「ロードムービー」の検索結果

『コンパートメントNo.6』ユホ・クオスマネン(監督)

1990年代のロシアは、ロマンティック。

夜の映画館は、寝台列車のようだ。
そんなふうに感じたのは、この映画がまさに寝台列車での長旅を撮影したものだったから。

ライブと違ってハプニングの少ない映画は、静かにすわっているだけで目的地へ連れていってくれるから、列車のツアーに参加したような安心感がある。好きなものをゆっくり飲めるし、なんなら眠っていたっていい。

新宿の小さな劇場は満席で、私は列車1両分くらいの人々と共に、モスクワから世界最北端の駅、ムルマンスクへと向かう数日間の旅を楽しんだ。実際に流れた映画時間は2時間弱だったけれど、終わって外に出ると雪景色が広がっているんじゃないかと期待するくらい北上した気分になったのだ。

列車の中の様子や、移り変わる車窓の風景だけでも十分に美しく面白いロードムービーだと思えたが、この作品がカンヌでグランプリをとった理由は、出会いのストーリーにこそあるのだろう。主人公は、2等車のコンパートメントNo6に乗り合わせたフィンランド人女性ラウラと、ロシア人男性リョーハ。同性の恋人を持つインテリ女性ラウラが、傍若無人で酒飲みのリョーハに抱く第一印象は最悪で、彼のセクハラ発言に耐えられなくなった彼女は、途中下車まで考える。

人生において全く別の部分を「こじらせて」いるように見えるこの2人には、他にもたくさんのギャップがあって、そのギャップがどうやって埋められてくのか、結局埋められないままなのかを、映画は丁寧に描いていく。最悪の出会いから恋愛感情が芽生えるのはお決まりのパターンだが、この2人は意外にも、通常の恋愛や性別の枠を超えた、子供のようなピュアな関係に向かっていくように見えるのである。

こんなにも無邪気でロマンティックな映画を成立させているのは、スマホもマッチングアプリも過剰なコンプライアンスもない1990年代という設定だ。より効率的に進化した現代であれば、この旅で起きたハプニングのほとんどは起きなかっただろうし、そもそも異なる国籍の男女が同じコンパートメントに乗り合わせることもなかったかもしれない。

途中の停車駅で、ラウラは薄暗い列車の中から雪の積もった外を見ている。そこには、列車を降りたリョーハが、発車時間まで煙草を吸いながら、馬鹿みたいに雪とたわむれている姿がある。
寝台列車の車窓は、映画のようだ。

2023-3-4

amazon(ユホ・クオスマネン監督の前作)

『イーダ』 パヴェウ・パヴリコフスキ(監督)

ヒッピーガールが修道女を演じたら、こうなった。

シンプルで硬質なのに、リリカルで鮮烈。1962年のポーランドを舞台にしたロードムービーであり音楽映画。

修道院で育った戦争孤児のアンナは18歳。修道誓願の時期が来たが、シスタ一から一度も面会に来ない肉親の存在を知らされ、修道女になる前に会ってきなさいと勧められる。アンナは外界に出て、唯一の肉親である叔母のヴァンダを訪ねる。

自分がユダヤ人で、本名がイーダであることを知るアンナ。ヴァンダと共に両親が戦時中に住んでいた家を目指すが、実はヴァンダもあるものを探している。それらを見つけることで、2 人の人生は大きく変わっていく。

ヴァンダはエキセントリックな検察官。酒を飲みながら白のヴァルトブルクを運転し、恋愛を投げやりに楽しみ、強面でやや壊れてもいる。こんな魅力的な女と4日間も一緒にいたら、イーダが影響を受けてしまうではないか。修道女の誓いを立てる前の、最初で最後の旅なのに。

イーダの硬さは簡単には崩れず、髪にはベールを被ったままだが、きっかけはファッションより前に、音楽が連れてくる。宿泊中のホテルの階下から聞こえてくるのはコルトレーンの「ネイマ」。なんて罪深く甘美なのだろう。兵役を逃れながら放浪しアルトサックスを吹くイケメンは、昼間ヴァンダの車をヒッチハイクし、ホテルまで一緒に来た男。舞台装置は完璧だ。
音楽という名の空気は、いつだって壁を越え、ピンポイントでターゲットの耳に囁く。国境や文化や言葉をすり抜ける突破力と、無関心な層には決して届かない選別力をもって。もしもイーダの心に響く音楽がロックだったら、ボサノバだったら、違う展開になっていたはず。音楽の趣味は人生を揺るがす。

