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『揺れる大地、他』 ルキーノ・ヴィスコンティ(監督) /

いちばん明るいヴィスコンティ映画。

ヴィスコンティ映画祭が終わった。パスポートを手に入れ、毎日のように通った。睡眠時間を削ってでも、見る価値があるものばかりだった。匂いや温度や倦怠までがリアルに感じられ、イタリア11日間の旅に行ったような気分になった。

イタリアン・ロードムービーの原点であり処女作の「郵便配達は二度ベルを鳴らす」(1943)、若き甥(アラン・ドロン)に負けない初老の男(バート・ランカスター)の魅力を描き切った貴族映画「山猫」(1963)、ヴィスコンティ映画のあらゆる要素がミステリアスに凝縮された「熊座の淡き星影」(1965)マストロヤンニアンナ・カリーナが不思議な日常を演じた「異邦人」(1967)三島由紀夫も絶賛した死の美学が暴走する「地獄に堕ちた勇者ども」(1969)、徹底した視線への執着が美しい「べニスに死す」(1971)、不倫の顛末を完璧なカラーコーディネートで見せた遺作「イノセント」(1976)etc…。

おしゃれな短編もある。舞台裏の女優の魅力が炸裂する「アンナ・マニャーニ」(1953)、貴族階級の労働とファッションをテーマにした「前金」(1962)、キッチュなメイクアップ映画「疲れ切った魔女」(1967)の3本だ。

ヴィスコンティ映画の真骨頂は、何と言っても、崩壊寸前のダメ男の美学。ほとんどの作品にダメ男が登場するが、女との対決という意味では、リリカルなナレーションがそそる究極のメロドラマ「夏の嵐」(1954)のダメ男ぶりがいちばん抜けている。経済力のある女がダメ男に金を与えれば、ダメ男はその金で若い女を買ったり、飲んだくれたりして、さらにダメになっちゃうのであるという経済論理がここまで正面きった女への侮辱や罵倒とともに語られた映画があっただろうか。女というものは、わかっていながらダメ男に何度でも騙されるし、騙されたいのである。ダメ男を信じたいからではなく、自分を信じたいからだ。愚かな女は結局、ダメ男によって完膚無きまでに打ちのめされるのだが、それでも「夏の嵐」の女は最後まで負けない。すべてをさらけ出すダメ男に対し、究極の愛のムチを選択するのである。「イノセント」と同様、凄まじい結末だ。ダメ男の名を呼びながら、気がふれたように暗い街を彷徨う女の姿が忘れられない…。

だが、最高の1本を選べといわれたら「揺れる大地」(1948)だろう。上映後、熟年カップルが「暗い映画だねー」と悪態をつきながらそそくさと会場をあとにするのを見た。シチリアの貧しい漁村を、現地住民を使い、現地ロケで撮ったモノクロ映画なのだ。この作品で不幸に見舞われ、崩壊してゆくのは、貴族ではなく庶民の一家なのだから、設定は確かに暗い。だけど中身は、最も希望に満ちた映画だと思う。主人公はまだ若いし、密輸業者と共に島を出て行った弟の今後も楽しみだ。

南部からミラノへ移住した一家の苦労を描いた「若者のすべて」(1960)では、南部の様子が描かれないため、アラン・ドロン演じる三男が最後まで故郷に固執する理由がわからなかったのだが、「揺れる大地」を見てようやく理解できた。人は、自分が生まれ育った土地の仕事や環境を不遇と感じたとき、それでも故郷に執着すべきなのか? それとも外の世界へ出て行くべきなのか?

「揺れる大地」は、外へ出て行かない映画なのに、希望がある。小さな漁村の中に、世界がある。自分にとって最も重要なものは何かを考えれば、どんな悩みにも自ずと答えは出るはずで、そこに愛と信念がある限り、人は何度でもやり直せるのだと思う。たとえどん底に陥っても、自分の原点と可能性を見つめ直して、もう一度、這い上がろうとすればいいのである。

2004-10-19

『白夜(ニュープリント修復版)』 ルキーノ・ヴィスコンティ(監督) /

ミステリアスな男は、現実的な男よりカッコいいか?

