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『美食家ダリのレストラン』ダビッド・プジョル(監督)

コンビニの缶ボトルのスパークリングワインにスムージー系ジュースを混ぜることをなぜもっと早く思いつかなかったのだろうか。それで夏のバルコニーは完璧じゃないか。― 千葉雅也

東京は、世界一レストランの多い都市だ。でも、それだけじゃない。「ミシュランガイド東京2024」によると、星付きレストランの数も世界一の180軒で、2位のパリを大きく引き離す。うち三つ星レストランは12軒で、これも世界一だ。

一方、2002年からイギリスの月刊誌が始めた「世界のベストレストラン50」では、日本のレストランはベスト5に入ったことすらない。逆に、毎年必ずベスト3にきっちりランクインしているのがスペインのレストランだ。「世界一予約が取れないレストラン」と呼ばれ、2011年に閉店した三つ星レストラン「エル・ブジ(=エル・ブリ)」は、かつて5回も1位に輝いた。2024年の1位に輝いたのも、エル・ブジのDNAを受け継いだシェフ3人が経営するレストランなのである。

はたしてエル・ブジの魅力とは一体何なのか? 日本のレストランとどう違うのか? その答えがふわっと体感できるような錯覚に陥る映画が「美食家ダリのレストラン」だ。監督はエル・ブジのドキュメンタリーやサルバドール・ダリのドキュメンタリーを手掛けた人。1974年、スペインの海辺の街カダケス(エル・ブジから車で40分、サルバドール・ダリの家から車で8分)を舞台に、レストランオーナーの推し活を中心とした人間模様を描くフィクションだ。

レストランの名は「シュルレアル」。オーナーの推しは、近くに住むサルバドール・ダリである。ダリ風のシュールなオブジェを屋外にちりばめた自慢の店に、本人がいつか食事に来てくれることを心待ちにしているのだ。そんなオーナーの前に現れるのが、バルセロナから逃げてきた訳あり天才シェフ、フェルナンド。エル・ブジのシェフ、フェラン・アドリアをモデルにした人物であり、料理もエル・ブジで実際に提供されていた美しい皿の数々が再現される。いちばん美味しそうに見えたのは、屋台の店で焼いていた新鮮なエビだったけれど。

何よりのご馳走は、カダケスの海と光と人々の表情なのだ。このレストランで飲んだり食べたりするなら屋外しかありえないし、ラテン系の大雑把なコメディであることもリラックスできてよかった。店にはダリの作品「ロブスター・テレフォン」を模した電話があり、オーナーが得意げにこれで予約をとるのである。

ぐんにゃりした時計が木にかかっているのも笑えた。溶けていくカマンベールチーズから着想を得たといわれるダリの作品「記憶の固執」のパロディだが、ぐんにゃりした時計しか記憶になかったこの絵を改めて検索して見て感激した。映画に登場する美しい海と岬が、背景に描かれていたからだ。

ひなぎく型のロゴの原型をダリがデザインしたという棒付きキャンディ、チュッパチャプスも魅惑的な女優の小道具として活躍する。スペインの人は皆、チュッパチャプスを舐めているのだと、山田チカラさんが試写のあとのトークで言っていた。

山田チカラさんは、かつてエル・ブジでフェラン・アドリアに師事し、食材をムースのような泡状にするエスプーマ料理を日本に広めた人だ。この日は、昨年スタートした麻布十番のスペインバル「バルセロナ グロック」からシェフエプロン姿で試写に駆けつけ、この映画がどのくらい忠実にエル・ブジのシェフやオーナーや料理を再現しているかをリアルに語り、「お客さんが待ってるから」と爽やかに帰っていった。バルセロナ グロックでは今、映画タイアップメニューとして「サマートリュフのスパニッシュオムレツ」と「ココナッツカレーと人参のアイレ(=泡)」の2品が食べられるそうだ。

東京にもエル・ブジのDNAを受け継ぐシェフがいるのである。世界一予約が取れなかった伝説の店の幻のメニューを、予約せずに食べられるなんて、やっぱり世界一じゃないか東京。と、大雑把にまとめてみる。

2024-8-7

『一人称単数』村上春樹
『ラーメンカレー』滝口悠生

不自由な村上春樹と、自由な滝口悠生。

村上春樹の6年ぶりの新作長編『街とその不確かな壁』が4月13日に新潮社から発売される。さらに今秋には、直筆サインとシリアルナンバー入り愛蔵版(税・送料別で10万円!)が限定300部で刊行予定だという。

