「文學界」の検索結果

『どぶさらえ』 町田康 / 「文學界」2002年1月号

オトコ言葉は、世界を救えるか?

「先ほどから、『ビバ! カッパ!』という文言が気に入って、家の中をぐるぐる歩きまわりながら『ビバ!カッパ!』『ビバ!カッパ!』と叫んでいる」

冒頭からこれほど読者を脱力させる小説も珍しい。ここから何かを学んでやろうとか、あらさがしをしてやろうとかいう情熱はあらかじめ失われてしまう。北風と太陽の話を思い出すまでもなく町田康は太陽だ。相手を油断させ、指一本ふれずに裸にする。

私は日本経済新聞を読みながら笑うことは少ないが、町田康のエッセイがある木曜夕刊タウンビート面に限っては「ぶっ」と吉田戦車を読んでいるときのような吹き出し方をしてしまう。 私は、必要な記事があればハサミで切り抜くが、町田康のエッセイに限っては手でちぎってしまう。新鮮なうちに誰かに食べさせたいからだ。包丁を使うよりも手でちぎったほうがキュウリだって美味しい。

一方、タウンビート面に続く生活家庭面には、どことなく疎外感を受けてしまう。神聖な食べ物や神聖な病気や神聖な子育てをちゃかしたりするのは不謹慎であるというような空気に満ちているからだ。女の私でさえそう感じるのだから、男性にいたっては、家事に協力的なお父さん以外は入室禁止という感じ。しかし、町田康はそんな「生活家庭」という畏怖の聖域にタウンビート面から土足で踏み込み、「文学界」においても町内会の人間模様を斬り、どぶさらえという汚れ仕事をすっぱ抜く。しみったれたことを書けば書くほどかっこいいのはなぜだろうと熟考して気がついた。もしも町田康の文体がオカマ言葉であったら、こうはいかない。しみったれたフィールドで頑なにキープされている土足なオトコ言葉が、かっこよさを際立たせているのだ。「どぶぐらいさらえろっつんだよ、あほが」「え?ぜんぜんわかんねぇよ」「なんだよ、言えよ」

オトコ言葉の特長はシンプルなリズム感だ。 オンナ言葉はノリが悪い上に意味がありすぎて、くだらないことを言いにくいというハンディを背負っている。だから私は、生活の中になるべくオトコ言葉を取り入れるよう努めてみたい。たとえば「ごはん食べに行かない?」の代わりに「メシ食いに行こうぜ」と言ってみる。なんだかスマートに誘えそう。「静かにしてくださらない?」の代わりに「うっせーんだよ」と言ってみる。なんだか気持ちいい。デートの場所が気に入らない時には「えー、今日もアソコへ行くのお? 」とゴネて彼氏をうろたえさせる代わりに「またアソコかよ」とキメてみる。彼氏は即座に「悪いかよ」と返してくれるだろう。その後は楽しい会話になるはずだ。

だが、私は「ビバ!カッパ!」という言葉を取り入れることができるだろうか。だいたいこの小説を読んでいない人には意味が通じない。うーん、都合の悪いことをごまかすときに言ってみようかな。重要なのは意味よりもリズム感だ。町田康が指示するとおり「両の手を上に上げ、掌を太陽に向け、天を仰いで首を左右に振りつつ、若干内股で、腿をそんなにはあげないでリズミカルに前進して」言えばいいのである。「ばっかじゃないの」と言ってやりたい相手に「ビバ!カッパ!」と踊ってみせれば、逆に自分のほうが「ばっかじゃないの」と笑われることだろう。こんなふうに相手を優位に立たせることが肝腎なのだ。油断させ、指一本ふれずに裸にする。

「ビバ!カッパ!」は、泣きたいような歓喜の爆発。「俺」の具体的などぶさらえは、これにより、いつのまにか「抽象的などぶさらえ」へと移行していく。勢いのある言葉は、人を脱力させ、ものごとの本質をあばき、確実に状況を変えるのだ。

2002-12-29

『作家・文学者のみたワールドカップ』 野坂昭如・高橋源一郎・星野智幸・野崎歓・関川夏央・藤野千夜ほか / 文學界8月号

W杯の消化不良に、効くのはどれ?

島田雅彦(観戦記)、長嶋有(俳句)、吉本隆明(インタビュー)の3人を除き、以下の14人がエッセイで個性を競っている。

車谷長吉「空騒ぎ」
「(中田英寿は)実に凶暴そうな、人相の悪い人である。なぜこういう男を広告・宣伝に使うのか」「もう金輪際、キリンビールは飲まない」など企業、資本、広告への「愚痴とぼやき」(by野坂昭如)のオンパレード。

●松尾スズキ「わっしょいわっしょい。がんばれ日本」
「勝っても負けても盛り上がれるんなら、別にサッカーやってなくても盛り上がれるんじゃねえか。つうか盛り上がって行こうよ」

●庄野潤三「ワールドカップ印象記」
妻、長男、次男、孫まで登場し、サッカーより家族。

●保坂和志「天は味方した者にしか試練を与えない」
「これからさき戦争が起こったとしても、新聞の文化面とか社会面で文学者たちが書く文章は、W杯についてみんなが書いている今回の文章程度のものなのだ」

●坪内祐三「非国民の見たワールドカップ」
非国民を気取っていた著者も、いざW杯が始まると徐々に雰囲気に巻き込まれていく。が、「筋金入りの非国民」ナンシー関の死で、再び転向する。