イーダの場合、とりあえず初めて出会った男がそれほど悪い奴じゃなくてよかった。しかし彼女は、彼と人生を共にしようなんて思わない。初めて自由を知った彼女は、彼と生きる人生を自由とは思わないのだ。「アナと雪の女王」で13年ぶりに外界と接触し、他国の王子とあっさり恋に落ちてしまうアナとは格が違うのである。
イーダが鏡の前でベールを取り、髪をはらりとほどくシーンは「アナと雪の女王」でエルサが髪をふりほどき雪の女王に変身するシーンを思わせるが、そこにはエルサのような自己肯定の開放感はない。ポーランドとアメリカは違うし、1962年と現代は違う。イーダは自由を垣間見た瞬間に、その限界を悟っただろう。

髪を見せ、ハイヒールをはき、ドレスをまとい、酒を飲み、タバコを吸い、踊り、恋愛をすることはなんて楽しくて簡単なんだろう。なんて軽くて柔らかくて儚いんだろう。そうイーダは思ったはずなのだ。誰でもできることで状況を変えるのは難しい。柔らかさに流れるのは簡単だけど、イーダの武器は硬質さ。それを棄てない限り、彼女はたくましく生きていけるだろう。
音楽もなく規律正しい修道院での食事の時間にイーダは笑う。外界を知ってしまったら、自分だけが生き残った理由を知ってしまったら、もう他の修道女たちとは同じでいられない。彼女が今後どういう選択をしていくのか楽しみだが、イーダを演じたアガタ・チュシェブホフスカが、今後女優を続けるかどうかも興味深い(続けるつもりはないと言っているが)。

監督が「演技経験が一度もなく、演じたいとすら思っていない女の子」を探す中で主役に抜擢された彼女の第一印象は、イーダ役にはまるで似つかわしくない娘。「むやみに飾り立てたヘアスタイル、古臭い服、ウルトラクールな物腰の、人目をひくヒッピー」だったそうだ。
ヴァンダを演じたのはアガタ・クレシャという有名な女優だが、その強烈なキャラクターは、監督が慕っていた老婦人がモデル。煙草を吸い、酒を飲み、冗談を言う温かく寛大な彼女が、20代後半の頃、冷酷で狂信的なスターリン主義の検察官だったと知ったとき、ショックを受けたらしい。「このパラドックスは、何年もの間脳裏を去ることがありませんでした」と言う。

事実は想像を超え、妄想に貢献する。

2014-8-7

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『果てなき路(ROAD TO NOWHERE)』モンテ・ヘルマン(監督)

どこへも行けない路は、どこにでも行ける路。

スタートすれば思いがけない形で走り出し、終わったあとは勝手に成長していく。どんな仕事もそういうものかもしれない。それこそが仕事の醍醐味なのだろう。人生は、自分の意志でコントロールできないロードムービーのようなものだ。

『果てなき路(ROAD TO NOWHERE)』は、映画撮影についての映画、いわゆるメタ映画だ。何をいまさら? でも、これはモンテ・ヘルマンの21年ぶりの監督作、ファン特別大サービス仕様。結果的に、使い古されたこのテーマがここまで斬新な映画として完成してしまったのだから、ひとつのことを徹底的に突きつめるというのはすごいなと思った。
映画を見ながら気づいたことは「映画は、撮っている人がいちばん楽しいんだ」ということ。監督と女優はローマで恋に落ち、撮影が始まれば他のスタッフが苦言を呈するほどの熱愛ぶりだ。キャスティングの過程で「ディカプリオでどうだろう」「スカーレット・ヨハンソンが乗り気だ」なんて皮肉なセリフも出てくるし。だけどロケの現場は幸せなことばかりじゃない。きなくさい人物も紛れ込んでいる。
人生のダークサイドを扱っているのに、楽しげでポップなノリなのは、それが映画だから。美しすぎるローマ・ロケ以外はロサンゼルスの香り満載で、タランティーノの映画を見ている気分だった。タランティーノこそが、モンテ・ヘルマンの追随者であるわけだけど。

映画監督のミッチェルは、映画『果てなき路(ROAD TO NOWHERE)』の製作をスタートする。ある事件を映画化するのだが、実際の事件と撮影中のシーンが入り交じり、さらに撮影現場では日々いろいろなことが起こるから、構造はマニアックで複雑怪奇。フレームの中には最後までカメラがあり、そのカメラで撮られた映像も、映画の中で使われるというわけだ。
「ROAD TO NOWHERE」と呼ばれる路はノースカロライナ州に現存する。その名の通り、どこへも行けない行き止まりのトンネルだ。墓地へ通じる路をつくるはずが途中で頓挫したのだという。映画は、この路のようにどこへも行けないまま終わり、私たちは現実にもどる。

