BOOK

『メロウ』 田口賢司 / 新潮社

祝! 第14回 bunkamura ドゥマゴ文学賞

カラダを使って遊んできた人にしか、小説は書けない。
そう定義するとしよう。
遊んでいない人は、問題外。
遊び方で、個性が出るのだ。
この人の場合は、アメリカンポップ。
一体なぜ?
アメリカを、馬鹿にするほど、愛してる。
浅田彰氏大絶賛で、ドゥマゴ文学賞受賞。

内面なんて、どこにもない。
内面のあるふりすら、しない。
内面のないことは、むしろ自慢である。
だって内面は、おしゃれじゃないから。

小説を書くのは10年に1度。
だって、小説家でありつづけることは、おしゃれじゃないから。
サッカー番組のプロデューサーのほうが、面白いに決まってる。

柄谷行人も言っていた。
実用的なものはキライだって。
ちょっと違ったかな?
私も、そう思う。
実用的な人間はボウリョク。
湿度の高い音楽はソウオン。

このリズム感。
この中身のなさ。
この無責任。
このメロウ。
田中康夫のみが歴史だと言い切る
このテレビマンのおっさんは、どこへ行く?

20の断片をリミックスしたという
これが今、最先端の、おしゃれな文学。

2004-10-23

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『メール道』 久米信行 / NTT出版

大量のメールに、愛は込められるか?

ライブドアの堀江貴文社長は、1日5000通のメールを読んでいるそうだ。しかも8時間寝ている!
こういう人は例外かと思っていたら、最近はそうでもないみたいで「月曜にパソコンを立ち上げるとスパムメールが1000通くらい来てるのよねー」と涼しげに言う人が身近にいた。インターネット関連の仕事をしている女性だが、要は、1日に処理するメール量が違うのだろう。

彼女のような人にメールを出す場合、タイトルは英文にしてはいけない。というような基本的なことも「メール道」を読むとよくわかる。じゃあ、どういうのがいいタイトルなのか? 本書には具体的で示唆に富んだ実例が満載されており、送信者名の設定から電子署名、返信を加速する方法、「礼儀正しさ」と「親しみやすさ」のバランスまで、ビジネスメールの書き方を手とり足とり教えてくれる。だが、最も重視されているのは、そんなふうに量産されるメールに「いかに心を込めるか?」ということだ。

著者は、親しい人へのメールは「こんにちは! くめです!」と、ひらがなで元気に始めるという。しかも「こ」と入力するだけで、いくつかのバリエーション(漢字バージョンとか肩書き付きバージョンとか)に変換されるのだ。私は思わず笑ってしまったが、ここは笑うところではない。「変換と同時に、頭の中で『こんにちは!』と復唱すると、一文字一文字打ったのと同様に心が込もるような気がいたします」と著者はいう。大真面目なのだ。

結びの言葉も、相手との関係や内容に応じて10種類ほどを使い分けて単語登録をしているそう。「しかしながら、本音をいえば、こうした大切なあいさつを、いわば手抜きで入力、変換することに、ささやかな罪の意識を感じています。一字ずつ打つのに比べて、心が込もらなくなるような気もするのです」。そこで著者は、表示されるあいさつ文を「目で追って、心で復唱」するのである。

極めるべき「メール道」は、各々の職業やキャラクターやメール量によって変わってくるだろう。私自身は本書に書かれていることをほとんど実践していないことがよくわかったし、今後も実践しないような気がする。だが、ゲーム感覚でラクしてボロ儲け!というトーンにあふれたネットビジネス界において、著者の説く「道」は救いだ。趣味よりも儲かることを仕事にしろと言い、メール速読術を提唱し、ビジネス処理能力を極限まで高めていく志向のライブドア社長とは、対極の立場だと思う。

「メール道」を通じて、豊かな人に近づいていきたいという著者だが、豊かな人の定義は「生活や趣味に困らないだけのほどよい『お金』を持ったうえで、『時間』『友人』『家族』『ライフワーク』『健康』『信条』もバランスよく持っている人」のこと。これは、村上龍が定義する成功者の定義「生活費と充実感を保証する仕事を持ち、かつ信頼出来る小さな共同体を持っている人」(人生における成功者の定義と条件/日本放送出版協会)と通じるものがある。

