BOOK

『心とは何か – 心的現象論入門』 吉本隆明 / 弓立社

助けてくれ!

アメリカの映画専門ケーブル局は、テロの当日こそニュースを放映していたが、2日目からは揃いも揃って戦争映画ばかり放映しているという。NYで仕事をしている友人は「行く先は不安だらけ」とショックを顕わにしながらも「現実から逃避したい」と言い、最近ビデオで見たらしい「バトル・ロワイアル」「はなればなれに」の感想を楽しそうに語ってくれた。励まそうなどと不遜なことを考えていた私のほうが元気づけられるありさまだ。

今朝の朝日新聞に「公園で2歳の息子を遊ばせている間に、乳母車のポップコーンをホームレスに漁られた」というような投稿があった。「何十年か前、彼もだれかの大切な赤ちゃんだったのにと思うと、なぜか涙がこぼれた」という彼女は、ポップコーンの残りをホームレスに与えるのだが、その男、彼女の息子に比べて本当に不幸だといえるのか? 感傷に浸っている場合ではない。憂慮すべきは2歳の子供の将来だ!

こんなことを思ったのは、本書に収録された講演録のひとつ「異常の分散―母の物語」を読んだ直後だったから。個人の精神の発達史において、0歳から2歳までの乳児期と、幼児期をすぎて思春期にいたるまでの2つの期間が「不可解」であり、「この時期なしに精神の病はありえない」らしい。精神の病は、母親の物語と深く関わっており、授乳のしかたは乳児にとって決定的な意味をもつ。「本当は子どもを産みたくなかった」「夫が憎い」というような気持ちが深刻な形で続けば、実存的な影響が生涯にわたって及ぶというのである。

吉本隆明は、ジャン=ジャック・ルソー、三島由紀夫、太宰治、分裂病女児ジェーンの4人の生い立ちを例にとり、実存的な解釈を試みる。三島由紀夫は、ひどい育てられ方を意志の力で超えようとし、世界的な作家になったものの「老いにいたる前のところで、やっぱりじぶんで死んじゃうことになった」し、偉大な思想家であるルソーも「じぶんの生涯は不幸だった」と述懐する。彼らの功績は奇跡にすぎず、ほとんどの不幸はそれを超えることができないのだという記述は鋭く、「実存の不幸というものは、そんなことには代えられないほど重要なことのようにぼくにはおもわれます」と著者はいう。

人間は、母親の物語に深刻に追いつめられた場合、回避、常同、作為、妄想、幻覚といった「異常の分散」によって克服しようとするらしい。著者は、自身の語り方の中にある「異常の分散」のパターンについてこう語る。

「ぼくなんかも、今しゃべった話を速記か何かで見ると、なんてくどくどと同じことをいってんだっていうくらいうんざりする常同的振舞いや言葉があります。(中略)本音をいうと、どうやって振舞っていいのかとか、どういう言葉を使ったらいいのか判らないけど、本当は簡単で『助けてくれ』っていってるわけです。助けてくれといいたいんだけど、助けてくれという言葉はいえなくて、常同的な振る舞いとか、常同的な言葉をいっている。しかし、本当は何をいいたいのか。要するに、『助けてくれ』っていいたいんだ。あるいは、『もう地獄だよ』ってことをいいたいんだ。しかし、常同的な言葉や振る舞いでしかいえない。そういうばあいには、たぶん母親の物語の中に枠組みがなかったとはいえないまでも、枠組みがとても不安定だった。それがある期間持続した。そう物語的にいえば対応関係がつくようにぼくにはおもわれます」

助けてくれ、と皆が言っているような気がしてくる。私も毎日、それだけを言い続けているのかもしれない。
人間のあらゆる行為が「異常の分散」に見えてくる。

2001-09-15

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『母は松田聖子、私は女優14歳』 SAYAKA / 文芸春秋10月号

14歳の文章に学ぶ。

日曜の深夜、セブンイレブンで月曜売りの文芸春秋を見つけた。 コンビニに文芸春秋? なんか、似合わない感じ。目次を見ると、松田聖子の一人娘、SAYAKAの文章が掲載されていた。

彼女が主演し、カンヌ映画祭で短編部門のパルムドールを受賞した「BEAN CAKE(おはぎ)」のこと、ロスの日本人学校のこと、オーディションを受けた理由、撮影中のエピソード、CMデビューの話などが7ページにわたって綴られる。母親については、超素敵で超カッコいい、何でも話せてわかりあえる親友のようなママであると大絶賛。オーディションの際も、親身に協力してくれた母だが、演技指導は一言もなかったという。

