BOOK

『アー・ユー・ハッピー?』 矢沢永吉 / 日経BP社

彼がハッピーになれない理由。

「矢沢はみんな教えてもらった、オレから盗もうとするヤツらから」。

身内に裏切られ、30億円の借金を抱えるはめになった裁判中のオーストラリア事件。矢沢永吉は言う。「オレは運命に愛されていると思う。だってそうじゃないか。運命がオレを見限っていたら、きっとオレを殺しただろう。精神を狂わせる。ステージに立てないようにする」「金は無くしても、物は無くしても、気持ちは失っていない。大事なのはそれだ」

彼は誰にも負けないのだ。ソロになったとき、責任もって面倒みるからという男が現れるが「いちど彼の下についたら、オレは死ぬまで下につかなきゃいけないんだな」と気付き、26才で会社を起こす。やがて製作・興行のすべてを自社で仕切り、キャラクターグッズや肖像権の管理まで手がけるようになるが、彼はビジネスが好きなわけでもないし金の亡者でもない。ハゲタカのような連中と戦ってきた彼には、誰かに依存すれば五分と五分の関係になれず、不安に脅かされ続けることがわかっているからだ。「何が目的かといえば、あいつらに『なめるなよ』とやってみせること。それを達成したら、もういい」

自立していれば何でも言えるし、堂々としていられる。そんな精神論を説いた本だ。彼が最も尊敬しているのは広島のおばあちゃん。彼女は極貧の中で矢沢を育て、70歳すぎても草刈りをして市役所から日当をもらい、子供たちの世話にもならず、自分の金で誰にも気兼ねすることなく酒を飲んでいたという。「オレは女に育てられた。広島の祖母に育てられ、最初の女房に育てられた」

その後、運命の女性マリアと出会い89年に離婚。マリアは彼に「あなたはもっともっと上に行く男だし、行かなきゃいけない」と暗示をかけ、「ジーンズも似合うけど、アルマーニも着こなせる、そういう男にならなきゃ」と金の使い方を教えた。すみ子(前妻)と子供に対する罪悪感は、今も彼の頭から離れないという。一緒に苦労してきた女を捨てざるを得なかった男の辛い心情が吐露されている。

切ない話である。だけどしょうがないじゃん、と私は思う。「自分に、いま、大事にしてる女がいる」と彼に言われ、わーっと泣いたすみ子。その後「本当に終わってしまうんだったら、なぜもっと早く別れてくれなかったの…。私ももう四十歳…」と言ったすみ子。これらを真に受けるなら、捨てられて当然だ。彼の理想の女は、最後まで誰にも依存しなかった広島のおばあちゃんなのだから。

「彼女と、なぜ、六十、七十になるまで一緒にいられなかったんだろう。死ぬまでなぜ一緒にいられなかったんだろう。彼女に、なにかはっきりとオレにわかる欠点があったら、どんなに楽だろう。もちろん、これは男の勝手だ」とあるが、私はこの手のナルシシズムが好きではない。不要になったから捨てたんだとはっきり告げるべきだと思う。女に恨みを言われたら、自分の恨みもぶつけなくちゃフェアじゃない。女を傷つけたら、傷つけた理由を説明しなくちゃ納得できない。男が一方的にあやまり、罪悪感に酔い続ける限り、女は前へ進めない。だって、結局のところ、彼女は捨てられたのだから。

黙っていていいのか、すみ子? 「アイ・アム・ハッピー!」というタイトルの本でも書いたらどうだろう。彼がすべての権利を管理しているから出版は難しいかもしれないけど。この本を読んでいると、余計なお世話だが、マリアと子供たちとのハッピーな生活に一抹の影を落とす彼の良心の呵責を軽減してあげたいと思ってしまうのだ。すみ子、今こそリベンジのチャンスだ!