最後の章のタイトルは「『メール道』の先にある『道』」。メール道はここに行き着くのか!と驚き、ウケた。

私は、たまたま著者にお会いしたことがある。「メール道」も素晴らしいが、実際の人柄のほうがはるかに面白い。とりわけ、しょうもない馬鹿話をする時の生き生きとした表情といったら!
というわけで、大真面目な文体には、つい笑ってしまう私であるが、著者のキャラを思うと、本書は、おそらく笑ってもいい本なんじゃないかと思うのだ。(ちょっと不安)

2004-10-05

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『負け犬の遠吠え』 酒井順子 / 講談社

広告業界版・負け犬の遠吠え

勝ち犬と負け犬は、簡単に2分できない。
本書によると「既婚・子あり」「既婚・子なし」「離婚歴あり」「未婚でモテる」「未婚でモテない」の順に勝っていることになるが、子供を手放した人や未婚の母はどうなのよ?と考え始めると話はややこしい。強引に線引きするなら「子育てという最も価値ある営みをしているか否か」という話になるようだ。なぜなら、ものすごく価値ある仕事をしているように見えるセレブリティーたちも、出産するや否や「どんな仕事よりも素晴らしい体験!」などとコメントし、素晴らしい仕事すらしていない負け犬たちをがっかりさせるのだから。

その点、林真理子という作家は、子供のことを書かないという原則を貫いている。しかも、彼女のポリシーは、負け犬への気遣いというレベルを超えた長期的な戦略。作家としての生涯ビジョンを優先するプロの姿勢に、負け犬は共感をおぼえるのである。

一方、鷺沢萠という作家は、著者の「負け犬物書き仲間」として本書に登場する。私は彼女が亡くなる3日前、JALの機内誌で、遺稿だったかもしれない彼女のエッセイを読んでいた。それは、波照間島のソーキそばについて綴られた生命力あふれる文章で、タイトルは「世界でいちばん美味しいそば」。私は、ポスターの撮影の仕事で、彼女がいつか住みたいと考えていた沖縄へ行くところだった。

私たちのチームは総勢10数人だが、撮影スタッフと制作スタッフの雰囲気が違う。「おしゃれ」という言葉ひとつとっても互いに共有できない決定的なスタイルの差。
ロケの最中、私はある真実に気がついた。撮影スタッフは、男女含め、全員が完全な勝ち犬だったのだ。カメラマン、スタイリスト、ヘアメイク、マネジャー、コーディネーター…。
一方、制作スタッフに、勝ち犬は一人もいなかったのである。プロデューサー、クリエイティブディレクター、アートディレクター、デザイナー、コピーライター(私)…。

このチームの場合、制作スタッフのほうが明らかにコンサバだから「勝ち犬は面白いことを避けて生きる保守派である」という本書の定義は当てはまらない。どちらかといえば勝ち犬たちのほうが、無邪気でやんちゃ。めちゃくちゃな酔い方をしたり、異様にノリがよかったりする素直さが特長である。他方、負け犬たちは少々ひねくれた感じで、球を投げると必ず変化球が返ってくる…。

夕食時、撮影スタッフが泡盛、制作スタッフがスペインワインを注文しているのを見て、私はひざを打った。本書の「負け犬は都市文化発展の主なる担い手でもあるのです」という一文を思い出したのだ。
「青森県の漁港でほんの一時期しか水揚げしない珍しい魚が寿司屋で食べられるのも、決してメジャーヒットはしないであろうヨーロッパの小国で作られた地味な映画が見られるのも、深夜においしいフレッシュハーブティーが飲めるのも、負け犬が都市文化を底支えしているからなのです」。

思い返せば、東京でも、フレンチレストランでの打ち上げを企画したのは負け犬だった。その後カラオケに行きたがったのは勝ち犬で、負け犬たちの5倍歌った勝ち犬たちはさらにクラブへと元気に繰り出したが、私はといえば、負け犬同士でまったりとカフェでお茶を飲んでいたではないか。

