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『チャパクア』コンラッド・ルークス(監督)ロバート・フランク(撮影)

好きな世界と、思いのままに直結する。

洋服や靴の写真を撮るだけで、ブランドがわかるスマホ用アプリがある。デート相手の靴を撮影すれば、ジョンロブ20万円とか、H&M2990円とか、瞬時に表示されるのだろうか。

周囲に流れている音楽が何かを教えてくれるShazamというアプリは私も使っている。空気を測定するような感覚で精度も高く、その曲が入ったジャケットデザインが綺麗にストックされる。音は商品なんだ、と改めて思ったりする。そうやって、あらゆる言葉やイメージが検索できるようになって、検索できないモノやヒトの価値は高まるばかりなのかもしれない。少なくとも、検索をしなくていい時間の価値は高まっている。

映画館が価値ある場所なのは、携帯電話の使用を、画面を光らせることも含めて禁じているからだ。音楽のライブではマナーモードにするだけだし、ふだん私が携帯を完全オフにするのは映画を見るときだけ。映画を見るのは、携帯をオフにするためかもしれないな。オーディトリウム渋谷の「ビートニク映画祭」は、そんな現実逃避感をいっそう加速させるものだった。

ビートとは、1950年代〜60年代半ばのアメリカ文学界を中心に、常識や道徳に反抗した「打ちのめされた世代」。ビートニクのニクには、1957年ソ連が打ち上げてアメリカに衝撃を与えた世界初の人工衛星「スプートニク」に由来する、卑下のニュアンスがあるらしい。

上映された7本の映画のうち、特筆すべきはロバート・フランクが撮影したコンラッド・ルークスのデビュー作「チャパクア」(1966)だ。コンラッド・ルークスの2作めにして今のところ最後の作品である「シッダールタ」(1787)もよかったし、ロバート・フランクが監督した「キャンディ・マウンテン」(1987)の素晴らしさは言うまでもない。

20代前半のボブ・ディラン浅井健一のように見えてしまう「ドント・ルック・バック」(1967)や、47歳で亡くなったジャック・ケルアックってこんなにヤバイ男だったのかと驚愕する「ジャック・ケルアック キング・オブ・ザ・ビート」(1985)は言葉からのアプローチが面白く、ビートとはナイーブで饒舌なイケメンのことだったのねと膝を打つ。ケルアックは映画の中で「ビートとは何?」と聞かれて「Sympathetic(共鳴すること)」とめちゃくちゃかっこよく答えていたし、ケルアックの死を伝えるニュース映像では「ビートは、ボヘミアンとヒッピーをつないだ」とあっさり説明していたけれど。

ケルアックはインタビュー番組のスタジオで、7年間の旅をタイプライターのロール紙に3週間で書き上げたという自作「On the road(路上)」のエピローグを、緩急をつけて詩のように朗読していた。以下は朗読の最終部分。

“Nobody knows what’s going to happen to anybody besides the forlorn rags of growing old, I think of Dean Moriarty, I even think of Old Dean Moriarty the father we never found. I think of Dean Moriarty. I think of Dean Moriarty.”

(誰に何が起こるかなんて、誰にもわからない。見捨てられたボロのように老いていくこと以外は。僕は友人のディーン・モリアーティのことを考える。そして、僕らが見つけることができなかった、もう一人のディーン・モリアーティである父親のことも。僕はディーン・モリアーティのことを考える。ディーン・モリアーティ、のことを。)

最後の文はアドリブで繰り返し、感動的にしめくくった。もはや俳優レベル。映画は終わり、場内にはすすり泣きが広がったので、再び驚いた!

本題は「チャパクア」だ。コンラッド・ルークスの自伝でドラッグ映画の金字塔。薬物中毒の男(監督)がフランスのサナトリウムに収容されるが、催眠療法の過程で幻覚をみる。希有な体験を自ら演じ、実験的に記録したものなのだ。ストーリーの大枠以外は、錯乱したイメージを衝動的につなげた無茶苦茶な映画だけど、ロバート・フランクのカメラは、どの瞬間を切り取っても言葉を失うかっこよさ。音楽や女優にも心をつかまれる。

この自由奔放さは何だろう。コンラッド・ルークスは某有名化粧品会社の御曹司らしいから、交友関係を生かしたセレブなキャスティングが可能で、制作費の心配もなかったのだろう。終盤、自分を見るもうひとりの自分の視点が出現するが、CGなしのダイナミックな動線には度肝をぬかれる。アンダーグラウンドな匂いを発しながらメジャーな完成度を備え、ヴェネチア映画祭では銀獅子賞を受賞した。

