「田中康夫」の検索結果

『人のセックスを笑うな』 山崎ナオコーラ / 河出書房新社

田中康夫を嫉妬させ、高橋源一郎を楽しませた文藝賞受賞作。

「ユリは睫毛のかわいい女だ。それから目じりのシワもかわいい。なにせオレより二十歳年上なので、シワなんてものもあったのだ。あの、笑ったときにできるシワはかわいかったな。手を伸ばして触ると、指先に楽しさが移るようだった」

「恋してみると、形に好みなどないことがわかる。好きになると、その形に心が食い込む。そういうことだ」

一見美しくないものが、本当は美しかったりする ― というようなことは、恋愛をしてみなければわからないことだ。そう。どんな恋愛も美しくなんてない。不器用で見るに耐えない感じ。だけど、そのことを神の視点から「笑うな」とクギをさした小説があっただろうか。ひたすら長く続いた「(笑)」の時代がようやく終わり、「(笑うな)」の時代がやってきたのかもしれない。

女は、ある程度美しくなければ恋愛できないかのように思われているふしがあるが、実際に縁遠いのは、賢くてセンスのいい女に決まってる。

だって賢かったら、恋愛なんて怒りの連続だろうし、センスが研ぎ澄まされていたら、ふさわしい相手なんて見つからないだろう。だから女は、あか抜けない原石のうちに恋をするべきなのだ。

美術教師のユリは、いい年なのにトウがたっていない。「ほとんどの絵を褒めて、厳しい批評はしない。的確なアドバイスもしない」わけだし、肌の手入れもしないわけだし、家も散らかっているわけだし、自己中心的なわけだし。こういう女は、料理上手な夫を持ちながら、20歳も年下の「オレ」と恋におちる。いくつになっても少女のような恋愛ができてしまうのだ。

なのに、そんなユリがオレから離れていく。彼女もしたたかなのだ、という空気が悲しい。ユリのような女も、洗練されたり、向上したりしてしまうのだろうか。

一方の「オレ」は、誰のことも憎んだりしない。ユリの夫にも、友達の彼女にも、好意を抱く。つまり、あやふやなのだ。そして、そのあやふやな優しさゆえに、どんな女も受け入れ、愛することができるのだ。もしかすると、すべての男は「オレ」みたいな感じなんじゃないだろうか? この小説は、男を癒す小説だと思う。山崎ナオコーラは、わかっているのだ。女の残酷さと男の優しさという美しい構図が、世界を支配していることを。

ふざけたタイトルやペンネームとは裏腹の、生真面目な手ざわり。誰も憎まれず、誰もダメにはならないこの小説は、ただひたすら、微妙な痛みに貫かれている。つまりそれは、幸福な人生なのだと思う。

この手ざわりは、忘れられない。

2004-12-09

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『メロウ』 田口賢司 / 新潮社

祝! 第14回 bunkamura ドゥマゴ文学賞

カラダを使って遊んできた人にしか、小説は書けない。
そう定義するとしよう。
遊んでいない人は、問題外。
遊び方で、個性が出るのだ。
この人の場合は、アメリカンポップ。
一体なぜ?
アメリカを、馬鹿にするほど、愛してる。
浅田彰氏大絶賛で、ドゥマゴ文学賞受賞。

内面なんて、どこにもない。
内面のあるふりすら、しない。
内面のないことは、むしろ自慢である。
だって内面は、おしゃれじゃないから。

小説を書くのは10年に1度。
だって、小説家でありつづけることは、おしゃれじゃないから。
サッカー番組のプロデューサーのほうが、面白いに決まってる。

柄谷行人も言っていた。
実用的なものはキライだって。
ちょっと違ったかな?
私も、そう思う。
実用的な人間はボウリョク。
湿度の高い音楽はソウオン。

このリズム感。
この中身のなさ。
この無責任。
このメロウ。
田中康夫のみが歴史だと言い切る
このテレビマンのおっさんは、どこへ行く?

