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『アンゼルム “傷ついた世界”の芸術家』ヴィム・ヴェンダース(監督)

幸福の絶頂にあるようなときでも、それに対して深い悲しみ、という支えがなかったら、それは浅薄なものになってしまう。― 河合隼雄

戦後ドイツを代表するアーティストといわれるアンゼルム・キーファー。その作品は一元的ではなく、繰り返し物議を醸してもきたが、さまざまなタブーに挑んだ過激な作品であることは間違いない。永遠の廃墟のような静謐な佇まいでありながら、うっかり素手で触れればヤケドしてしまいそう。だが、厄介なことに美しい。

今年は、日本で26年ぶりとなる展覧会「Opus Magnum(錬金術)」が、北青山のファーガス・マカフリー東京で開催された。ガラスケースに入った繊細な作品が並んでおり、不覚にもときめいた。見るからにヤバいモチーフもあったけれど、ガラスケースに入っているから安心、ともいえた。

キーファーと同じく1945年生まれのヴェンダースが撮った映画「アンゼルム“傷ついた世界”の芸術家」(2023)では、重厚かつ巨大な作品をたくさん見ることができる。映画だからガラスケースがなくても安心だが、3D&6Kの迫力に圧倒された。固有の名前はあるが顔のない白いドレスの女性像たちや、空に開かれた孤独な翼のモニュメント。画材とはいえない素材が厚く塗り込められ、焼かれ、ただれ、はがれた絵画の数々……

この映画は、キーファーの幼少期から現在にいたるまでの創作の旅であり、ドイツの重い歴史を掘り起こす旅でもある。キーファー本人が登場するほか、青年期を実の息子が演じ、幼少期をヴェンダースの姪の息子が演じている。

とりわけ印象に残るのが、南仏バルジャックの広大なアトリエ施設「ラ・リボーテ(La Ribaute)」。1992年、かつて養蚕工場だった40ヘクタール(富岡製糸工場の7倍以上)の土地をキーファーが買い取り、いくつもの建物や塔を建て、地下にトンネルを掘ったという。

映画の中では、本人が建物の内外を自転車で軽やかに走り回り作品をチェックしていたが、2022年春からは、2時間半のガイド付きツアーという形で一般公開が始まったようだ(車椅子可)。

そして来春(2025年3月下旬〜6月下旬)は、京都の世界遺産・二条城で新作の展覧会が開催される。庭園の一部も会場となり、アジアにおけるキーファーの個展としては過去最大規模のものになるらしい。大阪万博と重なる時期だが、とりあえずこっちだわ。

2024-7-14

「Paintings」ロバート・ボシシオ(@104 GALERIE)

見ることは、信じること。

ロバート・ボシシオ(Robert Bosisio)は、北イタリアのトローデナ出身で、イタリア、ルーマニア、ドイツを拠点に制作活動を続けている画家。新作の人物画を中心とした日本初の個展が、104GALERIEと104GALERIE-Rで開かれた。作品も、展示されているギャラリーの空間も、めちゃくちゃかっこいい。

淡い記憶を呼びさます、水のようなスフマート。素材をていねいに重ねたのであろうこれらの作品は、シンプルな写真のようでもある。近いようで遠く、はかないのに強い。ここではなく、どこか別のところにあるんじゃないか?と思わせる、つかみどころのない、かけがえのない存在。どこから見ても、そのまま美しい。

ロバート・ボシシオは、映画監督のヴィム・ヴェンダースの妻であり写真家のドナータ・ヴェンダースと一緒に何度か展覧会をやっているようで、ヴィム・ヴェンダースも図録などに、彼の作品についての文章を寄せている。

「多くの絵は、その美しさを理解するために後ろに下がり、目を細めて見ることを要求する。そうして初めて、絵は真実をあらわすのだ。しかしRobert Bosisioの絵を見るとき、後ろに下がる必要はない。Robertは私たちのために、それをやってくれた。彼は、私たちが半分目をとじて見る世界を描いた」

Some paintings oblige you, the viewer, to step back and to squeeze your eyes,so that you can see their beauty shine. Only in this way do they reveal their truth. Facing the paintings of Robert Bosisio we don’t have to step back. Robert has done that for us. He has painted what we see through half-closed lids.
(SEEING IS BELEVIENG,2010 by Wim Wenders)

2018.03.23(Fri) – 2018.05.20(Sun)

『ブロークン・フラワーズ』 ジム・ジャームッシュ(監督) /

25年たっても変わらない男。

これは僕の物語の一部だ
僕のすべては説明できない
物語というものは点と点を結んで
最後に何かが現れる絵のようなもので
僕の物語もそれだ
僕という人間がひとつの点から別の点へ移る
だが何も大して変わるわけじゃない
「パーマネント・バケーション」より)

ジム・ジャームッシュの最高傑作といったら、彼がニューヨーク大学大学院映画学科の卒業製作として撮った「パーマネント・バケーション」(1980)に決まってる。と私は思うのだが、最新作「ブロークン・フラワーズ」(2005)を見て確信した。ジャームッシュの映画は、いまだにどこへも行けない。25年前のパーマネントバケーションのままだ。

