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『ワサップ!』 ラリー・クラーク(監督) /

プラダを着ない天使たち。

サロンボーイ系とお兄系とパンク系がニアミスしたって、東京では「それが何か?」って感じだ。ファッションの違いは趣味の違いと認識されるだけで、深刻な生存競争につながることはない。だけど、移民の多いロサンゼルスのような都市では、ファッションが肌の色と同じように判断され、階級意識を浮き彫りにする。

「ワサップ!」の主役は、ロサンゼルスのサウス・セントラルで暮らす7人のティーンエイジャーたち。全員がラティーノ(ラテンアメリカ系の移民)で、パンクで、スケボー好き。つまり、とっても目立つ存在だ。なぜなら、この街の主流は、黒人のヒップホッパーだから。タイトなジーンズとTシャツに身を包み、スケボーで登校する彼らは、ヒップホッパーたちに「ワサップ、ロッカーズ!」(ロッカーたち、元気か!)と絡まれ、「ちっちぇーTシャツ!」とバカにされるのである。

そう、この映画はファッション映画。地元でも仲間が殺されちゃったりする日々なのに、彼らはビバリーヒルズに足を伸ばす。さて、どうなるか? まずは警官に咎められ、一人が拉致される。次に、ビバリーヒルズ高校のお坊ちゃまたちに攻撃される。挙句の果てには、クリント・イーストウッドみたいな映画監督に、銃を向けられる。

しかし、彼らを受け入れる人種もいる。ビバリーヒルズ高校の美人姉妹、有閑マダム、そして、彼女たちの使用人であるラティーノたち。女は、先入観なしで、男の「見た目の美しさ」を評価できるのである。とりわけ、ルックスのいいジョナサンとキコの二人はモテモテだ。

いちばん面白いのは、たまたま彼らが逃げる途中で紛れ込んだ中庭でのパーティーシーン。ジェレミー・スコット(実物)を始めとするセレブなファッションビープルたちもまた、彼らを一目で気に入る。ラティーノがスケボーでパンク。それだけで絵になるのである。浮いているのである。マイナーなのである。かっこいいのである。ラリー・クラークだって、そうやって、素人である彼らを街でスカウトしたのだろう。ファッションっていうのは、なんて危険なんだろう。それだけで、つかまったり、殺されたり、可愛がられたり、映画に出なきゃなんないはめになるのだから。

「ワサップ!」は、こうしてファッションの本質をえぐる。人種のるつぼの中でむきだしにされる、そのわかりやすい記号性と危険性を。肌の色と同じくらい自然で危険で面白いファッションに目をつけ、素人のティーンエイジャーに心を開かせ、リアルな演技をさせたラリー・クラークの手腕は、毎度のことながら、さすがなのだ。

2007-02-27

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『BULLY(ブリー)』 ラリー・クラーク(監督) /

取り返したくない、取り返しのつかない10代。

コロンバイン高校の銃乱射事件とならび全米に衝撃を与えたといわれる、1993年、南フロリダで起きたボビー・ケント殺害事件。映画化したのは、ティーンエイジャーの生態を撮り続け、95年に「KIDS」で監督デビューした写真家、ラリー・クラークだ。

いじめっこのボビーを殺したのは、親友のマーティを含むティーンエイジャー7人だった。

ローマの貧しい若者を撮ったパゾリーニ「アッカトーネ」(1961)を思い出した。国も時代も経済状況も違うけれど、若い世代の圧倒的な現実感があふれている。鬱屈しているのでもなく、退屈しているのでもなく、ハチャメチャに壊れているというわけでもなく、ビジョンなく、ただひたすら現実と向き合っている感じ。こういう「動物としての人間」を自然にフィルムに収めることができる人は、パゾリーニとラリー・クラーク以外、思いつかない。

ティーンエイジャーに明確なビジョンなんて、あるわけがない。生活、将来、世間体・・・ビジョンがあるのは、頭で考える大人だ。ティーンエイジャーは、親が選んだ土地に、仕方なく住んでいるだけ。大人の体をもてあましながら、街と家に監禁されているといっていい。輝くような夏の光の中、ぶらぶらしていても、本当の自由なんてない。適当にバイトしたり、ナンパしたり、アブナイものに手を出したり、波に乗ったり、オープンカーでつるむしかない。ほかに、何かやるべきことでも?

