BOOK

『デッドエンドの思い出』 よしもとばなな / 文藝春秋

よしもとばななが愛される5つの理由。

「私はばかみたいで、この小説集に関しては泣かずにゲラを見ることができなかったですが、その涙は心の奥底のつらさをちょっと消してくれた気がします」(「あとがき」より)
泣きながら自分の小説のゲラを見るよしもとばななは、うっとりと鏡の中の自分に見入る松浦亜弥と同じくらい信用できる。本人が没頭できるというのは、何よりの品質保証だ。

「この短編集は私にとって『どうして自分は今、自分のいちばん苦手でつらいことを書いているのだろう?』と思わせられながら書いたものです」(「あとがき」より)
つらいことを美しく書き、苦手な人に美しい理解を示す。それは運命を支配することだ。言い換えれば、他者を勝手に美化するエゴイズム。でも、その作業をていねいにやっていけば傲慢ではなくなるはず。「あったかくなんかない」という小説には、その秘訣が明かされている。

「ものごとを深いところまで見ようということと、ものごとを自分なりの解釈で見ようとするのは全然違う。自分の解釈とか、嫌悪感とか、感想とか、いろいろなことがどんどんわいてくるけれど、それをなるべくとどめないようにして、どんどん深くに入っていく。そうするといつしか最後の景色にたどりつく。もうどうやっても動かない、そのできごとの最後の景色だ」(「あったかくなんかない」より)

「あったかくなんかない」は、反抗的な小説。
まことくんが抱く「明かりはあったかくない」という考えは、あまのじゃくだけど素直。人生における幸せの時間は、思いがけない瞬間に現れる。頑張って手に入れるものではなく、さりげなく曖昧なものだ。そういう時間がもてれば、家族が多いほうが幸せってこともないし、長生きが幸せってこともないし、孫の顔をみるのが幸せってこともない。決められた概念を手に入れるだけの人生は貧しすぎる。

「幽霊の家」は、保守的な小説。
若さゆえの残酷な別れ、SEXの悲しみと幸せ、タイミングの重要性、親から受け継ぐものの価値、長く続けることの意味。主人公のように本質的な生き方をしていれば、日々のちょっとした傷なんて簡単に癒えてしまいそうだ。唯一無二の運命を描きつつ、選択肢はひとつじゃないという小説。相手は誰だっていいんだといわんばかりに、流れに任せて生きる人が幸せをつかむのだ。この作品自体が「幽霊」のような幻想だと思う。

「おかあさーん!」は、ウソっぽい小説。
私たちは、かつて自分を傷つけた人、自分とうまくいかなかった人のことをどう考え、どう克服していけばいいのか。物理的な解決策ではく、普遍的な希望が提示される。つまりフィクションの効能。汚れた現実世界を救うのは「美しいウソ」なのである。

「ともちゃんの幸せ」は、ふてぶてしい小説。
感じる人は生きづらく、傷つく人は損をする。神様は、弱者に対して何もしてくれやしない。不確かで力をもたない祈りのような小説だが圧倒的。傷ついた心は、他人と共有したり、ぶつけあったりせず、ただひっそりと受け止め、こつこつと貯金すればいいのだ。

「デッドエンドの思い出」は、取り返しのつかない小説。
最後の3行だけで泣ける。泣けば他人にやさしくなれるか?そんなことは断じてない。自分も幸せになろうと思うだけだ。ますますエゴイスティックに。
著者は、この小説が「これまで書いた自分の作品の中で、いちばん好きです」といい、「これが書けたので、小説家になってよかったと思いました」とまでいう。世に出る前に、少なくとも1人を救った作品。何よりの品質保証だ。

2003-10-14

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『どこにでもある場所とどこにもいないわたし』 村上龍 / 文藝春秋

女よ飛び出せ、とおじさまはアドバイスする。

ナシやブドウやサクランボが畑から盗まれる事件が相次いでいるらしい。何百個、何千個という単位だそうだから、組織的で悪質な犯罪に違いないし、農家にしてみれば相当な被害だろう。被害者の一人はインタビューに答え、こんなふうに語っていた。
「せっかく育てたのに、残念です…」
商売上の打撃を嘆くのでもなく、犯人への怒りをあらわにするのでもなく、淡々と。
まずは、自分がつくった商品に対する思いがあふれ出る。愛のある仕事は強いなと思った。

