「レナート・ベルタ」の検索結果

『家族の灯り』マノエル・ド・オリヴェイラ(監督)

男のウソがとりあえず輝くとき。

贅沢にしてシンプル、この上なく洗練された映画ばかり撮り続けている105歳のマノエル・ド・オリヴェイラ監督は、なぜ貧困についての映画を撮らないのかと問われ、ポルトガルの作家による戯曲「ジェボと影」を思い出し、映画化を決めたという。「家族の灯り」という日本語タイトルのコンサバ度合いとは真逆の、アグレッシブな作品である。

印象的な港のシーンから始まるが、ほとんどの舞台はテーブルのある部屋とそこから見える路地のみ。バロック絵画のような計算された絵づくりと、そこで繰り広げられるシーンの緻密さから目が離せない。8年前に失踪した息子ジョアンの帰りを待つ会計士の父ジェボ、母ドロテイア、息子の妻ソフィア。父と息子の妻はジョアンが泥棒であることを知っているが、息子を溺愛する母には隠している。母は、息子の消息について曖昧なことしか言わない父にうんざりし、息子の妻にも、あんたのせいで息子は…とつらく当たる。息子を愛しているのは自分だけという思いを深めていくのだ。

ジョアンは笑っちゃうほど唐突に帰ってきて、そんな家族をかき乱す。父と母が友人を招きコーヒーを飲みながら繰り返すおしゃべりに呆れ、挑発するのである。「父さんのような人間は、生まれた時から負け犬だ」「あんたらは全員、生き埋めにされた状態にいるんだ」と貧しさへの諦念をなじり「魂をもった犯罪者もいれば、もたない善人もいる」と志ある悪の世界を肯定する。ジョアンを演じているのはオリヴェイラ監督の孫。これは監督から孫への、負け犬になるなよというメッセージであるにちがいない。

何にせよ、撮影監督レナート・ベルタがとらえる貧困生活の陰影は美しすぎる。母を演じたイタリアの大女優クラウディア・カルディナーレや、母の友人を演じたフランスの大女優ジャンヌ・モローらが繰り広げるおしゃべりなんて、華やかさ以外の何物でもないわけだし!とはいえ一見優雅な老人たちの停滞が、過去の遺産にすがるしかないヨーロッパの成熟という病の正体であることも確かだろう。オリヴェイラ監督は、そのことを孫世代に鋭く糾弾させるのだ。ジョアンは父が取引先から預かっていた金を盗み、再び逃亡する。一緒に逃げようと妻を誘うが拒否される。妻はジョアンではなく、ジョアンの父を選ぶのである。ジョアンに追いつけないとわかり、引き返す時の彼女の表情は見逃せない。

ジョアンが金を盗んだことは、またもや母だけが知らないことになっているが、母親というものは、息子の犯罪を知ったとしても否定してかばうもの。彼女は気付かないふりをしているだけだろう。要するにジョアンは家族の期待の星。彼が金を持って逃げたことは、何も持たないで逃げるよりもましかもしれない。彼らは悪党に、社会と闘う資金を提供したようなものだ。こんな息子、こんな夫を心の中にもつスリルの共有は、貧しく単調な日々における生き甲斐でもあろう。不安を抱きつつ、彼の革命に期待しているのだ。

盗まれた金はどうするか? 取引先は裕福だから許してもらえるのではとジョアンの妻は言うが、父は否定する。誠実に生きてきたふりをしてきたが、同情で雇われている屈辱的な人生だったことを息子の妻に打ち明けるのだ。男がここまで弱みを見せるのは愛の告白と同じ。ふたりの共犯関係は妖しすぎるけれど、情けなかった父はなんだか急に生き生きしてきて、オレに全部任せろなんて言い始めるではないか。

警察がやってきて、暗かった部屋にさっと光がさす。自分が盗んだと嘘をつくことで、父の立ち位置は、光に満ちた場所になるのである。
 
だがその姿はどこか滑稽で、カラヴァッジョの絵みたいなリアリズム的ストップモーションで映画は終わる。何も知らないことになっている母の驚きの顔。それは自分のために事実を隠し通し、息子の罪をかぶった夫への、はじめての称賛のまなざしかもしれない。

2014-2-24

amazon

『ヘカテ』 ダニエル・シュミット(監督) /

1982年の、おしゃれなメロドラマ。

ダニエル・シュミットの回顧上映特集が、アテネフランセ文化センターに引き続き、ユーロスペースでレイトショー開催されている。

中でも「ヘカテ」は「最もファッショナブルな一篇」といわれるだけあって大盛況。日本初公開当時も話題になったようだが、今やその価値はさらに高騰している。北アフリカの風景も、1930~40年代という設定も、昔のクルマも、ディオールオムも、それだけで絵になっている。撮影監督はもちろんレナート・ベルタ