中年男が身に覚えのない息子探しの旅に出る物語、という意味ではヴィム・ヴェンダース「アメリカ、家族のいる風景」(2005)とそっくりだが、アプローチは似て非なるもの。「アメリカ、家族のいる風景」が男の夢やロマンを全部説明し、全員の気持ちに決着をつけ、元の場所へ戻っていくのに対し「ブロークン・フラワーズ」は何も決着をつけず、元の場所へも戻れない。

ビル・マーレイ演じる「ブロークン・フラワーズ」の主人公ドン・ジョンストンは「パーマネントバケーション」の主人公アリー(16歳)の40年後の姿かもしれない。どちらの男も一人身で、一緒に暮らしている女とも別れ、ちょっとだけおかしな人たちと場当たり的な交流をもつ。まったく進歩していない。

・・・
他人は結局 他人だ
今僕が語ってる物語は―
「そこ」から「ここ」
いや「ここ」から「ここ」への話だ
(「パーマネント・バケーション」より)

「ブロークン・フラワーズ」に登場する、ちょっとだけおかしな人たち。それが「20年前につきあった女たち」であることが唯一、主人公の成熟をうかがわせるわけだが、ジャームッシュの描写する女たちの姿は本当にリアルに面白く、現代のアメリカの最前線の病を写し取っている。

昔の女を訪ね歩くというギャグのような設定でありながら、いかにも自然で、音楽や小物のセンスも、相変わらず弾けている。たとえばドン・ジョンストンがこんな馬鹿げた旅に出ることを決めた心理は、彼の表情とシャンパンと音楽だけで表現されるのだった。

20年も昔の男から突然の訪問を受けたとき、女たちはどんな反応を示すのか? 次の家はどんな家で、どんな女で、どんな生活をしており、どんな扱いを受けるのか? 楽しみでたまらない。そして、ありがちな息子探しの物語を強烈に皮肉り、どこにも着地しないエンディング。

こんなお洒落な映画をいつまでも撮っている男って、かっこ悪すぎる。
そんな男を好きだと思ってしまう自分もまた、かっこ悪すぎるのだが。

・・・
去ると いた時より そこが懐かしく思える
いうなれば僕は旅人だ
僕の旅は ― 終わりのない休暇(permanent vacation)だ
(「パーマネント・バケーション」より)

*2005年アメリカ映画
カンヌ映画祭 グランプリ受賞

2006-05-12

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『10ミニッツ・オールダー』 コンピレーションフィルム /

10分×15本。玉石混合。

「イデアの森(チェロ編)」の8本を日比谷で見て、「人生のメビウス(トランペット編)」の7本を恵比寿で見た。「世界の巨匠監督15人による究極のコンピレーションフィルム」という触れ込みなのに、どうして同じ映画館で上映しないんだろう。チェロ編を先に見た人は、あまりのつまらなさに、恵比寿までわざわざ足を運ぶ意欲を失ってしまうのでは?というのは余計な心配ですが。

チェロ編はがっかりするような作品が多く、ならば自分で撮るぜ!と思う人が増えるかもしれない。ゴダールの「時間の闇の中で」は、たった10分の中にパゾリーニの最高傑作「奇跡の丘」やゴダールの最高傑作「小さな兵隊」「女と男のいる舗道」カール・ドライヤーの映画を見ながら大粒の涙を流すアンナ・カリーナのアップなどが引用され、編集センスの光る大満足な1本だけど、巨匠が左手でつくってる感じ。ズルイ。(選外)

トランペット編の7本は粒ぞろいだ。中でもトレーラーハウスでの10分間を描写したジム・ジャームッシュ「女優のブレイクタイム」のキャスティングはすばらしすぎ。クロエ・セヴィニーがこんなにいい女優とは。「ブラウン・バニー」で彼女をあんなふうに使ったギャロに比べ、こんなふうに使ったジャームッシュはモテモテのはず。女優という仕事、女という性のやるせなさを、彼は完璧に理解しているのだと思う。食事にタバコをさすシーンは歴史に残る心理描写。私もやってみよう。女優として。(1位)

ヴィム・ヴェンダースの「トローナからの12マイル」は笑えた。設定の不自然さや過剰な説明や陳腐な幻覚描写といったぎりぎりのダサさをポップな疾走感でさらりとクリア。幻覚のあとのナチュラルな日常に泣ける。女の子、最高。やっぱり映画はキャスティングなのだ。この女の子は男を救う役柄だが、実は映画全体を救っているのだった。(2位)

ヴェルナー・ヘルツォークの「失われた1万年」は、アマゾンの奥地の少数民族を撮った異色のドキュメンタリー。文明との接触による彼らの短期間の変化や白人女性とのセックス体験はショッキングだが、あざといシーンをあざとく撮ってもあざとさを感じさせない理由は、切実なシンパシーがあるからだと思う。撮影対象の異色さはこの映画の本質ではなく、重要なのは監督の視点の異色さだ。(3位)