「どこにでもある場所とどこにもいないわたし」は、仕事の強度に関する短編集だ。

「どこにでもある場所」とは、コンビニや居酒屋や公園やカラオケルームや披露宴会場や駅前や空港。これらの場所で、「どこにもいないわたし」たちが、一瞬のうちに実に多くのことを考える。ありふれた場所にいても、希望を持ち続ける勇気が必要ということだ。そうでなければ、私たちは、これらの場所に押しつぶされてしまうだろう。ありふれた場所に流されず、ありふれた他者に依存せず、そこから飛び出す唯一の方法。それは、自分を浄化する内なる衝動に耳を傾けることだ。言い換えれば「一日二十時間没頭できる何か」を見つけること。安直な他者との関係は、永遠でも絶対でもなく思い通りになるわけでもないが、内なる衝動はシンプルでクリアで世界を変える強度をもつ。村上龍は、これらの小説の中に「他人と共有することのできない個別の希望」を書き込みたかったという。

「コンビニ」は、音響スタジオで働く「ぼく」がサンディエゴに留学を決める話。この仕事が好きなのだと「ぼく」が実感するくだりが美しい。「おれはだまされていた」が口癖の兄は、かつて「ぼく」にこうアドバイスをした。「本当の支えになるものは自分自身の考え方しかない。いろんなところに行ったり、いろんな本を読んだり、音楽を聴いたりしないと自分自身の考え方は手に入らない。そういうことをおれは何もやってこなかったし、今から始めようとしてももう遅いんだ」と。自分自身はダメダメなのに、弟を圧倒的に正しく導く兄。ありえない。まるでポジティブな亡霊のような存在だ。そんな兄の働くスナックに「ぼく」がサンディエゴ行きの報告へ行くと、兄はシャンペンをおごってくれるのである。ファンタジーだ。

「居酒屋」という短編も留学がテーマだ。居酒屋とはこんな場所である。「誰もが自分の食べたいものを食べていて、無理をしていない。等身大という言葉があるが、居酒屋は常に等身大で、期待を大きく上回ることはないが、期待を大きく裏切ることもない。だが、居酒屋には他人というニュアンスを感じる人間がいない」。要するに、居酒屋にいる限り、人は進歩することはできないということだ。一緒にいると境界が曖昧になってしまうようなつまらない恋人と中野の居酒屋へ行くよりは、西麻布でホステスをしろと村上龍は言っているのである。まじ? 実際、「わたし」が西麻布でホステスをしていた時に来た男が「わたし」の人生にくさびを打ち込む。つまりその男は、その辺のおやじとは違う、見識ある「おじさま」であったということだろう。「一日に二十時間、絵を描き続けても飽きない人間が、画家だ」と男は言い、「わたし」は20年ぶりに絵を描きはじめる。

ほとんどの短編に、この手のアドバイザー的な「おじさま」が登場する。こういう存在になることは、「おじさま」の究極のロマンであることだろう。若い世代や女を描いているように見える本書は、「おじさま」にとっての救いの物語でもある。

2003-08-21

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『不完全な天体7「共栄ハイツ305」杉並区久我山2-9-××』 角田光代 / recoreco vol.7 (メタローグ)

恋に、賞味期限はある?

角田光代の「不完全な天体」という連載が、今月、大きな反響を巻き起こしたらしい。
私も、読んでみて驚いた。たった8ページの小説だ。
実話だとしても、小説と断言できる。それほど冷徹で、完成度が高い。

24歳の「私」は、世界一好きな男とともに暮らしていた久我山の共栄ハイツで、どれほどすさんだ日々を送っていたのか―
「共栄ハイツ305は、なんだか異国にぽつんとある、人気のない安宿みたいだった。安宿に生活はない。半年居着こうが一年居着こうが、生活はおとずれない」
なかなか帰ってこない、気まぐれで無責任な「イノマタくん」をひたすら待ちながら、「私」はついにいろんな男の子を共栄ハイツに連れ込んで寝るようになる。

ちっとも面白くない内容だ。馬鹿じゃないのって思う。図式化すると、こんなふうになるんだから、本当にばかばかしい。
「愛する→でも愛されない→執着する→でも愛されない→他の男で紛らす→でも愛されない」

なのに「私」はどこまでも真剣だ。角田光代は、本気でこのくだらないテーマに取り組んでいるのである。恋をした女が堕ちてゆきがちなマイナスのスパイラル状態を、全くカッコつけずに、全く笑わせずに、全くセンチメンタルにならずに書き切れる作家が、ほかにいるだろうか。