アメリカと西洋と東洋、多様な世界とダイレクトにつながるこの映画は、緩衝剤を排除した、光と音の直接言語。わかりやすさを拒む一方、これほど無意識に体に響く、刺激的なわかりやすさはない。ふだん目にするものの多くが、漠然と私たちを疲弊させる理由がわかる。かっこ悪いから、まわりくどいから、ピュアじゃないから、疲れるんだ。

上映作品のひとつ、ピーター・ホワイトヘッドの「スウィンギング・ロンドン1」(1967)では、20代前半のミック・ジャガーが「他人に求められることをやりたくない」というようなことを言っていた。自分が求めることをやり、嫌われても認められたら最高だ、と。

2014-4-2

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『家族の灯り』マノエル・ド・オリヴェイラ(監督)

男のウソがとりあえず輝くとき。

贅沢にしてシンプル、この上なく洗練された映画ばかり撮り続けている105歳のマノエル・ド・オリヴェイラ監督は、なぜ貧困についての映画を撮らないのかと問われ、ポルトガルの作家による戯曲「ジェボと影」を思い出し、映画化を決めたという。「家族の灯り」という日本語タイトルのコンサバ度合いとは真逆の、アグレッシブな作品である。

印象的な港のシーンから始まるが、ほとんどの舞台はテーブルのある部屋とそこから見える路地のみ。バロック絵画のような計算された絵づくりと、そこで繰り広げられるシーンの緻密さから目が離せない。8年前に失踪した息子ジョアンの帰りを待つ会計士の父ジェボ、母ドロテイア、息子の妻ソフィア。父と息子の妻はジョアンが泥棒であることを知っているが、息子を溺愛する母には隠している。母は、息子の消息について曖昧なことしか言わない父にうんざりし、息子の妻にも、あんたのせいで息子は…とつらく当たる。息子を愛しているのは自分だけという思いを深めていくのだ。

ジョアンは笑っちゃうほど唐突に帰ってきて、そんな家族をかき乱す。父と母が友人を招きコーヒーを飲みながら繰り返すおしゃべりに呆れ、挑発するのである。「父さんのような人間は、生まれた時から負け犬だ」「あんたらは全員、生き埋めにされた状態にいるんだ」と貧しさへの諦念をなじり「魂をもった犯罪者もいれば、もたない善人もいる」と志ある悪の世界を肯定する。ジョアンを演じているのはオリヴェイラ監督の孫。これは監督から孫への、負け犬になるなよというメッセージであるにちがいない。

何にせよ、撮影監督レナート・ベルタがとらえる貧困生活の陰影は美しすぎる。母を演じたイタリアの大女優クラウディア・カルディナーレや、母の友人を演じたフランスの大女優ジャンヌ・モローらが繰り広げるおしゃべりなんて、華やかさ以外の何物でもないわけだし!とはいえ一見優雅な老人たちの停滞が、過去の遺産にすがるしかないヨーロッパの成熟という病の正体であることも確かだろう。オリヴェイラ監督は、そのことを孫世代に鋭く糾弾させるのだ。ジョアンは父が取引先から預かっていた金を盗み、再び逃亡する。一緒に逃げようと妻を誘うが拒否される。妻はジョアンではなく、ジョアンの父を選ぶのである。ジョアンに追いつけないとわかり、引き返す時の彼女の表情は見逃せない。

ジョアンが金を盗んだことは、またもや母だけが知らないことになっているが、母親というものは、息子の犯罪を知ったとしても否定してかばうもの。彼女は気付かないふりをしているだけだろう。要するにジョアンは家族の期待の星。彼が金を持って逃げたことは、何も持たないで逃げるよりもましかもしれない。彼らは悪党に、社会と闘う資金を提供したようなものだ。こんな息子、こんな夫を心の中にもつスリルの共有は、貧しく単調な日々における生き甲斐でもあろう。不安を抱きつつ、彼の革命に期待しているのだ。

盗まれた金はどうするか? 取引先は裕福だから許してもらえるのではとジョアンの妻は言うが、父は否定する。誠実に生きてきたふりをしてきたが、同情で雇われている屈辱的な人生だったことを息子の妻に打ち明けるのだ。男がここまで弱みを見せるのは愛の告白と同じ。ふたりの共犯関係は妖しすぎるけれど、情けなかった父はなんだか急に生き生きしてきて、オレに全部任せろなんて言い始めるではないか。

警察がやってきて、暗かった部屋にさっと光がさす。自分が盗んだと嘘をつくことで、父の立ち位置は、光に満ちた場所になるのである。
 
だがその姿はどこか滑稽で、カラヴァッジョの絵みたいなリアリズム的ストップモーションで映画は終わる。何も知らないことになっている母の驚きの顔。それは自分のために事実を隠し通し、息子の罪をかぶった夫への、はじめての称賛のまなざしかもしれない。