最後に「For Laurie」というメッセージが現れ、この映画が女優のローリー・バードに捧げるものであることがわかる。1970年代の最も重要なカルト映画と評されるモンテ・ヘルマンの『断絶』の主演女優だ。当時この映画は興行的に失敗し、モンテ・ヘルマンと恋に落ちたローリーも、数年後に自殺してしまう。どんな残酷なシーンも所詮、映画の中のできごとなんだという構造を示すことで、モンテ・ヘルマンは自分と彼女を救ったのかもしれない。『断絶』の撮影現場につながる世界を描くことで、彼女を生き返らせたのかもしれない。墓地へ辿り着けない路は、死者を葬らずにすむ路でもあるのだから。
徹底した愛の映画だということは、終わり方をみればわかる。今も監督は孤独な部屋にいる気分なのだろう。だからこの終わりのない、終われないはずの映画は、唯一のカットに、きちんと着地できたのだと思う。

ビクトル・エリセをはじめとする「ぐっとくる映画」のダイレクトな引用はもちろん、個々のカットがいちいち「ぐっとくる映画」の片鱗を匂わせる。それがこの映画そのものであろうが、映画の中の映画であろうが、だんだんどっちでもよくなってくる。結局のところ現実は、完成したこの新しい1本の映画なのだ。
重要人物であるヴェルマの死について、監督はこんなふうに質問に答えている。
「当初、実在のヴェルマの死の場面を見せようと考えていたことは事実だ。しかし、映画はそのシーン抜きでもすでに十分長く、そのシーンを入れることで予算超過することがわかっていたので、そのシーンを捨てることにした。君の言うとおり、この”アクシデント”がミステリアスな雰囲気をさらに高めたはずだ」

映画監督って、自分勝手で楽しそうな仕事だな。でも、興行的に失敗したら大変だろうし、女優と恋に落ちるのもラクじゃなさそう。だから。観客としては、監督よりもっともっと自由な無責任さで、映画を楽しみ尽くしてしまいたいなと思ったりする。

2012-01-17

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『SOMEWHERE』 ソフィア・コッポラ(監督)

予知夢のような映画。

米アカデミー賞で特別名誉賞を受賞した黒澤映画「夢」(1990)で、ハイビジョン合成の導入をアドバイスしたのは、フランシス・コッポラだったという。黒澤監督がみた夢をもとにした8話のオムニバス映画だが、後半の3話はつながっているようにみえる。いま思い返すと、まさに予知夢のようだ。

原発が次々と爆発し、灼熱の富士山も真っ赤に溶解。大地と海が荒れ狂う中、着色された放射性物質から逃げ惑う人々を描いた「赤富士」。核汚染後の荒廃した世界で、弱肉強食の共食いを続ける鬼たちの地獄絵図を描いた「鬼哭」。そして、近代技術を拒み、失われた自然と共に生きるユートピアのような村の葬式を描いた「水車のある村」。

黒澤監督をリスペクトするフランシス・コッポラが製作総指揮をつとめ、娘のソフィア・コッポラが監督した「SOMEWHERE」(2010)はどうだろう。ヴェネチア国際映画祭で金獅子賞を受賞したが、その理由は、審査委員長のタランティーノがソフィア・コッポラの元恋人だったからではない。この映画もまた、監督の過去における予知夢なのだ。

映画スターの父と11歳の娘の物語だが、ひとことでいえば「フェラーリ360モデナ」によるロードムービー。ストーリーよりもひとつひとつのシーンの輝きに目をみはる。父フランシス・コッポラと過ごした監督の少女時代がリアルに、しかも淡々と描かれているからだ。ばかにするのでもなく、うらやむのでもなく、皮肉っぽくもなく、セレブな生活をありのままに描写する説明なしのセンスが上品で心地よい。ファッションや選曲の感覚も抜群だ。

まずは、父の生活の描写から始まる。砂漠のテストコースを周回するモデナ、ホテル暮らし、デリバリーガール、記者会見、パーティ、特殊メイクのための頭の型取り。何も不自由はないが、どこか少しずつずれた感じ。旅程をこなすような孤独で地に足のつかない日々の疲弊は、妻と別居していることが原因かもしれない。しかし、時々会う娘と過ごす時間は夢のようだ。娘を演じたエル・ファニングのスレンダーな少女の魅力には、誰もが釘付けになるだろう。

しばらく家を空けると言い残した母に代わり、娘をキャンプへ送っていく父。道中、彼女はモデナの中で泣く。そりゃそうだ。キャンプが終わったとき、いつ戻るかわからない母の家に戻るか、多忙なスターの父に頼るか、どうすればいいの? だが、父はキャンプに間に合わせるため、ヘリまでチャーターして娘を送り届けるのだから、彼女も泣いている場合じゃない。父に迷惑をかけることなく現実のセレブ生活をありがたく享受しなければ、これから先、生きていけないかもしれないのだから。その後、父は別居中の妻に電話をかけ、泣き言をいうのだが「ボランティアでもしたら?」と言われてしまう。彼は、住んでいるホテルをチェックアウトし、荒野の一本道でモデナをキー付きのまま乗り捨てて歩き始める。

