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『ボブ・ディラン「ノー・ディレクション・ホーム」』 マーティン・スコセッシ(監督) /

帰るための旅や、目的地をめざす旅は、つまらない。

ボブ・ディランの映画なんていっぱいあるのに、なんで今さら? しかも3時間半!
だが、ちらっと目にしたモノクロのスチール写真は、公開中のほかの映画と比べると素晴らしすぎて、劇場に足を運ばずに済ますわけにはいかなかった。

現在のボブ・ディランの語りをベースに、アメリカとボブ・ディランの60年代くらいまでを検証するこの映画は、回顧的ではなく現在進行形。音楽がどうやって受け継がれていくかに焦点をあてたものだった。彼はフォークやロックの創始者というわけじゃなく、継承者の一人に過ぎない。それは、ごく普通の若者の軌跡のように見えた。ロックとは素直さ。かっこよさとは純度。そう断言したくなる理由は、彼の原点がバンドではなくソロだからだ。

昔の映像はもちろん、現在のボブ・ディランのかっこよさといったらどうよ? 彼は今もノー・ディレクション・ホーム、道の途中なのだ。「たいした野心があったわけじゃないが、自分のホームを見つけたかった」というような、みずみずしい言葉にあふれた10時間におよぶインタビューは、長年の友人が撮ったものという。D.A.ペネベイカーの「ドント・ルック・バック」(1967)のほか、アンディ・ウォーホルジョナス・メカスによる映像も登場し、イタリア系アメリカ人監督、マーティン・スコセッシのセンスが光る。

監督はインタビューの中で「今、世の中で起きているあまりにもたくさんのことによって自分自身を吸い取られるな」「ただ人が話をしているだけで、すばらしいロードムービーになりえるんだ」と言っていたが、ボブ・ディランが普通に話しているだけで、観客は心洗われてしまうのだから参っちゃう。人はこんなふうにしゃべればいいし、こんなふうに生きればいい。でも、それが難しいから、彼の発言のひとつひとつにクギづけになる。私たちの体はふだん、紋切り型のカサカサした安っぽい言葉に埋もれ、血が出そうになっているんじゃないだろうか。

ポリティカルソングの旗手として喝采を浴びたボブ・ディランがエレキギターを手にしただけで、ライブはブーイングの嵐。「商業的なポップミュージックじゃなくてフォークを聴きにきたんだ」と怒るファン。「この曲はどういう意味なのか?」と迫るマスメディア。しかし、今となってはジャンルなんてどうでもいいし、彼の詩に「意味」なんてない。ビート詩人アレン・ギンズバーグが「激しい雨」を聴いて自分もずぶ濡れになったと語るシーンや「ライク・ア・ローリング・ストーン」は50番まで歌詞があったという事実にこそ意味がある。ボブ・ディランは7年連続でノーベル文学賞候補になっているらしいけど、その理由がわかる気がした。

ファンは勝手だとか、マスコミは馬鹿だとかそういうことじゃなくて、通りすぎる景色というのは、自分とは関係ないことがあまりにも多い。困惑しながらも、そんな状況に対処するボブ・ディランの姿にはしびれてしまうけれど、心奪われるものだけに影響を受けていれば前を見失うことはない。インチキなものに取り囲まれていても、取り込まれないで生きることは可能なのだと、彼は、全力で示した。

How does it feel どんな気分?
To be on your own ひとりぼっちで
With no direction home 帰る場所もなく
Like a complete unknown だれにも知られず
Like a rolling stone? 転がる石のように生きるのは

*シアター・イメージフォーラム、シアターN渋谷、吉祥寺バウスシアターで上映中

2006-01-26

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『一人称単数』村上春樹
『ラーメンカレー』滝口悠生

不自由な村上春樹と、自由な滝口悠生。

村上春樹の6年ぶりの新作長編『街とその不確かな壁』が4月13日に新潮社から発売される。さらに今秋には、直筆サインとシリアルナンバー入り愛蔵版(税・送料別で10万円!)が限定300部で刊行予定だという。