2014-2-24

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『ほとりの朔子』 深田晃司(監督)

原発から逃げない人々。

「ほとりの朔子」は日本のバカンス映画だ。バカンスとは、夏の数週間を何人かの人とともに無計画にだらだら過ごす退屈な日々のこと。小さな非日常を繰り返す中で、無意味に笑ったり、ケンカしたり、誰かを好きになったり、失望したりしながら、最後にはうんざりして終わること。だけど帰り際には、泣きたくなること。疲れ果てて帰った場所は、もとの場所とは違って見えること。

大学受験に失敗した朔子(二階堂ふみ)の中途半端な心情は、プチ逃避としての2週間のバカンスにはうってつけだ。朔子が水に入った足もとに広がるほとりの波紋や健康的な夏のファッションが、所在なさを引き立てる。美しく知的な叔母、海希江(鶴田真由)のモテぶりも光っている。だが、ジャック・ロジェの「オルエットの方へ」のようなフランス的バカンスの抜け感はなく、海辺の町の閉塞感が色濃く感じられた。それは、退屈な町の濃密な色っぽさと言い換えてもいい。

朔子は、学校に通わず叔父の経営するラブホテルを手伝う孝司(太賀)に出会い、やがて彼が福島からの疎開者であることを知る。原発がテーマではないバカンス映画に「登場人物が何人かいたらサッカー好きが1人はいるでしょう」という感じの自然さで、原発の問題が立ち現れるのだ。朔子が孝司に寄せる気持ちは、同情ではなくモラトリアム同士の共感であり、ほのかな恋心にすぎない。これは、福島の問題がここまで日常に溶け込み、背景のひとつになってしまったという現実なのだ。もはや日本のどこで何を撮ったとしても、福島が何らかの形で、どこかに映ってしまうのかもしれない。

フランス的バカンスの抜け感はないものの、この映画の退屈とときめきの同居は新鮮だ。退屈とときめきは相反するものと思っていたし、恋愛はスピード感であるとも思わされていたけれど、実は退屈こそがときめきと近しいのだ。所在なさや逃避モードの波長が合ったとき、たぶん人は恋に落ちる。効率優先のランチ婚活なんかで恋愛が生まれる確率は低いだろう。

映画とともに現実に帰ると都知事選だ。津田大介さんのメルマガ「メディアの現場」は特別号外を連日発行し、多彩なジャンルの識者の原稿を掲載している。順番も毎回工夫されていておもしろい。合コンを盛り上げる幹事さんのようだ。

1 月29日の「号外その7」は「脱原発を目指す側の人が宇都宮候補を支持すればいいのか、細川候補を支持すればいいのか、またそれを考えるうえで持っておきたいほかの視点は何かということにフォーカスして」コンパイルされた5本の原稿だった。映画と同様、都知事選に原発が映り込むのは必然だと思うけれど、最後の1本はアップリンク主宰の浅井隆さんの原稿だった。つまり都知事選に映画が映り込んでいた!

脱原発派の浅井さんは、フィンランドのオルキト島にある高レベル放射性廃棄物の最終地下処理場(通称オンカロ=隠し場所)を描いたドキュメンタリー映画「100,000年後の安全」(マイケル・マドセン監督)を、震災前の2010年に買い付けていた。震災後の4月2日、東京で緊急公開されたこの映画は、連日多くの人々で溢れ、TV報道もされ、浅井さんは脱原発へと社会が変わる勢いを感じたという。だが、2011年7月の都知事選は261万票で石原知事が当選、2012年12月の都知事選では433万票で猪瀬知事が当選という結果になり、自分と考えの違う人に共鳴してもらうのは容易ではないことを思い知ったという。

しかし浅井さんは諦めない。昨年、小泉元首相がこの映画のTV版(55分)を見てオンカロを視察し、脱原発へと考えを改めたことを知り、一人でも多くの人に観てもらおうと、YouTubeでの無料配信に踏み切ったのだ。

「僕は、小泉政権時の郵政民営化、規制緩和など新自由主義といわれる大企業のための政策が格差社会を生み出したことは支持していない。だが、脱原発というシングルイシューで選挙を戦う小泉元首相が推すのが細川護煕候補というのなら、脱原発を実現するために細川候補に都知事になってもらいたい」

自分が買った映画を評価した人の志に1票!というのはとても明快だ。きれいごとでもなく、独善的でもなく、その原点は映画という仕事への愛であり信念なのだ。私もそんなふうに誰かを信頼し、投票してみたいなと思う。

「100,000年後の安全」は、安全なレベルに達するまで10万年を要する放射性廃棄物についての映画だ。最終地下処理場であるオンカロは2100年に閉鎖され、半永久的に埋葬されるという。後生の人々が、オンカロを見つけて掘り起こすことだけは避けねばならないが、危険な場所であることを彼らにどうやって伝えるかが虚しく論議される。10万年後の人々は、人ですらないかもしれないのに。

