて一度もないのだから。今の世の中の状況は、年長者の責任でもあるのだから。長生きした男は、早死にした仲間の分まで責任をとり、死ぬまで戦い続けなければいけないのである。

ウォルトは、78歳のイーストウッド監督自身のようだ。『グラン・トリノ』は男の人生の美しい締めくくり方についての映画だが、オリヴェイラのようなヨーロッパの洗練からはほど遠いし、操上和美の『ゼラチンシルバーLOVE』とは対照的な軽さだと思う。イーストウッドの映画といえば、前作『チェンジリング』が公開されたばかりだが、次作はネルソン・マンデラについての映画だという。一体イーストウッドはどこへ行くのか? まだまだ本当の締めくくりは訪れそうにない。

スーの軟弱なボーイフレンドを演じているのが、イーストウッドの息子、スコット・リーヴスであることにも注目したい。彼はまだ、自分の息子にこんな情けない役しか与えないのである。主題歌は、別の息子でありミュージシャンのカイル・イーストウッドが担当しているが、こちらはすごくいい!

2009-04-29

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『ハルフウェイ』 北川悦吏子(監督) /

私と東京、どっちが大切?

恋愛の神様といわれるTVドラマ脚本家、北川悦吏子の初監督作品を試写で見た。

高校生カップルが織りなすストーリーはたわいないが、たわいないお話を最後まで引っ張っていく自然なセリフの絡みはさすが。会話のロードムービーといいたいくらいのヌーヴェルヴァーグぶりだ。高校時代を思い出して身につまされる人も多いと思う。映画で重要なのはストーリーじゃない。どんなストーリーでも、たとえストーリーがなくても、輝く映画は輝く。2人が自転車で通学する北海道の土手の風景はあまりに美しいし、カメラワークや音楽には、プロデューサー2人(岩井俊二&小林武史)の力量が感じられる。

地元志望のヒロ(北乃きい)と早稲田大学を志望するシュウ(岡田将生)。だが、北海道と東京は遠い。「思ってるより人生って長いよ」という担任教師(成宮寛貴)に対して「でも、今も大事なんで」と答えるシュウがすてき。はたしてこの言葉の意味は? 彼らは結局どうなる? 「東京を目指すのは彼で、地元に残るのは彼女」という古典的な設定から始めるのが北川悦吏子らしさだと思う。彼女が徹底的に描くステレオタイプなら、じっくりつきあってみたいという気持ちになる。

私自身は東京の高校に通っており、上京物語については無知だったし、東京の大学へのファンタジーもなかった。早稲田のイメージはひたすら「バンカラ」で、高3の夏、お茶の水の予備校の夏期講習で知り合ったT君と私は、そのバンカラな大学へ「一緒に行こう」と約束した。歴史を感じるお茶の水の町並みは、この映画に匹敵する魅力的な舞台だったと思う。美しい町での美しい約束! だが結局、私だけが受かるという美しくない結末になってしまった。親に勧められたいくつかの上品な大学には受からず、早稲田へ行くしかない状況になったのは、私にはバンカラが似合っていたということなのだろう。そして、T君はバンカラではなかったということだ。実際、T君は繊細かつ懐が深く誠実な人で、この映画のシュウに近いものがあった。「こんなカッコいい高校生いないよ!」と突っ込みながら映画を見ていた私だが、実はT君のことを思い出していた。

試写の後、アンケートに答えた。「この映画にサブタイトルをつけるとしたら?」という質問に本気で答えてしまったのは、明らかにこの映画のピュアエナジー効果。「ハルフウェイ―世界を知った上で私を愛して!」と私は書いてみた。あまりにベタすぎる。やわらかな高校生の世界観が台無しだ。だけど、これが共感ポイントであることは確か。女は結局のところ「最初の女」でなく「最後の女」になりたいのだから。男はいつだって「最初の男」になりたがるみたいだけど。

*2009年2月より全国ロードショー。

2008-11-05

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『TOKYO!』 ミシェル・ゴンドリー/レオス・カラックス/ポン・ジュノ(監督) /

TOKYO!に逃げ場はある?

