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『ヘカテ』 ダニエル・シュミット(監督) /

1982年の、おしゃれなメロドラマ。

ダニエル・シュミットの回顧上映特集が、アテネフランセ文化センターに引き続き、ユーロスペースでレイトショー開催されている。

中でも「ヘカテ」は「最もファッショナブルな一篇」といわれるだけあって大盛況。日本初公開当時も話題になったようだが、今やその価値はさらに高騰している。北アフリカの風景も、1930~40年代という設定も、昔のクルマも、ディオールオムも、それだけで絵になっている。撮影監督はもちろんレナート・ベルタ

砂漠の風景に重なる鮮烈なブルーのロゴ、謎の女に人生を狂わされていく外交官、反復される女の後ろ姿、寛大さと諦念の入り混じった滋味あふれるセリフを口にする上司、ふいにレコードを割る男、演劇的に決まりすぎな音楽とセリフと間合い……。でも、この映画で語られるのは、言葉はいつだって無意味だってこと。

モロッコの領事館に赴任した若いフランス人外交官(ベルナール・ジロドー)は、たいした仕事も出世も期待できない中、植民地のエキセントリックな倦怠が渦を巻くパーティで、テラスにたたずむアメリカ女(ローレン・ハットン)と出会う。これはもう、アラン・デュカスがプロデュースするモナコのレストランでイタリア人シェフによるエスニック料理に舌鼓を打つような美味快楽としかいいようがない。実際のところ、マニアックな男やおしゃれな女や知的な老人といった多彩な人種が、たった2回しか上映されない「ヘカテ」を味わうために、週末の夜9時過ぎ、渋谷のラブホテル街に足を運んだのだ。

魔性の女に翻弄される男の話だが、男から見て女がどう見えるのかを、非常に洗練された形で描いている。普通、女のことは、ありえないほどきれいに描くか、どろどろと醜く描くかのどちらかなのに、この監督はどちらでもない。女のことをよく知っているのに、わからないふりができてしまうダニエル・シュミットという男は、正しく女性をリスペクトし、幸せにすることができた人であるはずで、この映画を見れば、魔性の女になって男を狂わせるにはどうしたらいいかがわかる。簡単なことだ。もし、そうありたいと望むのであれば。

映画は回想形式であり、男は結局のところ出世する。女のせいで死んじゃったり殺しちゃったりダメになったりしないのだ。すごくいい話じゃん。このポジティブさ、育ちのよさが、ダニエル・シュミットのセンスのよさだ。フェリーニの「道」なんかとは、格が違うのである。

蓮實重彦の「光をめぐって-映画インタビュー集」(筑摩書房)の中で、ダニエル・シュミットは「映画とは、1秒ごとに24回くり返される現実だ」というゴダールの言葉を受けて、自分はこう言い直したいと語った。
「映画とは、1秒ごとに24回くり返される嘘だ」
そして、こうも言った。
「映画とは、可能な限りの操作によって捏造されるもの」

そう、メロドラマは嘘のかたまりだ。ダニエル・シュミットは、自覚的に、とことん嘘をつく方向で、本質をあらわにする。

2007-02-06

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『夜よ、こんにちは』 マルコ・ベロッキオ(監督) /

少女漫画のように美しい政治映画。

何時に人とすれ違っても「こんにちは」と言ってしまう。
お昼前後には「おはよう」なのか「こんにちは」なのか、深夜から早朝にかけては「こんばんは」なのか「おはよう」なのか、とっさの判断が難しいからだ。馬鹿のひとつ覚えみたいに「こんにちは」と決めてしまえば悩む必要がない。
いずれにしても、深夜から早朝にかけては「おはようございます」または「こんばんは」と相手から返されて(直されて)恥ずかしい思いをするわけですが。

というわけで「夜よ、こんにちは(Buongiorno,Notte)」というタイトルに特別なものを感じなかった私だが、監督はエミリー・ディキンソンの詩“Good Morning-Midnight”にヒントを得たそうだ。どうせなら「夜よ、おはよう」にすればよかったのにと一瞬思ったが、この映画には「おはよう」は爽やかすぎて似合わないし、そもそもイタリア語には「おはよう」という言葉がない。朝から午後4時ごろまで“Buongiorno”で通せてしまうのだから、夢のような快適さだ。