これに先立ち、2月10日、ウォーミングアップにぴったりな最新短編集『一人称単数』(文藝春秋)が文庫化されたのだが、この日は、滝口悠生の最新短編集『ラーメンカレー』(文藝春秋)の発売日でもあった。
2つの連作短編集の初出は、どちらも雑誌「文學界」。村上の短編は2018年7月号〜2020年2月号に掲載され(表題作のみ書き下ろし)、滝口の短編は2018年1月号〜2022年5月号に掲載された。

この2冊の共通点は、読みながらプレイリストをつくりたくなるほど、音楽が重要な役割を果たしていることだ。
『一人称単数』には、ビートルズのアルバムタイトルである『ウィズ・ザ・ビートルズWith the Beatles』、シューマンのピアノ曲タイトルである『謝肉祭(Carnaval)』、そして『チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ』という3つの音楽系小説が収録されており、ほかの短編にもたくさんのポップスやクラシック音楽が登場する。
一方、『ラーメンカレー』には、ブルーハーツの人気曲タイトルである『キスしてほしい』、徳永英明のデビュー曲タイトルである『レイニーブルー』という2つの音楽系小説が収録され、ほかにもボブ・ディラン『戦争の親玉』BTSの『Dynamite』などが登場する。

また、『一人称単数』を読んでいるとビールワイン、ウォッカ・ギムレットなどが飲みたくなるのに対し、『ラーメンカレー』はタイトルからして食欲をそそる。きちんと読み込めば、イタリアの本格カルボナーラや黒米を使った料理、さらには何種類ものスリランカ・カレーがつくれるようになるだろう。

ただし、この2冊は全く似ていない。村上春樹というジャンルと滝口悠生というジャンルは、真逆なのだと思う。

『一人称単数』は、まじめに生きているはずなのに、いつのまにか理不尽なものに巻き込まれ、追い詰められていくような、孤独でストレスフルな一人称小説。僕は悪くない、僕の責任じゃないという長い言い訳と、考え抜かれた完成度の高い比喩は、村上春樹の真骨頂だ。
他方、『ラーメンカレー』は、一人称も二人称も三人称もありの自由な小説。著者は、自分よりも他人の声に耳を澄ませており、人称や文体が偶発的に変化する。些細なことを緻密に描写しているだけで世界が無限に広がっていくインプロビゼーション感は、滝口悠生の真骨頂だ。

2023-4-5

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『6才のボクが、大人になるまで。』 リチャード・リンクレイター(監督)

37才のチャーリー・セクストンが、45才になるまで。

2002年から2013年まで、毎年、数日間の撮影を積み重ね、トータル45日の撮影期間で完成した映画。終了時、主役を演じたエラー・コルトレーンは18才になっていた。

エラー・コルトレーンの父をイーサン・ホーク、母をパトリシア・アークエット、姉をローレライ・リンクレイター(監督の娘)が演じており、それぞれの経年変化から目が離せない。普通の映画によくある「事実をよそおった滑らかな変化」ではなく「事実であるがゆえのグロテスクな変化」だからだ。

人は日々、成長したり老化したりするが、見た目の印象を決定づけるのは自然な経年変化ではなく、むしろ人為的なスタイルの変化なのだとこの映画は教えてくれた。髪の色や長さ、ピアス、体の動き、表情などのファッション的要素が、いかに雄弁であるか。これらに注目する限り、12年という歳月は思いのほか濃密で、子供にも大人にもいろんな浮き沈みがあるのだなと胸を打たれる。

演じている役柄やストーリーはだんだんどうでもよくなる。登場人物の見た目だけが重要になってくるのだ。観客は、まるで家族のことを心配するみたいな目線で、この長い映画を飽きずに見続けることになる。

イーサン・ホークは「妻とは離婚するが、子供の目にはそれなりにかっこよく見える父」を演じていたが、注目すべきは、彼のミュージシャン仲間で同居人のジミー。エラー・コルトレーンが10才の時、父の家に泊まると、散らかったその家にジミーがいる。「え、この人誰? 父はもしかしてゲイだったの?」と思うくらいの、ただならぬ美しいオーラを放っている。

