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『ないものねだり』 中谷 美紀 / マガジンハウス

期間限定の、ホンキ。

中谷美紀に「シミ、本気で治したい。」と言わせたから、エスエス製薬のハイチオールCはヒット商品になったのだと思う。タレント広告というのは安直なニュアンスが生まれやすく、制作側の立場としては「なるべくやりたくないなあ」というのが本音でもあるけれど、彼女を起用した広告なら、私もぜひやってみたい。本気のコピーが書けそうだから。

「アンアン」の連載をまとめたこの本も、タレント本というカテゴリーを遥かに超え、プロのエッセイ集としての読み応えをそなえたものだった。

彼女は、女優らしく茶道や日本舞踊を習う一方、沖縄やタイやインドを旅し、春にはお弁当をつくって友人たちと花見に興じる。食事を何よりも大切に考え、ロケ弁に一喜一憂し、質の高さで定評のあるマガジンハウスの社員食堂にまで足を運ぶ。
フットワーク軽く、豊かに生活を楽しむ彼女の姿には、凡人のあくせく感がない。世に蔓延している「ステップアップ」の呪縛から解き放たれているのだ。それもそのはず、女優というのは、これ以上ステップアップしようのない雲の上の職業。彼女はその中でも仕事を厳選し、綺麗なイメージを保っている稀有な存在ではないだろうか。

何かを選ぶことは何かを捨てること。自分が捨ててきたものに思いをはせる時、それは「ないものねだり」になる。地上に根を下ろす人は空を見上げて「ないものねだり」をするが、彼女の場合は逆。「短ければ2週間、長くても3か月ほどで終わってしまう撮影現場を次から次へと渡り歩き、暇を持て余しては旅をする暮らし」を選んだ彼女にとっては、「地に足のついた暮らし」こそが欠けているのである。

彼女が繰り返し本気で書いているのは、「絶えずいろいろな役が自分のなかを通り過ぎては消えていく女優の孤独」について。それは、受身の美学でもある。受身とは消極性ではなく、大きな流れに身をゆだねること。他人の目を信頼し、プロフェッショナルでありながら柔軟であること。与えられた仕事に全力を尽くし、女優の仕事がなくなったらどうしようかと楽しげに思いをはせる彼女は、非常に職人的だ。

「共に過ごした時間の全てを彼への想いで満たし、一瞬たりとも離れたくないとさえ思えた。映画の撮影であることすら忘れかけていた頃に、例に漏れず別れの日はやって来た。いつもと同じように撮影を終え、いつもと同じように散り散りに部屋に戻った後の喪失感は、まるで自分の一部をもぎ取られたかのようだった」

これは「母親になった日々」と題された項の、痛すぎる一節。擬似的な世界に本気で入り込める資質こそが、プロの女優ということなのだろう。しかし、求められているのは「本物っぽいホンキ」であり「本物のホンキ」ではない。そんな微妙な調整、心の中でできるはずがない。スタッフや相手役以上に仕事にのめり込んでしまった時は、どうすればいいんだ?
彼女がやっているように、仕事と仕事の合間には、別の旅に出るしかないだろう。無理にでもそうしなければ、自分の一部をもぎとられた感覚のまま、ベッドにつっぷして動けなくなってしまうにちがいない。

それでも、懲りずにそんな繰り返しをする。
嘘だとわかっていても、終わりの日がわかっていても、本気になる。
仕事でも恋愛でも、本気で集中できる期間限定の日々は、美しい。

2006-03-22

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『若かった日々』 レベッカ・ブラウン(著)柴田元幸(訳) / マガジンハウス

タバコは悪か?

禁煙化が進んでいる。
最先端のバリアフリービルでは、優雅に車椅子をすべらせる人の脇で、初老の愛煙家が血まなこになって喫煙コーナーを探している。ようやく見つけた唯一のカフェで貴重な灰皿を確保する彼に、隣席の客が眉をひそめる。「タバコ、遠慮していただけませんか?」
この言葉に拒否権はない。いまや禁煙=正義であり、喫煙者=人間失格なのだから。

一方、愛煙家が肩身のせまい思いをせずにすむ場所も、まだまだ多い。
彼は一応、目の前の知人にだけは断りを入れる。「タバコ、吸ってもいいですか?」
この言葉にも拒否権はない。波風を立てたくない知人は、喫煙という暴力に甘んじるしかないのである。
愛煙家と嫌煙家は、もはや一触即発の状況だ。

私は、愛煙家でも嫌煙家でもないが、本書に収められている「煙草を喫う人たち(The Smokers)」という短編には1票を投じたい。ここには、極端な二項対立の現実を凌駕する、ごく個人的な真実が描かれている。

