BOOK

『肩ごしの恋人』 唯川 恵 / マガジンハウス

嘘っぽさが今っぽい。

るり子の3回目の結婚式に出席する、親友の萌。
るり子の夫となる男は、萌の元カレである。
萌は、結婚式が終わると、るり子の元カレ(既婚・初対面)とホテルに直行する。

萌とるり子は、こんなふうに平気で男を共有したり略奪しあったりするばかりか、互いにこう考えている。
「るり子が寝た男だと思うと、どこか安心するのだった」(萌)
「親友の恋人、というのはそれだけで十分に盛り上がる恋愛の要素を含んでいたし、何より信用できた」(るり子)

また、結婚に関しては、こう。
「今日から彼らは夫婦だ。これからは世間公認のセックスをするようになるわけだ。それはそれですごく恥ずかしいことだ」(萌)
「結婚式を済ますと、何だかみんなに『今日から大っぴらにセックスします』と宣言したような気分になり、急にしゅるしゅると体中から空気が抜けてぼんやりしてしまう」(るり子)

新宿2丁目を歩く時は、こんな感じ。
「男が自分のタイプだったりすると、ちょっと残念に思う。ああ、もったいない、女も悪くないのに」(萌)
「ここにいる男たちは、本当に、女の子よりも男が好きなんだろうか。それを思うと、もったいなくてため息が出てしまいそうだ」(るり子)

「肩ごしの恋人」は、双子のような萌とるり子の視点から交互に描かれる小説だが、驚くべきことに、2人は対照的なキャラということになっている。
「るり子はいつまでたってもわがままで傲慢で自惚れの固まりみたいな女だ」(萌)
「萌はいつだって律儀だ。小さい時からるり子と違って、自分の在り方にちゃんとルールを持とうとしている」(るり子)

しかし、いかに説明されようが、客観的に見れば「似たもの同士やん!」と突っ込みたくなる2人であることは間違いない。2人ともトウがたっていて、説教くさくて、世の中こんなもんだという諦めに似たステレオタイプな考え方をする。ストーリーは軽く、リアリティよりもネタ重視。どこかで聞いたことのあるような予定調和的なエピソードのサンプリングが延々と続く。

以上のようなことを差し引くと、この小説には何が残るのか? 最後まで楽しく読めた理由は、軽さとリアリティのなさが「今っぽい」と思えたから。自分の人生を、希薄なネタとしてドラマのように演じたり語ったりする彼女たちの姿は、どこか身近なものとして感じられる。実際、私自身が「信じられない!」と叫びたくなるようなリアリティのない行動をとる人間は、仲間うちにも、たくさんいるわけで。

そう、「仲間うち」というのがポイントだ。「私」と「リアリティのない人」の差は、決して大きなものではない。だって、それは「仲間うち」の話なのだから。萌とるり子みたいに、同じ穴のムジナであるに決まっている。そんなことを思い知らされるコワイ小説だ。

萌もるり子も、とっかえひっかえ男と寝る自由な女みたいに見えるけれど、ベースには漠然とした被害者意識がある。彼女たちは、相手との関係を深めるのがこわいのだ。男が好きなのに、つきあう目的は自分のプライドを満たすことでしかないから、結局は相手を遠ざけてしまう。まるで憂さ晴らしのような恋愛。

一方、男たちは、優柔不断で流されやすくて屈託がない。汚れないし傷つかないし悩まない。そんな彼らを、彼女たちは距離を置きながら肯定している。近づきながら否定するのでは決してなく、男を深く理解しようなんてヤボなこと、最初から考えないのだ。そんなことを始めたら、傷ついてしまうに決まっているから。

男に関しては手つかずの、少女小説なのだと思う。

2002-04-13

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『インストール』 綿矢りさ / 河出書房新社

彼女が大人の女性にイラだつ理由。

携帯電話に届くジャンクメールを「迷惑メール」と呼ぶのは無神経だと思う。いったい何が誰にとって迷惑なのか? 迷惑とは受け手の感受性であり、あなたの迷惑と私の迷惑は違うのだ。歓迎する人がいるから送り手がいるのであり、結果的にそのシステムは儲かっている。儲かっているけれど非難の声が多く不都合も出てきたから「迷惑メール」という人類共通の敵を曖昧に想定して「戦います!」なんて宣言している。これは明らかにシステム自体の欠陥なのに。

