MOVIE

『悪人』 李相日(監督)・吉田修一(原作) /

真実は、からだの中に。

私はこれまで、女友だちを2人振ったことがある。自然消滅は期待できず、はっきりと言葉で伝えるしかなかった。

A子は超がつくほどの遊び人。世界を股にかけるようなダイナミックな遊び方と誘いの頻度についていけなかった。理由ははっきりしていた。一方、B子は私を疲れさせる人だったが、その根拠を明示できないことがさらに私を苛立たせた。慕ってくれる女友だちを拒絶するなんて、まさに私のほうが「悪人」だわと落ち込みもしたが、この映画の原作を読み理由がわかった。B子は「安っぽかった」のである。

映画を見て、さらにこう思った。安っぽさは連鎖する。安っぽい女は、安っぽい世界に引かれ、安っぽい要素が少しでもある人間を簡単に安っぽく塗り替えてしまう。そう、小心者の私は、B子によって自分の中の安っぽさが露呈されるんじゃないかという恐怖を感じたのだと思う。実際、この映画に登場する安っぽい女は、安っぽい要素をもつ男たちから、絶句するほど酷い目にあい殺されるのだ。だが、私は安っぽい女に苛立つ彼らの気持ちには共感できたものの、最大のポイントである「なぜ、その苛立ちが最悪の行動につながったのか?」というリアリティにまでは到達できなかった。

安っぽい女によって「悪人」の部分を引き出されてしまう2人の男を演じたのは、妻夫木聡岡田将生。一度も本気で人を殴ったり殴られたりしたことがないんじゃないかと思わせるような清潔感が際立ってしまう彼らには、たたずまいや肉付きに、バランスの悪さや不可解な凄みのオーラがない。弱さや情けなさを演じることはできても、内に秘めた凶暴さや残酷さの片鱗が身体に刻まれていないのだから残念。これは、演技以前のキャスティングの問題だと思う。ただし、脇を固めたベテラン俳優たちには想像力をかきたてる不穏な存在感が十分にあったし、深津絵里は全身を使った動きと表情で、説明不能な女を演じきっていた。

不可解でいびつな人物造型は、吉田修一の小説の特長だと思うが、原作では、いくつもの視点から、彼らの行動や心理がていねいすぎるほどに説明されている。まるでエンターテインメント小説のように。しかしラストは、その説明に意味があるのかと言いたくなる鮮やかな転調。ある意味、エンターテインメントの全否定である。重要なものは何かということをごくシンプルに際立たせるための。

「彼」は悪人だったのか? 大雑把で記号的なくくりの言葉が空しくひびく。つまり、悪人という言葉そのものが安っぽいのである。小説の言葉さえ、ていねいな描写さえ、安っぽく嘘っぽくみせてしまう真実が、最後に浮き上がる。言葉という安っぽい記号から、真実をつむいでしまうなんて、まさに真の作家の仕事ではないだろうか。

真実は、自分の中だけにあるのだ。周囲がどう言おうと関係ないし、目の前の相手の言葉だって、嘘かもしれない。あらゆる間接的な情報は記号にすぎないのだ。自分の身体がどう感じ、どう行動するか。それがすべてなんじゃないか? いろんな解釈はできるし、あとから理屈はつけられる。でもそれは美しい? 単なる説明でしょう? むしろ真実から遠くなるだけじゃない?

真実に近いのは、説明ではなくその場で起きたこと。偶然でも何でもいいから、とにかく、そこで何が起きたかってこと。そこを徹底的に見つめたい。
別のキャスティング、たとえば市原準人が主役を演じるようなバージョンも、見てみたいと思った。

2010-09-21

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『何も変えてはならない』 ペドロ・コスタ(監督) /

ペドロ・コスタ。エグルストン。音の職人。

「途中で眠ってしまうような映画がどうして面白いの?」と私のマッサージを担当してくれる人は不思議そうに言う。そう、私は、眠くなるほど退屈な映画が好き。ううん、正確に言えば、眠くなるほど気持ちいい映画が好きなのだ。それは、あなたにマッサージしてもらう時と同じ。もっと話をしていたいのに、笑っていたいのに、つい眠ってしまう。だけど、何をしてくれていたのかは肌がちゃんと覚えている。