砂漠の風景に重なる鮮烈なブルーのロゴ、謎の女に人生を狂わされていく外交官、反復される女の後ろ姿、寛大さと諦念の入り混じった滋味あふれるセリフを口にする上司、ふいにレコードを割る男、演劇的に決まりすぎな音楽とセリフと間合い……。でも、この映画で語られるのは、言葉はいつだって無意味だってこと。

モロッコの領事館に赴任した若いフランス人外交官(ベルナール・ジロドー)は、たいした仕事も出世も期待できない中、植民地のエキセントリックな倦怠が渦を巻くパーティで、テラスにたたずむアメリカ女(ローレン・ハットン)と出会う。これはもう、アラン・デュカスがプロデュースするモナコのレストランでイタリア人シェフによるエスニック料理に舌鼓を打つような美味快楽としかいいようがない。実際のところ、マニアックな男やおしゃれな女や知的な老人といった多彩な人種が、たった2回しか上映されない「ヘカテ」を味わうために、週末の夜9時過ぎ、渋谷のラブホテル街に足を運んだのだ。

魔性の女に翻弄される男の話だが、男から見て女がどう見えるのかを、非常に洗練された形で描いている。普通、女のことは、ありえないほどきれいに描くか、どろどろと醜く描くかのどちらかなのに、この監督はどちらでもない。女のことをよく知っているのに、わからないふりができてしまうダニエル・シュミットという男は、正しく女性をリスペクトし、幸せにすることができた人であるはずで、この映画を見れば、魔性の女になって男を狂わせるにはどうしたらいいかがわかる。簡単なことだ。もし、そうありたいと望むのであれば。

映画は回想形式であり、男は結局のところ出世する。女のせいで死んじゃったり殺しちゃったりダメになったりしないのだ。すごくいい話じゃん。このポジティブさ、育ちのよさが、ダニエル・シュミットのセンスのよさだ。フェリーニの「道」なんかとは、格が違うのである。

蓮實重彦の「光をめぐって-映画インタビュー集」(筑摩書房)の中で、ダニエル・シュミットは「映画とは、1秒ごとに24回くり返される現実だ」というゴダールの言葉を受けて、自分はこう言い直したいと語った。
「映画とは、1秒ごとに24回くり返される嘘だ」
そして、こうも言った。
「映画とは、可能な限りの操作によって捏造されるもの」

そう、メロドラマは嘘のかたまりだ。ダニエル・シュミットは、自覚的に、とことん嘘をつく方向で、本質をあらわにする。

2007-02-06

amazon

『カルヴィーノの文学講義/新たな千年紀のための六つのメモ』 イタロ・カルヴィーノ / 朝日新聞社

名前と涙―イタリア文学とストローブ=ユイレ

文学の価値を決める要素とは何か?
文体、構成、人物造詣、リアリティ、そしてユーモアである。
…などという凡庸なことをカルヴィーノは言わない。

現代イタリア文学の鬼才が出した答えは「軽さ」「速さ」「正確さ」「視覚性」「多様性」。
こんな章立てを眺めているだけでうっとりしてしまう本だけど、カルヴィーノは1984年、ハーヴァード大学で実際に6回の講義をおこなった。(6回目のテーマ「一貫性」のメモはない)

文学を語りながらイメージについて語るカルヴィーノ。文学の魅力は映画の魅力と同じじゃん!と私は思い、5つの要素にストローブ=ユイレがつながった。フランス出身だが、原作に合わせてドイツ語映画やイタリア語映画も撮っている監督夫妻だ。

彼らの映画の第一の魅力は「軽さ」だと思う。わずか18分の軽妙な処女作「マホルカ=ムフ」(1962)、あるいは、もっとも一般受けしたという「アメリカ(階級関係)」(1983-84)を見ればわかる。後者はカフカの未完の長編小説の映画化だが、船、エレベーター、バルコニー、列車へと移動する主人公の軽やかさは、何度見ても釘付け。カルヴィーノの「軽さ」についての講義も、まさにカフカの短編小説「バケツの騎士」の話でしめくくられているのだった。

「早すぎる、遅すぎる」(1980-81)という2部構成のカッコイイ映画の魅力は「速さ」。ロータリーをぐるぐる回るクルマの車窓風景から始まり、農村や工場を延々と映したり、田舎道を延々と走ったりしながら政治や歴史を語る風景ロードドキュメンタリーだ。

「視覚性」を追求した映画は「セザンヌ」(1989)。セザンヌの絵やゆかりの風景を、評伝の朗読とともに凝視することで、地層の奥や歴史までもが見えてくる。

「正確さ」なら、レナート・ベルタのカメラが冴える2本「フォルティーニ/シナイの犬たち」(1976)と「労働者たち、農民たち」(2000)だ。前者は人がしゃべり終わって沈黙した後もずーっとカメラを回し続け、ゴダールよりも徹底している。演技やそれっぽさを排除することで、引用の意味が際立つ。映画化とは、原作を正確に伝えるための方法を選ぶことなのだ。

