「新潮社」の検索結果

『ウェブ人間論』 梅田 望夫,平野 啓一郎 / 新潮社

「ナイーブ(無邪気)」VS「デリケート(繊細)」。

ビジネスとテクノロジーの世界に住む1960年生まれの梅田氏と、文学の世界に生きる1975年生まれの平野氏。ふたりの対談が浮き彫りにするのは、世代によるインターネット観の違いではなく、世代を超えた「理系 VS 文系」の差異だ。「理系 VS 文系」は、「ナイーブ VS デリケート」「ポジティブ VS センシティブ」「自由人 VS 理想人」「動物的 VS 植物的」などと言いかえることができるかもしれない。

「嫌なことでストレスをためてしまうよりは、避けていきたい」(梅田)
「現実が嫌な時には、改善する努力をすべきじゃないか」(平野)

ネットの世界にどっぶりつかっている梅田氏は「情報の量は質に変化する」と考え、ネットの進化が個人にとっていい方向に向かっていると考える。<プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神>ならぬ<シリコンバレーの倫理とオープンソースの精神>の善意を唱えるのだが、平野氏はいささか懐疑的だ。

「オープンソースに関しては、トータルにみて、やっぱり資本主義には飲み込まれてない」(梅田)
「僕は凡人だから、つい、人間って、そんなにいい人たちばっかりだろうかと考えてしまいますが(笑)」(平野)

「『よし、朝から十時間勉強して読んで書こう』なんていっても、途中で飽きちゃうんだけど、ネットでつながっているといろんな刺激があるから、気がつくと八時間経っていて、昔よりもずいぶん脳みそを使ってる」(梅田)
「ネットには何故飽きないかというと、自分で情報を取捨選択しているからなんでしょう。本は、面白くない箇所もありますから、途中でイヤになることもあるけれど、実はそここそが、肝だったりする。良くも悪くも、情報をリニアな流れの中で摂取するしかない。ネットはどうしても、面白いところだけをパパッと見ていく感じでしょう?それで確かに、刺激はありますけど、なんとなく血肉になりきれない」(平野)

人類がこれまで夢みてきた世界とは、「どこでもドア」のような「NOTリニアな世界」だったんだと思う。目の前のストレスを回避し、自分にぴったりのユートピアを瞬時に見つけ、サバイバルできるような。その一部が今、インターネットで実現できるようになったのだとすれば素晴らしいことだけど、すべての人がそれを志向したら「ストレスフルな現実」はどうなっちゃうのか。個人のナイーブなサバイバルが、目の前のセンシティブな人や集団や環境を傷つけることだってあるだろう。

スピードは速くなり、あきらめも早くなる。ひとりの人間が、ひとつのことを根気よくリニアにやりとげることは不毛なんだろうか。私たちは、多くの仕事を並行してこなせるようになり、多くの人と並行してつきあえるようになった。簡単にポイ捨てできる<おためし>みたいなつきあいの集積は、本質を見る目を養うだろうか? 無数のおためしは、自分自身をやせほそらせ、ペラペラのサンプルにしてしまうのではないか。

だけど、サンプルにはメリットもあって、自分の分身を風船にくくり付けてばらまくことができる。ひとつの場所にしばられて動けない人、動きたくない人にも、なんらかの可能性や想像の楽しみを広げてくれるのだ。

2007-01-11

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『メロウ』 田口賢司 / 新潮社

祝! 第14回 bunkamura ドゥマゴ文学賞

カラダを使って遊んできた人にしか、小説は書けない。
そう定義するとしよう。
遊んでいない人は、問題外。
遊び方で、個性が出るのだ。
この人の場合は、アメリカンポップ。
一体なぜ?
アメリカを、馬鹿にするほど、愛してる。
浅田彰氏大絶賛で、ドゥマゴ文学賞受賞。

内面なんて、どこにもない。
内面のあるふりすら、しない。
内面のないことは、むしろ自慢である。
だって内面は、おしゃれじゃないから。

小説を書くのは10年に1度。
だって、小説家でありつづけることは、おしゃれじゃないから。
サッカー番組のプロデューサーのほうが、面白いに決まってる。

柄谷行人も言っていた。
実用的なものはキライだって。
ちょっと違ったかな?
私も、そう思う。
実用的な人間はボウリョク。
湿度の高い音楽はソウオン。

このリズム感。
この中身のなさ。
この無責任。
このメロウ。
田中康夫のみが歴史だと言い切る
このテレビマンのおっさんは、どこへ行く?