私たちの国も、震災前、リセットを求められていた。3月10日以前の日本は、長く続くデフレの中、バブルみたいな世界もなぜだか残っていて、なんだかよくわからないまま政治も停滞していた。希望的でも絶望的でもなく、ただただ世の中が疲弊していく感触。ゆたかさが行き詰まり、すべてが少しずつ余り、大きな志を持ちにくい中で、大地震と津波と原発の問題が起きた。かつてない悲劇に国中が包まれながらも、一挙にあらゆる需要が生まれたのだ。これを何とかいい方向に持っていくしか道はないのかなと思う。たくさんの信じられない犠牲の中で、私たちはどんな夢を見ればいいのだろう。

2011-04-11

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『何も変えてはならない』 ペドロ・コスタ(監督) /

ペドロ・コスタ。エグルストン。音の職人。

「途中で眠ってしまうような映画がどうして面白いの?」と私のマッサージを担当してくれる人は不思議そうに言う。そう、私は、眠くなるほど退屈な映画が好き。ううん、正確に言えば、眠くなるほど気持ちいい映画が好きなのだ。それは、あなたにマッサージしてもらう時と同じ。もっと話をしていたいのに、笑っていたいのに、つい眠ってしまう。だけど、何をしてくれていたのかは肌がちゃんと覚えている。

ペドロ・コスタ監督の『何も変えてはならない』を見た。たった10文字なのに眠くなってしまうようなタイトル。音楽ドキュメンタリーだというので私は期待した。
先月、この監督の短編をいくつか見て、音のとらえ方の鮮やかさに驚いたばかりだった。その後、来日中の監督と佐々木敦さんのトークを聞いたのだが、メインは音楽の話。ペドロ・コスタは、BGMとしての音楽なんてほとんど使わないのに、いや、使わないからこそ、音に対してものすごく意識的な人だったのである。

私はこれまで『ヴァンダの部屋』(2000)を見ても、『映画作家ストローブ=ユイレ/あなたの微笑みはどこへ隠れたの?』(2001)を見ても、『コロッサル・ユース』(2006)を見ても、自分がこの監督のどこに惹かれているのかよくわからなかった。しかし、気付く人は最初から気付いている。「こうき」さんのレビューからの引用。

「その街の一角が取り壊される音だけは、ヴァンダの耳に響いてくる。ヴァンダはその音によってのみ知りたくもない周囲の環境=移民街の変化を知らされることになる。(中略)音楽。その音だけは、移民街にあって唯一の希望のように見える。ヴァンダの部屋に響く音や、時折、街角で聞こえてくるディスコやヒップホップ、そして取り壊し現場の職人が着るボブ・マーリーのジャケット(中略)。ヴァンダでさえもテクノが響く街のクラブの前でたたずむ。その光景は、ヴァンダが唯一見せる実存の瞬間であり、貧困への抵抗のちょっとした現れであるのかもしれない」

『何も変えてはならない』は、歌手としても知られるフランス人女優、ジャンヌ・バリバールのライブリハーサルやレコーディング、コンサート、歌のレッスンなど、音楽の現場に密着した音のロードムービーだ。
ペドロ・コスタが初めて音楽と正面から向き合ったこの映画は、このままずっと聴いていたいと思う心地よさだった。同じフレーズを延々と繰り返すリハーサルシーンなんて退屈ともいえるけれど、歌う女優、音を出すメンバーらは、淡々とした作業をごく普通に楽しんでいることがわかる。好きということは、飽きないということなのだ。私はうっとりと音に浸りながら「ああ私もバンドをやりたい!」と『ソラニン』の種田のような気分にもなったが、どちらかといえば、今すぐ自分の仕事場に戻って、何十時間も心ゆくまで言葉と格闘したいなと現実的なことを思ったのだった。

年配の日本人女性2人がカフェで煙草を吸うシーンがあったが、日本人が見ても「ここはどこ?」と思う不思議なシーン。監督は、この場面の音を作るためだけに2週間を費やし、楽しみながら作ったという。監督もまた、音づくりの作業に没頭していたのである。

この日は、映画の前に、原美術館で開催中の『ウィリアム エグルストン:パリ-京都』を見た。エグルストンがとらえた京都は、やはり「ここはどこ?」がほとんどであった。お茶を撮った1枚には笑った。福寿園でも一保堂でも辻利でもなく、それは伊藤園のペットボトルだったから。エグルストンが故郷メンフィスで撮った唯一の映像作品『ストランデッド・イン・カントン』も、そういえば、音に意識的な映画だった。

2010-08-09

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