大人は、かくも迷惑なシステムや、そのほかにもいろいろ残酷な落とし穴をつくっておきながら、そこに未成年がハマったりすると、鬼の首をとったように大騒ぎする。

・・・でも、それほど心配する必要ないかも。現役高校生によって書かれたこの小説に登場する未成年の真っ当さに、私はほっとした。

小学生のかずよしは、古いコンピュータを拾うが、その理由として「お金がどうとかじゃないです、なんていうのかなあジャンクのコンピューターを使って押入れでぼろもうけ、そういうのに憧れたからでしょうか」なんていう。かずよしと共謀し「押入れ」という情緒的なシェルターの中で風俗チャット業を始める女子高生の朝子もまた、豊かで退屈で不自由で希望のない未成年期を何とかやりすごすために四苦八苦している。結末は最初から見えているし、彼らにもわかっているが、他にやるべきことがないのだから仕方ない。大人から与えられた味気ない世界に、本能的に知る限りのわずかな情緒を加え、少しでもいいものに仕立てようとする切実な行為。そこから彼らは大切なことを学んじゃったりもするのだから泣けてくる。コンビニのお惣菜で味覚をきたえ、栄養を摂取するしかないっていうような。

高校時代というのは、大人が羨むほどいいものではないと私は思うし、高校生のときは、もっとそう思っていた。26歳の風俗嬢の代わりにチャットを体験する朝子は「やはり女子高生というのはブランドらしい」と自覚しながらもそれを喜ばず、26歳を「おばはん」という客に憤慨する。たとえ今が旬といわれても、未来に希望がもてなければ虚しいだけなのだ。

朝子は、会話が途切れた後の沈黙を恐れ、 自分の母の屈折したアプローチにびびり、かずよしの母の不器用さに露骨な嫌悪感を示す。ここまでナーバスに大人の女性を糾弾する理由は、自らの内面にも同種の要素が巣食っていることに気付きはじめているからだ。母親という人種に対する生理的違和感と、それを超えて幸せにならねばという焦りは、父親不在、恋人不在の現実をほのめかす。朝子が信頼するのは、母でもなく、母と離婚した父でもない。パソコンを買ってくれた亡き祖父と、仕事を紹介してくれたかずよしと、説教してくれる同級生の光一という実用的な3人だけである。

かずよしの母が立ち去った後、「お礼」として朝子が思いつくのは、鍋の中に中途半端に残っていたなめこ汁を食べ切ってあげるという、拍子抜けするほど素直なアプローチ。だが、冷えたお椀を手にベランダのコンクリートに座る朝子の姿は、普通のコミニュケーションを得ることの絶望的な難しさを予感させる。

興味津々だった風俗嬢も、実は普通の母親であり、特殊な人々で構成されているように見えた風俗チャットも、ふたを開ければ普通の人間の集まりだった。バーチャルな世界は、いつだってリアルな世界の合わせ鏡に過ぎないことを朝子は理解する。屈折のない人生なんて、不器用でない生き方なんて、本当はどこにも存在しないのだ。

2002-02-09

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『小説家になる!2(芥川賞・直木賞だって狙える12講)』 中条省平 / メタローグ

書くよりも大切なこと。

ある文学賞を受賞したとき、私の小説を読んでくれた知人が、登場人物になりきった手紙をくれた。別の知人は続編を考えてくれた。次は私の話を書いて!と言ってくれる人もいた。そして「自分も小説を書きたいんだ」と多くの人が言った。

私自身はひ弱な想像力で小さな嘘をまいたにすぎない。けれど、一人の嘘は一人では完結しない。私は他者を必要としており、それが小説を書く理由なんだと思った。多様な想像の可能性にふれ、打ちのめされ、別の場所へ行くこと。

小説だけじゃない。言葉はすべて嘘だ。真実に近づくための代替物にすぎない。私は日々、大切な人に向けて適当な言葉の断片を投げ続け、意外な言葉の数々を投げ返してもらう。たくさんの嘘で外堀が埋められ、いつか真実の輪郭が浮き彫りになることを信じて。

本書は、小説の書き方ではなく、想像力の磨き方を教えてくれる本だ。映画批評家および文芸・ジャズ・漫画評論家として知られる仏文学教授、中条省平氏の講義録。

パトリシア・ハイスミスの「妻を殺したかった男」丸山健二の「夏の流れ」三島由紀夫の「月」室生犀星の「蜜のあわれ」フロベールの「まごころ」などのテキストが引かれ、読み解かれる。中条氏の解釈は、ある意味で小説家を打ちのめすものだ。なぜならそれは、作家の意図とは関係のない、自立した想像力に基いているから。すぐれた批評には、批評対象を陵駕する面白さがある。ある作品を詳細に語りながら、作品に依存していない。思い入れの強度とはそういうものだ。

