BOOK

『セザンヌの山/空の細道』 結城信一 / 講談社文芸文庫

美しさは、暗い思考の中に。

「今すぐ解決しなければならない税金の問題があったり、ラジオから戦争をやりたそうな政治家の声が流れてきたりして、心がざわざわ落ち着かない。でも、そんな時こそ詩集を開くと良いことが、荒川洋治の『空中の茱萸(ぐみ)』(思潮社、一九九九年)を読んでみて分かった」と多和田葉子が日経新聞(3/23)に書いていた。

「自分の中にとじこもって勉強する時間と、世間に出て無理解の壁にぶつかる時間との間の緊張感が失われると、ものが見えにくくなってくる。壁はあっていいのだ。良心的に努力すれば詩の力で戦争をとめられるだろうとか、うまく話せば誰にでも文学論を三分で理解してもらえるだろう、などという甘えを捨てて、まず壁があると認めてしまう。壁のこちら側でコツコツ勉強して、時々勇気を出して人間のいる場に飛び込んでいく。(中略)情報社会でも自然に流れ込んではこないことを調べるのが勉強ということなのだろう」(同上)

詩集を開くつもりで私がたまたま手にとったのは、結城信一作品選「セザンヌの山/空の細道」だったが、巻末の解説を荒川洋治が書いていた。つながっている!

結城信一(1916-1984)は寡作な人で、作品集が1冊の文庫にまとまるのは2002年のこの本が初めて。「萩すすき」という短編が、地味な創作姿勢を象徴している。

「二時間かかって、半枚しか進まないことが往々にある。その半枚を、直したり消したり、また書加えたりし、遂には二時間で一枚書ければ上等である、とさえ思うようにもなる。私は以前に、毎日少しずつ書いて、やがて五十枚で纏ったとき、何か鼻筋が通りでもしたように爽やかだったが、それをしばらく臥かせておいてから、改めて読返してみて、愕然とした。その作品が、あきらかに失敗していたのを、痛切に知ったからである。自分の書いたものはもとより、ひとの本を読むのも厭になった。ひとに会うことすら避けたい気分になった」

山小屋で暮らす作家のネガティブな思考が延々と続くが、彼は、20年前に亡くなった妹の遺稿集を編んでくれないかと友人に頼まれるのである。楽しげな恋人たちを眺めながら18歳で死んだ「慶子」への思いを綴る「蛍草―柿ノ木坂」も秀逸。

「あなたのことを思えば、私は、やはり一日延ばしにでも『死』を先へ先へとのばしておきたいのです。私が死んでしまえば、私たちの愛も終り、そのまま永久に消え失せてしまうでありましょう。あたかも、はじめからこの地上にはなかったもののように」
「こんなに消え入るように淋しくて悲しいのは、もうあなたから何ものを得ようとしても得られない虚しい焦慮からではありませんか。私はこの手応えのない焦慮の中に生きてゆくのでありましょうか。そしてこの苛立たしい思いだけが愛というものの姿なのでしょうか」

12編の中からひとつだけ選ぶなら、たった4ページで淡い夏の恋を鮮やかに切り取った「西瓜」。

「西瓜が好きだったから、家のあちらこちらに西瓜を置き、どこに行っても西瓜の顔が眺められるようにしておいた。ときどき私は、そのなめらかなまるい顔をなでてやり、友達のように話しかけてやった。その西瓜の数が少くなってゆくと、友達が一人減り二人減りしてしまったように淋しくなる。(中略)いっぺんに五つも六つも買込むのだ。なにしろ、西瓜はとてもやすかったから。(中略)私の友達は、海水浴の若者たちの中にはいなくて、小さな家の中や、井戸の中にいた」

やがて「私」は、西瓜売りのおばあさんが連れてきた少女の一人を好きになる。たいしたことは起きないけれど、そこから喚起されるイメージは、あまりに儚く美しい。

2003-03-31

amazon

『イラク戦争を問う』 川村晃司 / 朝日新聞 3/22

メディアは無気力の源泉?