「私が松田聖子の娘として生きているぶん、母が作りあげた”SAYAKA”にしたくなかったのではないかと思う」
「母をただ外から眺めているだけでも、芸能界で仕事をしていくことの大変さが伝わってくる。外側から見える華やかさ、そして内側に秘めている地道に続けて来た数々の努力、沢山のつらいこと。何か少しでも動けば、それが全国の人に知れ渡ってしまうプライバシーのなさ」
「おそらく母は、芸能界に入って、普通に暮らしていればしなくても良い苦労や痛みを私に経験させたくなかったんだと思う。デビューした今、母に守られていると実感する」

この文が、純粋に彼女によって書かれたものであるなら、彼女は母親以上に周囲に気を遣い、愛想をふりまくことのできる天性の「ぶりっこ」なのかもしれない。文末にしばしば使われる(←笑)という記号にも、それが現れていると思った。 私は、メールなどで(笑)を使わないで済ませる方法をいつも考えているのだが、うまくいかない。代案として(←笑)はちょっと新鮮だ。矢印を入れることで、文章と距離ができるような気がする。しばらく(←笑)を使ってみようかな。そうすれば、(笑)もそのうち自然にやめられるかもしれない。

中学生の女の子が発する生の言葉といえば、「ラヴ&ファイト」(新潮社)だろう。雑誌「ニコラ」の読者ページに寄せられた手紙を編集した本で、「我マンしちゃ×だよ!!がんばれ→」というような勢いのある文章が並び、彼女たちの悩みの純粋さと、それに対する励ましの一途さが、ダイレクトに胸を打つ。

たとえば、クラスの男の子に更衣室で乱暴され、それを訴えた友人達にも裏切られ、親にもいえず、先生も聞いてくれないという14歳の「HELP ME」さんの悲痛な叫び。そして、それにこたえるいくつもの手紙がある。そのひとつである14歳の「ドラえもん」さんの言葉。

「ひどい!ひどすぎるよ。それにクラスの人もひどい事言うんですね!キズついたのは『HELP ME』さんでしょ?だったらなぐさめたり、もし知ってても知らないフリをしてあげるべきだと思います。でも、死んじゃだめ!私も昔何度も思った。でも悪いのは、あなたじゃない!E君でしょ!!だからだめ!それからその学校の先生!相談に乗ってあげてよ!なんで聞いてあげないの?それでも先生なんですか?もうこうなったらきちんと親に話して、校長先生やPTAの人などにうったえて、なんとかしてもらおう!このままじゃなにも変わらないと思うよ!Fight!!」

SAYAKAに学び、ドラえもんに励まされる。いろんな14歳がいるなと思う。

2001-09-11

『映画突破伝』 江戸木純/叶井俊太郎 / 洋泉社

愛は、タブーをつきぬける。

ギャガ・コミュニケーションズを経てエデンを設立した映画評論家の江戸木純と、アルバトロス・フィルムのプロデューサーである叶井俊太郎。本書は共に1960年代生まれ(つまり働き盛り)の2人のトークだ。深夜にお茶かお酒を飲みながら、だらだらずーっと聞いていたいような掛け合いだが、明け方ソファに寝転んで頁をめくりはじめたら異様におかしくて、ゲラゲラ笑いながらあっという間に読んでしまった。

叶井にとっては、会社を首になるほどやばい話であるが、 映画好きの甘い幻想を打ち砕くバクチ的な業界事情は、目からウロコのアナザー・ビュー。実話とギャグの境界線上に、捨て身の格闘ロマンがたちのぼる。

江戸木はギャガ時代、ビデオ作品の邦題を決めてコピーを書き、チラシ裏の解説を書き、ビジュアルの指示をする作業を月に15本もやっていた。しかも「映画史にまったく残らないようなものばかり」で「わざわざそんな映画を観なきゃいけないんだから、だんだん頭がおかしくなってきてね」と。時には何も観ないでドキドキしながらストーリーを書いたそう。

叶井は社運をかけた「アシュラ」を渋谷で公開中、劇場に客が一人もこない回というのを経験する。観客動員数のファックスに「ゼロ」とあったのが信じられなかった彼は「ゼロって何?渋谷には人がたくさんいるのに!」と叫ぶ。 劇場では、遅れてくる人のために1時間だけフィルムを回すそうなのだが・・・。

逆に、宣伝費をかけないのにヒットした例もある。「肉屋」という映画がそれで、タイトルに妙に反応したスポーツ紙や週刊誌が勝手に取り上げてくれ、「お願い、肉屋さん。私の熟肉(おにく)を荒々しくさばいて…」のコピーに反応したシニア層が殺到したという。「郵便屋」も同様にヒット中のようだが、アルバトロスの最新配給作品は来年公開予定の「アメリ」。これは本国フランスで大ヒットした正統派で、社員によると「この会社にいて初めて良かったと思えた」とのこと。いい話だ。