「夜よ、こんにちは」は、1978年ローマで起きた「モロ元首相 誘拐暗殺事件」に新しい解釈を与える映画。人間の希望というのはパーソナルな部分にしかないのだという、イデオロギーを超越した「場所」を提示してくれる。それは想像力といってもいい。非力だが、無限の可能性をひらくかもしれない扉だ。

若く美しいのにお洒落もせず、図書館で地味に働くキアラ。彼女に向かって同僚の男は言う。「もっと服装を変えたらよくなるのに」「この仕事で満足してるの?」と。まるで少女漫画のような設定だ。キアラは極左武装集団のメンバーだが、ごく普通の生活者を装い、周囲の目を欺きながら仲間の男たちをサポートしている。

彼らが共同生活を営み、元首相を監禁するアジトは、新婚夫婦などが住むローマの素敵なアパート。その一室が改造され、監禁という仕事がおこなわれている。陰鬱な室内のシーンが多いが、光あふれるベランダ、ネコ、カナリア、上階に住む住人、その赤ん坊などが、外の空気を運び、キアラがメンバーと一緒に新婚夫婦を装って物件を下見するオープニングから、ある人物がそこから出ていくラストシーンまで目が離せない。

人質を監禁することは、ペットを飼うこととは違う。彼らは覆面をして人質と会話し、要求をきき、自分たちと同じ食べ物を与え、残せば自分たちが食べたりもする。人質のほうも、くつ下のたたみ方で、彼らの中に女がいることを理解する。元首相が監禁されたという大ニュースはテレビに映し出されるが、人質と共同生活する現場の人間は、淡々とした日々の中で、外の世界にはない何かをオリのように蓄積していく。生活とはそういうものだろう。そのオリをていねいにすくいとり、ピンク・フロイドとシューベルトを効かせながら結実させたラストが素晴らしい。

プロレタリア革命を目指す左翼組織の話なのに、左でも右でもない、ポジティブな前向きの力に貫かれている。
それは、映画という表現形式がもつ、美しい特性であるにちがいない。

*2003年 イタリア映画
*ユーロスペースで上映中

2006-06-02

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『ゲアトルーズ』 カール・ドライヤー(監督) /

ピュアな映画は、腐らない。

「私の唯一の願望は、平板で退屈な現実の向こうに、もう一つの想像力による世界があることを提示することだ」~カール・ドライヤー

彼は、現実から余分なオリを取り除き、純度の高い原液のような映画を撮った。過激な絵づくりが際立つ無声映画「裁かるるジャンヌ」(1927)も、小津パゾリーニを思わせる宗教家族ドラマ「奇跡」(1954)も、こんなマジに真実を突きつめちゃっていいの?と不安になるくらいの直球だ。

だが、いちばん凄いのは遺作の「ゲアトルーズ」(1964)である。他の2作と違い、ゲアトルーズという女は、火あぶりにされたり出産で死んだり奇跡的に蘇ったりしない。悲劇のヒロインではなく、幸せな現代を生き抜かねばならない「生身の痛い女」なのだ。

ゲアトルーズの愛に応えられる男は、一人もいない。夫も前夫も愛人も男友達も、彼女が要求する愛の水準に届かない。女が本気で愛を求めるとどうなっちゃうのかを、徹底的な描写で追求したコワイ映画である。

ゲアトルーズの愛人は、まだ若い。
地位のある夫と別れ、愛人と暮らそうとする彼女だが、愛人はお金もなく遊びたい盛り。彼女が離婚を決めても「僕らの関係は変わらない」と言い、「アバンチュールを求めているだけかと思った」「最初は上流階級の高慢さかと思ったけど、キミは魂が高慢なんだ」などと厳しいセリフを放つ。実際、2人がかみあわない理由は階級や年齢の差ではなく、魂の純度の差なのである。だから、彼に別の女がいるとわかった時、彼女はこう言う。「私は愛している。あなたは愛していない。これで終わりよ」。相手のレベルに合わせて「私ももう愛してないわ」などと対抗したりしないのだ。

ゲアトルーズの元夫は、未練がましい。
彼女の愛人が彼女のことを「最近の獲物」として友人らに軽々しく話すのを聞いた元夫は「僕が大切にしてきたものを、あんな若者に汚された」と本人よりも深く嘆き悲しむ。が、よりを戻そうと必死になる元夫に、彼女はきっぱりと言うのだ。「一度死んだものを蘇らせることはできないのよ」。

