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『「美」と「若さ」をお金で買う方法-私が試しつくした“若返り医療”の真相』 佐藤真実 / 講談社

美容整形を思いとどまらせるのは誰?

「世界のどこかで新たな国の指導者が誕生しようが、内戦が勃発しようが、私にはさして重要ではない…。私にとって、いちばん重要なことは、顔からなかなか消えようとしないこのシワだ」

1962年生まれの著者は、35歳で挑戦したコラーゲン注射を皮切りに、あらゆる「若返り美容法」を試す。皮膚をメスで切るフェイスリフト、下まぶたの脂肪をとるレーザー手術、ケミカルピーリング、脂肪移植…何かひとつやるたびに、新たな症状や副作用が見つかり、手術依存症は次第にエスカレートする。

「短大を卒業して勤めた商社を二年で辞めて、イベントコンパニオン、DJという道を歩いてきた私だ。転職っていったって、三〇すぎていったい何ができるというのだろう? 当時の私にとっては、恋人より、家族より、友人より、何よりもDJという仕事が大切で、そのために何かを犠牲にすることもいとわなかった」

老化を恐れ、仕事を失うことを恐れる著者だが、その抵抗も空しく、2回にわたる脂肪移植が終わった頃、担当していた番組を降ろされてしまう。「美容」を仕事にしようと決意した後は、ホルモン補充療法、HGH(ヒト成長ホルモン)を使った若返り療法、プラセンター注射、運動、食事療法と、さらなる遍歴が続くのだった…。

「女はいつまでも美しくなくてはならない」という強迫観念に苛まされ続け、ついには薬の副作用でうつ病にまでなってしまう著者。そこには、「美容整形の女王」といわれる中村うさぎが「ネタ先行」であるのとは対照的な切実さがあると思う。著者がどんなに「私をまねしないで」とクギをさしても、共感し追随する人が絶えないだろう。

アメリカ暮らしの経験がある著者は「日本、とくに東京って街は、疲れるところだと思う」と述懐する。アメリカではラフな服装や化粧っけのない顔が当たり前でも、帰国すると「東京仕様」に戻していくしかない。このような悲劇を繰り返さないためには、もはや「東京仕様」から脱出するしかないのである。

私は、「整形手術のディアナ」といわれるフランスのアーティスト、オルランを思い出す-。

1947年生まれのオルランは、美術学校の教師でイコンの研究をしていたが、ある時、絵画上の5人の美女と自分の顔をコンピュータ上で合成する。「モナリザ」の額、「狩のディアナ」の目、「アモールとプシュケ」の鼻、「エウロペの略奪」の唇、「ヴィーナスの誕生」の顎…。

この顔を目指して整形手術をおこなったことから、オルランのアーティスト活動はスタートした。手術室は毎回、儀式的に飾りたてられ、医師はコスチュームをまとい、オルランは決まったテキストを読み上げる。手術中のパフォーマンス映像は衛星中継され、切り取られた肉を使ったオブジェがつくられるといったエグさだ。

手術後のポートレートとともに回復期の痛々しい写真を公開するオルランは、「私の芸術はゲームじゃないのよ」と言い放ち、「ホントの顔なんてとっくに忘れちゃったわ」とうそぶく。美しくなりたいという欲求など、とうに突き抜けているといえるだろう。

エキセントリックなアーティストの活動は、いつの時代も、眉をひそめられるものだ。が、オルランのような女性の存在は、「東京仕様」に疲れきった私たちを、いくらか癒してくれるんじゃないだろうか?

2004-12-21

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『コピーの時代-デュシャンからウォーホル、モリムラへ』 滋賀県立近代美術館 /

ホンモノより、アタラシイモノが見たい。

桜の季節には京都国立近代美術館のカフェへ。
燕子花の季節には根津美術館の庭園へ。
紅葉の季節には足立美術館の茶室へ。
だが、この夏はなんといっても滋賀県立近代美術館である。

というのは屁理屈だが、人はなぜ美術展へ行くのだろう? 本物を見るため? だとしたら、東京から琵琶湖までわざわざコピーアートを見に行くのは馬鹿げている?

マルセル・デュシャンから始まって、アンディ・ウォーホルロイ・リキテンシュタイン、森村泰昌まで、22名と1グループによる137点の作品を6つのゾーンに分け、引用と複製の歴史を振り返り、シミュレーショニズムの最前線に迫る企画展だ。

紙幣をコピーした赤瀬川源平、コンビニのサインボードから文字を消した中村政人、名画の登場人物を1人だけ消したり、ありそうでどこにもない風景を写真のように細密に描く小川信治、登場人物の視点から名画を描き直したり、著作権侵害にならないようにディズニーアニメをコピーした福田美蘭、オリジナルのない映画の登場人物になりきるシンディ・シャーマン…。