2001-03-26

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『プラナリア』 山本文緒 / 文芸春秋

終わらない日常。変わらない自分。

私たちの日常は、まるで山本文緒の小説みたいだ。
他人との違和感をテーマにした、5つの短編変奏曲。

1「少しくらい違和感があってもこの人はいい人で、私の憧れの人であることは変わらない。まったく違和感を感じない他人などこの世に存在するわけがないのだから」(プラナリア)
ー乳がんを切除し、今も治療中の主人公は、露悪的に自分の病気の話をし、他人を困らせてしまう。彼女の傷は、誰にも私の気持ちなんかわからないだろう、という投げやりなアイデンティティなのである。

2「私は自分がやがて立ち直って、また社会に出て働きはじめるであろうことは分かっていた。疑問を持ちつつもまた前へ前へと進んでいくのだ。それが何故だか分からないがとても悔しかったのだ」(ネイキッド)
ーこの短編の主人公は、夫と仕事を同時に失った女。なかなか立ち直ろうとせず、周囲を心配させるのだが、彼女の傷もまた、露悪的な凶器となって他人との溝を深める。

3「心から怒ってないじゃん。子供の頃はうちのママは優しいんだな、なんて思ってたけど、実はあんまり関心ないんだって大人になって分かったよ」(どこかではないここ)
ー淡々と仕事をこなす母親が、子供たちから「リストラ」されてしまう話。日常のぼんやりした違和感は、大きく爆発することがないゆえに、歪んだ形で子供たちに伝わってしまう。

4「私は恋愛感情のない男の人とだったら気楽にセックスすることができた。どこかねじ曲がってはいても自分にも性欲があることにびっくりした。そして朝丘君も実は同じような問題を抱えているのかもしれないと思うようになった」(囚われ人のジレンマ)
ーセックスレスの恋人である朝丘君と私は、心理学を媒介にして気持ちを探り合う。いちばん近い存在なのに、不信感が深まるばかりでプロポーズに応えられない私。

5「マジオさんはさー、どうして自分の思う通りにいかないと、いちいち怒るわけ?」(あいあるあした)
ー妻に捨てられた後、素性も知らないまま同棲した女に、こんなことを言われてしまう男。彼が苛立つ理由は、自分の心を誰にも開くことができず、したがって、誰かを問い詰めることもできないからだ。

いずれの短編も、他人が信じられず、素直になれない人たちを扱っている。プライドが高くて、傷ついていて、動揺していて、疲れている人たち。何が間違っているのか、どうすればいいのか、明快な答えが出ないところが説教くさくなくていい。だから、どの短編にも終わりがない印象。人の性格は簡単に変わらないし、問題は簡単に解決しないけれど、そのままでいいんじゃないかと肯定されているような穏やかな気持ちになる。

自分の受けた傷や違和感と、時間をかけてきちんと向き合っていくことは大切だ。立ち直れとか、まともに働けとか、素直になれとか、他人にとやかく言われる筋合いはないし、世の中の常識的なテンポにあわせる必要なんてないのだと思う。私たちには、ささやかなプライドを守りながら、ゆっくりと不器用に生きる自由がある。

2001-03-16

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『聖邪の行進―幻想戯曲「解放軍」より四季のある楽園』 窪塚洋介 / ぴあ

恋愛は、自分のために。

「絵のない絵本」と帯に書かれている。ブルーの文字と白い紙。それだけの色しか使われていない静かな本だ。静かだから、本屋で目立っていた。ぜんぶ立ち読みしてしまおうという誘惑にかられたが、帯にもうひと言、「どうか ゆっくりと読んでください 窪塚洋介」とあった。クボヅカくんに、そう言われちゃあ仕方ねえ。私はこの本を購入し、リゾートっぽいカフェで読むことにした。帯のコピーというのは、第三者があおるより、本人が静かに書いたほうが効果的なのかもしれない。気になる俳優が書いた本、という予備知識だけでは、おそらく買わなかっただろう。

島にすむ「僕」は、一人で海を見て、煙草を吸い、白いレンガの家で本をよみ、風呂に入り、眠り、朝食を食べ、海にもぐり、夢を見て、ビールを飲み、テレビをつけ、町まで買い物に行くために飛行場へ行き、ポーターと話をし、飛行機に乗り、女と出会い、だけど一人で食事し、本を買い、ダンスホールへ行き….