映画は観客を「何らかの理由でオンカロの入り口に来てしまった子孫」に見立て、手紙のように語りかける。10万年後の状況に確信を持とうとすることの無意味さと傲慢さ。退屈もときめきもなく、ばかばかしいほど美しく静謐な映画だ。

2014-1-31

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2013年映画ベスト10

●オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ(ジム・ジャームッシュ)

●熱波(ミゲル・ゴメス)

●孤独な天使たち(ベルナルド・ベルトリッチ)

●東ベルリンから来た女(クリスティアン・ペッツォルト)

●ジンジャーの朝  さよなら、わたしが愛した世界(サリー・ポッター)

●父の秘密(マイケル・フランコ)

●フライト(ロバート・ゼメキス)

●陽だまりの彼女(三木孝浩)

●リアル  完全なる首長竜の日(黒沢清)

●ハンナ・アーレント(マルガレーテ・フォン・トロッタ)

2013-12-30

『オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ』 ジム・ジャームッシュ(監督)

世界で最も美しいユニットは、こんな二人。

アダムとイヴはヴァンパイア(吸血鬼)の夫婦。30代のトム・ヒドルストン(187㎝)と50代のティルダ・スウィントン(180㎝)が演じている。光に弱いから明るい時は寝ていて夜にしか活動しないわけだが、それだけでシンパシーを感じる。アダムは古いモノを好む神経質なタイプで、イヴは新しいものを柔軟に取り入れるタイプ。ライフスタイルも身長も年齢差も役割分担も、イマドキな感じなのだ。

彼らはゾンビ(人間)たちの世界で身をひそめ、何世紀も生きてきたが、人間を襲いダイレクトに血を吸う前世紀の野蛮さはない。不死身のヴァンパイアといえども、汚染された血液を飲めば命はないのだから。彼らのデカダンスは、ゾンビたちにはマネできないレベルで洗練されている。早朝から陽の光を浴びて運動し、元気に朝食を食べる現代の高齢者とは対照的だ。

アダムは、名前を世に出さない伝説のカリスマミュージシャン。『彼女は嘘を愛しすぎてる』で佐藤健が演じた天才サウンドクリエイターのアキのように不機嫌でかっこよく、財政破綻でゴーストタウン化したデトロイトに住んでいる。一方イヴは、さっと本をなでるだけで読書できる能力をもち、ビートニクの聖地であるモロッコのタンジールで暮らす。彼らはスカイプで会話し(イヴはiPhone、アダムは古いテレビを使って!)、サングラスをかけてリュミエール航空の深夜のファーストクラスでヨーロッパを経由し、2つの都市を行き来する。

奇跡の歌声に出会うタンジールの街角や、夜のドライブで車窓に流れる廃墟寸前のデトロイトの街並みの美しさといったら。ガソリンまで手に入りにくくなった震災直後の日々、フロントガラスから目に焼き付けた、照度が落とされ閑散とした都内の光景を思い出し、泣けた。私があのとき見た非日常は、美しさでもあったのかと。

恍惚の表情で赤ワイン(上モノの血液)を味わい、レコードを聴き、チェスをし、尽きない昔話や量子力学についての議論をするふたり。ゾンビたちの中心地ロサンゼルスからやってくるイヴの妹(ミア・ワシコウスカ)の無茶ぶりが、彼らの憂鬱を際立たせる。アダムとイヴはヴァンパイアの中でも類い希な高尚さをもつマイノリティであり、汚染された世界のリトマス試験紙のようなものなのだ。血液を手に入れる闇のルートが閉ざされたとき、彼らはどうするか。絶望のはてに全財産を注ぎ込んで買うものは何か。それがラストシーンだ。生命の危機の場面で美学をどう貫くかってことだけど、貫けなければ自死せよと言わないところが圧倒的にステキ。これは優先順位の問題であり、死んでしまってはダメなのだ。

彼らにとって、最後まで守るべきは愛と音楽。私たちもゾンビになる前に、季節外れのベニテングダケが道端に生えてくる前に、ゾンビとは違うやり方で、志を同じくするヴァンパイアを見つけるべきだろう。最後に必要なものは何なのか、誰なのか。

癒しと絆にまみれた接続過剰なゾンビ的監視社会から眺めると、この映画の絶望と毒は果てしなく美しい。ヴァンパイアとは、究極のオトナの不良なのである。つまりジム・ジャームッシュ監督自身。この先何十年も、できれば転生して何世紀も、お洒落で笑える映画を撮ってほしい。それだけで世界の希望です。

2013-12-29

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