漫画評もすばらしい。楳図かずおの「わたしは真悟」業田良家の「自虐の詩」の引用と解説の的確さはどうだ? 私は、原作を読んでいないのに泣かされてしまいました。

悪い例として酷評される「黒豹ダブルダウン」(門田泰明)の読み解きですら相当おもしろく、実は黒豹シリーズの売り上げに貢献しているのではと勘ぐってしまう。原文が順に引用され、コメントがこんなふうにつく。「信じがたいほど通俗的な直喩と数字のオブセッション」「一瞬たりとも自分の書きつけた言葉を反省しないのでしょうか」「そんなこと心配している場合か」「この言葉の薄っぺらさ、イメージの大仰さにはちょっとついていけない。ところが、これが何万部も売れる小説なわけです」「一巻を読み終わった時には、あまりにも疲れ、皆さんの添削用の小説を一年分読んだようなめまいに襲われて(笑)、七巻まで読むのは、彼が百巻書くのと同じくらいの労力がいるのではないかという気がしました」etc.

小説を熟知した中条氏が、小説を書かない理由については考えてみる価値がある。ここまで小説を読み込むことができれば、書く必要なんてない。批評のほうが楽しいに決まってる。この本は「批評家になる!」というタイトルのほうがふさわしいんじゃないかって思うほど。

「小説はこれ以上ない雑食的な芸術ジャンルです。そこには、いちおう決まった語り手はいますが、その語りのなかに、どんな階級や集団や職業や個人の考えでも放りこむことができます。また、世界中のあらゆる言葉や出来事を引用することも可能です。一人の作者が一人だけで作りだす世界として、これほど自由で、多様さにみちた芸術は他にないといってよいでしょう」

中条氏はそう定義しながら、小説というジャンルに潜むギリシア・ローマ以来の「知」の歴史的な厚みを示し、「天才ではないわれわれにとって、どんなことでも知らないよりは知っていた方がいいのです」とさらっと言う。そこをわかった上で「どうぞご自由に何でもやってください」とそそのかすのだ。とっても知的!

2002-01-15

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『ハバナへの旅』 レイナルド・アレナス(安藤哲行訳) / 現代企画室

クリスマスの正しい過ごし方。(その1)

クリスマスや年末年始という言葉には、まとわりつくような鬱陶しさがある。この時期は、愛とか家族とか自分はどこにいるべきなのかとか来年はどうすべきなのかとか、そういうことを突きつけられる決算期らしい。たとえ具体的に何も突きつけられなくても、じんわりと真綿で首をしめられるような保守的な気分が街に漂う。そんな季節はなるべく、歩いたり走ったり空を飛んだりしていたい。旅行者という無責任な肩書きを手に入れて、異国で過ごすのだ。

そう、本を読むだけでも旅には出れる。

表題作「ハバナへの旅」は、ニューヨークの大雪の描写から始まる。キューバ生まれでホモセクシュアルの主人公は、15年かけてようやく、異国の街で静かな生活を手に入れたのだ。彼はウエストサイドのぼろアパートから雪を眺め、警察に追われ続けたハバナでの恐怖と孤立の日々を回想する。そして今、自分の中にささやかな平和を見出したことを確認する。
「その平和は、ひとつの言葉のなかにおさまった。誰もがはねつけようとするが、誰をも救うその素晴らしいたったひとつの言葉、それは孤独。自分以外の誰にも屈伏しない、自分以外の者のためには生きようとしない、そしてなによりも、孤独を追い払わないようにするというよりは、むしろ逆に、孤独を求め、追いかけ、宝物のように守ること。なぜなら、肝腎なのは愛情を断つことではなく、愛情を棄てたものと見なし、愛する可能性のないことを理解し、そして、そんなふうに考えていることを楽しむことなのだから」

熱帯の作家による雪の描写はとても美しい。しかし彼は、かつて偽りの生活のために結婚した妻からの、うんざりするような手紙をきっかけに、クリスマスにハバナへ帰ることを決めてしまう。帰るまいという強固な決意を揺るがす、言い訳づくりのリアリティが秀逸。人は、何かを確かめるために、せっかく手に入れた孤独の喜びをあっさりと放り出し、懐古的な衝動に身をゆだねてしまうのだ。何年も我慢をかさねた分だけ、欲望(彼の場合は若い男への肉体的欲望ですね)に突き動かされる瞬間の開放感は、いっそう生彩を放つ。

愛情を注ぐことのできない妻と息子が待つ、あたたかく懐かしいハバナへ・・・
これは、年末年始につきものの帰省の物語だ。

「ハバナへの旅」の主人公は、実のところキューバにもニューヨークにも絶望している。ヴィム・ヴェンダースの映画「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」(1999)が、キューバ音楽とともにニューヨークを礼讃しているのとは対照的だ。 アレナスは1943年にキューバに生まれ、反政府的な言動が原因で繰り返し問題を起こし、1980年に小舟に乗ってキューバを脱出。ニューヨークに居を構えたが、エイズに冒され、1990年12月7日、ニューヨークの自宅で自殺した。

