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『渇き。』 中島哲也(監督)

おっさんの匂いがしない役所広司。

「この映画、見たって言うのやめよう。だって気持ち悪いじゃん」

上映直後、橋本愛タイプの子が、小松菜奈タイプの子にそう言い放った。そのまま映画の宣伝コピーになりそうな言葉だ。

こんな気持ち悪い映画を宣伝したくないから?
こんな気持ち悪い映画を好む人間だと思われたくないから?

たぶん彼女は友達に宣伝するだろう。「気持ち悪いよー、見ないほうがいいよー、『告白』と違うからー」って。https://www.lyricnet.jp/kurushiihodosuki/2010/06/28/843/

中島監督は『告白』に安易に感動したファンの感受性を試しているのだろうか。意味を剥奪するスピード感と残虐さは、もはやレッドカードレベル。絶賛されるとブチこわしたくなる男の子の衝動か。「ボクのこと好き?本当に?ボクってこうなんだよ?ちゃんと見てくれてる?」と果てしなく鎌をかけられるような悪夢。主役のふたり、高校生の加奈子(小松菜奈)も父親の藤島(役所広司)も相当くるっているけれど、それ以上に心配になるのが監督の病だ。

アメコミとバイオレンスとファンタジーとガールズポップをコラージュするセンスは笑えるほど素晴らしいし、残虐さを美しいメロディーで中和させるテクニックは中毒性をはらむ。迷いのない編集は痛快で、クリスマスの狂騒や住宅メーカーのCMの虚飾を容赦なく暴くあたりにCMディレクターとしての破壊力が冴える。

監督が惚れ込んだキャラクターである加奈子は「相手がいちばん言ってほしいと思うことを言い、引きつけて、メチャクチャにする」女。私は最近、星野智幸の『夜は終わらない』村上春樹の『女のいない男たち』の書評を20〜30代女性向けの媒体に書いたが、これらの小説には加奈子に似た女が登場する。今、この手の古風な悪女が旬なのだ。成熟世代の男たち(中島哲也星野智幸村上春樹)がコントロール不能な女に抗いがたい魅力を感じ、自分もまた同種の衝動を抱えていることに気づく。女たちが、そういうねじれた状況を許容すれば世の中は楽しくなるのかなと思い、私は本を紹介する。

音楽のミスマッチな使い方は『アッカトーネ』(1961)の暴力シーンでバッハのマタイ受難曲を使ったパゾリーニのようだ。美しい旋律を唐突に分断するゴダールとは異なり、中島監督は音楽をファッションアイテムとして取り入れる。音楽プロデューサーの金橋豊彦氏によると、中島監督が提示した選曲の条件はスタイリッシュであること。さらに考慮すべきこととして、加奈子は「美しく、せつなくある一方で、狂った感じ」、藤島は「古臭く、男臭く、でもおっさんの匂いはしない」という方向性が求められたという。

血まみれになって汚れていく脂ぎった藤島の暴力を、かろうじて最後まで見ることができた理由はここだったのか。監督は藤島から「おっさんの匂い」だけを巧妙にそぎ落としていたのだ。それは「かっこわるい保身」と言い換えてもいい。この映画は、かっこわるい保身くささが主役の現実世界よりは、はるかにましなのである。

藤島のスーツの色に、黒ではなく白を選んだスタイリストの申谷弘美氏、坊主ではなくロンゲを選んだヘアメイクの山﨑聡氏。この2人のおかげで、藤島がイエス・キリストのように見えるシーンが生まれた。そう、彼は、世の中の十字架を一手に引き受けたヒーロー! 私には確かにそう見えたのだけど。

でもやっぱり、この映画、見たって言うのやめよう。だって気持ち悪いじゃん。

2014-6-28

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『告白』 中島哲也(監督) /

美しい悪魔たち。

映画を撮ることで、もっと彼らに近づきたいと中島監督は言っていた。私もそう思う。この作品は、小説を読んでも映画を見ても終わらない。だからずっと登場人物のことを考えている。教師役の松たか子のほか、中学生役の西井幸人、藤原薫、橋本愛の演技は素晴らしかった。なのに、昨日の舞台挨拶で彼らとともに登壇した監督は「3人に人気があるというのを初めて目の当たりにした。撮影現場ではただの下手くそ3人だったのに、(好調な興収に)3人の力も多少あったのかなと今、初めて実感しています」だって。マジですか?

殺人と復讐を中心に、幾重にも描かれる負の連鎖。これほどのネガティブを描いて美しいというのは、一体どういうこと? 子供の恐ろしさ、大人の恐ろしさ、ネットの恐ろしさ。混沌とした恐怖の要素をぶちこみ、シンプルに削ぎ落としてみせた。削ぎ落とすこと。それは今、多くの人が苦手とし、時代に欠けているもの。CMディレクター出身の中島監督ならではの、マス広告の手法だ。わかる人がわかればという個人的な映画ではなく、万人向けのエンターテインメントになっている。

復讐は教育でもある。相手を傷つけたいという思いは、相手を変えたいからなのだ。どうでもいい人に復讐なんてしない。一刻も早く離れたいと思うだろう。そう考えるとこれは、他人にコミットしようとする愛の映画。復讐の最も美しく教育的な形。

RADIOHEADとBORIS。選曲のセンスがPVみたいで目が離せない。動と静。明と暗。喧騒と孤独。憎しみと愛。相反する要素の鮮やかなコントラストも広告の手法だ。ひとつの絵から短時間にいろんなものを感じとれる構造が、想像力をかきたてる。ドリュー・バリモア初監督作品『ローラーガールズ・ダイアリー』の選曲も最高だったけど、やっぱりRADIOHEADが使われていた。初恋の気分にふさわしいのは、今、RADIOHEADなのかも。どちらも恋愛映画では全然ないのに、いや、そうでないからこそ、恋愛の原点が描かれている。繰り返すことで濁っていくのであろう、そのピュアな芯の部分が。