ペドロ・コスタ監督の『何も変えてはならない』を見た。たった10文字なのに眠くなってしまうようなタイトル。音楽ドキュメンタリーだというので私は期待した。
先月、この監督の短編をいくつか見て、音のとらえ方の鮮やかさに驚いたばかりだった。その後、来日中の監督と佐々木敦さんのトークを聞いたのだが、メインは音楽の話。ペドロ・コスタは、BGMとしての音楽なんてほとんど使わないのに、いや、使わないからこそ、音に対してものすごく意識的な人だったのである。

私はこれまで『ヴァンダの部屋』(2000)を見ても、『映画作家ストローブ=ユイレ/あなたの微笑みはどこへ隠れたの?』(2001)を見ても、『コロッサル・ユース』(2006)を見ても、自分がこの監督のどこに惹かれているのかよくわからなかった。しかし、気付く人は最初から気付いている。「こうき」さんのレビューからの引用。

「その街の一角が取り壊される音だけは、ヴァンダの耳に響いてくる。ヴァンダはその音によってのみ知りたくもない周囲の環境=移民街の変化を知らされることになる。(中略)音楽。その音だけは、移民街にあって唯一の希望のように見える。ヴァンダの部屋に響く音や、時折、街角で聞こえてくるディスコやヒップホップ、そして取り壊し現場の職人が着るボブ・マーリーのジャケット(中略)。ヴァンダでさえもテクノが響く街のクラブの前でたたずむ。その光景は、ヴァンダが唯一見せる実存の瞬間であり、貧困への抵抗のちょっとした現れであるのかもしれない」

『何も変えてはならない』は、歌手としても知られるフランス人女優、ジャンヌ・バリバールのライブリハーサルやレコーディング、コンサート、歌のレッスンなど、音楽の現場に密着した音のロードムービーだ。
ペドロ・コスタが初めて音楽と正面から向き合ったこの映画は、このままずっと聴いていたいと思う心地よさだった。同じフレーズを延々と繰り返すリハーサルシーンなんて退屈ともいえるけれど、歌う女優、音を出すメンバーらは、淡々とした作業をごく普通に楽しんでいることがわかる。好きということは、飽きないということなのだ。私はうっとりと音に浸りながら「ああ私もバンドをやりたい!」と『ソラニン』の種田のような気分にもなったが、どちらかといえば、今すぐ自分の仕事場に戻って、何十時間も心ゆくまで言葉と格闘したいなと現実的なことを思ったのだった。

年配の日本人女性2人がカフェで煙草を吸うシーンがあったが、日本人が見ても「ここはどこ?」と思う不思議なシーン。監督は、この場面の音を作るためだけに2週間を費やし、楽しみながら作ったという。監督もまた、音づくりの作業に没頭していたのである。

この日は、映画の前に、原美術館で開催中の『ウィリアム エグルストン:パリ-京都』を見た。エグルストンがとらえた京都は、やはり「ここはどこ?」がほとんどであった。お茶を撮った1枚には笑った。福寿園でも一保堂でも辻利でもなく、それは伊藤園のペットボトルだったから。エグルストンが故郷メンフィスで撮った唯一の映像作品『ストランデッド・イン・カントン』も、そういえば、音に意識的な映画だった。

2010-08-09

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『告白』 中島哲也(監督) /

美しい悪魔たち。

映画を撮ることで、もっと彼らに近づきたいと中島監督は言っていた。私もそう思う。この作品は、小説を読んでも映画を見ても終わらない。だからずっと登場人物のことを考えている。教師役の松たか子のほか、中学生役の西井幸人、藤原薫、橋本愛の演技は素晴らしかった。なのに、昨日の舞台挨拶で彼らとともに登壇した監督は「3人に人気があるというのを初めて目の当たりにした。撮影現場ではただの下手くそ3人だったのに、(好調な興収に)3人の力も多少あったのかなと今、初めて実感しています」だって。マジですか?