1年後に戻ると約束した恋人を橋の上で待ち続けるナタリアと、そんな彼女に惹かれるマリオ(マルチェッロ・マストロヤンニ)。ドストエフスキー原作、3日間の物語だ。

運河の街を再現した幻想的なスタジオで繰り広げられるおとぎ話は、すべてが嘘っぽい。ナタリアとマリオの出会いからしてインチキくさいナンパだし。だが、「出会い方なんてどうだっていい」というマリオのセリフから、次第に映画はリアリティを獲得してゆく。セットのうそっぽさ、設定の不自然さ、男女の出会いの安直さに自らつっこみを入れ、乗り越えてしまうのだ。ヴィスコンティは言う。「この映画はリアリズムのある映画であり、しかし同時に、夢の中をさまようような可能性も残したかった」

ミニマムな制約の中での現実的なコミュニケーションが面白い。人はどのように他人に先入観を抱いたり、距離を縮めたり、理解しあったり、友達になったり、万が一には好きになっちゃったりするのか? 普通の女と娼婦を、男はどう区別するのか? ただすれちがうだけの他人とのコミュニケーションこそが大切なのだと、この映画は気付かせてくれる。日々すれちがう他人に対して無神経な人に、いい出会いなんてありえないのだ。これ、重要なことである。

おとぎ話度が最も強烈なのは、ナタリアと恋人の出会いと別れの回想シーン。彼女の話があまりに現実ばなれしていることから、マリオは「おとぎ話を信じるな。現実を見ろ」と言う。正論だ。だって彼女は、恋人の職業も知らないし、恋人が1年間、彼女を置いてどこかへ行かなければならない理由すらも聞いていないのだから。ナタリアが一目ぼれで恋に堕ちた理由は、彼がハンサムであるからという以外に思いつかない。そんな彼女にマリオは自らの願望をしのばせつつ「彼は戻らないよ。僕は男だからわかる」と言い切る。

3日目の夜になっても、恋人は橋の上に現れない。ナタリアは「1年間愛し続けた私を、彼はこんなふうに裏切ったんだわ」と強気のセリフを初めて口にし、マリオは狂喜乱舞。が、雪の中、夢みたいな夜を2人で過ごした後、彼女の恋人は現れる。そして、彼女はあっさりと彼の元へ舞い戻ってしまうのである。呆れてしまうようなこのエンディングは、今見ても斬新。

ミステリアスな男は有利である。映画を観ている私たちだって、ナタリアの恋人については、ほとんど何も知らないのだから。こんな男が1年後にちゃんと戻ってきたら、3日前に軽いナンパで出会った男が太刀打ちできるわけがない。マリオはといえば、下宿先で女主人に起こされる朝の風景から、橋の上の娼婦についていっちゃうシーンまで、スクリーン上で暴かれてしまっているのだから、もはやダメダメである。

しかし、言うまでもなく、マストロヤンニ演じるマリオは素晴らしい。「よくわからないけどかっこよさげな男」より、「すべてをさらけだしてあっさりふられちゃう男」のほうが、観客にとっては「いい男」に決まっているのだ。つまり、この映画は2つの意味でハッピーエンドである。ナタリアはわけのわからない恋人とうまくいった。そして、いい男が一人、まだスクリーン上に残っている。

娼婦(クララ・カラマイ)の存在感も忘れ難い。「私だって誰にも頼らないで生きてるんだよ」というセリフは目からうろこであった。ナタリアのような普通の女は男に頼って生き、橋の上の娼婦は男に頼らずに生きているのである。

*1957年 イタリア・フランス合作
ヴェネチア映画祭銀獅子賞受賞
*シネ・リーブル池袋で1月10日までモーニングショー上映中

2003-01-09

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『クレーヴの奥方』 マノエル・ド・オリヴェイラ(監督) /