その間、絶えず考えているのは「君」のことだ。白いレンガの家を出て行ってしまった「君」のこと。どんな事情があったのかわからないけれど、とにかく「僕」はまだ、「君」に執着している。だから、魅力的な女が近づいてきても、「僕」は何も感じない。

 「人はどの瞬間にどうやって
 人を愛するのだろうか
 どんなに論理的な理由をくっつけてみても
 メッキにしかならないのだということは
 だいぶ前からわかっているつもりだ」

女に食事を誘われるが、今は一人でいるべきだと思った「僕」は断る。「君」の存在がなければ、間違いなく自分からアプローチしていたであろう女の誘いを。

 「君と出会っていなかったら
 僕は今
 何を想い何を考えているのだろう
 未来は奇跡なのだろうか
 過去は運命なのだろうか」

恋愛の苦しさって、こういう、わけのわかんなさだ。どうして出会ってしまったんだろう? 出会ってよかったのか? 一体何のために? なぜこの人でなければダメなのか?・・・・・意味を求めようとすればするほど、足元をすくわれる。結局は、相手と向き合うしかないのだ。でも、相手が目の前にいない場合は、自分の気持ちと向き合わざるを得ない。そして、何か具体的な行動を起こし、気持ちに決着をつけるしかない。

自分の気持ちと向き合うのは、こわい。考える時間が山ほどあるのは、つらい。このままじゃいけないという気持ちを一時的にごまかすには、誰かに一緒にいてもらえばいい。そうすれば楽だけど、でも、やっぱり、それじゃあ何の解決にもならないんじゃないかって思う。

「僕」のように、一人でいるべきだと思ったときは、どんないい女(男)に誘われても断ること! 一人でいるべきだと思わなければ、どうでもいいんだけどね(笑)。要するに、それは、誰かを裏切らないということではなく、自分の気持ちを裏切らないってことだ。

こういうことが、ちゃんとできている人って強い。曖昧な気持ちのまま行動して、他人を傷つけたりすることもないだろう。そのとき、どんなに苦しかったとしても、幸せになれる人だと思う。

2002-03-09

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『ぐるぐる日記』 田口ランディ / 筑摩書房

田口ランディは、生身がおいしい。

田口ランディの本の中では「ぐるぐる日記」がいちばん刺激的である。

長編小説はあまりに時流に乗っており、短編小説はあまりに巧く、エッセイや対談はあまりに教育的。要するに、できすぎているのだ。できすぎた設定や結論を読んでいると、自分ができの悪い男になったような気がしてくる。女の私でさえそう感じるのだから、本当にできの悪い男が田口ランディの本を読んだりしたら、かなり教育されちゃうことは間違いない。「オヤジに説教させたら右に出るものなしと言われたあたし」と本人も書いている。

私は享楽的に生きている女なので、完璧に構築された世界よりも、どちらかといえばもう少し不完全な世界、未完成な作品が好きである。その点「ぐるぐる日記」には、彼女の生命力とともに不安定な弱さや矛盾の片鱗が見られ、乱れた息づかいが感じられる。体調不良な日があり、馬鹿おもしれえ日があり、泣きたくなる日がある。夫を罵倒する日があり、ほめちぎる日があり、失礼な原稿依頼やメールにタンカを切る日がある。生身の田口ランディに最も近づけるのがこの本なのだ。オヤジには刺激が強すぎるかもしれないが。

「この日記は九十九%真実です」というあとがきを読み、つい1%のウソ探しをしてしまった。まず「あたしから書くことを取ったら何もない。無能なバカ女である」というのはウソだ。テレビ出演の際、初対面のテリー伊藤に「あんたおもしろいねえ!」「ゲストでしゃべりが面白い人ってめずらしいよ」と絶賛されちゃうほどタレント性のある彼女が「ただの田舎のオバサンの私」であるはずはない。「人前であがることもないし恥ずかしいと思うこともない」というし、銀座のホステスという輝かしい経歴もある。たとえ書かなくても、しゃべったり歌ったり踊ったりして人々を救う人物であるにちがいない。

「育児と家事に追われて、たまに原稿を書いている酒好きのオバサン」というのも大ウソである。ある日などは、午前中に30枚小説を書き、もう20枚書き続け、その後ビデオを1本見て、もう1本は夜中に見ようという。超人的だ。速読もできるそうだが、追われているのは「育児と家事」だけではない。しょっちゅう旅に出たり、東京に出たり、飲んだくれたり、自由と孤独を味わったりしているから忙しいのである。これって筋金入りの物書きじゃん! 安定した生活の場と夫と子供が、彼女をのたれ死にから救っているともいえるが、彼女自身はひょっとしたら家族に看取られるよりも、のたれ死にを選ぶのでは?と思わせるところが、すごくいい。