広告業界における負け犬は、都市文化発展の担い手ではあるものの、体力がやや足りないのかもしれません。体力がないから素直になれず、変化球を投げ続けるしかないのです。

フレッシュハーブティーなど深夜に飲みつつ、素直な写真を見ながらひねくれたコピーを考えるのは、世界でいちばん素晴らしい仕事だと私も信じているわけです。が。

2004-04-26

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『やきそばパンの逆襲』 橘川幸夫 / 河出書房新社

キハクさという確信犯。

「やきそばパンの逆襲」は、「パン屋再襲撃」(村上春樹/1985)の実践編である。

「パン屋再襲撃」には、こんなアイテムが登場する。缶ビール、フレンチドレッシング、バタークッキー、中古のトヨタ・カローラ、午前2時の東京(代々木、新宿、四谷、赤坂、青山、広尾、六本木、代官山、渋谷)、24時間営業のマクドナルド、30個のビッグマック、ラージカップのコーラ、ソニー・ベーター・ハイファイの巨大な広告塔…。

あらすじはこんな感じ。学生時代、ぱっとしないパン屋を襲撃したところ、労働の代わりにワーグナーのLPを聴くという条件でパン屋の主人からパンを得てしまった主人公は、結婚して間もなく、原因不明の異常な空腹に襲われ、深夜、妻と一緒に再びパン屋を襲撃する。再襲撃先としてマクドナルドを選んだ理由は、ほかに開いているパン屋がなかったからだが、これは偶然ではなく必然。2人はクルマの中でビッグマックを腹いっぱい食べる…。

一方、「やきそばパンの逆襲」には、こんなくだりがある。
「おまえの親父は、『ハンバーガーみたいなジャンクフードは食べるな』と言うんだよな。でもオレはそうじゃないと思う…オレは時代のど真ん中に食らいついてやると思ってる…戦えよ、アキ、時代と向かい合うことを、サボったりしちゃダメだぞ! 鈍感な奴は、知らないうちに時代に流されてしまうんだからな」

広告代理店を経営する満(48歳)が、部下の明彦(25歳)にハッパをかける場面だ。ハンバーガーを食べることは時代と向き合うこと。つまり本書のメッセージは「マクドナルドを再襲撃せよ」ということなのだ。「パン屋再襲撃」の主人公がマクドナルド襲撃後に見たものは、ソニーの巨大な広告塔で、それが1980年代の真実であった。2004年の本書でははたして何が見えたか…?
やきそばパンである。

やきそばパンは、やきそばでもなくパンでもない。コンビニで両方を買い、ばくぜんと交互に食べているだけでは到達できない新しい概念だ。そんな概念に出会うために、著者はあらゆる既成概念の間を身軽にすり抜ける。本書を貫くトーンは「キハクさ」だが、流されないためのキハクさは確信犯。「この本は中身が薄い」と著者が宣伝していた意味が、読んでみてようやくわかった。それは、本書のもっとも売りの部分だったのだ。

とりわけキハクさが際立つのが男女の描き方で、それらは、村上春樹が描写した暴力的な空腹感やソニーの広告塔と同じくらいリアルに切なく美しく、涙を誘う。

「今は、やりたいことが見えてきたから、男はいらない」「ふーん、男は、やりたいことがない時のもんなのか」
「セックスはお互いを知り合うための有効な手段だとは思うが、お互いが知り合ったあとでは、セックスする意味が半減するような気がした」
「複数の女との共同生活は、ハーレムではないが、新鮮な喜びと充実感があった」
「すぐ隣の部屋にいるのに、メールでの交信は直接会うのとは違う器官でコミュニケーションするような新鮮さがあった。まるでベッドで腕枕をしながら、おしゃべりしているような感覚であった」
「3人の他人が集う食卓は、どこの家庭よりも家庭的であり、幼友だちのような懐かしい信頼感が漂っていた」…