大好きな「イノマタくん」は何も変わらないし何も考えちゃいないのに、「私」は一人で悩み、あがき、愛や生活を求め続ける。圧倒的な一人よがりは、愛情を強くもってしまった側の典型的な不幸。「私」は、イノマタくんが自分にふさわしくないことに、いち早く気付くべきなのだが、泥沼にはまってしまった当人はなかなか抜け出せず、とことん傷ついてしまう。

先週号の「アンアン」は「恋の賞味期限」という特集だった。なんてマニアックな特集だろう。初恋を貫こうなどという提案は当然どこにもなく、毎日コンビニに通うように、こまめに新鮮な恋人を手に入れるのが、もはや常識なのである。

そう。それなのに多くの人が、賞味期限切れの恋を引きずり、悩んでいる。コンビニですぐ手に入るんだから、さっさと捨てればいいじゃん!でも、それが難しい。人は「恋愛中」と「not 恋愛中」にあっさり2分できるわけではなく、「何となく別れられないでいる」が圧倒的多数なのだ。

角田光代もこの特集に寄稿しており、「恋は腐る」と断言している。
「腐りはじめている恋を後生大事に抱えていたことがある。(中略)腐ってしまった恋は、何も与えてくれないばかりか、私たちの元来持っているものを著しく損なわせる」

腐った恋について書かせたら、角田光代は凄まじい。
こういうことをマジに追究する作家がいること、そして、こういうテーマで悩んでいる女が相変わらず多いという事実に、希望を感じたりもする。執着は、ときに美しい。
賞味期限切れの食べ物を、平気で食べたりする男を見ると、何となくほっとするのだ。

2003-07-18

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『阿修羅ガール』 舞城王太郎 / 新潮社

オトナには読めない、女のコの恋心。

「第16回三島由紀夫賞」を受賞したが、選評(新潮7月号)は賛否両論。
共感した順に星印をつけてみた。

宮本輝★
「他の四人の委員に、この小説のどこがいいのかと教えを請うたが、どの意見にも納得することができなかった。下品で不潔な文章と会話がだらだらつづき、ときおり大きな字体のページがあらわれる。そうすることにいったい何の意味があるのか、私にはさっぱりわからない。(中略)いったい何人のおとなが『阿修羅ガール』を最後まで読めるだろうか」

高樹のぶ子★★
「それでも私が×でなく△にしたのは、この作者の暴力感覚は、社会的あるいは道徳的な枠組みを越えて生命の本質的なところに潜在しているように見え(これは私を著しく不快にする)、その特異な体質が読後に一定の手触りを残している点を、無理やり自分に認めさせた結果である」

島田雅彦★★★★
「ブーイングを浴びることでいっそう輝いてしまう狡猾な作品なのだ。(中略)『ええかげんにせえや』といわれて、一番喜ぶのは舞城の方で、逆に彼を落胆させるには、『自意識の崩壊現象を緻密に描いている』などともっともらしい批評を加え、作者を赤面させればよい」

筒井康隆★★★
「長篇の大部分がこの女の子の一人称だから、作者には相当の自信があったのだろう。文章が今までになく躍如としていて、これは初めての成功例と言ってよく、ひとつの功績として残したい作品だ」

福田和也★★★★
「ページから、どんどん風が吹いてくる。レッド・ツェッペリンとかブラック・フラッグとかのLPをはじめて聞いたときの感じ。その感触が、まだ見ぬものへの畏れを喚起する楽しみ。これからである」

「阿呆な自分はついて回る。そっからはどうしたって逃げられない」
この小説のテーマは、このフレーズに尽きる。主人公のアイコは気付いてしまうのだ。阿呆な他人に突っ込みを入れても、自分の世界観が幼稚である限り、それらはそのまま自分に返ってくるのだということに。

宮本輝がわからないという「大きな字体」とは、ファンタジーのシーンで崖の壁面にリアルタイムで削られる巨大な文字だ。小説や目の前の現実よりも強い意味をもち、アイコを遠隔操作するメッセージ。つまりこれは、好きな人から届く携帯メールのようなもの。「阿修羅ガール」は、その儚さと残酷さと魔法のような力を文学的に描写した初めての小説だと思う。

アイコのような女のコは、たくさんいる。健康で頭の回転がよくてポジティブで人当たりがよくテレビをいっぱい見ているからタレントみたいな顔とスタイルをしていてリズム感があり要領がよくカッコよく勉強なんかしなくても大事なことがわかっていて皆に愛されリーダーシップがとれる。何かと傷ついちゃったりもするのだがソツのない自己突っ込みで器用に回復できちゃうし友達もいっぱいいて家族にも可愛がられているからなかなか前に進めなくて孤独に何かを追求したり徹底的に考えたりするチャンスも時間もない。せいぜいが愛のないセックスをして自尊心を減らす程度。暴力的な世の中にどっぷり浸っているものの絶望することなくけなげに状況を理解し適応しようとしている。