●金石範「W杯のナショナリズム」
「サッカーの勝利に沸く熱狂的な歓声やアクションが即ナショナリズムではないと思う。そこにはいろんな”国”があり、かつて帝国主義国家だった大国もあれば、旧植民地の小国―発展途上国もある」

●陣野俊史「セネガルの『生活』」
フランス文学者らしい、セネガルの勝利に焦点をあてた考察。

●玄月「もっとひねくれろ、日本人サポーター」
韓国がイタリアに勝った直後、新宿・大久保のコリアタウン(著者が韓国人と知られていない場所)でのリアルな反応を取材。

●藤野千夜「ナマW杯の記憶」
サウジアラビアファンの著者は「くじ運はないけれど一日中ずっと電話をかけつづけるだけの暇はあった」ため3試合のチケットを手に入れ、くじ運のいい知人のおかげでもう2試合手に入れたそう。もっともハッピーな観戦記。

●関川夏央「様々な幻想―ワールドカップ決勝戦」
スタジアムでの観戦風景が短編小説風に仕立てられている。面白い。

●野崎歓「蕩尽の果て」
「アルナーチャラム」というインド・タミル語映画の話から始まり、W杯の眩惑的な魔術に言及しつつ「ハレが最終的にケを圧倒するということはありえない」と語る正統派エッセイ。気持ちいい。

●星野智幸「Don’t cry for Argentina,」
「自分の存在をアルゼンチンのフットボールに賭けようとした」と言いつつ「私の態度にはどこかねじれたものがあり、そのねじれは日本のナショナリズムの現れ方に根ざしているということも、気づいている」。自分の存在をイタリアのフットボールに賭けようとした私としては、個人的に共感。

高橋源一郎「2002 FIFAワールドカップと三浦雅士さん」
話をそらし続ける著者だが、日本におけるW杯の気分を的確に伝えている。

●野坂昭如「サッカーからサッカへ」
「サッカーに、まったく興味がない」という著者の文は、ほかの13人(+3人)と比べて格段に歯切れがよく、プロフェッショナル。読み手が求めているのは、主張の正しさよりも主張の明快さなのだ。
「控えのキーパーだけじゃなく、なんだか人相のよくない、表現大袈裟、鬱屈している感じのプレイヤー皆さん、作家に向いてるんじゃないか。監督は編集者。Wカップも捨てたもんじゃない、観客数万、これが本を買ってくれりゃ、こりゃ、いいぜ。村上龍は判っている、えらい」

2002-07-09

『一人称単数』村上春樹
『ラーメンカレー』滝口悠生

不自由な村上春樹と、自由な滝口悠生。

村上春樹の6年ぶりの新作長編『街とその不確かな壁』が4月13日に新潮社から発売される。さらに今秋には、直筆サインとシリアルナンバー入り愛蔵版(税・送料別で10万円!)が限定300部で刊行予定だという。

これに先立ち、2月10日、ウォーミングアップにぴったりな最新短編集『一人称単数』(文藝春秋)が文庫化されたのだが、この日は、滝口悠生の最新短編集『ラーメンカレー』(文藝春秋)の発売日でもあった。
2つの連作短編集の初出は、どちらも雑誌「文學界」。村上の短編は2018年7月号〜2020年2月号に掲載され(表題作のみ書き下ろし)、滝口の短編は2018年1月号〜2022年5月号に掲載された。

この2冊の共通点は、読みながらプレイリストをつくりたくなるほど、音楽が重要な役割を果たしていることだ。
『一人称単数』には、ビートルズのアルバムタイトルである『ウィズ・ザ・ビートルズWith the Beatles』、シューマンのピアノ曲タイトルである『謝肉祭(Carnaval)』、そして『チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ』という3つの音楽系小説が収録されており、ほかの短編にもたくさんのポップスやクラシック音楽が登場する。
一方、『ラーメンカレー』には、ブルーハーツの人気曲タイトルである『キスしてほしい』、徳永英明のデビュー曲タイトルである『レイニーブルー』という2つの音楽系小説が収録され、ほかにもボブ・ディラン『戦争の親玉』BTSの『Dynamite』などが登場する。

また、『一人称単数』を読んでいるとビールワイン、ウォッカ・ギムレットなどが飲みたくなるのに対し、『ラーメンカレー』はタイトルからして食欲をそそる。きちんと読み込めば、イタリアの本格カルボナーラや黒米を使った料理、さらには何種類ものスリランカ・カレーがつくれるようになるだろう。

ただし、この2冊は全く似ていない。村上春樹というジャンルと滝口悠生というジャンルは、真逆なのだと思う。

『一人称単数』は、まじめに生きているはずなのに、いつのまにか理不尽なものに巻き込まれ、追い詰められていくような、孤独でストレスフルな一人称小説。僕は悪くない、僕の責任じゃないという長い言い訳と、考え抜かれた完成度の高い比喩は、村上春樹の真骨頂だ。
他方、『ラーメンカレー』は、一人称も二人称も三人称もありの自由な小説。著者は、自分よりも他人の声に耳を澄ませており、人称や文体が偶発的に変化する。些細なことを緻密に描写しているだけで世界が無限に広がっていくインプロビゼーション感は、滝口悠生の真骨頂だ。

2023-4-5

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