本書には、「ハバナへの旅」(1987)のほか、編物(ファッション)をモチーフにした「エバ、怒って」(1971)と、モナリザ(アート)をモチーフにした「モナ」(1986)の2編が収録されている。ユニークなアイディアを緻密に寓話化した3楽章だ。

3つの作品に共通しているもの。それは、母親のように主人公を思い続け、陰で支える女の存在。どこにも居場所がない「放浪するホモセクシュアル」としてのアレナスにとって、女とは、母とは、決して旅に出ることのない「鬱陶しいけれど感謝すべき大地のような存在」なのかもしれない。

2001-12-22

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『悪の恋愛術』 福田和也 / 講談社現代新書

清原くんから妻へのプレゼント。

「物事を単純に見るということは、同時に自分をも単純にしてしまうこと」と著者はいう。出会い系サイトで出会う男女にとって、互いは性と好奇心の対象でしかない。

「他者を徹底して性欲の対象として見るということは、自分もまた性欲の対象としてのみ存在しているということです。ドルバック云うところの『粘膜』でしかない、と自分を既定してしまうことにほかなりません。『粘膜』として生きることは、愉しいのでしょうか」

粘膜として生きるのも悪くないぜという極右派もいそうだが、結局のところ私たちは人間だ。不倫や浮気の類語として「割り切り」という言葉があるようだが、本来は割り切れない関係だからこそ逆説的な言葉が使われるのだろう。

「恋愛は厄介で愉しい贅沢品」と考える著者は、ワインを飲む際、「話し好きな人にはこのワイン、気難しい人はこれというふうに、だいたいのチャートをつくっていて、そのチャートをつくるのがまた愉しい」という。「ただし、どんなワインにも反応を示さない相手は、願い下げです」だってさ。これ、ちょっと神経質すぎない? 馬鹿のひとつ覚えみたいにドン・ペリを開ける粘膜男のほうが好感もてるかも。というのは冗談だが、ワイン通の男というのは、概して階級にナーバスで、うんちくを傾ける割にケチだったりする場合も多いので要注意である。「こういうワインを勧める男はこんなヤツ」という逆チャートをつくっておくと楽しいかも。

著者はなぜ階級にナーバスなのか? 自身の過去の告白は切なくて、女性なら「わかった。これからは自慢話でも何でも聞いてあげる」って思うんじゃないだろうか。慶応の付属に通いはじめ、遊び人たちとの階級差を意識せざるを得なかった高校時代。最初につきあった彼女が下町に住んでいることで、仲間に負い目を感じ、自分も下町の人間であることすら告白できず、自ら彼女との関係を断ち切ってしまったという。

その後、著者が結婚した女性は、生粋の良家のお嬢様。彼女は彼の書くものに興味をもったそうだが、失業中だった彼との結婚は、父親に大反対されたという。「現在でも認められているとは云いがたい」そうだが、著者はひとまず、知性(悪の恋愛術!)で階級を克服したのである。

ところで、悪の恋愛術のポイントは、相手に変化をもたらす「贈与」であり、ここが策略の見せどころなのだが、私は一昨日、「清原和博がFAを語る」という番組で、策略もお金もいらない贈与の例を見てしまった。

清原は、妻の誕生日に「ホームランを打ってやる」と出かけたが2打席とも三振。皮肉のひとつも言われるかと落ち込んでいたら、さよならのチャンスがまわってきて、完璧なホームランを決める。彼はそのとき、「自分の誕生日に夫にホームランを打たせてしまう彼女の運の強さを感じた」というのだ。彼女の手柄にしてしまう気前のよさ!「半分は僕の実力で、半分は彼女のおかげですね」などとケチなことは言わないのである。野球選手の妻として何点?という質問に対しては「500点」とさらっと言ってのけた。ケチな男は、こういうところで90点とか言って自分が優位に立とうとしたりするものだが、清原は違う。こんなプレゼントをもらった妻は、今後もさらなる強運を彼にもたらすだろう。

別のスポーツ選手が、以前、妻の料理をけなしていたことを思い出した。彼女はマスコミに激しくバッシングされている存在だったから、「お前が率先して彼女を悪く言ってどうする?」と私は耳を疑った。その後、芳しくない成績のまま彼が引退することになったのは、身内の力を借りることができなかったせいなのかも、と哀しくなった。

2001-12-16

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