喫煙者のいない家で育った私にとって、一家全員がタバコを喫うこの小説は新鮮だ。家じゅうに灰皿があり、たとえば外に置いてある灰皿や、母親のフォード・ステーションワゴンはこんな感じ。
「雨が降ったあとは、薄汚く泡立った、紅茶みたいに茶色い水がたまって、灰やフィルターやゴミが浮いていた」
「吸殻がぎっりしり詰まっていて、口紅のついた折れたフィルターが飛び出していて、それが床に落ちて…(中略)灰皿の蓋はどうやっても閉まらなかった」

美しいとは言い難い描写を軸に、家族の関係が浮き彫りになってゆく。対照的なタバコの喫い方をする父と母、彼らの不和、兄と姉と私の初めての喫煙、喫煙を軽蔑する祖母の家での母、インチキな父が3番目の妻についたウソ、父と母の死…。

「私」の両親は2人で3つのガンを経験し「直接の原因だったかどうかはともかく、喫煙がそれらに貢献したことは間違いないと思う」と述懐されるのだが「でもそれと同時に、喫煙が何年ものあいだ彼らの救いになっていたとも思う」と著者は振り返る。「つらい年月を両親が生き抜く上で何か助けがあったことをありがたく思う」と言い切るのだ。

レベッカ・ブラウンは、本当のことを静かに、ストレートに突きつける作家だ。彼女の小説を読んでいると、真実とは、定義できないものや見えない部分にこそ宿るのだとわかる。鋭利な少女的感性で切り取られる家族の物語は、読んでいるだけで疲労困憊してしまうほどだが、すべての過去を美化する潔さが、かろうじて疲れを消し去ってくれる。美化 ― それは、傷ついた人だけが行使することを許される癒しの能力なのかもしれない。

すべての短編を読み終えたあと、2ページに満たない冒頭の掌編「天国(heaven)」を読み返さずにはいられない。両親へのさまざまな思いをこんなふうに昇華できる。それが、天国という場所(=小説)なのだと思う。

「二人がそこにいるのを思い描けるような場所がどこかにあるんだと信じられたらいいのに」
彼女がそう書いているだけで、天国の存在を信じることができる。
すぐれた小説家の想像力は、灰にまみれた現実を、瞬時にぬりかえてしまう。

2005-01-07

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DREAM―RUMIKO流 夢の持ち方、叶え方』 RUMIKO / マガジンハウス

くちびるに刻印されたシミュレーショニズム。

「恐れることはない。とにかく『盗め』。世界はそれを手当り次第にサンプリングし、ずたずたにカットアップし、飽くことなくリミックスするために転がっている素材のようなものだ」
(椹木野衣「シミュレーショニズム」洋泉社1991)

そんな時代から10年以上が経過した今も、サンプリングやカットアップやリミックス、あるいは盗作やコピーやまねっこは、ますます加速しているように見える。そこには歴史的な概念がなく「もと」をたどることに意味がない。ピカビア横尾忠則は同列で、ビートルズ奥田民夫も同列なのだ。

先日、代官山の某ショップに「穴空き部分とヒップポケット部分にヴィトンのモノグラムがついたusedのリーバイス501」があるという情報を得た。浜崎あゆみがデニム持込でオーダーしたものと同デザインで、グッチバージョンもあるという。これって一体何なのか? 「リーバイス」「リーバイス501をusedにした人」「ルイヴィトン」「浜崎あゆみ」「ショップのデザイナー」の5者コラボレーション作品?

7月16日付けの「i-critique」で浅田彰は、江國香織が「心に響いたこの1行」(週刊新潮7/18号)でモームの「お菓子と麦酒」(新潮文庫)を引用したことについて書いていた。浅田彰は、江國香織のフランス語のルビの間違いとともに、その1行が実はマラルメの有名なソネットの出だしの1行であることを指摘。「少なくともこれがマラルメの引用であることぐらいは知っていないと、そもそもモームの意図の理解さえおぼつかないだろう。その程度の初歩的な知識もない人間、あえて反時代的なポーズとしてモームの古臭い小説を取り上げるというより、その『小説の力』に素直に感動してしまうような人間が、『作家』として通用してしまい、その文章が、センター試験の国語の問題に出てしまう。現在のわれわれの文化は、そんな末期的状況にあるのだ」と結んでいる。

モームがマラルメを引用し、それを江國香織が「モームのオリジナル文」として紹介する。
あゆがリーバイスとヴィトンを引用し、それをショップが「あゆデザイン」として売る。
この2つ、似てない? 現代は、フットワークの軽いDJがアーティストと呼ばれる時代なのである。