現代の恋愛は、おそらく何かと何かの間をすり抜けているのだと思う。だからきっと、正面から傷つくことも、思い切り笑いとばすこともできないのだ。

2004-04-16

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『エクソフォニー 母語の外へ出る旅』 多和田葉子 / 岩波書店

2つの唇をもつ女。

ロンドン、ニューヨーク、ミラノ、パリと続いた2004-2005年秋冬コレクションがクライマックスを迎えた。面白そうなショーがたくさんあったけれど、3月3日のコムデギャルソンもそのひとつ。アシンメトリーな服に、唇が2つあるかのように見えるずれたリップメイク。テーマは「魔女の力強さ」だそう。

魔女はあなたでしょう、とデザイナーの川久保玲に突っ込みを入れたくなった。一般に魔女は媚薬や呪術を使うとされるが、本当はたぶん違う。あざとさではなく素直さによって真実を暴き、周囲を翻弄するアーティスト、それが魔女だ。川久保玲がモード界の魔女であるならば、アート界の魔女は草間彌生、ワード界の魔女は多和田葉子だと思う。

本書は、ハンブルグに住み、旅の多い日々を過ごす著者による言葉のロードムービー。私たちは何のために外国語を勉強するのか? 未知の言語はどうして楽しいのか? その答えがぜんぶ書いてある。言葉というものは、それ自体が旅なのだ。

「母語の外に出ることは、異質の音楽に身を任せることかもしれない。エクソフォニーとは、新しいシンフォニーに耳を傾けることだ」

「わたしはたくさんの言語を学習するということ自体にはそれほど興味がない。言葉そのものよりも二ヶ国語の間の狭間そのものが大切であるような気がする。私はA語でもB語でも書く作家になりたいのではなく、むしろA語とB語の間に、詩的な峡谷を見つけて落ちて行きたいのかもしれない」

「人はコミュニケーションできるようになってしまったら、コミュニケーションばかりしてしまう。それはそれで良いことだが、言語にはもっと不思議な力がある。ひょっとしたら、わたしは本当は、意味というものから解放された言語を求めているのかもしれない」

「大きくなってから外国語をやりたくなるのは、赤ん坊の頃の舌や唇の自由自在な動きが懐かしいからなのかもしれない。大人が毎日たくさんしゃべっていても絶対に舌のしない動き、舌の触れない場所などを探しながら、外国語の教科書をたどたどしく声を出して読んでいくのは、舌のダンスアートとして魅力的ではないか」

「なまりをなくすことは語学の目的ではない。むしろ、なまりの大切さを視界から失わないようにすることの方が大切かもしれない」

「好き嫌いをするのは言葉を習う上で大切なことだと思う。嫌いな言葉は使わない方がいい。学校給食ではないのだから、『好き嫌いしないで全部食べましょう』をモットーにしていては言語感覚が鈍ってしまう」

北ドイツの人は、自分の気持ちを偽ることをひどく嫌う傾向があり、日常生活の中で演技をすることへの反発が強いと著者は言う。店員の愛想が悪いのは、機嫌の悪いときは機嫌の悪そうな顔をしているべきであり、物を買ってくれるからといってニコニコするのは良くないと考えられているからなのだ。

「店員がぶすっとしていると腹が立つ。しかし、そう思って、日本へ行って、エレベーター・ガールなどを見ていると気持ちが悪くなり、ハンブルグに帰りたくなる」

日本は単一言語に近い国だから、2つの言語の狭間を楽しむ代わりに、演技をすることで虚構と現実の狭間を楽しむ習慣があるんじゃないだろうか? 「サイアク!」と思いながら「ステキ!」と微笑む。そのうちに、スゴイとかキテルとかビミョーとかコワカワイイとか、どっちにも解釈できる便利な言葉が見つかったりもする。

ひとつの唇で真実を暴くナイーブな魔女にとっては、2つの唇を使い分ける普通の女こそが魔女に見えるのかもしれない。コムデギャルソンのコワカワイイ魔女メイクを見て、そんなふうに思った。

2004-03-09

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