ゲアトルーズの夫は、世間体が大切。
彼女に愛人がいると知った夫は怒り悲しむが、激昂はしない。オペラへ行くと嘘をつく彼女を劇場まで迎えに行くシーンからは、彼の深い愛情が伝わってくる。が、いかんせん遅すぎるのだ。この夫、最後には「愛人がいてもいいから一緒にいよう」とまで言うのだが、こういうセリフも、彼女の高潔な魂には逆効果である。

というわけで、ゲアトルーズは3人の男を同時に捨てる。過去の男やマシな男をキープしておこうなどとケチなことは一切考えない。男友達のいるパリへ勉強に行く彼女が、さらっと飛び出すドアの外は、ドキっとするほどきらめいているのだった。

しかし映画は、彼女が老後に住む部屋のドアまでを描き切る。パリの男友達は、最後まで彼女を口説き続けるという素敵な役回りだが、結局のところ、彼女はこの男友達とも決別するという徹底ぶり!

愛に生きるとは、恋愛を繰り返すことじゃない。情にほだされず、自分を信じ、中途半端な愛を拒絶する強さをもつことだ。愛されても愛さず、愛されなくても愛し、相思相愛でなければ一人で生きること。最後まで決して後悔せず、愛に殉死してみせること。ブラボー!なんて潔いんだろう!こんな凄い女、カール・ドライヤーの映画の中にしか、存在しない。

*1964年デンマーク
*ユーロスペースで上映中

2003-12-17

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『10話』 アッバス・キアロスタミ(監督) /

これは、ドキュメンタリーじゃない。

女がテヘランの街を車で走り、固定されたデジタル・ビデオが車内を撮影する。監督やスタッフは同乗していない。嘘みたいにシンプルな手法の「隠し撮り風映画」だ。

彼女の息子、姉、老女、娼婦らが助手席に乗り込み、会話を交わす。「10話」から始まるからラストが「1話」。カウントダウンによって期待が高まり、オチもあるから、ちっともドキュメンタリーらしくはない。手法に関しては究極のミニマリズムなのに、監督の意図がムンムンだ。

息子を除き、助手席に座るのはすべて女。しかもほとんどが「うまくいっていない女」。彼女自身は、アートなお仕事をするバツイチの自立した美人である。

これがイランの現実?そうなのかもしれない。だけど、もっと何かあるはずでしょう、日本の女が驚くようなきらめく細部が。この映画に登場するのは、オーソドックスな話ばかりなのだ。女は失恋するとなかなか立ち直れなかったり、髪を剃っちゃったり、娼婦になっちゃったり・・・驚きがないのがこの映画の驚きで、上から見下したようなおやじっぽい視線を、主役の彼女に代弁させている感じが不快。ゴダールみたいに監督自身がぐちぐち説教する映画のほうがタチがいい。

救いは、彼女の息子が10話中4話に登場すること。彼の元気な表情が映ると、それだけでほっとする。母との会話にうんざりして外に飛び出しちゃったりする彼だが、実のところ、この映画の説教くささに耐えられないのだと思う。それを素直に暴いてしまう唯一の存在。結果的にこの映画は、子供の使い方が圧倒的にうまいキアロスタミらしい作品になっているし、やたらと作り込みの目立つイラン映画らしい作品でもある。

さて、私はその後、ドキュメンタリーのお手本のような映画を見てしまった。フレデリック・ワイズマン「DV―ドメスティック・バイオレンス」である。夫の暴力に耐えかねた女が駆け込むDV保護施設を中心にカメラが回され、演出も脚本もナレーションもない。必要な情報はすべて自然な形で語られる。職員も被害者も真剣だ。被害者の女たちが、カメラを気にせずに語るなんてありえないだろうと普通は思うし、撮影許可が下りないだろうとも想像する。でも、できるのだ。

「私は普通の体験をドキュメントすることに興味がある。家庭内暴力がありふれた人間の行動である以上、映画の題材にふさわしいと思った」とワイズマンは言う。そこには感動も共感も押し付けがましさもなく、自分の存在を消すことのセンスが際立つ。重要なのは、監督が現場から消えることではなく、いながらにして存在感を消すこと…。