さて、RUMIKOは、化粧品業界のDJというべきメイクアップ アーティストだ。彼女のオリジナルブランド「RMK」は、世界の化粧品のリミックスであるように見える。そして、そのことが、女の子の気持ちをぐっとつかむ。モデル撮影に立ち会う時など、ヘアメイクの人のメイクボックスを覗くと、RMKの化粧品が入っている率は相当高い。

NYでいかに自分を売り込んだか、どんなカメラマンと仕事をしてきたかという話よりも、彼女が高校時代、ツイギーの仮装をするために、つけまつ毛を手作りしたという話が印象的だ。メイクアップアドバイスのページも、身近なお姉さんの提案のようなときめきがある。料理のレシピでいえば「今日つくってみよう」と思わせてしまうセンス。

本書の初版本(¥1,300)には「限定リップグロス交換券」がついている。RMKのショップで私にそれを手渡してくれたスタッフは、とても嬉しそうで、私はRUMIKOファンから贈り物を受け取った気分になった。

リップグロスの容器には「Kiss」とあるのみでRMKのロゴがない。もしもこれがシャネルの限定リップグロスなら、シャネルのロゴは不可欠なはずで、少なくともロゴがなければファンは納得しないだろう。私は、唇の形にデザインされたリップグロスを自分の唇にコピーしながら、RUMIKOはやはりDJなのだ、と思った。

2002-07-22

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『猛スピードで母は』 長嶋有 / 文芸春秋2002年3月号

かっこいい母の息子はマザコンか?

現在bk1ランキング1位の「世界がもし100人の村だったら」(マガジンハウス)の中に、こんな記述がある。

「もしもあなたが いやがらせや逮捕や拷問や死を恐れずに 信仰や信条、良心に従って なにかをし、ものが言えるなら そうではない48人より恵まれています」

誰かが、ほかの誰かよりも恵まれているなんて、第三者にどうやって決めることができるのだろう?
大雑把なたとえ話を断定形で語るのは、私たちに安っぽい優越感を与えてくれるため?
それとも、読み手にこれ以上考えることを止めさせるため?

「知識の民主化を装った大規模な思考破壊工作」という言葉を私は思い出す。蓮見重彦が以前「ソフィーの世界」(日本放送出版協会)を評し、そう書いていた。

芥川賞受賞作「猛スピードで母は」の主人公「慎」は、第三者にどう思われようが、恵まれている。そのことが主観的に書かれているからだ。母子家庭、いじめ、母の恋愛、失恋、祖母の死、祖父の看病など、ある意味でハードな経験を重ねる慎だが、男勝りでかっこよくて知的な母のもとに生まれたおかげで、ぜんぜん動じないよっていう話。控えめながら圧倒的な優越感に貫かれている。

状況への決定権や選択権のない不安定な小学生時代がナイーブに表現されるが、約20年前を回想するというスタイルだから、痛みは穏やかだし悪人も出てこない。安全圏から過去を反芻する気持ちのいい小説なのだ。どんなできごとも等質であり、水が流れるように淡々と描かれていく。

「母がサッカーゴールの前で両手を広げ立っている様を慎はなぜか想像した。PKの瞬間のゴールキーパーを。PKのルールはもとよりゴールキーパーには圧倒的に不利だ。想像の中の母は、慎がなにかの偶然や不運な事故で窓枠の手すりを滑り落ちてしまったとしても決して悔やむまいとはじめから決めているのだ」

慎の母親自慢は、こんなふうに、子離れできない現代の母親への批判にもなっている。この親子は考え方が似ており、慎自身も、母と母の恋人によって置き去りにされそうになったとき、状況をきちんと受け入れるのだ。ほどよい距離をクールに保つ母と息子の姿は、教育的で示唆に富んでいる。

この小説を村上龍はこう選評していた。
「状況をサバイバルしようと無自覚に努力する母と子を描いた」
「一人で子どもを産み、一人で子どもを育てている多くの女性が、この作品によって勇気を得るだろう」
「社会に必要とされる小説だ」

一方、石原慎太郎の選評は冷たい。
「こんな程度の作品を読んで誰がどう心を動かされるというのだろうか」

積極的に人の心をつかんで揺さぶっちゃうような小説ではなく、必要な人がそこから勝手に学んだり考えたりする、道徳の教科書のような作品なのだと思う。

ただ、いくら距離を保っているとはいえ、小学校高学年の息子が、自分の母親をこんなにも容認し、自慢し、かしずくっていうのはどうよ? マザコン度はかえって高いような気がするのだが。
慎は20年後(つまり現在)、母親の運転手にでもなっていそうで、ちょっとこわい。

2002-02-22

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