殺人と復讐を中心に、幾重にも描かれる負の連鎖。これほどのネガティブを描いて美しいというのは、一体どういうこと? 子供の恐ろしさ、大人の恐ろしさ、ネットの恐ろしさ。混沌とした恐怖の要素をぶちこみ、シンプルに削ぎ落としてみせた。削ぎ落とすこと。それは今、多くの人が苦手とし、時代に欠けているもの。CMディレクター出身の中島監督ならではの、マス広告の手法だ。わかる人がわかればという個人的な映画ではなく、万人向けのエンターテインメントになっている。

復讐は教育でもある。相手を傷つけたいという思いは、相手を変えたいからなのだ。どうでもいい人に復讐なんてしない。一刻も早く離れたいと思うだろう。そう考えるとこれは、他人にコミットしようとする愛の映画。復讐の最も美しく教育的な形。

RADIOHEADとBORIS。選曲のセンスがPVみたいで目が離せない。動と静。明と暗。喧騒と孤独。憎しみと愛。相反する要素の鮮やかなコントラストも広告の手法だ。ひとつの絵から短時間にいろんなものを感じとれる構造が、想像力をかきたてる。ドリュー・バリモア初監督作品『ローラーガールズ・ダイアリー』の選曲も最高だったけど、やっぱりRADIOHEADが使われていた。初恋の気分にふさわしいのは、今、RADIOHEADなのかも。どちらも恋愛映画では全然ないのに、いや、そうでないからこそ、恋愛の原点が描かれている。繰り返すことで濁っていくのであろう、そのピュアな芯の部分が。

何人もが『告白』をする映画でありながら、浮かび上がってくるのは、言葉は嘘という真実。言葉は嘘だし、人間は嘘つきだし、重要なことは話さない。この世は嘘のかたまり? 言葉がだめなら何を信じたらいいの? 映画はそこに肉迫している。

吉田修一の小説『パレード』から、24才の未来と18才のサトルの会話。
―「こういう時ってさ、子供の頃の思い出話とかするんだよね」と、サトルがぽつりと言った。「したいの?」私はそう茶化した。(中略)「してもいいけど、どうせ、ぜんぶ作り話だよ」と彼は笑う。私はふと、『これから嘘をつきますよ』という嘘もあるんだ、と気がついた―

同じく吉田修一『元職員』から。
―嘘って、つくほうが本当か決めるもんじゃなくて、つかれたほうが決めるんですよ、きっと。もちろん嘘つくほうは、間違いなく嘘ついてんだけど、嘘つかれたほうにも、それが嘘なのか本当なのか、決める権利があるっていうか―

嘘はこんなにも自由なのか、と思う。嘘のつき方は自由だし、受けとめ方も自由。であるならば、つく場合もつかれる場合も、できれば美しいものに仕立てたい。現実以上の真実を作り出し、痛いものを愛に変えてみたい。

誰もが何かを抱えている。だけど、それらを他人が共有することはできない。まるごと理解しあうなんて、無理。肯定や共感の言葉はあふれているけれど、他人と自分を隔てる壁、それもまた言葉なのだ。言葉の力を信じ、本物に変えるのは、気付いた人の仕事だ。全力で、だめもとで、自分も相手も変えてしまうくらい激しく一途に。

2010-06-28

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『インビクタス 負けざる者たち』 クリント・イーストウッド(監督) /

世界中の共感に、誰もが共感するとは限らない。

第82回米アカデミー賞の受賞作が決まった。南アフリカ初の黒人大統領ネルソン・マンデラを演じたモーガン・フリーマンは主演男優賞を逃し、ラグビーチームを率いる主将を演じたマット・デイモンは助演男優賞を逃した。私は、米アカデミー賞への興味をますます失った。

『インビクタス 負けざる者たち』は、1995年に開催されたラグビーのワールドカップを政治に利用した指導者の物語だ。南アフリカの歴史やラグビーのルールを知らなくても楽しめるエンターテインメント映画だが、ベースはノンフィクション。試合の経過やユニフォーム、スタジアムの広告看板など、当時の状況が忠実に再現されたという。

スポーツの政治利用という、一見美しくないものを美しく見せてしまう力が、この映画にはある。主役の2人の日常が、あまりにも普通だからだ。家族、秘書、家政婦、警護班など、彼らを支えるさまざまなプロフェッションが登場するが、大役を担う2人が、仕事以前に身近な存在を大切にする姿には心を打たれる。ダイナミックにして、繊細な配慮が行き届いた映画なのだ。

撮りたいものを撮りたいように撮れてしまう才能とキャリアと説得力とネットワークを有する監督は、世界中でクリント・イーストウッドだけなのでは?と思わせる名人芸。パンフレットにはメイキングシーンが満載で、監督の姿は、誰よりも絵になっていて、かっこよすぎ。この映画は、監督賞にノミネートされるべき作品なのだろう。

