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『銭金(ぜにかね)について』 車谷長吉 / 朝日新聞社

命がけのウソに、翻弄されたい。

1945年生まれ。慶応義塾大学を卒業し、広告代理店に勤め、25歳で小説を書き始め、28歳で失業し、30歳で実家に帰り、すぐに飛び出し、住所不定の9年間をすごし、38歳で東京に出て、再び小説を書き始め、46歳で「鹽壺の匙」を書き上げ、48歳で詩人の高橋順子と結婚…。

「高橋順子は私にとってミューズ(文学・藝術の神。美の女神)であった。平成二年の大晦日に思い切ってこの人を訪うて行ってからは、物を書く上で、私には運が向いて来て、次ぎ次ぎに文学賞を受賞した」

著者は、本書にも収録されている高橋順子の詩「木肌がすこしあたたかいとき」に感嘆し、出し抜けに彼女のアパートを訪ねたという。これだけなら単なるストーカー行為だが、本書には「貧乏好きの男と結婚してしまった わたしも貧乏が似合う女なのだろう」という一文から始まる彼女の詩「貧乏な椅子」も収録されており、結果的にはこのストーカー行為、正しかったのねと納得できる。

だが、結婚によって運が向いてきたというのは本当だろうか。賞なんてとらないほうがよかったのでは? 尻ぬぐいしてくれる「嫁はん」なんていないほうがいいのでは? なぜなら著者は、商業主義のワールドカップに象徴される銭金崇拝社会を批判し「反時代精神こそ文士の基本にあるべきもの」と考える人だからだ。ただし、著者が指針とする「少し貧乏」という生き方は潔さに欠け、本気で銭金蔑視を貫き「反時代的な痩せ我慢」をしているとは思えないのも事実。過去の苦労を語れば語るほど、それは時代に迎合した立身出世物語にしか聞こえない。

「私は原則としてズボンの前を閉めない。こういう男と付き合うのは、さぞや大変だろうな、と思う」と嫁はんを気遣う部分の「原則として」も潔くない。状況によって閉めたり閉めなかったりするのなら、普通の人じゃん! つまり著者は、繊細で礼儀正しい世捨て人なのであり、彼の大胆さは、小説という虚構の中でこそ発揮されるのだと思う。

著者は、自ら大スキャンダルを起こし、その顛末を作品にした私小説作家、島崎藤村を批判する。事実べったりで「虚点」をもたない小説には異和感を覚えると。

「虚点」とは何か。彼は自作「鹽壺の匙」の一節を引用する。親から家を出された曽祖父が、空腹になると背中に背負った炭俵の炭を食べたという箇所だ。前後の話は事実だが「背中の炭を喰いながら」というのだけは嘘だったというのである。

私は驚いた。「鹽壺の匙」で私が覚えているのは、この部分だけだったからだ。私の中では、炭を見るたびにその味を思い出すほどリアルな感覚となっている。

読書体験とは、こういうことなんだと思う。彼にとっての嘘が、私にとっての本当になること。簡単にいえば騙されたってことなのだが、記憶に残る小説と残らない小説の違いは、著者が自分自身を変えたり欺いたりできるくらいの嘘をついているかどうかということだ。小さな嘘は小手先でいくらでも書けるけれど、「命懸けの嘘」は心の中に飢えがなければ決して書けない。彼は「鹽壺の匙」を書いたとき、何かに強烈に飢えていたのだと思う。命懸けの嘘は、小説の枠を突き破る。

「人にとって大事なものは過去と虚栄である。いまかえりみれば、三十歳の時、東京で無一物になってからは、私は捨て身で生きてきた。とは言うても、絶えず世捨人として生きたいと願いながら、半分しか捨て得なかった恨みはある。いつこの命を捨てるか。それが私の最大の命題である」