「私は、過去にも今も、有名になりたいという向上心を持った事がない」という一文には唸った。うーん、これは真実だと思う。彼女は長い間、身内およびネット上の限定的なカリスマであり続けたらしい。きっと、有名になること、金を稼ぐことが第一の目的ではなかったのだ。そのかわり、個人の責任で発信するメールマガジンに好奇心とジャーナリズム精神をたっぷりつぎこんできた。価値ある内容だ。無報酬だからといって手を抜いたりしない。好きなことを自由に書き、読者の反応によって学習し、世界を自在に広げてきた。彼女のやっていることはビジネスでも趣味でもなく、純粋な動機に基づいたプロの仕事だと思う。

1年間の日記とともに、メールマガジンを一部収録し関連づけている点が面白い。彼女が日々の生活からどんなふうにテーマを選択し、コラムを書いているのかがわかる。生身の田口ランディが感じられるだけでなく、ちゃんと勉強にもなっちゃうのだ。そういう意味では、この本も、できすぎている!

「感読 田口ランディ」に収録されました。

2001-02-28

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『バトル・ロワイアル』 高見広春 / 大田出版

誰かを愛することは、別の誰かを愛さないってこと。

先週、私が分身のように可愛がっていたマッキントッシュ パワーブックが盗まれた。大打撃なんてもんじゃない。日本の安全神話は崩れている―そんな言い古されたような言葉が、初めて実感を伴った。悔しいし、悲しいし、恐ろしいし、仕事になんないし、だけど、そんな状況に負けたくない…という気持ちが入り混じっている。「バトル・ロワイアル」にふさわしい戦闘的な気分である、といえるかもしれない。ほとんど投げやりですが。

(というわけで、インターネット書評コンテストでいただいたピカピカのWindowsが、いきなりメインマシンになった。使いやすくて快適! 不幸中の大幸い! なんてありがたいんだろう)

映画が「描写」なら、この原作は「解説」だ。殺し合いゲームに参加させられる生徒一人ひとりの足取りと葛藤、生まれ落ちた環境や家族、恋愛といった背景を詳細にたどってくれる。人物の内面に自在に入り込み、死ぬ間際の心境まで説明してくれたりもする。視点がばらばらという意味では散漫だし、かなりの長さでもあるが、「書きたいことを制約なく書いた」という作者の満足感のようなものが伝わってきて爽快だ。

たとえば、徹底的な特殊教育により、世界中のありとあらゆることを知っている桐山という生徒がいるのだが、そんな彼も、自分の奇妙な感覚の原因だけは知らなかったと説明される。母親の胎内にいたときの事故により、微細な神経細胞が破壊されたのだ。そういうこの世の「誰も知らない事実」が神の視点から語られる。

「ピーナッツのように左右半分ずつが上下にずれた顔。そしてその死体は、ほんのすぐそこに転がっている。ごらんください、世にも不思議なピーナッツ男です―」
「美少女二人が見つめ合ってるわけだ。アクセサリに、目をつぶされた男の死体。あらまあ、なんて美しいの」
「頭の右上から、何か、細長くデフォルメしたカエデの葉のような形の、赤いしぶきが、伸びていた」
「うわあ、それ、すごくいい方法じゃん!俺、これがパソコンゲームか何かだったら、絶対そうしちゃうな」

作者は明らかに、ふざけている。だが、このデフォルメしたゲーム感覚のノリこそが、現代のリアルなんだと思う。真剣勝負の時に限って、くだらないジョークを思いついてしまったり、悲劇的な状況の中ですら、それをネタにして友達を笑わせようと考えていたり…これが私たちの、どうしようもない日常であり、傷つかずに生きるためのしたたかな処方箋なのだから。

生徒の一人は「誰かを愛するっていうのは、別の誰かを愛さないっていうことだ」なんてセリフを吐く。この小説のテーマはここに尽きるだろう。私たちは、何かを選びとらなければならないのだ。まったく、勉強になるぜ。

私自身、嫌な事件があったおかげで、自分にとって大切なものは何か、最後に選びとるべきものは何か、ということが以前よりもクリアになってきた。少なくとも、モノやお金じゃないってことは確かだ。

2001-02-04

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