サッカーのワールドカップが、南アフリカで開催される直前の公開というタイムリーさ。マンデラが退いた後はいい状況とはいえない南アフリカだが、国の歴史を美しく世界にPRするには絶好の機会である。マンデラは、ラグビーワールドカップの決勝を世界で10億人が観戦すると知り、それを利用したわけだが、イーストウッドは、そんな歴史を知らない非ラグビーファンまでをも「観戦」させることができたのだ。

この映画はまた、文学映画でもある。映画の魅力的な細部は、やがてひとつの詩に収斂されていく。不屈を意味するラテン語「インビクタス」と名付けられた16行のこの詩は、英国の詩人ウィリアム・アーネスト・ヘンリー(1849-1903)の代表作。12歳で脊椎カリエスを患い左膝から下を切断した彼は、オックスフォード大学に受かるが結核に感染し、右足切断の危機は回避するものの8年間入院。この詩は26歳のとき、退院直前の病床で綴られたものと思われる。

27年半に及んだ獄中のマンデラの魂を支え、ラグビーのワールドカップに奇跡をもたらした詩である。私ももう、忘れることはできない。こういう詩が生まれるのは、ある種の逆境からなのだろう。私たちは逆境を望む必要はないが、恐れる必要もない。それどころか、大儀ある者は決して負けないのだ。これほど勇気を与えてくれる詩があるだろうか。

だが、私が2度目にこの映画を見たときに同行してくれた人は、詩についてはぴんとこなかったという。えー、そうなの! でも、それこそが、身近な人と映画について話をする面白さ。多くを共有していると思う人でも、改めて確認すると、別のものを見ている。目の前にいても、違うことを考えている。

目の前の人が何を考えているのかもわからないのに、言語や時代を超えた詩が勇気をくれるってどういうこと? でも、よく考えると、具体的な勇気を与えてくれるのは、いつだって、身近な人のほう。抽象的・客観的な勇気は遠く離れた人が、具体的・主観的な勇気は身近な人がもたらしてくれる。この映画においても、詩の精神を共有したのは、たぶん主役の2人だけである。

2010-03-10

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『ウルトラミラクルラブストーリー』 横浜聡子(監督) /

ラブは、どこに宿るのか?

これはラブストーリーなのか? 
違うかも、とタイトルの文字を見て思う。だって一瞬読めないじゃん、これ。大橋修さんのデザインみたいだけど、監督が発注したのだろうか? センスいいなー。この映画がほのぼの系のラブストーリーじゃないってことがわかるもん。

映画が始まって思う。タイトルが読めないだけじゃなく、セリフも聞き取れないじゃん。野性的な幼稚園児たちが、ばりばりの津軽弁(らしい)をしゃべってる。日本語なのに理解を超えている。方言ってすごい。ワイズマンのドキュメンタリーを見ているみたいで、次第に興奮してくる。

主人公の彼(松山ケンイチ)は、幼稚園児と同じような感じでしゃべり、動く。ちょっと頭がヘン? だけど、その判断もできないし、しなくていいし、しないほうがいいってことがわかる。最初からわかんないという前提で、自由に呼吸しながら見ることのできる映画なのだ。

テーマは脳である。だって<脳のない人>と<脳そのもの>が登場するのだから、シンボリックでわかりやすすぎる。私たちは人の何を愛しているのだろう? <脳のない人>と<脳そのもの>ならどっちがいい? ラブって何? ラブってどこ?

農薬をあびて「進化」しようとする彼(松山ケンイチ)は、まじで恋する男の子だ。こんなに鬱陶しい感じで愛されたら、普通はどうなる? 逃げるでしょう? だから、東京から深い理由があって青森へやってきたエキセントリックな彼女(麻生久美子)の態度には、見習うべきものがある。

<嘘つきでよくわからない男>が<脳のない男>として描かれるのが面白い。つまり、この映画における脳とは、表層的な頭のよさではなく、気持ちの誠実さのシンボルなのである。だけど、脳は永遠じゃない。この映画に出てくる<あっけない死>はすごくいいなと思う。自分が死んだあとも、自分を覚えてくれてる人がいれば…なんてぐじぐじ思うのって、なんだか貧しいから。

これは、脳ブームへの挑戦状だ。
中村一義のエンディングテーマも、タイトルデザインと合っていて最高!

2009-07-17

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