そういう女のコのリアルな自意識は、この小説の世界観の限界でもある。だから時々、女のコの感覚から完全にはみ出してしまうのが、この小説のパワフルで面白い点。アイコの世界観が説明されすぎて、説教くさくなってしまう部分が、ちょっと残念だけど。

救いは、アイコの行動の核になっている、シンプルな恋心。
宮本輝がいう「下品で不潔な文章と会話」を貫いているのは、普遍的な愛の物語なのだった。

2003-07-01

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『開放区』 木村拓哉 / 集英社

TVがだらだらついているのは嫌、とキムタクは言う。

4月末の発売以来、2か月で50万部以上が売れたという。
タレント本としては、一昨年の「プラトニック・セックス」(飯島愛)に続き、100万部を突破する勢い。男性読者が2割強を占め、特に30~49歳の男性は1割近い。

本人のコメントは「買ってくれたみんなに感謝します。1人でも多くの人に読んでほしい」という月並みなものではなく「ぶっちゃけ、すっげー嬉しい。 まじでヤベーって感じ」というものでもなく、以下のようなものだった。

「出来上がった本を手にして、あらためて、『おれって、まだまだだな』と思った。この本を買ってくれた人がどんなふうに読んでくれるのか・・・食卓で読んだり、まくら元に置かれたり、あるいは本棚の片隅に収められるのかもしれない。そんなことも想像して楽しんだりもしています」

この発言には、彼がモテる理由のすべてが凝縮されている。つまり「自然体」「負けず嫌い」「想像力」の3点セット。ムカつくような前向きさや、うんざりするような屁理屈や、あきれるような鈍感さの対極にあるものだ。たったひとつのコメントにも、これらを注ぎ込めてしまう集中力の高さは、実にテレビ向き。この本の原料も、主としてこの3点セットだ。

「決別っていう言葉は好きじゃない。人は、一度出会ったら、きっと、そのあともずっとつながっていくものだと思うから。恋愛でも、たとえ別れても、すべて終わりじゃなくて、友達は無理かもしれないけど、新しい関係でいたい」

「このシート、もう少し倒れてくれないかなぁと思ったときに、『これ以上、倒れるわけねーだろ!?』って、口答えしてくるようなクルマがいい。(中略)最新式じゃないほうが贅沢な気がする。だって、そこには、会話が生まれるから」

「友だちに直接相談を持ちかけられたときは、できるだけ自分なりの答えを見つけ出そうとする。相手がどん底まで落ち込んでたら、話を聞きながら、自分もそこまでいっしょに降りていく。ふつうのテンションでいたら、ほんとの気持ちなんて、きっと理解できない」

彼は子供のころ、冷凍食品やインスタント食品はほとんど食べさせてもらえず、お小遣いももらえず、自転車を欲しいと思えば粗大ゴミ置き場のチャリンコを修理して乗り、だけど、あちこち連れていってもらったそう。まさに「モノより思い出」な育てられ方だ。

「俺、ふだんは、あんまり泣くガキじゃなかった。泣くと親父にひっぱたかれたから。それでまた泣くと、今度は『泣きやめ!』って、ひっぱたかれる」

「ガキのころ、繰り返し聞かされた『男と男の約束だからな』っていう親父の言葉は、子ども心にも、妙に重く感じた」

「そのころからずっと、デパートの食品売り場は好きになれないんだよね。なんでだろう・・・って思ってたんだけど、もうすでに食べられる状態に調理された匂いがダメなのかもしれない。そういう匂いは台所から生まれるものだっていうのが、感覚としてあるから」

「食の嗜好は、やっぱり育ってきた環境が大きいと思うよ。俺の場合はとくにそう。『おいしそうじゃないから食べない』っていうんじゃなくて、『自分にとってなじみがないから食べない』っていうことのほうが多い」

この保守的な感じ、新鮮。家族を大切にし、ルーツを大切にし、墓参りに行きたいという木村拓哉。彼の言葉を聞いていると、世の中の画一的な幻想や焦りや苛立ちから、しばし開放される。なじみがないものは食べないという自己のルーツに根ざした古風なモノサシは、わけのわからないプロパガンダが充満している今、とても重要なことのように思えてくるのだ。

2003-06-27

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