殺されるのは、父親にビジョンを押しつけられるボビー。主犯は、引っ越したいと言っても父親にとりあってもらえないマーティ。ティーンエイジャーから見た親は、動物から見た人間だ。頼りたいし、頼るべきなのだけど、最終的には頼れず、噛みつくしかない存在。殺人の発覚を恐れるマーティは、幼い弟に自分のピアスをつけてやり、抱きしめる。逮捕され、警察のクルマで去っていく彼を見送るのは、マーティにそっくりなこの弟だけ。彼も、もうすぐ兄と同じ世代になる・・・。

マーティを含む男4人女3人のグループは、見事に役割分担し、殺人のシナリオを進めていく。というのは嘘で、一見大人びている彼らも、犯罪に関しては、あまりにも詰めが甘い。この経験のなさ、考えの浅さ、キレ方やビビリ方こそがティーンエイジャーの真髄。生々しく、痛々しく、しびれる。私は、大人の完全犯罪なんかに、興味はない。

7人には、懲役7年から死刑まで、さまざまな判決が下される。不定形のものを四角いものさしで裁くことは、どんな意味をもつだろうか?

キャスティングに魂をこめたとき、映画は、もうひとつの現実になる。適当な10代を選んで、その場で裸にして、セックスさせたってダメなのだ。それは違う。ありえない。パンフレットには、フロリダの湿地帯で発見されたボビーの死体写真や加害者の7人の顔写真まで掲載されているのだが、これを見ると、映画がいかに真実に迫っているかがよくわかる。

ボビーとマーティの関係について、監督が語った言葉が印象的だ。
「まあ、真相はわからないが。きっと本人たちにもわかるまい」
わからないものを撮るためには、わからないまま溶け込むしかない。若者への愛が、映画を撮らせるのだろう。

無防備なティーンエイジになんて、ぜったい戻りたくないなと思う。
ビジョンを抱えてしまった私たちは、戻りたくても、ぜったい戻れないわけだけど。

*2001年アメリカ
*シネセゾン渋谷で上映中

2003-05-22

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『ブラウン・バニー』 ヴィンセント・ギャロ(監督) /

女性ファンを捨てたギャロ。

「バッファロー’66」のギャロは可愛いけど、「ブラウン・バニー」のギャロは可愛くない。

彼は、もはや自分しか見ていない。プロデュース、監督、脚本、主演、ヘアメイク、衣装、美術、撮影監督、カメラ・オペレーション、編集のすべてをこなし、男のエゴと孤独をナルシスティックに突き詰めることで、中途半端なファンを切り捨てた。「バッファロー’66」は上質なエンタテインメントだが「ブラウン・バニー」はミニマムなロードムービー。彼は、女にもてるだけのかっこよさから、本物のかっこよさへと突き抜けた。

男の旅や仕事の空しさを、ここまで赤裸々に見せた映画があるだろうか。こんなもの、できれば見たくない。が、カメラを手に放浪する男たちのほとんどが、カッコつけすぎていてカッコ悪すぎる、という現実をふまえると、ギャロはよっぽどマシである。男が旅に出るんだったら、このくらいまでやらなくちゃ。あるいはカメラなんて持たずに出かけるか。

ギャロ演じる男は、ニューハンプシャーでのバイクレースを終え、次のレースのため、HONDAを黒いバンに積みカリフォルニアへと向かうのだが、この男がレーサーでよかったなと、つくづく思う。単なる放浪男だったら、許せません。かろうじてOKなのは、レースという男の仕事の途中だから。かつてバイクレーサーだったギャロは、実際にレースに参加して冒頭のシーンを撮影したという。細部の「本気」が、映画を「ギリギリのかっこよさ」へと導いているのだ。

男は旅の間、ずっとメソメソしている。「バッファロー’66」では、女にクルマのフロントガラスを拭かせる神経質っぽいシーンがあったけど、この映画のフロントガラスは、ずっと汚れたまま。拭いてくれる女は、いないのだ。

リリー、ローズ、ヴァイオレット・・・花の名前をもつ通りすがりの女たちを、男は、雑草を摘むようにナンパする。だが、彼には本命のデイジー(クロエ・セヴィニー)という花がいて、彼女のことしか頭にない。好きな女も支配できず、雑草も道連れにできない彼は、永遠に成熟できない「茶色いうさぎ」。根っこのある花たちに、走り続ける小動物の気持ちがわかるはずもなく、男はほんの少し蜜を吸い、自己嫌悪に陥るだけだ。

彼の屈折した感情は、デイジーとの再会シーンですべて説明されるのだが、私には、ギャロという監督が、クロエ・セヴィニーという女優に向かって「どうしてお前はハーモニー・コリンの映画に出たんだよ?オレの映画だけに出ろ!」と詰め寄っているようにしか見えなかった。