これに先立ち、2月10日、ウォーミングアップにぴったりな最新短編集『一人称単数』(文藝春秋)が文庫化されたのだが、この日は、滝口悠生の最新短編集『ラーメンカレー』(文藝春秋)の発売日でもあった。
2つの連作短編集の初出は、どちらも雑誌「文學界」。村上の短編は2018年7月号〜2020年2月号に掲載され(表題作のみ書き下ろし)、滝口の短編は2018年1月号〜2022年5月号に掲載された。

この2冊の共通点は、読みながらプレイリストをつくりたくなるほど、音楽が重要な役割を果たしていることだ。
『一人称単数』には、ビートルズのアルバムタイトルである『ウィズ・ザ・ビートルズWith the Beatles』、シューマンのピアノ曲タイトルである『謝肉祭(Carnaval)』、そして『チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ』という3つの音楽系小説が収録されており、ほかの短編にもたくさんのポップスやクラシック音楽が登場する。
一方、『ラーメンカレー』には、ブルーハーツの人気曲タイトルである『キスしてほしい』、徳永英明のデビュー曲タイトルである『レイニーブルー』という2つの音楽系小説が収録され、ほかにもボブ・ディラン『戦争の親玉』BTSの『Dynamite』などが登場する。

また、『一人称単数』を読んでいるとビールワイン、ウォッカ・ギムレットなどが飲みたくなるのに対し、『ラーメンカレー』はタイトルからして食欲をそそる。きちんと読み込めば、イタリアの本格カルボナーラや黒米を使った料理、さらには何種類ものスリランカ・カレーがつくれるようになるだろう。

ただし、この2冊は全く似ていない。村上春樹というジャンルと滝口悠生というジャンルは、真逆なのだと思う。

『一人称単数』は、まじめに生きているはずなのに、いつのまにか理不尽なものに巻き込まれ、追い詰められていくような、孤独でストレスフルな一人称小説。僕は悪くない、僕の責任じゃないという長い言い訳と、考え抜かれた完成度の高い比喩は、村上春樹の真骨頂だ。
他方、『ラーメンカレー』は、一人称も二人称も三人称もありの自由な小説。著者は、自分よりも他人の声に耳を澄ませており、人称や文体が偶発的に変化する。些細なことを緻密に描写しているだけで世界が無限に広がっていくインプロビゼーション感は、滝口悠生の真骨頂だ。

2023-4-5

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『悪口』上田岳弘 / 『群像』8月号

人類が絶滅するかもしれない濃厚接触。

シアターコクーンで『太陽2068』(前川知大作、蜷川幸雄演出)を観たのは2014 年のことだ。描かれていたのは、バイオテロで拡散されたウイルスにより、人間が「ノクス」と「キュリオ」に二分された世界。ウイルスの抗体で進化し、若い肉体と知性を得た都市型人間が「ノクス(=夜)」で、感染を恐れ、ノクスから距離を置いて生きる旧人類が「キュリオ(=骨董品)」だった。

近未来のSFめいた設定が、わずか6年後の2020年にこれほどリアルに感じられるなんて、そのときは思ってもみなかった。もはや後戻りはできず、withウイルスの作品にしか現実味が感じられなくなっている。コロナ以前の小説も「キュリオ」として愛読していきたいけれど、いま読みたいのは、ウイルスと積極的に絡んでいく最前線の「ノクス小説」だ。

上田岳弘の短編『悪口』の主人公は、フリーのシステム開発者である。緊急事態宣言下の連休中、久しぶりに街に出て、恋人の十花(とうか)と会う。那須への旅行がキャンセルされた代わりに、都内のホテルで1泊することに決めたのだ。新型コロナウイルスが流行っていても人類は順調に増え続けており、六本木の外れのラブホテルは昼間から満室に近い。空いていた部屋は露天風呂付きで、二人はあれこれデリバリーを頼み、湯に浸かりながらスパークリングワインを飲む。

えー、何これ、楽しそうじゃん? だけどふいに現れる「悪口のレッスン」という言葉にざわっとする。バツイチの主人公は、やや世の中を舐めた感じの露悪的な男のようだ。自己評価の低い自信なさげな女が、ちょっとずつ自分に慣れていく様がたまらなく好き。彼は十花に「悪口」を言わせるように仕向け、健やかな世界を不快に思う気持ちを共有したいらしい。それは、二人で楽しむ恋愛頭脳プレイの甘やかなスパイスでもある。