3月22日の朝日新聞オピニオン欄「イラク戦争を問う」への寄稿の中で、テレビ朝日コメンテーターの川村晃司氏(カイロ、ニューヨーク特派員を経て現職)が、アメリカとイラクのメディア操作の例を挙げていた。

「アメリカはベトナム戦争での経験から、メディアを味方につけることの大切さを学んだ。世論を動かすことを目的としたメディア操作に関しては、イラクよりはるかに洗練されている。湾岸戦争の時には、クウェートの若い女性が米国議会で、涙ながらに証言に立ち、『イラク兵が保育器の中の乳児を投げ出して殺した』と語り、国際世論を大きく動かした。この証言はクウェート政府がスポンサーとなり、米国の広告代理店が駐米クウェート大使の娘をモデルに使って演出した嘘の証言だったことが1年半後に明らかになる。しかしその時には、軍事戦略上の目的は完全に達成された後だった」

「一方、イラク側はアメリカの非人道性を訴えるため、400人以上の民間人が犠牲になったバグダット市内のシェルターと、化学兵器工場とされて爆撃を受けた粉ミルク工場に外国メディアを案内した。シェルターには黒こげとなった婦女子の遺体が並んでいた。私を案内してくれた検閲官は涙を流し、赤ん坊の遺体の脇で嘔吐していた。この時私は初めて検閲を受けずにリポートすることができた。しかし、粉ミルク工場とともに破壊された隣接工場については説明がなされず、取材も拒否されるなど不自然な印象が残った」

「『従軍記者』と『戦場記者』は異なる。最大の違いは、現場が語りかけてくる事実と多角的に向き合うことができるか否かという点であろう」

「最近のメディアの傾向として心配なのは、国益と地球規模の公共の利益とが衝突した場合の選択である。9・11事件以降の米国では、そして最近の日本では、それが大きく『国益』のほうにぶれていることに、大きな不安を感じている」

「戦争報道の難しさは、個々の記者には全体が見えないというところにある。戦場記者の役割は、爆弾の向こう側にある真実を瞬間の歴史家として記録に残すことだ。ジャーナリズムがナショナリズムに組み込まれてしまうのを防ぐ、孤独な闘いを続けることでもある」

テレビの報道を見ていると、つい全体を見ているような気になってしまう。同じ国の人は、だいたい同じことを考えているんじゃないかとも思えてくる。「真実の瞬間」や「孤独な闘い」とは対極の世界だ。同じ映像が何度も流れ、思考能力を麻痺させていく。孤独な闘いを続ける戦場記者の記録を、できるだけレアな形で受け取りたいのだけど・・・

「わたしたちはドラマチックなお話に囲まれて暮らしている。殺人、誘拐、爆発、自殺、戦争。いつも似たような文体や語彙を使って血みどろの出来事が耳に入ってくる。聞いている方はやがてそれにも慣れてしまって、より大きな刺激を求めるが、流れる血の量が増えても退屈するばかりなのは、それを捕らえる言葉がワンパターンで、細かなところまで違いを見極めて、事物そのものに迫るだけの質を失っているせいかもしれない。どんな出来事も一回しか起こらない。似た出来事はあっても、同じ出来事はない。磨かれた言葉だけが、その一回性をとらえることができる。言葉が大雑把になっていくと、感じ方も考え方も後退していき、やがて人間そのものが無気力になっていく」<多和田葉子(半歩遅れの読書術―3月16日/日本経済新聞)>

2003-03-24

『リトル・バイ・リトル』 島本理生 / 講談社

高校生作家がまともに描く、まともでない食事。

日経新聞夕刊のコラム「旬の一句」(2/22付)で、女子高生の文章が紹介されていた。
著者が勤務する高校では、毎年オーストラリアに交換留学生を出しており、ホームステイ後にレポートを提出させているのだ。

「さてさて始まりました16歳の旅。入国検査はマジでめっちゃ大変!英語でペラペ~ラと言われて目がハテナになった…(☆○☆)(いっちゃん大ぴ~んち!)ほいでもなんとか通過して、やっと入国できたぁ~と思い、胸を弾ませ外へ出ると私のホストが!!!いなかった…(負けるな!)着いてバスから降りるとホストがいた。(おせ~んだよ!)(冗談♪ちょい本気)おっと、ここでマイホストを紹介しておこう◎彼女の名前はNyta、彼氏は募集中。(紹介終わり)ラリア(オーストラリア)のナマリは思った以上に意味プーだった…(×○×)ほぇ~。しかし、わけも分からず、Yes,Yesと言って乗り切った。ってかラリアは想像以上に寒かった…」

これを読んだ国際理解教育部長なる人物は激怒したそうだ。著者はこうコメントする。
「若者たちは、寸暇を惜しむように、メールのやり取りに没頭している。このレポートには、その影響があきらかだ。この生徒は、ふざけているのではない。これが、今の女子中高生たちの日常的な言語感覚なのだろう」