TOKYO!で暮らす人の感受性を、著しく傷つけるオムニバス映画。
私が石原慎太郎だったらカットしたいシーンが山ほどあるけど、私は石原慎太郎じゃない。TOKYO!にしか逃げ場がない私にとっては、悪夢としか思えない3本だ。
わかってる。TOKYO!にしか逃げ場がないなんていう生き方は間違ってる。世界は広いのだからフットワークは軽く。高城剛もそう言ってる。
見たくないものを次々と見せつけられる。日本人にはありえない視点で、TOKYO!に土足で踏み込んでくる。私たちは、口あたりのいいTVドラマばかり見ている場合じゃないのだ。
映像に比べ、HASYMO(by YMO)によるエンディングテーマ「Tokyo Town Page」は口あたりがいい。日本人が思い描きたいTOKYO!ポップカルチャーは、たぶんこんな感じ。でも、時代は変わった。もう少し聴きにくい音でおどかしてほしかった。

●1本目「インテリア・デザイン」
by ミシェル・ゴンドリー監督(fromニューヨーク)

藤谷文子と加勢亮が上京し、伊藤歩の家に居候しながら物件探しやバイト探しをする。難航する物件探しの中には銀座の中銀カプセルタワー(by黒川紀章)も!クルマはレッカー移動されるし、罰金高いし、家賃高いし、こんなに住みにくいとこなのかTOKYO!は?
映画監督の卵である加勢亮が、自作の上映会でスモークを発生させ「スクリーンと観客の境界をぶち破りたい。観客は安全圏にいてはいけない」みたいなことを言うあたりは笑えるけど、アイデンティティをなくした藤谷文子が**になってしまう後半は恐ろしくて正視に耐えない。自己表現できなければ**になるしかないなんて、本当のことを描きすぎている。
この映画の唯一の逃げ場は、大森南朋のライフスタイルで、ごく普通にTOKYO!で生活している描写にほっとする。いい表情の役者だ。

●2本目「メルド」
by レオス・カラックス監督(fromパリ)

日本の閉鎖性について、いちばん嫌な形で思い知らされる映画。突然マンホールから現れた怪人メルド(ドゥニ・ラヴァン)が、銀座や渋谷で暴行をはたらく。TOKYO!では最近、マンホール事故があったばかりだし、通り魔事件に至っては日常茶飯事。とてもフィクションとは思えない、現実と同時進行の映画なのだ。メルドに対する右翼と左翼の反応の違い(「メルドを死刑に!」「メルドに自由を!」)はステレオタイプだけど、よそものの象徴であるメルドは、私たちにとっての踏み絵なのだろう。
それにしてもメルド、日本人を悪く言いすぎ。ここまで末期症状なのかTOKYO!は? 音楽はコジラのテーマ。人間ぽいキャラがゴジラと同じことするだけで、こんなに怖いなんて。
メルドがタバコを吸い、花を食べるってとこが、ぎりぎりの逃げ場。

●3本目「シェイキングTOKYO!」
by ポン・ジュノ監督(fromソウル)

引きこもり生活11年の香川照之と、身体にスイッチボタンのついたピザ配達人、蒼井優。引きこもり男の生活なんて見たくないし、地震のシーンも見たくないけど、私は、引きこもりが外に出る、というこのシンプルな物語が好きだ。
蒼井優が「ここは完璧」と言うだけで、男の部屋も逃げ場になる。蒼井優は神様だ。しかし、やがて神様は引きこもり、香川照之は外に出る。11年ぶりの外出にあたっての神経症的なモノローグと、外の光のまぶしさ!
ホッパーの絵のような無人の山手通りを、代沢3丁目を目指して走る香川照之に、私は癒されてしまったのだった。俯瞰で撮られるTOKYO!のストリートは、世界へつながっている。きっと。

*8.16よりシネマライズ、シネ・リーブル池袋にて世界先行ロードショー!

2008-08-18

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『夜顔』 マノエル・ド・オリヴェイラ(監督) /

サービスの純度。

「上品」は、どこからくるのだろう。たぶん、自然に生まれるものではなくて、どこかで誰かがつくるものなのだと思う。社会性にこだわり、外出着を選び、手にとるものを選び、口にする言葉を徹底的に選ぶ。そして、そんな上品が、別の上品を呼ぶ。

この映画には、ひとつの劇場と、ひとつのバーと、ふたつのホテルが登場する。主人公(ミシェル・ピコリ)が一人で演奏会を楽しんだり、バーマンと話しながら酒を飲んだり、コンシェルジュに女(ビュル・オジエ)のゆくえを尋ねたり、ギャルソンたちのサービスを受けながら女とフルコースの食事をしたりする。これらのシーンに登場するサービススタッフの上品さは、特筆すべきものだ。

バーマンは、店の常連である2人の娼婦を「天使」といい、若くない娼婦は若い娼婦を「いい友達」といい、ギャルソンたちは、トラブルを起こした客についても、陰でネガティブなことを言う代わりに「面白い」「不思議」「変わっている」というニュアンスの言葉で尊重する。

人だけじゃない。主人公が女を追跡するパリの夜の美しさは比類ないし、グラス、シャンパン、燭台、プレゼントなどの小物をはじめ、アル中の主人公が身につけている服、かつて背徳的な人妻であった女が身につけている服、娼婦たちが身につけている服の選びぬかれた上質感。ほとんど一発撮りのようであり、しかも完璧であるとしかいいようのない70分だ。こんな緊張感あふれる映画は70分間で十分だし、物語なんてなくたっていい。これほど美しく凝縮されたリアリティのある画面を構築できるのは、今年100歳になるというオリヴェイラ監督だけではないだろうか。