嫁はんと幸せに生きる男は、もはや命以外に捨てるものがないのだろうか。
一読者としては、過去と虚栄を捨て、命懸けの嘘をついてほしいと勝手に思う。

2002-07-01

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『ヴァイブレータ』 廣木隆一(監督) /

赤坂真理と中上健次と寺島しのぶと市川染五郎と大森南朋。

30歳になった途端にふられ、相手が別の女と結婚してしまう。これ、かなりキツそうな事件だ。寺島しのぶの場合、その相手は市川染五郎だった。らしい。

だが、失恋をバネにして…という古風な言い回しが似合うのも、梨園に生まれ育ち、前向きなパワーを持つ彼女ならでは。初エッセイ「体内時計」を読み、初主演映画「赤目四十八瀧心中未遂」と2作目の「ヴァイブレータ」を見てそう思った。尾上菊五郎と富司純子の娘として市川染五郎と結婚してしまったら、これらの仕事は、ありえなかっただろう。

車谷長吉原作の「赤目四十八瀧心中未遂」(荒戸源次郎監督)は、舞台女優である寺島しのぶの本領発揮といった感じ。5年前に原作を読んだ彼女は「映画化されたら綾ちゃんの役をやりたい」と著者に手紙を書いたほどの思い入れに加え、「娘がこんな作品に出たら自殺します!」と反対した母親に対し「やらせてくれなかったら自殺する!」とまで言ったそう。

一方「ヴァイブレータ」の寺島しのぶは、完全な「受身の色気」。広尾のcoredoで飲んでいたところ、脚本の荒井晴彦に「スカウト」されたのだという。失恋の傷跡が癒えぬうちに、そういう見初められ方をしたのだとしたら、赤坂真理原作のこのロードムービーが「いいもの」にならないはずがない。構築された演劇空間から偶然性を映し出すロードムービーへと舞い降りた彼女は、東京のコンビニに降る雪、4トントラックのアイドリング、車高の高い運転席の浮遊感、旅情をかきたてる新潟の風景等をバックに、素顔やきれいな顔やうれしそうな顔やこわれそうな顔を、ごく自然に披露してしまった。

笑ったり泣いたり取り乱したり質問ぜめにしたり…こんな面倒な女を受け止める男(大森南朋)って、すごい。もちろんそれは愛などではなく、桃を優しくむき、やわらかいものは大切に扱うといった天性のフィジカルな優しさだ。そんな男のことを、いちいち微妙に傷ついたり吐いたりしながらも、女はちゃんと見極めている。彼は名前を呼んでくれたか?自分を尊重してくれているか?別れた後も気にかけてくれるのか?
触ってほしい女もいれば、触ってほしくない女もいる。触ってほしい女にも、触ってほしくない時がある。そういうことを本能的にわかっているのが、フィジカルないい男だ。

脚本の荒井晴彦は、「赫い髪の女」(1979)というにっかつ映画の脚本を書いた人。原作は中上健次の「赫髪」で、拾ってきた女を食べる、というような「ヴァイブレータ」とよく似た小説だ。
ただし、フィジカルな優しさを積み重ねても愛にはならないし、ゆきずりのセックスに未来はないわけだから、フィジカルに優しい女はいい!ということだけを描いた「赫髪」は理解できても、「自分が、いいものになった気がした」という「ヴァイブレータ」には共感できなかった。ゆきずりのセックスで、どうして「いいもの」になれるわけ?

映画版「ヴァイブレータ」は、原作にない食堂での会話シーンが加わったおかげで、すんなりと理解できた。このシーンは、もはや愛だ。会話の内容が嘘だったとしても、愛に基づいた配慮に貫かれている。
原作のひりひりするような痛みは薄らいでしまったけれど、女の痛みを軽減させた分、大森南朋という俳優は「いい男」に格上げされたと思う。「ヴァイブレータ」は、ゆきずりのセックスどころか、恋愛のいちばんいい部分を凝縮した作品になってしまったのだ。なのに2人は、どうして別れてしまうの?私だったら別れない。
市川染五郎ファンなのに、大森南朋に傾いてしまいそうです。

*2003年/上映中

2003-12-24

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『作家・文学者のみたワールドカップ』 野坂昭如・高橋源一郎・星野智幸・野崎歓・関川夏央・藤野千夜ほか / 文學界8月号

W杯の消化不良に、効くのはどれ?