悪口とは、口から体内に入りこんで悪さをするウイルスのようなものだろうか。どれだけの影響力や殺傷力をもつのだろうか。彼は、自信過剰なのか不遜で傲慢なのかよくわからない自分自身を、元妻や十花の辛辣なセリフによって知ろうとし、強いんだか弱いんだかよくわからない新型コロナウイルスの本当の力を、遺伝子の塩基配列コードの長さによって把握しようとする。

「僕にだって多くのことに切実さを覚える時期があった」と、彼は自虐的に回想していた。それは、さまざまな経験を重ね、鈍感になりつつある一人の男の、ほのかな焦りのようなものかもしれない。ウイルスによる人類の敗北の可能性を「たかが絶滅だろ?」とうそぶきながら、それでも持てる肉体とテクノロジーを駆使し、リアルな痛みの感覚にアクセスしようとする真摯さに、ロマンチックなオトコギを感じてしまった。

2020-7-26

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『冬時間のパリ』オリヴィエ・アサイヤス(監督)

過渡期の雑談って、こんなにおいしい。

おいしいものを食べて、飲んで、しゃべる。年末の飲食店は、尋常ではない活気にあふれている。ところでみんな、何をしゃべっているのだろう?

パリを舞台にした、食事とワインと恋愛と雑談のマリアージュ映画を見た。はじめのシーンは出版社で、2人の男(老舗出版社の幹部でもある編集者とヴァンサン・マケーニュ演じるアラフォーの小説家)が話をしている。その後、場所を変え、ランチを食べながら会話を続ける2人。

ロケ地はマルグリット・デュラスが通っていたというパリ6区のビストロで、編集者はリブロースとサラダ、小説家はテリーヌとヒラメのアイオリソースを注文する。だが結局のところ、小説家の新作は、編集者の意向でボツになったのだと、あとになってわかる。理由は、古くさくて悪趣味だから(笑)。彼が得意とする私小説は、自身の恋愛をネタにするため、炎上しやすくもある。

もちろん彼の私小説のファンも多いようで、ジュリエット・ヴィノシュ演じる編集者の妻などは、ぐっとくるような文学的理由で擁護する(実はこの2人、秘密の関係を結んでいるのだが…)。また、編集者は編集者で、社内のデジタル担当の若い女性と不倫している。

恋愛映画というよりは、出版界の危機をベースにした「過渡期のお仕事映画」であるところがオリヴィエ・アサイヤスの特筆すべきユニークさといえるだろう。編集者と私小説作家をはじめ、それぞれマンネリな女優だったり問題を起こす政治家の秘書だったりブログが人気の流行作家だったりする彼らは、パートナーや友人や仕事相手や不倫相手と、パリの自宅やカフェ、マヨルカ島の別荘で集う。ワインや食事を楽しみながら、とりとめのない議論を繰り広げるのである。

とりわけ面白いのが、クレバーかつセクシーなデジタル担当者。危機に瀕した出版社を改革すべく引き抜かれた彼女が語るドライなビジョンは、希望に満ちたいかがわしさというべきものか。彼女と編集者は、ベッドを共にしながらも、仕事の話ばかりしている。

反面、私小説作家の日常は、かなりウエットだ。本屋でのトークイベントは、少人数でアットホームな雰囲気なのに、読者からの質問は痛烈。ラジオの生放送に至っては沈黙してしまい「では、(小説の問題の場面で上映されている)ミヒャエル・ハネケ『白いリボン』のあらすじを紹介してください」なんて言われてしまう。

キーワードは、ヴィスコンティの『山猫』(1963)に登場する「変化しないための変化」というニュアンスの言葉。現状維持を望むなら変化が必要であり、そのまま何もしなければ退化するだけということ。この真理だけは、いつの時代も変わらないのかもしれない。

何をやめ、何を始め、何を再接続するか。それはもはや戦略などではなく、生きる喜びそのものだと思う。

2019-12-31

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ごあいさつ

言葉は、みずみずしい。

広告は、やわらかい。

本は、おいしい。

ワインは、いろっぽい。

イタリアは、ちょうしがいい。

ランジェリーは、こうばしい。

映画館は、あたたかい。

好きは、くるしい。