何人もが『告白』をする映画でありながら、浮かび上がってくるのは、言葉は嘘という真実。言葉は嘘だし、人間は嘘つきだし、重要なことは話さない。この世は嘘のかたまり? 言葉がだめなら何を信じたらいいの? 映画はそこに肉迫している。

吉田修一の小説『パレード』から、24才の未来と18才のサトルの会話。
―「こういう時ってさ、子供の頃の思い出話とかするんだよね」と、サトルがぽつりと言った。「したいの?」私はそう茶化した。(中略)「してもいいけど、どうせ、ぜんぶ作り話だよ」と彼は笑う。私はふと、『これから嘘をつきますよ』という嘘もあるんだ、と気がついた―

同じく吉田修一『元職員』から。
―嘘って、つくほうが本当か決めるもんじゃなくて、つかれたほうが決めるんですよ、きっと。もちろん嘘つくほうは、間違いなく嘘ついてんだけど、嘘つかれたほうにも、それが嘘なのか本当なのか、決める権利があるっていうか―

嘘はこんなにも自由なのか、と思う。嘘のつき方は自由だし、受けとめ方も自由。であるならば、つく場合もつかれる場合も、できれば美しいものに仕立てたい。現実以上の真実を作り出し、痛いものを愛に変えてみたい。

誰もが何かを抱えている。だけど、それらを他人が共有することはできない。まるごと理解しあうなんて、無理。肯定や共感の言葉はあふれているけれど、他人と自分を隔てる壁、それもまた言葉なのだ。言葉の力を信じ、本物に変えるのは、気付いた人の仕事だ。全力で、だめもとで、自分も相手も変えてしまうくらい激しく一途に。

2010-06-28

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『下妻物語』 嶽本野ばら(原作)・中島哲也(監督) / 

下妻が世界とつながっている理由、もしくは「ジャージ」と「お洒落なジャージ」の違いについて。 

茨城県・下妻を舞台にした映画が、世界で公開される。
カンヌ映画祭のマーケット試写会にて「カミカゼ・ガールズ」という英訳で上映されたところオファーが殺到し、米国、イタリア、スペイン、ドイツ、オランダ、ベルギー、チェコ、中国、韓国、タイなどで上映が決まったという。

下妻ってどこよ? ヤンキーとロリータの友情? 極端すぎて、どこにも共感できるスキなんてないじゃん。予告編を見てそう思った私は浅はかだった。

世界の共感を得るのは、グローバリズムなどではなくローカリズムに決まってる。中島哲也監督はサッポロ黒ラベルの温泉卓球編などで知られるCMディレクターであるからして、絵づくりがいちいち決まっているし、編集やCGにも妥協がない。土屋アンナの体当たり演技は、それだけでヤンキー精神全開…時々お仕事でご一緒する機会があるけれど、こんなに姉御肌でカッコイイ20歳女子を私はほかに知りません。

下妻物語は、優れたファッション・マーケティング映画でもある。深田恭子演じるロリータの桃子と土屋アンナ演じるヤンキーのイチゴという両極な二人だが、お洒落に没頭する女の子の気持ちを的確に言い当てている。代官山を舞台にフツーの流行を見せたって、説得力のあるファッション映画は撮れないだろう。桃子の住む下妻には巨大なジャスコがあるのに、どうして休みのたびに何時間もかけて代官山まで来てロリロリのお洋服を買わなきゃなんないのか。そもそも桃子はどんな家に育ち、どういう経緯で下妻に住み、いかにロココの精神を身にまとうに至ったのか。ファッションを語るには、ここんとこが最も重要なのだ。

しかもこの2人、スジが通っていてかっこいい。互いに信念を持っているからこそ、見た目の違い、主義の違いを超えて認め合える。友だちって必要なのか? 学校って行くべきなのか? 仕事ってするべきなのか? 借りって返すべきなのか? ほんと、ためになる映画だけど、もちろん現実にはこんなスジの通った女子高校生など存在しないはず。2人の生き方は、原作者、嶽本野ばら氏の「ハードボイルドじゃなきゃ乙女じゃない」という美学のイコンなのである。

「人のものでも好きならば取ってしまえば良いのです。どんな反則技を使おうと、狙った獲物は手に入れなければなりません。我儘は乙女の天敵です。自分さえ幸せになればいいじゃん」

「酸いも甘いも噛み分けた人生経験豊富なレディになることなんて私は望みはしません。酸っぱいものは食べたくない、甘いものだけでお腹をいっぱいにして私は生きていくのです」

「こいつは、何時も一人で立ってるんだよ。誰にも流されず、自分のルールだけに忠実に生きてやがるんだよ。群れなきゃ歩くことも出来ないあんたらと、格が違うんだよ」

「心の痛みを紛らわす安易な手段を憶えてしまったら、きっと人は何か大切なものを損なってしまうのです」

原作には、桃子とイチゴを橋渡しするブランドとして、HONDAとのWネームを展開しているシンイチロウ・アラカワの服が出てくる。「ヤンキーのままでもいいから、少しはイチゴをお洒落にしたい。本人も気付かぬうちに、私好みにカスタムしていきたい」というのが桃子の思惑なのだ。

私は、ロリ服も特攻服も着たことがないしHONDAのバイクにも今のところ乗っていないけど、シンイチロウ・アラカワは好きだ。ここの服を着てると「HONDAの仕事してんの?それってノベルティ?」と言われがちなのが難点ですが、乙女のカリスマなんていわれる嶽本野ばら氏に自分が影響され、カスタマイズされそうになる理由がようやくわかった気が…。

2004-07-13

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