神話、家族、故郷、対話といった「多様性」の魅力は、同じくヴィットリーニを映画化した「シチリア!」(1998)とパヴェーゼの映画化である「雲から抵抗へ」(1978)で味わえる。棒読みの演技、寓話的な物語、そしてストレートな対話の魅力は、ロッセリーニとゴダールとパゾリーニワイズマンを足したような面白さ。

原作と風景と人間へのリスペクト。そこには必然性と自由がある。「シチリア!」という映画であれば、シチリア出身者をシチリアで撮ることに最大の意味がある。料理と同じで、テクニックやレシピよりも、大切なのは素材なのだ。

ヴィットリーニといえば「名前と涙」という掌編(新読書社「青の男たち-20世紀イタリア短篇選集」に収録)が印象に残っている。よく見るために目をつぶり、そのものを描かないことで浮かび上がらせるような作品だ。ある名前を地面の奥深くに書き付ける主人公の姿を思うと、それは映画の一場面になる。その名の人物は姿を現さず、涙をふいたハンカチだけがあとに残る、失われつつある記憶についての物語。

言葉を追っているのに、いつのまにか言葉が消えてしまうような…そんな映画がいいなと思う。

2005-01-27

amazon

『キプールの記憶』 アモス・ギタイ(監督) /

戦争という、くたくたに疲れる日常。

イスラエルを代表する映画監督、アモス・ギタイが第4次中東戦争(1973)の体験を映画化した作品。

「中東はメディアの目に晒されつづけていますが、ニュースとして流されるものはきわめて表面的なものばかり。(中略)映画には、モノを単純化して見せようとするニュース報道の土台を覆すという意味で、とても重要な役割があるんですよ」
(監督の来日インタビューより)

第4次中東戦争は、ヨム・キプール(ユダヤ人が断食する贖罪日)のイスラエルを、エジプトとシリアが奇襲攻撃することから始まった。監督は当時、負傷兵をヘリコプターで移送する部隊に配属されたものの、乗っていたヘリがシリア軍に撃墜されてしまう。奇跡的に生還した彼は、以降、自らの体験を再構築するために映画を撮り始めるのだ。

この映画は、監督の主観的な記憶を忠実に再現したものなのだろう。ダニエル・シュミットのカメラでも知られるレナート・ベルタによるリリカルな映像と爆音に身をまかせているだけで、戦場の砂ぼこりまでがリアルに感じられ、息苦しくなってくる。ヘリで負傷兵の救助を続ける彼らのストレスを肉体的に共有できるのだ。

ハリウッドの戦争映画ではよく、戦闘地域にいる兵士が、歯切れのいい口調できちんとモノをしゃべっている場面が出てきますが、現実にはそんな余裕などありません。周りはものすごい騒音ですし、誰もが命令口調になる。(中略)あっちこっちへと振り回された挙句、みんなくたくたに疲れ果てているんです。私が記憶のなかに留めている戦争とは、あらゆるものが思い通りにいかず、相次ぐ失敗に見舞われ、混沌とした状態に陥った状態です」
(同上)

ヘリの収容人数には限りがあるから、重傷者のみを運び、軽傷者と死者は現場に放置しなければならない。まるで荷物の選別のようだ。 彼らは、日に何度もさまざまな場所に降り立ち、苛酷な作業をし、再びヘリの轟音とともに飛び立つ。 見ているこちらまで、ずぶずぶと感受性不能の放心状態に陥っていきそうな疲弊のリフレイン。肉体的にも精神的にも限界状況の彼らが爆撃されるという不意打ちは、まさに「弱り目にたたり目」だが、そんな彼らをテキパキと救助する別の部隊がすぐに現れる。とてもシンプルな構造だ。 淡々と繰り返される命の助け合い。しかし、その行為は美しくすら見えない。人間が働きアリになるしかない場所、それが戦場なんだと思った。

描かれている情景は重いけれど、この映画、ヌーベルバーグのような軽妙さと日常感覚をあわせもっている。

主人公はベッドで恋人と抱き合い、鮮やかな色の絵の具を互いの体に塗りたくる。その後、白のフィアット125に相棒を乗せて戦場へ向かうのだ。なんだか楽しげである。帰り道は1人だし、腰を傷めてもいるが、ちゃんと同じクルマで同じ恋人のもとへ戻れるわけで。陽光が降り注ぐ彼女の部屋で繰り広げられるのは、またもや絵の具プレー! 戦場とは別世界のような平和でポップなシーンだけど、絵の具の色は、血液や体液や迷彩色をあらわしているようにも見えた。抱き合っているうちに色は混じりあい、混沌としたグレーになる。

戦争でいちばん大事なのは、生き残ることだと思う。生き残れば、恋人ともう一度抱き合うことができるし、ニュース報道の土台を覆すような、こんな重要な映画を残すこともできる。

*2000年 イスラエル=フランス=イタリア映画
*シャンテ・シネ(東京)で上映中/1月12日よりシネプラザ50(愛知)で上映

2001-12-27

amazon