不倫とは、罪悪感のこと。

成人男女の約半数が「不倫を許容している」と元旦付けの朝日新聞が発表したのは98年のこと。今は一体どうなっているんだろう? お正月の紙面をにぎわすポピュラー感と「不倫」という言葉の間には、深い深い溝があるように感じたものだが、この映画を見て、今さらのように私は膝をたたいた。クレーヴの奥方のような生き方を不倫というのだ、と。私たちの周囲に満ちあふれている不倫は、その内容がいかにヘビーであろうとも、「遊び」とか「浮気」とか「本気」とか「家庭外恋愛」とか「たまたま結婚してるだけ」とか・・・とにかくそういう軽い感じの言葉が似合う。

17世紀のフランス文学を映画化した作品だが、宮廷世界を現代の上流階級に置きかえたところが面白い。オリヴェイラ監督は92歳にして挑戦的。 単なる古典的な映画ではないのだ。

キアラ・マストロヤンニ(カトリーヌ・ドヌーヴマルチェッロ・マストロヤンニの娘)演じる「クレーヴの奥方」が恋する相手はロック・スター(ペドロ・アブルニョーザというポルトガルの現役ロック・アーティスト)。 二人が惹かれ合っているのは明らかだが、彼女は彼を避け続ける。 「人気スターならもうちょっとましなアプローチの方法があるんじゃないの?少なくともサングラスは外さなくちゃ。ちょっと笑わせてみせるとかさー」。 そんな客席の感慨をよそに、彼女の美しい表情はくずされぬまま、指一本ふれない恋愛が展開されていく。しかし、このもどかしさこそが重要で、ああ、これがまさしく不倫なのだと私は理解した。何もしていないのに罪悪感にさいなまれるほど、情熱を燃やすってこと。心の中であっさり許容、妥協してしまうような行為は、不倫とはいえないのかもしれない。

こんな思いを妻に打ち明けられたクレーヴ氏は病んでしまい、「そこら辺の男みたいに、だまされていたかった」みたいなことまで言う。それはそうだろう。行動的には彼女は潔白であり、「あなたよりも好きな人がいるけど何もしてない」と正直に告げただけなのだから、だまって浮気しちゃう女よりも、ある意味で残酷。夫は立派すぎる妻に苦悩するのだ。さらに、当のロック歌手や元恋人まで苦しめてしまうのだから、クレーヴの奥方は罪な女だ。

しかし、たとえ何人の男を犠牲にしようとも、二人の間に障害がなくなろうとも、過激なまでに自分の道を貫く彼女。傷ついたり、情熱的な愛が失われてしまうのを恐れているのである。もしも私が彼女の友達だったら、「好きになった人を追いかけないでどうすんのよ?」と肩を揺さぶっちゃうところだが、幸いなことに、彼女が唯一心を打ち明ける幼友達は、温厚な修道女。最初から火に油を注ぐような悪友はいないのである。

偶然が多く、死が多く、設定は不自然だし、ロック・スターもちょっと変。なのに、ため息が出るほど洗練された作品だ。ライブ・シーンを見て、ジョナサン・デミがトーキング・ヘッズを撮った「ストップ・メイキング・センス」を思い出した。あの映画のすごさは、ステージのすべてを撮り、それ以外を撮らなかったことにあると思うが、「クレーヴの奥方」は、主役ではない彼のステージで始まり、彼のステージで終わる。余計な説明や後日談がないところが、かっこいい。

ストーリーや時間の経過は字幕で流し、必要なシーンだけをていねいに描いていく手法。 印象的なカメラワーク、緩急のリズム感、軽快さと重厚さの絶妙なバランスが心地よく、熟成したビンテージ ポートワインのように味わった。

*1999年 ポルトガル=フランス=スペイン合作/銀座テアトルシネマで上映中

2001-06-19

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