「賞が取れなくても、映画はヒットしたほうが偉いんだよ」と江戸木はいう。「観客がいちばん偉いという考え方が、日本では欠落している」とも。たしかに映画を作ることのほうが上で、配給や宣伝は下という考えはおかしいかも。「映画って、そんなに格調高いものじゃないよ。ウソだと思うなら、アルバトロスの作品を観てくれって(笑)」という叶井は、トロント映画祭で、ある日本映画を観た際に「最悪ですね。寝ちゃいましたよ」と正直に配給の人に言ったところ、プロデューサーが隣にいて会場を追い出されたという。

江戸木「ふつう、つまんなきゃ寝るよね。それって、バスがタラタラ走る映画じゃない?」
叶井 「当たり(笑)。いやぁ、恐かったよね。マジでビビったよ」

これって、どう考えても青山真治の「ユリイカ」じゃん! 自社配給の映画は嘘をついてまで宣伝するが、好みではない他社の映画には一切コビを売らない姿勢が、すがすがしい。

江戸木「僕は、上映後にお客さんが出てくる時の雰囲気がとても好きだな。『ムトゥ 踊るマハラジャ』は、みんながニコニコして出てきてくれて、それは非常に忘れがたい思い出になったよね」
叶井 「それは、この仕事をしていて、いちばん幸せな瞬間だから」

どんな業界にも暴露話はある。「会社に関わる人間はひたすら真面目に仕事をしている」なんて信じてるウブなお客様は今どき皆無だろう。 私たちは、不真面目で愛おしいオシゴトの中で一体何ができるのか? 何のためにオシゴトをするのか? あらゆる考察や革命は、本音で語ることから始まると思う。

2001-08-27

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『文学2001』 多和田葉子ほか / 講談社

21人の作家を比べ読み。

日本文藝家協会が編んだ21の短編集。この手のアンソロジーは、ふだん手に取らないような作家の作品が、ついでに読めてしまうのが楽しい。

石原慎太郎、佐伯一麦、高井有一、多和田葉子、津島佑子、三浦哲郎、吉村昭、田久保英夫、大道珠貴、ピスケン、赤坂真理、古山高麗雄、佐藤洋二郎、堀江敏幸、森内敏雄、川上弘美、林京子、夫馬基彦、司修、岩橋邦江、日野啓三というラインナップ。2000年の文芸誌に掲載された「名人芸」が一作ずつ披露される。

家族の話が多いが、ワンパターンというわけでもない。幽霊、舅、死んだ妻、死んだ子供、死んだ父、戦死した夫、苦悩する母、死んだ友人、原爆、ウーマンリブ、病気の恋人、冷たい母・・・大雑把にいえば、こんなテーマやアイテムが並び、いずれの作品においても、人生における静かな葛藤や憂鬱や喜びが独自の視点からあざやかに切り取られている。 短編小説のネタというのは永遠に尽きないのだろうと信じられるほどに。

ただ、年配の作家によって語られる家族の話の多くは、見知らぬ親戚が集まる盆暮れのような独特の匂いに満ちており、まとめて読むと、すこし保守的な気分になってくる。
(純文学を読んで保守的になる? そんな馬鹿な!)

ベスト3を選んでみた。 小説としての面白さや完成度の高さとはほとんど関係なく、強いて言うなら「すごく気になる部分があったベスト3」。 私は結局のところ、小説に驚きや意外性のみを求めているのだ。

<3位> 日野啓三「『ふたつの千年紀(ミレニアム)の狭間(はざま)で』落葉」
病人の話なのに明るく、しかもそれが、ごく普通のテンションであることが面白い。老境の身軽さとでもいうべきものなのか? クモ膜下出血で病院に行く夫を「笑って」見送る妻。そして、この小説のキモとなる医師。病気の憂鬱さや現代医療が抱える問題点とはまったく無縁の会話が、奇妙に素敵。
タイトルの仰々しさと、ミレニアムを考察した導入&結末は不要だと思う。たった3ページの作品だが、それでも説明的で長すぎる。

<2位> 田久保英夫「白蝋」
「隼人はまた、洗剤入りのコーヒーを飲まされた」という書き出し。女は、男を帰したくないがために、このような行為をしでかす。 こんな女の話は読みたくないし、男もバカなんじゃないの?とうんざりしたが、後半、私は、この女の魅力を生理的に理解できてしまうのである。彼がなぜ、彼女に惹かれているのかということを。
全体のトーンはやや紋切り型であるにもかかわらず、実験的な香りのする作品。