福田美蘭の最新作(2004)は、この美術館の所蔵作品(人間国宝による着物と壷)のパロディー。着物をまとった想像の自画像と、壷を収納しておくための木箱や詰めものを描いた作品が「本物」と並べて展示されているのだから面白すぎ。今回、メインの作品と対比するための「本物」のいくつかは、所蔵美術館からのレンタル期限切れで撤去されていたのだが、この美術館の所蔵品ならノープロブレムだ。

デュシャンの作品は、便器を倒して署名しただけの「泉」(1917)をはじめとするレディメイドシリーズや、モナリザの顔にひげを書いただけの「L.H.O.O.Q.」(1919)などたくさんあったが、「オリジナル」ではなく1964年にミラノで複製されたもの。これも、オリジナルと並べて展示したら面白いかも。

1917年、デュシャン自身が委員をやっていたニューヨークのアンデパンダン展で「泉」が出品拒否されたのは有名な話だが、「デュシャンは語る」(ちくま学芸文庫)によると、どうやら無視されたってことらしい。便器は会場の仕切りの外に置かれており、「展覧会の後で、仕切りの後に『泉』を見つけました。それで取戻せたわけです!」なんて本人は語っている。「私はいっぺんで受けいれられるようなものは、何もつくれなかった」とも。

本当に面白いものは、展示会場ではなく、仕切りの後ろにこそあるのだ。それが、美術展に足を運ぶ理由でもある。回顧展を観るだけでなく、オリジナルが生まれる瞬間に立ち会えたらいい。

*9月5日まで開催中

2004-08-12

『ハバナへの旅』 レイナルド・アレナス(安藤哲行訳) / 現代企画室

クリスマスの正しい過ごし方。(その1)

クリスマスや年末年始という言葉には、まとわりつくような鬱陶しさがある。この時期は、愛とか家族とか自分はどこにいるべきなのかとか来年はどうすべきなのかとか、そういうことを突きつけられる決算期らしい。たとえ具体的に何も突きつけられなくても、じんわりと真綿で首をしめられるような保守的な気分が街に漂う。そんな季節はなるべく、歩いたり走ったり空を飛んだりしていたい。旅行者という無責任な肩書きを手に入れて、異国で過ごすのだ。

そう、本を読むだけでも旅には出れる。

表題作「ハバナへの旅」は、ニューヨークの大雪の描写から始まる。キューバ生まれでホモセクシュアルの主人公は、15年かけてようやく、異国の街で静かな生活を手に入れたのだ。彼はウエストサイドのぼろアパートから雪を眺め、警察に追われ続けたハバナでの恐怖と孤立の日々を回想する。そして今、自分の中にささやかな平和を見出したことを確認する。
「その平和は、ひとつの言葉のなかにおさまった。誰もがはねつけようとするが、誰をも救うその素晴らしいたったひとつの言葉、それは孤独。自分以外の誰にも屈伏しない、自分以外の者のためには生きようとしない、そしてなによりも、孤独を追い払わないようにするというよりは、むしろ逆に、孤独を求め、追いかけ、宝物のように守ること。なぜなら、肝腎なのは愛情を断つことではなく、愛情を棄てたものと見なし、愛する可能性のないことを理解し、そして、そんなふうに考えていることを楽しむことなのだから」

熱帯の作家による雪の描写はとても美しい。しかし彼は、かつて偽りの生活のために結婚した妻からの、うんざりするような手紙をきっかけに、クリスマスにハバナへ帰ることを決めてしまう。帰るまいという強固な決意を揺るがす、言い訳づくりのリアリティが秀逸。人は、何かを確かめるために、せっかく手に入れた孤独の喜びをあっさりと放り出し、懐古的な衝動に身をゆだねてしまうのだ。何年も我慢をかさねた分だけ、欲望(彼の場合は若い男への肉体的欲望ですね)に突き動かされる瞬間の開放感は、いっそう生彩を放つ。

愛情を注ぐことのできない妻と息子が待つ、あたたかく懐かしいハバナへ・・・
これは、年末年始につきものの帰省の物語だ。

「ハバナへの旅」の主人公は、実のところキューバにもニューヨークにも絶望している。ヴィム・ヴェンダースの映画「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」(1999)が、キューバ音楽とともにニューヨークを礼讃しているのとは対照的だ。 アレナスは1943年にキューバに生まれ、反政府的な言動が原因で繰り返し問題を起こし、1980年に小舟に乗ってキューバを脱出。ニューヨークに居を構えたが、エイズに冒され、1990年12月7日、ニューヨークの自宅で自殺した。

本書には、「ハバナへの旅」(1987)のほか、編物(ファッション)をモチーフにした「エバ、怒って」(1971)と、モナリザ(アート)をモチーフにした「モナ」(1986)の2編が収録されている。ユニークなアイディアを緻密に寓話化した3楽章だ。

3つの作品に共通しているもの。それは、母親のように主人公を思い続け、陰で支える女の存在。どこにも居場所がない「放浪するホモセクシュアル」としてのアレナスにとって、女とは、母とは、決して旅に出ることのない「鬱陶しいけれど感謝すべき大地のような存在」なのかもしれない。

2001-12-22

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