ワイズマンは、山形ドキュメンタリー映画祭の機関誌「documentary box」で、アメリカの国道1号線をひたすら南下する至高のドキュメンタリーロードムービー「ルート1」を撮った故ロバート・クレーマーと対談している。「我々は見えない存在になりたいんだ」とクレーマーが言い、ワイズマンが「その通りだ」と頷く。

そしてこうも言う。「できあがった結果に何らかの意味で自分でも驚くことがなければ、映画を作る意味なんてないと思うね。そうでなければ、結果がどうなるか最初からよく分かっていることのために1年も費やすことになる」

●「10話」(アッバス・キアロスタミ)
2002年/フランス・イラン/94分/ユーロスペースで上映中
●「DV―ドメスティック・バイオレンス」(フレデリック・ワイズマン)
2001年/アメリカ/195分/アテネフランセで上映中
●「ルート1」(ロバート・クレーマー)
1989年/USAフランス/255分/アテネフランセで上映中

2003-09-09

amazon 10話 (パンフレット) amazon ルート1

『D.I.』 エリア・スレイマン(監督) /

わからない。わらえない。ありえない。

「パレスチナをD.I.で初めて体験するのは、生まれて初めてふぐを食べるような体験に似ているかもしれません。パレスチナには、やさしい景観があり、ちっぽけな魂があり、ほとんど透明で、見ればひと目で見渡せてしまいます。そこで生きようと思えば生きることもできるし、生きれば愛おしくもなります。そうしたいと思われる方は、ぜひどうぞ。ただし、毒にはあたらないように、お気をつけて・・・」

監督の日本へのメッセージだ。カンヌでの記者会見では、パレスチナで全部撮影できたのかと聞かれ「シューティング(撮影)は全部はできなかった。イスラエル軍がシュート(銃撃)していたからね」と答えたそう。

監督演じる男はイスラエル占領下の東エルサレムに住み、彼が愛する女はパレスチナ自治区のラマラに住む。イスラエルとラマラの間にはイスラエル軍の検問所があり、女はエルサレムに入れない。そんな2人は、検問所の駐車場の一角でデートを重ねる・・・

単純なストーリーだが、こういう状況にリアリティを感じるのは無理だ。ラマラってどこよ?検問所って何よ?っていうか、誰がパレスチナ人で誰がイスラエル人なわけ?

映画で描かれるパレスチナの日常は、同じことの不毛な繰り返しだ。穴を掘ったり、壁をこわしたり、ゴミを他人の家に捨てたり、ひたすら掃除したり。サッカー少年の蹴るボールはズダズタにして返され、それを無表情で見守る人がいる。こわれればつくり直し、やられたらやり返し、家に火をつけられれば淡々と消火作業をする。主役の男女は、最後までひとこともしゃべらない。

こんな調子だから、悩殺美女やアラファト議長の顔が描かれた風船が検問をあっさり突破するシーンは爽快だし、パレスチナの女忍者がイスラエルの兵士たちと戦うスペクタルシーンには大爆笑!とまとめたいところではある。実際、パレスチナでの上映では大受けだったそうだし。だけど、これらのユーモアはあまりにも正当派すぎて、平和な国の成熟した(弛緩した)ギャグに慣れてしまった部外者の私には笑えない。

男がアンズをかじり、種をクルマから捨てると路肩の戦車が爆発するが、種を捨てた本人はポーカーフェイスのまま。暴力に対抗する武器は、ポーカーフェイスでありアンズの種であり、風船や悩殺美女や女忍者なのだ。圧倒的に正しく懐かしいファンタジー!

私が唯一笑えたのは、夜の検問所でやりたい放題の検問をする将校の演技。イスラエルの有名タレントが演じているらしいが、支配者と被支配者の構図を骨抜きにする傑出したキャラクターだ。

「D.I.」の意味はDIVINE INTERVENTION(神の介在)。自由になるためのイマジネーションを意味するという。イマジネーションさえあれば、愛はどんな困難な壁も通過するのだろう。アカデミー賞の外国語部門は、パレスチナは国として認められないという理由で、この映画をノミネートから排除したそうだけど。

選曲のセンスのよさは驚きで、世界的なトレンドの気分を反映しながらも新鮮。
美女や風船のように、音楽は国境をさらっと突破してしまうのだ。

*2002年 仏・パレスチナ合作パレスチナ映画
カンヌ映画祭審査員賞受賞
*渋谷・ユーロスペースで上映中

2003-06-02