ビクトル・エリセの「ライフライン」は長熟型の1本。このみずみずしさと緻密さは何?ゼロからオリジナルを生み出しているとしか思えないまっさらな描写。まっさらすぎて平和を描いたのか恐怖を描いたのかもわからない衝撃。ステレオタイプな決め付けとは無縁の絵づくりには心洗われる。「世界の最後の10分」を撮ったゴダールとは対照的に「監督自身の最初の10分」を映画にしているのだが、気が付けば、赤ん坊を眺めているはずの私たちが赤ん坊になっている。生まれて初めて感じた空気は、たぶんこんな感じだったろう。言葉以前の人間や歴史の手ざわり。どうして忘れていたんだろう?私たちは赤ん坊のように言葉を失う。光がしみこみ、リズムが体に刻みこまれる。あとは体内で言葉が解凍していくのを待つだけだ。

多作が求められがちな世の中で、寡作な人っていいなあと思える幸せ。あとで思い返すと、自分の体験のように思える幸せ。それがビクトル・エリセの映画の楽しみだ。注ぎ込む思い入れの強さ。たった1つの描写の強さ。何年もかけて味わいたいスペインワイン。(保留)

*2002年 ドイツ・イギリス
*上映中

2004-01-14

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『ハバナへの旅』 レイナルド・アレナス(安藤哲行訳) / 現代企画室

クリスマスの正しい過ごし方。(その1)

クリスマスや年末年始という言葉には、まとわりつくような鬱陶しさがある。この時期は、愛とか家族とか自分はどこにいるべきなのかとか来年はどうすべきなのかとか、そういうことを突きつけられる決算期らしい。たとえ具体的に何も突きつけられなくても、じんわりと真綿で首をしめられるような保守的な気分が街に漂う。そんな季節はなるべく、歩いたり走ったり空を飛んだりしていたい。旅行者という無責任な肩書きを手に入れて、異国で過ごすのだ。

そう、本を読むだけでも旅には出れる。

表題作「ハバナへの旅」は、ニューヨークの大雪の描写から始まる。キューバ生まれでホモセクシュアルの主人公は、15年かけてようやく、異国の街で静かな生活を手に入れたのだ。彼はウエストサイドのぼろアパートから雪を眺め、警察に追われ続けたハバナでの恐怖と孤立の日々を回想する。そして今、自分の中にささやかな平和を見出したことを確認する。
「その平和は、ひとつの言葉のなかにおさまった。誰もがはねつけようとするが、誰をも救うその素晴らしいたったひとつの言葉、それは孤独。自分以外の誰にも屈伏しない、自分以外の者のためには生きようとしない、そしてなによりも、孤独を追い払わないようにするというよりは、むしろ逆に、孤独を求め、追いかけ、宝物のように守ること。なぜなら、肝腎なのは愛情を断つことではなく、愛情を棄てたものと見なし、愛する可能性のないことを理解し、そして、そんなふうに考えていることを楽しむことなのだから」

熱帯の作家による雪の描写はとても美しい。しかし彼は、かつて偽りの生活のために結婚した妻からの、うんざりするような手紙をきっかけに、クリスマスにハバナへ帰ることを決めてしまう。帰るまいという強固な決意を揺るがす、言い訳づくりのリアリティが秀逸。人は、何かを確かめるために、せっかく手に入れた孤独の喜びをあっさりと放り出し、懐古的な衝動に身をゆだねてしまうのだ。何年も我慢をかさねた分だけ、欲望(彼の場合は若い男への肉体的欲望ですね)に突き動かされる瞬間の開放感は、いっそう生彩を放つ。

愛情を注ぐことのできない妻と息子が待つ、あたたかく懐かしいハバナへ・・・
これは、年末年始につきものの帰省の物語だ。

「ハバナへの旅」の主人公は、実のところキューバにもニューヨークにも絶望している。ヴィム・ヴェンダースの映画「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」(1999)が、キューバ音楽とともにニューヨークを礼讃しているのとは対照的だ。 アレナスは1943年にキューバに生まれ、反政府的な言動が原因で繰り返し問題を起こし、1980年に小舟に乗ってキューバを脱出。ニューヨークに居を構えたが、エイズに冒され、1990年12月7日、ニューヨークの自宅で自殺した。

本書には、「ハバナへの旅」(1987)のほか、編物(ファッション)をモチーフにした「エバ、怒って」(1971)と、モナリザ(アート)をモチーフにした「モナ」(1986)の2編が収録されている。ユニークなアイディアを緻密に寓話化した3楽章だ。

3つの作品に共通しているもの。それは、母親のように主人公を思い続け、陰で支える女の存在。どこにも居場所がない「放浪するホモセクシュアル」としてのアレナスにとって、女とは、母とは、決して旅に出ることのない「鬱陶しいけれど感謝すべき大地のような存在」なのかもしれない。

2001-12-22

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