<1位> 多和田葉子「ころびねこ」
軽やかで芯のない会話から浮かびあがるホモセクシャルのナイーブさ。 言葉からの発想はこの作家の真骨頂だが、ジェンダーの曖昧さを浮き彫りにした、小説ならではのテクニックは素晴らしい。数人の会話によって成り立っている小説だが、各々の性別が不明であることに読み終わってから気付く。「僕」「あたし」「おまえ」などの文字面は、何の手がかりにもならないのである。
多和田葉子の小説は、私たちを、保守的な気分とは対極の場所に連れ出してくれる。

100%のホモセクシャルや100%のヘテロセクシャルというのは、どこか嘘っぽい。現実には、多くの人々が、性別の不確定さに揺らいでいるのではないだろうか。規範から自由になればなるほど、家族以前のあやふやな人間関係が、面白くなってくる。

2001-08-07

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『婉という女・正妻』 大原富枝 / 講談社文庫

作家は顔で選べ!

CDをジャケ買いしたり、ワインをラベル買いしたり、外見で人を好きになったりといった行為を、私は正しいと思う。ひとめ見て好きだと思えた人やモノは、ずっと好きでいられるような気がする。

だが、ひとめ見て「いい顔だな」と思える大人の女性は少ない。若いうちは皆きれいだけど、年齢を重ねるほどに外見がよくなっていく女なんて皆無といっていい。歳をとるのが楽しみになるような、お手本的な女性はどこかにいないものだろうかとため息をついていたら、吉本隆明「僕ならこう考える」(青春出版社)の中でこんなことを書いていた。

「女流の文学者で、この人はいい顔してるなあっていうのは、たった一人、その作家は好きですけど、大原富枝さん。ちっとも美人でもなんでもないんです。ただのおばさんていえばただのおばさんていう顔で、そのとおりなんだけど、なんともいえない、ただのおばさんの顔に一種なんか味みたいのがあって、この人はなかなかいい顔だって思います。魅力的だと思う」

この一文で私は大原富枝に興味をもち、「息にわがする」という魅惑的なタイトルの随筆集を読んでみたのだが、文章といい感性といい実に素晴らしく、いきなりファンになってしまった。吉本隆明も指摘しているように、彼女のルックスは、いかにも女史といった偉そうな顔つきとは異なり、力みやストレスが感じられず幸せそうだ。(ここだけの話だけど…吉本隆明に似ている!)

彼女の代表作は、1960年に発表された「婉という女」。父の失脚のため、母や兄弟たちと共に40年間の幽閉生活を強いられた土佐藩の家老の娘、野中婉の生涯を描いた小説だ。40年間、身内以外の他者と出会うことがなかった婉が突然赦免され、自由の身になるという設定には本当にワクワクしてしまう。43になっても男を知らず、眉を剃らず、歯を染めず、娘時代のままの振袖姿でいる婉は、見世物の女を見るような残酷な視線を浴びるのだが、生きたい、恋したいという心身の叫びは切実である。

「四十年の幽獄に耐えた代償にそれがゆるされるなら、わたくしは先生の剛毅な精神と弾七の若く逞しい肉体を欲しい、といおう。二つながらに欲しい、といおう。男たちが幾人もの妻妾をもつように、わたくしも二人の男が欲しいと―」
幽閉生活の中、文通をとおして長年思いを寄せていた先生には、実は妻子があり、歳をとっており、肉体は小柄で貧弱だったのである。若い百姓である弾七の肉体に興味をもつのも無理はない。

私が最も心を打たれたのは、結婚して子を産む機会を与えようという政治的な情けを、婉が拒否するくだりだ。いわば女としての最後のチャンスを自ら封じるのである。精神は先生を愛し、肉体は弾七にひかれ、しかし現実にはどちらと結ばれることもなく、だからといって精神も肉体もなんのゆかりもない旧家臣の男との結婚に甘んじたりしない・・・・・このまっとうさ! 現代の小説にはなかなか見出せない潔さだ。

婉は、肉体の現実より精神の自由を選ぶのである。身内が次々と亡くなり、時代が変わり、61になっても婉は生きてゆく。先生の死後は、何事にも心動くことはないけれど、それでも婉は生きてゆく。表面的には何も起こらないからこそ、内面の強靭さが浮かびあがってくる。

この小説には、18歳で結核にかかり10年近い闘病生活を余儀なくされた大原富枝自身の人生が投影されている。大原富枝は87歳まで生き、昨年亡くなった。人生のある期間の輝きが失われようとも十分に取り戻せるのだと、彼女は身をもって教えてくれる。女が美しく生きてゆくために必要なのは、不屈の精神をもち続けることなのだ。

2001-08-03

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