20の断片をリミックスしたという
これが今、最先端の、おしゃれな文学。

2004-10-23

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『阿修羅ガール』 舞城王太郎 / 新潮社

オトナには読めない、女のコの恋心。

「第16回三島由紀夫賞」を受賞したが、選評(新潮7月号)は賛否両論。
共感した順に星印をつけてみた。

宮本輝★
「他の四人の委員に、この小説のどこがいいのかと教えを請うたが、どの意見にも納得することができなかった。下品で不潔な文章と会話がだらだらつづき、ときおり大きな字体のページがあらわれる。そうすることにいったい何の意味があるのか、私にはさっぱりわからない。(中略)いったい何人のおとなが『阿修羅ガール』を最後まで読めるだろうか」

高樹のぶ子★★
「それでも私が×でなく△にしたのは、この作者の暴力感覚は、社会的あるいは道徳的な枠組みを越えて生命の本質的なところに潜在しているように見え(これは私を著しく不快にする)、その特異な体質が読後に一定の手触りを残している点を、無理やり自分に認めさせた結果である」

島田雅彦★★★★
「ブーイングを浴びることでいっそう輝いてしまう狡猾な作品なのだ。(中略)『ええかげんにせえや』といわれて、一番喜ぶのは舞城の方で、逆に彼を落胆させるには、『自意識の崩壊現象を緻密に描いている』などともっともらしい批評を加え、作者を赤面させればよい」

筒井康隆★★★
「長篇の大部分がこの女の子の一人称だから、作者には相当の自信があったのだろう。文章が今までになく躍如としていて、これは初めての成功例と言ってよく、ひとつの功績として残したい作品だ」

福田和也★★★★
「ページから、どんどん風が吹いてくる。レッド・ツェッペリンとかブラック・フラッグとかのLPをはじめて聞いたときの感じ。その感触が、まだ見ぬものへの畏れを喚起する楽しみ。これからである」

「阿呆な自分はついて回る。そっからはどうしたって逃げられない」
この小説のテーマは、このフレーズに尽きる。主人公のアイコは気付いてしまうのだ。阿呆な他人に突っ込みを入れても、自分の世界観が幼稚である限り、それらはそのまま自分に返ってくるのだということに。

宮本輝がわからないという「大きな字体」とは、ファンタジーのシーンで崖の壁面にリアルタイムで削られる巨大な文字だ。小説や目の前の現実よりも強い意味をもち、アイコを遠隔操作するメッセージ。つまりこれは、好きな人から届く携帯メールのようなもの。「阿修羅ガール」は、その儚さと残酷さと魔法のような力を文学的に描写した初めての小説だと思う。

アイコのような女のコは、たくさんいる。健康で頭の回転がよくてポジティブで人当たりがよくテレビをいっぱい見ているからタレントみたいな顔とスタイルをしていてリズム感があり要領がよくカッコよく勉強なんかしなくても大事なことがわかっていて皆に愛されリーダーシップがとれる。何かと傷ついちゃったりもするのだがソツのない自己突っ込みで器用に回復できちゃうし友達もいっぱいいて家族にも可愛がられているからなかなか前に進めなくて孤独に何かを追求したり徹底的に考えたりするチャンスも時間もない。せいぜいが愛のないセックスをして自尊心を減らす程度。暴力的な世の中にどっぷり浸っているものの絶望することなくけなげに状況を理解し適応しようとしている。

そういう女のコのリアルな自意識は、この小説の世界観の限界でもある。だから時々、女のコの感覚から完全にはみ出してしまうのが、この小説のパワフルで面白い点。アイコの世界観が説明されすぎて、説教くさくなってしまう部分が、ちょっと残念だけど。

救いは、アイコの行動の核になっている、シンプルな恋心。
宮本輝がいう「下品で不潔な文章と会話」を貫いているのは、普遍的な愛の物語なのだった。

2003-07-01

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『ボクが教えるほんとのイタリア』 アレッサンドロ・ジェレヴィーニ / 新潮社

KISSのしかた、ビデの使い方。

「ボウリング・フォー・コロンバイン」を見ようと思って恵比寿ガーデンプレイスに行ったが、終日満席とのこと。
アメリカが好きな人も、アメリカが嫌いな人も、マリリン・マンソンが好きな人も、皆この映画を見に行こうとしているのだから(推測)、当然かもしれない。

というわけで、今日はアメリカのことは忘れ、イタリアのことを考えることにした。

Elio’s Caffeで冷たい飲み物と冷たいデザートを食べた。とても美味しかったが、映画が見れなかったこともあり、その前にちょっとつらいことがあったこともあり、なんだか心も身体も冷たくなってしまった。だからホットワインを追加した。

ドゥマゴのホットワインより、オーバカナルのホットワインより、シチリア島で飲んだホットワインより、美味しい。
あー、来てよかった。何かがダメになってしまった場合、それ以上の体験を得るために、それはダメになったのではないかと信じることも人生の醍醐味のひとつである。たとえ、1杯のホットワインのためだったとしても・・・。

Elio’s Caffeのスタッフは楽しそうだ。イタリア語がとびかっている。こういう店でアルバイトしたら前向きな日々が過ごせそう。日本人ばかりなのにイタリア語で声をかけあう意味不明なリストランテも多いけれど、ここは、スタッフも客もイタリア人率が高い。「今日はワインがよく出たねー」とのこと。

本書には、巻末に「エスプレッソチェック」というのがついていて、スタバやドトールを含む東京の40店舗をカップ5つ満点で採点している。「5つカップ」の店は5店舗だけだが、そのひとつにElio’s Caffeも入っている。