なぜ、この文章が激怒の対象になるのだろう。十分に面白いし、臨場感が伝わってくるではないか。私も携帯メールでは同じような文を書いており、公開しないという点のみが唯一の違いだ…などと考えていた矢先、高校生作家の芥川賞候補小説「リトル・バイ・リトル」のあとがきを読んで驚いた。

「明るい小説にしようと、最初から最後までそれだけを考えていた。淡々と流れていく日々を照らす光を書きたかった。この小説の中で主人公をとりまく状況は少し困難なものかもしれない。けれど、そういう状況に対抗できる唯一の手段は明るさではないかと思う。大変なときに笑っていられるだろうかと思われるかもしれないが、大変なときにこそ笑っているべきだと、笑うこと以上に人間を裕福にできるものはないと、私は信じている」

何てまともな文章だろう。まともすぎて面白みがない。しかし、私はそのことに驚いたのではなく、彼女が意図したような「明るさ」や「笑い」をこの小説から受け取ることができなかったことに驚いたのだ。つまり、このあとがきは、実は相当面白いのかもしれない―

「リトル・バイ・リトル」には食べ物がたくさん登場するが、いまひとつ美味しそうではない。

「ポケットに手を入れると、中から裸のサンドウィッチを取り出した」「1週間前のフランスパン」「少し焼きすぎた豚肉のショウガ焼き」「カキフライの三倍は量がある山盛りのキャベツを前にウサギになったような気がしながら重い胃にごはんを少しずつ入れた」

食べたばかりなのにまた食べなければならない、というシーンが多いのも異常。「周といるときは、いつも食が充実している気がする」などと「私」は言うし、「私」の不器用な料理に対し「この一ヶ月の食事の中で、きょうの夕食が一番おいしいです」などと周は言うが、私がこの小説から受け取ったのは、食にまつわる痛々しい空気に他ならない。何でもありの現代において、食生活をどうするかというのは大問題。「幸せな食事」を日々実現するのは、ものすごく難しいことなのだ。

携帯メールの文章が、限定的なコミュニケーションのための厳密なルールに基いているのに対し、小説の文章には、そのようなルールがない。まともな文章とは、より自由な広がりをもつ文章でもあるのだと、当たり前のことを私は思った。

2003-03-04

amazon

『インフォアーツ論―ネットワーク的知性とはなにか?』 野村一夫 / 洋泉社

インターネットに、欠落しているもの。

「品性のある技術エリート集団」がつくりあげた市民主義的なオープンでフリーなインターネット文化。その力が一気に失われ、「ダークサイド」が露出し、「暗澹たるテキスト」が氾濫する要因となったのは、「匿名性」「統制主体の不在」「大量性」の3つだと著者はいう。

「ネットが市民を育てる力を失っているとしたら、それはあえて『教育』しなければならないだろう。それゆえ私は『情報教育』にこそカギがあると考えている。ところが話はそうかんたんではない」

著者は、日々の学生とのつきあいの中で、彼らが「クチコミ依存的で保守的」であることを感じている。メールもコミュニケーションもショッピングも携帯でそこそこ間に合わせ、レポートを書くときも、図書館で文献にあたるのではなく、ウェブ上のテキストデータをカット・アンド・ペーストしてつくってしまう。知的土台がない上に、談合的集団行動によって教育的配慮を台無しにするという二重の意味を込めて、著者は彼らを「台無し世代」と呼ぶ。

「こちらとしては、剽窃にならないように出典を明記し、引用と地の文を明確に区別するという作法を強調しているのに、台無し世代はその正反対にはまってしまう。これでは、可能なかぎりオリジナルなソースにあたるという学問の基本からますます遠ざかることになる」

そんな学生たちの態度と呼応するように、「なぜ専門家はネットに出てこないか」が考察される。

「ネット上での関連テーマに関する言説には専門家以外の多くの人びとがかかわるので、言説が無数に存在することになる。専門家の流儀にしたがって、これらをチェックした上で、リンク集を作るなり、反論するなり、情報提供するなりのことをするには、あまりにも手間ひまがかかることになる。しろうととしてであればかんたんに発言できても、こと専門家としてとなると、無防備にはいかない」