ギャロは、ハーモニー・コリンの「ガンモ」(1997)を本気で嫌っているらしいけれど、ハーモニー・コリン脚本、ラリー・クラーク監督の「KIDS」(1995)「KEN PARK」(2002)は嫌いではないはず。だが、若者を偏愛し、彼らと楽しく映画を撮っているように見えるラリー・クラークやパゾリーニとは違い、ギャロは何者も愛せない。これはもう、ロバート・クレーマーに共通する個人的なドキュメンタリー映画といっていいんじゃないだろうか。ギャロは、彼の映画「Doc’s Kingdom」(1987)に出演しているらしいし…すべては、つながっているのだ。

渋谷シネマライズでは「年忘れハード・コアNIGHT」と称して「ブラウン・バニー」「ラストタンゴ・イン・パリ無修正完全版」「愛のコリーダ2000」をオールナイト上映していたけど、そうじゃなくて!
お願いだから、イエジー・スコリモフスキ「出発」(1967)モンテ・ヘルマン「断絶」(1971)とロバート・クレイマーの「ルート1」(1989)と一緒に上映して!

*2003年アメリカ
*上映中

2003-12-31

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『偶然にも最悪な少年』 グ・スーヨン(監督) /

必然的に風通しのいい映画。

グ・スーヨン監督はCMディレクターであり、原作本「偶然にも最悪な少年」の著者。
映画化を企画したのはピラミッドフィルムの原田雅弘。
脚本を担当したのはグ監督の弟でコピーライターの具光然(グ・ミツノリ)。

つまりこれ、バリバリにCM業界寄りの映画だ。監督、撮影部、照明部、スタイリスト、ヘアメイクはCMのスタッフで構成されている。とはいえ、それ以外はすべて映画のスタッフだから「映画界のシキタリ」には何度も泣かされたらしい。CMではタレントにいちばん気をつかうが、映画では「監督がとにかく天皇」なのだそう。

グ監督は言う。
「映画では役者たちを俳優部って呼ぶのも興味深かった…CMでタレントは役者というよりも、限りなくモデルに近いからね」
「監督は確かに絵を決める存在だけど、人間的に崇めるのはどっかおかしい…それで閉鎖的だったり、ヘンな緊張感があったり。でも、それって映画の発展を妨げてねぇか。そんなんじゃおもしろいモノはできないよ」

自殺した姉のナナコ(矢沢心)にまだ見ぬ祖国(韓国)を見せたいと思いついたビーボーイのヒデノリ(市原隼人)は、こわれかけた女子高生の由美(中島美嘉)を巻き込み、チーマーのタロー(池内博之)のボロいマークⅡに死体をのせ、4人で東京から博多へ向かう。この単純なストーリーに私はしびれ、期待した。

公開2日目の最終回上映にして7人しか観客のいない品プリシネマではさすがに不安にかられたものの、4人のしょうもない日常が描かれ、ナナコが自殺し、ヒデノリが街をさまようあたりから映画は動き出した。音は浅井健一(SHERBETS)「Black Jenny」。これはもはやナンニ・モレッティ「親愛なる日記」パゾリーニが殺された伝説の海岸にヴェスパが辿り着く長回しのバックに流れるキース・ジャレットの「ケルン・コンサート」と同じくらい有無を言わせない。このシーンだけで映画が成立してしまうのである。

その後はピュアなロードムービーだ。死体はどんどん腐るし、お金は調達するしかない。ヒデノリが醸すペラペラな空気感と、媚びも屈託もない由美の存在感が、中味のない言葉や力のない笑いやありがちな心の病いにアクチュアルな輝きを与える。万引きしてもカツアゲしても人を刺しても、特別には悪くない。動物以上、大人以下。そしてKISS。勢いで密航。すべてが自然現象にしか見えない異常さこそが現代のリアル。成長物語にもなってないし、何かが成就するわけでもないけれど、意外とタフで普通な日常が続いていくんだろうってことはわかる。こういう日本の行く末をまじに突き詰めるか、おちゃらけるかの二者択一を迫られるが日本映画のシキタリなのだとしたら、そうではないものをこの映画は見せてくれた。イライラとヘラヘラの間に、こんなにも等身大な道が開けていたとは―

死体に話しかけたり、鼻歌まじりに着替えさせたり、死化粧したりの中島美嘉がいい。CMスタッフによる衣装、メイク、照明、演出が冴え、4人とも演技をしていないように見える。少なくとも「俳優部」の役者には見えない。

「GO」よりも希薄、「ユリイカ」よりも気楽、モンテ・ヘルマン「断絶」サム・ペキンパー「ガルシアの首」ラリー・クラーク「ブリー」を足して3で割って渋谷系にした高品質なB級映画。最悪なんかじゃない。渋谷東映で見れば満席だったはず。きっと。

*全国各地で上映中

2003-09-25

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