著者は、日本人のOLが「ワインが好きなのでイタリア語の勉強を始めた」と言うのをきいて驚いたという。イタリア人は、酒好きということを人前であまり告白しないらしい。ワインは値段が安かったりすることもあり、お洒落なイメージではないのだ。「酒好きである」ことは人間の一種の弱点なのだと・・・。たしかに、「ワンカップ酒が好きで日本語の勉強を始めた」というイタリア人の女の子がいたら、びっくりするかもしれません。

こういうことが知りたかったんだ、という潜在的な好奇心をくすぐるイタリア文化ガイドだ。
たとえば、今まで誰にもきけなかった「イタリアのホテルに必ずあるビデ」の本当の使い方・使われ方。性別にかかわらず、好きなように使えばいいんだってことがわかり、世界が広がった。自由ってすばらしい。
それから、挨拶としてのKISSはどんな気持ちで、どんなふうにすればいいのかってこと。不快なKISSもあるのだとわかり、溜飲が下がる思いがした。つまり、不快と感じてもいいということなのだ。安心した。自由ってすばらしい。

フィレンツェやサルディーニャが舞台となっているのに悪趣味な好奇心をくすぐるだけの映画「ハンニバル」とは対照的な本である。

2003-01-28

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『ゆっくり歩け、空を見ろ』 そのまんま東 / 新潮社

子供は、誰に殴られるべき?

別冊宝島「腐っても『文学』!?」に、そのまんま東のインタビュー(by大月隆寛)が載っていた。坪内逍遥や五木寛之が好きで、現在、早稲田大学第二文学部で文芸を専攻する彼は、父親に一度も殴られたことがないことを引け目に感じており、殴ってもらうために「たけし軍団」に入ったそう。

「男の子は、母への恋慕から、心の中で父を殺し、父を超えた時、真の『男』になるらしい。エディプスコンプレックスというやつである。僕は、そういう大切な作業を省略して今日まで生きてきた」。
謹慎の憂き目にあった98年の「淫行騒動」で、彼がもっとも迷惑をかけたのは8歳の息子。奇しくも、彼が実の父親と別れたのも8歳の時だった。「あの時、父は僕に悪いと思ったのか」という問いが彼の中でふくらみ、かくして父親探しの旅がはじまる。

文体といい、テーマといい、純文学とはこういうものだ、というような紋切り型の表現は新鮮なほど。何かに似ていると思ったら、たけしの映画だ。彼は、実の父親「北村」と、師匠「北野」の血を両方受け継いでいるのだろう。

地元の名士であり不動産業を営む酒乱の父を「気絶するくらい臭い」「ぶざま」と罵倒しながらも、彼は父に関する豊かな思い出やドラマチックなエピソードを得々と語る。サーカスを呼んで自宅で乱痴気騒ぎをしたり、妾である彼の母親と気が触れたようにセックスしたり。妾の子である彼とは微妙な距離感があるものの、「やはり僕の中には、北村のどうしようもない淫蕩の血が流れているのだ」という言葉すらも自慢に聞こえるほど。

一方、北村と別れたあとに母が再婚した「北村や僕とは全く真反対の性質」の新しい父に対してはどうだろう。
「人の人生が一本の映画というなら、とても映画にはなりそうに無かった。始めから終わりまで全て同じシーンの繰り返しなのだ。ただ歩いているだけの映画。科白もない。そんな映画誰も観ないだろうし、もし観たとしても退屈で眠ってしまうに違いない。退屈な平行線。平行線的恋愛。スポンサーだってつかない。スポンサーのつかない人生。しかし彼にはスポンサーなんかいらないのだ。というのも、彼自身は退屈していないし、眠りもしない。ただひたすら平板的に歩き続けるのだ。山も登らないし、谷も下らない。勿論振り返りもしない。たとえ振り返っても全部同じシーンなのだから。きっと彼は我慢していたのだ。様々な感情や出来事の量を、人が生きるのに必要最小限以下の量にセーブしていたのだ。それでよく今日まで生きてこれたものだ。もっと感服するのは彼はそのことに今でも大方満足しているということだった。全く信じられない。とうてい僕のような人間には出来そうもない。だからいつも彼に敬意を抱いている」。

ここまで畳み掛けるように「普通の人」を悪く書いた文を、私は読んだことがない。この父は、母親をようやく幸せにしてくれた男であるというのに。「敬意」と書かれているが、これは明らかに「敵意」だろう。この男を見ていると、彼は自分の中に流れる「北村の血」を強烈に意識せざるを得ないのだ。

だが、妾をつくり、その妾からも愛想をつかされた北村に比べると、彼自身はどこか中途半端。彼の妻は「風俗店に出入りした事実より、このような騒ぎになったことで子供達に及ぶ影響を懸念し、僕に対する怒りを顕わにした」というが、淫行とは、妻に女としてちゃんと怒ってもらえない程度の些細な不祥事なのである。単に運が悪かった芸人である彼もまた、息子を殴れないのだろうか。芸人の徒弟制度も崩壊しているらしいし、これからの男の子は、一体誰に殴られればいいの?

2001-07-13

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