この映画はルイス・ブニュエルの「昼顔」(1967年)の続編といえるオマージュ作品だが、オリヴェイラ監督は言う。「ブニュエルは私的なことと映画を混同しない人だった。彼は背徳的なテーマを描いても、セックスシーンは撮らなかった。私的なことだからだ。私も彼の考えに賛同する一人だ」

人間には裏表があって実は下品なのである、という杓子定規的なトーンの映画を見ると、がっかりする。下品なのはあなただ、と監督を指さしたくなる。

オリヴェイラ監督は、相変わらず、精力的に映画を撮り続けているようだ。ひとつのことを長く続けることによって、頑固さとは別の純度を手に入れることができるのだとしたら、世の中はなんて希望に満ちているんだろう。

映画のあと、それぞれ別の知人がやっているレストランとバーへ行った。今まで深く考えたことがなかったけれど「夜顔」を見たあとでは、どちらの店のコンセプトもサービスも、驚くほどピュアであることに気がついた。なんだか映画の続きのような気分になって、ああ、私のまわりにも上品な人たちがいるんだわ、と嬉しくなった。私が映画館で買ってきた「夜顔」のポストカードを渡すと、レストランのオーナーはフランス語のタイトルについて、バーのオーナーは主演男優についてコメントしてくれた。

ネガティブなことをネガティブに考えればいろいろあるのだろうけど、とりあえず、日々、ポジティブなことだけで頭の中をいっぱいにすることができる状況は何よりも幸せで、その要には「上品でピュアな人」の存在があることを強く思う。万が一、身近にそういう人が一人もいなくなっちゃったとしても、私たちは、オリヴェイラ監督の映画を見ればいい。

*2006年/フランス+ポルトガル合作/70分
*銀座テアトルシネマで上映中

2008-01-07

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『ワサップ!』 ラリー・クラーク(監督) /

プラダを着ない天使たち。

サロンボーイ系とお兄系とパンク系がニアミスしたって、東京では「それが何か?」って感じだ。ファッションの違いは趣味の違いと認識されるだけで、深刻な生存競争につながることはない。だけど、移民の多いロサンゼルスのような都市では、ファッションが肌の色と同じように判断され、階級意識を浮き彫りにする。

「ワサップ!」の主役は、ロサンゼルスのサウス・セントラルで暮らす7人のティーンエイジャーたち。全員がラティーノ(ラテンアメリカ系の移民)で、パンクで、スケボー好き。つまり、とっても目立つ存在だ。なぜなら、この街の主流は、黒人のヒップホッパーだから。タイトなジーンズとTシャツに身を包み、スケボーで登校する彼らは、ヒップホッパーたちに「ワサップ、ロッカーズ!」(ロッカーたち、元気か!)と絡まれ、「ちっちぇーTシャツ!」とバカにされるのである。

そう、この映画はファッション映画。地元でも仲間が殺されちゃったりする日々なのに、彼らはビバリーヒルズに足を伸ばす。さて、どうなるか? まずは警官に咎められ、一人が拉致される。次に、ビバリーヒルズ高校のお坊ちゃまたちに攻撃される。挙句の果てには、クリント・イーストウッドみたいな映画監督に、銃を向けられる。

しかし、彼らを受け入れる人種もいる。ビバリーヒルズ高校の美人姉妹、有閑マダム、そして、彼女たちの使用人であるラティーノたち。女は、先入観なしで、男の「見た目の美しさ」を評価できるのである。とりわけ、ルックスのいいジョナサンとキコの二人はモテモテだ。

いちばん面白いのは、たまたま彼らが逃げる途中で紛れ込んだ中庭でのパーティーシーン。ジェレミー・スコット(実物)を始めとするセレブなファッションビープルたちもまた、彼らを一目で気に入る。ラティーノがスケボーでパンク。それだけで絵になるのである。浮いているのである。マイナーなのである。かっこいいのである。ラリー・クラークだって、そうやって、素人である彼らを街でスカウトしたのだろう。ファッションっていうのは、なんて危険なんだろう。それだけで、つかまったり、殺されたり、可愛がられたり、映画に出なきゃなんないはめになるのだから。

「ワサップ!」は、こうしてファッションの本質をえぐる。人種のるつぼの中でむきだしにされる、そのわかりやすい記号性と危険性を。肌の色と同じくらい自然で危険で面白いファッションに目をつけ、素人のティーンエイジャーに心を開かせ、リアルな演技をさせたラリー・クラークの手腕は、毎度のことながら、さすがなのだ。

2007-02-27

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