島田雅彦(観戦記)、長嶋有(俳句)、吉本隆明(インタビュー)の3人を除き、以下の14人がエッセイで個性を競っている。

車谷長吉「空騒ぎ」
「(中田英寿は)実に凶暴そうな、人相の悪い人である。なぜこういう男を広告・宣伝に使うのか」「もう金輪際、キリンビールは飲まない」など企業、資本、広告への「愚痴とぼやき」(by野坂昭如)のオンパレード。

●松尾スズキ「わっしょいわっしょい。がんばれ日本」
「勝っても負けても盛り上がれるんなら、別にサッカーやってなくても盛り上がれるんじゃねえか。つうか盛り上がって行こうよ」

●庄野潤三「ワールドカップ印象記」
妻、長男、次男、孫まで登場し、サッカーより家族。

●保坂和志「天は味方した者にしか試練を与えない」
「これからさき戦争が起こったとしても、新聞の文化面とか社会面で文学者たちが書く文章は、W杯についてみんなが書いている今回の文章程度のものなのだ」

●坪内祐三「非国民の見たワールドカップ」
非国民を気取っていた著者も、いざW杯が始まると徐々に雰囲気に巻き込まれていく。が、「筋金入りの非国民」ナンシー関の死で、再び転向する。

●金石範「W杯のナショナリズム」
「サッカーの勝利に沸く熱狂的な歓声やアクションが即ナショナリズムではないと思う。そこにはいろんな”国”があり、かつて帝国主義国家だった大国もあれば、旧植民地の小国―発展途上国もある」

●陣野俊史「セネガルの『生活』」
フランス文学者らしい、セネガルの勝利に焦点をあてた考察。

●玄月「もっとひねくれろ、日本人サポーター」
韓国がイタリアに勝った直後、新宿・大久保のコリアタウン(著者が韓国人と知られていない場所)でのリアルな反応を取材。

●藤野千夜「ナマW杯の記憶」
サウジアラビアファンの著者は「くじ運はないけれど一日中ずっと電話をかけつづけるだけの暇はあった」ため3試合のチケットを手に入れ、くじ運のいい知人のおかげでもう2試合手に入れたそう。もっともハッピーな観戦記。

●関川夏央「様々な幻想―ワールドカップ決勝戦」
スタジアムでの観戦風景が短編小説風に仕立てられている。面白い。

●野崎歓「蕩尽の果て」
「アルナーチャラム」というインド・タミル語映画の話から始まり、W杯の眩惑的な魔術に言及しつつ「ハレが最終的にケを圧倒するということはありえない」と語る正統派エッセイ。気持ちいい。

●星野智幸「Don’t cry for Argentina,」
「自分の存在をアルゼンチンのフットボールに賭けようとした」と言いつつ「私の態度にはどこかねじれたものがあり、そのねじれは日本のナショナリズムの現れ方に根ざしているということも、気づいている」。自分の存在をイタリアのフットボールに賭けようとした私としては、個人的に共感。

高橋源一郎「2002 FIFAワールドカップと三浦雅士さん」
話をそらし続ける著者だが、日本におけるW杯の気分を的確に伝えている。

●野坂昭如「サッカーからサッカへ」
「サッカーに、まったく興味がない」という著者の文は、ほかの13人(+3人)と比べて格段に歯切れがよく、プロフェッショナル。読み手が求めているのは、主張の正しさよりも主張の明快さなのだ。
「控えのキーパーだけじゃなく、なんだか人相のよくない、表現大袈裟、鬱屈している感じのプレイヤー皆さん、作家に向いてるんじゃないか。監督は編集者。Wカップも捨てたもんじゃない、観客数万、これが本を買ってくれりゃ、こりゃ、いいぜ。村上龍は判っている、えらい」

2002-07-09