20の断片をリミックスしたという
これが今、最先端の、おしゃれな文学。

2004-10-23

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『69 sixty nine』 村上龍(原作)・李相日(監督) /

地方出身の男が、女と世界を救う?

「経済力もお嫁さんもない地方都市の無名の十七歳だったら、誰だって同じ思いを持っている。選別されて、家畜になるかならないかの瀬戸際にいるのだから、当然だ」
-「69」より

女を幸せにするのは、地方出身の男である。というのは嘘ではなく、私の個人的な考えだ。
1969年の佐世保について1987年に書かれた小説が、2004年の今、映画になった。

村上龍は、どこへ行くのだろう。洗練されることなく文化の最前線を突っ走ってほしいものだが、一方で、彼ほど政治家に向いている人はいないとも思う。「長崎生まれ、武蔵野美術大学中退」という肩書きは「東京生まれ、一ツ橋大学卒業」の田中康夫を超える武器となるだろう。

「69」の主人公ケンは、佐世保時代の村上龍だ。こんなに世の中の見えている高校生は、私が通っていたマザコンばかりの東京の高校には、1人もいなかった。重要なことに早く気付くためには、中心を外側から眺める見通しのいい場所にいなきゃダメなのだ。そんなわけで、東大に入る人数だけはやたらと多い私の高校は全滅だったが、中学には「69」におけるケンのような男子が1人だけいた。東京だが海に近かったせいだと思う。彼はいつも、海の向こうの町や文化を見ていた。

世の中の見えていなかった私は、14歳のとき、彼をリュウと名付け、原稿用紙5枚のふざけた作文を書き、賞金をもらった。それから10年後、相変わらず世の中は見えていなかったものの書くことを仕事として選んだ遠因にリュウの存在があったことは確かだが、同じ時期、彼は留学先の米国で銃に撃たれ死んでしまった。彼が何を愛し、どう生きようとしていたのかは知らないが、とにかく日本は、村上龍ばりの貴重な人材を1人失ったのだと私は思った。

映画版「69」は、原作とはずいぶん違う。1969年の風俗が、面白おかしくサンプリングされているだけなのだ。

「恐れることはない。とにかく『盗め』。世界はそれを手当り次第にサンプリングし、ずたずたにカットアップし、飽くことなくリミックスするために転がっている素材のようなものだ」
椹木野衣「シミュレーショニズム」(1991)より

雑多な要素のつめこみ過ぎでまとまりに欠ける映画だが、ケンを演じる妻夫木くんの日焼けしたランニング姿のまばゆさが、すべてを貫いている。楽しんで生きろというのが「69」の唯一のメッセージであり、楽しむってことは、実は相当エゴイスティックなことだから、まばゆさは残酷さでもある。ダサイ奴、馬鹿な奴、醜い奴を切り捨てる若いリーダーシップの残酷な輝きを、映画は切り取った。

「楽しんで生きないのは、罪なことだ。わたしは、高校時代にわたしを傷つけた教師のことを今でも忘れていない。(中略)だが、いつの時代にあっても、教師や刑事という権力の手先は手強いものだ。彼らをただ殴っても結局こちらが損をすることになる。唯一の復しゅうの方法は、彼らよりも楽しく生きることだと思う。楽しく生きるためにはエネルギーがいる。戦いである。わたしはその戦いを今も続けている。退屈な連中に自分の笑い声を聞かせてやるための戦いは死ぬまで終わることがないだろう」
-「69」あとがきより

村上龍は、今も戦っている。だが、脚本を書いた宮藤官九郎は戦っていない。小説の暗い結末を、あまりにも明るく処理してしまった。つまり、戦わずに楽しく生きられる世代がようやく登場したってことなのか? 鮮やかなラストのおかげで、まとまりのなさは払拭され、楽しい嘘をつくことの意味がくっきりと浮き彫りになった。楽しい嘘たちが、原作を、軽やかに超えてしまったように見えるのだ。

2004-07-28

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