インターネットの限界は明らかだ。ネット上には「じつはもっとも市場価値のあるコンテンツ(市販書籍のコンテンツ)が見事に欠落している」のだから。

ネット上のさまざまなテキストを読むことに、私たちは多くの時間をとられるようになった。本や新聞を読む時間は必然的に減ってしまう。本を読まなくなると文章を書かなくなるかいうとそんなことはなく、多くの人が、大量の携帯メールを毎日打っている。

だが、こういうことに時間をとられていたら、大学のレポートなんてネット上からのカット・アンド・ペースト以外、ありえない。図書館にいって調べる時間や動機なんて、どこからも生まれない。そして、いちばん大きな問題は、ネット上に図書館がないということだ。

すべての書籍をインターネット上で閲覧できるようになった時、インターネットの真価は発揮されると思う。今のところ、パソコンの前にすわり続けている限り、本当にほしいテキストに行き当たることは難しいし、責任の所在が不明な情報に行き当たることも多い。

ネット上には新しい情報のみが氾濫し、過去の資産に関しては本当に貧しい。携帯メールだけではコミュニケーションの真の喜びが得られないのと同様、ネット上ではオリジナルと出会う喜びが得られない。

早くインターネットで古今東西の書籍が読めるようになればいい。その困難については本書でも言及されているが、「未だヴィジョンにすぎない」という「デジタルライブラリー」が完成したら、その利用の仕方を系統立てて教えてくれる大学に、私も通ってみたい気がする。

2003-02-13

amazon

『ボクが教えるほんとのイタリア』 アレッサンドロ・ジェレヴィーニ / 新潮社

KISSのしかた、ビデの使い方。

「ボウリング・フォー・コロンバイン」を見ようと思って恵比寿ガーデンプレイスに行ったが、終日満席とのこと。
アメリカが好きな人も、アメリカが嫌いな人も、マリリン・マンソンが好きな人も、皆この映画を見に行こうとしているのだから(推測)、当然かもしれない。

というわけで、今日はアメリカのことは忘れ、イタリアのことを考えることにした。

Elio’s Caffeで冷たい飲み物と冷たいデザートを食べた。とても美味しかったが、映画が見れなかったこともあり、その前にちょっとつらいことがあったこともあり、なんだか心も身体も冷たくなってしまった。だからホットワインを追加した。

ドゥマゴのホットワインより、オーバカナルのホットワインより、シチリア島で飲んだホットワインより、美味しい。
あー、来てよかった。何かがダメになってしまった場合、それ以上の体験を得るために、それはダメになったのではないかと信じることも人生の醍醐味のひとつである。たとえ、1杯のホットワインのためだったとしても・・・。

Elio’s Caffeのスタッフは楽しそうだ。イタリア語がとびかっている。こういう店でアルバイトしたら前向きな日々が過ごせそう。日本人ばかりなのにイタリア語で声をかけあう意味不明なリストランテも多いけれど、ここは、スタッフも客もイタリア人率が高い。「今日はワインがよく出たねー」とのこと。

本書には、巻末に「エスプレッソチェック」というのがついていて、スタバやドトールを含む東京の40店舗をカップ5つ満点で採点している。「5つカップ」の店は5店舗だけだが、そのひとつにElio’s Caffeも入っている。

著者は、日本人のOLが「ワインが好きなのでイタリア語の勉強を始めた」と言うのをきいて驚いたという。イタリア人は、酒好きということを人前であまり告白しないらしい。ワインは値段が安かったりすることもあり、お洒落なイメージではないのだ。「酒好きである」ことは人間の一種の弱点なのだと・・・。たしかに、「ワンカップ酒が好きで日本語の勉強を始めた」というイタリア人の女の子がいたら、びっくりするかもしれません。

こういうことが知りたかったんだ、という潜在的な好奇心をくすぐるイタリア文化ガイドだ。
たとえば、今まで誰にもきけなかった「イタリアのホテルに必ずあるビデ」の本当の使い方・使われ方。性別にかかわらず、好きなように使えばいいんだってことがわかり、世界が広がった。自由ってすばらしい。
それから、挨拶としてのKISSはどんな気持ちで、どんなふうにすればいいのかってこと。不快なKISSもあるのだとわかり、溜飲が下がる思いがした。つまり、不快と感じてもいいということなのだ。安心した。自由ってすばらしい。

フィレンツェやサルディーニャが舞台となっているのに悪趣味な好奇心をくすぐるだけの映画「ハンニバル」とは対照的な本である。

2003-01-28

amazon