ジミーは、8年後のライブハウスのシーンでもう一度出てくる。ギタリストの彼はバンドメンバーとともにリハーサルをやっている。エラー・コルトレーンが2階で父に悩みを相談していると、ジミーがステージから2人を見上げ「もしかして、あのときの坊やかい? まいったなあ」みたいなことを言う。父はジミーのことを「夢をあきらめた僕とは違って、こいつはまだ音楽をやっていて、いまだにかっこいいんだ」みたいなことを言う。

いや本当にジミーはかっこいい。8年前よりもずっと。彼は成長したエラー・コルトレーンにThe dog songという曲を贈るのだが、父があれこれアドバイスしていたことを、瞬時にちゃらにしてしまう説得力だ。音楽を続けるとは、この映画が示唆したような夢と生活の二択ではなく、続けずにはいられない衝動なのだと思う。それは夢ではなく才能だ。

この瞬間、映画は真のドキュメンタリーになり、主役はジミーになってしまった。なので調べた。ジミーって何者?

彼の名はチャーリー・セクストン。1985年、17才でソロデビューし、1986年には日本公演をおこない、1999年ボブ・ディランのバックバンドに加入。1987年にデヴィッド・ボウイとマイクを分け合い演奏している姿をYouTubeで見て驚愕した。YouTubeありがとう!
 
The dog songはチャーリー・セクストンの実の息子であるマーロン・セクストンがつくった曲だとか、エラー・コルトレーンの実父もブルース・サーモンというミュージシャンで、この映画に出演してGobbelinsという曲を演奏しているとか、そんなことまでわかってしまうと、2組のリアル父子のストーリーのほうが気になりはじめ、映画のストーリーはますますどうでもよくなってしまった。

2014-12-09

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『チャパクア』コンラッド・ルークス(監督)ロバート・フランク(撮影)

好きな世界と、思いのままに直結する。

洋服や靴の写真を撮るだけで、ブランドがわかるスマホ用アプリがある。デート相手の靴を撮影すれば、ジョンロブ20万円とか、H&M2990円とか、瞬時に表示されるのだろうか。

周囲に流れている音楽が何かを教えてくれるShazamというアプリは私も使っている。空気を測定するような感覚で精度も高く、その曲が入ったジャケットデザインが綺麗にストックされる。音は商品なんだ、と改めて思ったりする。そうやって、あらゆる言葉やイメージが検索できるようになって、検索できないモノやヒトの価値は高まるばかりなのかもしれない。少なくとも、検索をしなくていい時間の価値は高まっている。

映画館が価値ある場所なのは、携帯電話の使用を、画面を光らせることも含めて禁じているからだ。音楽のライブではマナーモードにするだけだし、ふだん私が携帯を完全オフにするのは映画を見るときだけ。映画を見るのは、携帯をオフにするためかもしれないな。オーディトリウム渋谷の「ビートニク映画祭」は、そんな現実逃避感をいっそう加速させるものだった。

ビートとは、1950年代〜60年代半ばのアメリカ文学界を中心に、常識や道徳に反抗した「打ちのめされた世代」。ビートニクのニクには、1957年ソ連が打ち上げてアメリカに衝撃を与えた世界初の人工衛星「スプートニク」に由来する、卑下のニュアンスがあるらしい。

上映された7本の映画のうち、特筆すべきはロバート・フランクが撮影したコンラッド・ルークスのデビュー作「チャパクア」(1966)だ。コンラッド・ルークスの2作めにして今のところ最後の作品である「シッダールタ」(1787)もよかったし、ロバート・フランクが監督した「キャンディ・マウンテン」(1987)の素晴らしさは言うまでもない。

20代前半のボブ・ディラン浅井健一のように見えてしまう「ドント・ルック・バック」(1967)や、47歳で亡くなったジャック・ケルアックってこんなにヤバイ男だったのかと驚愕する「ジャック・ケルアック キング・オブ・ザ・ビート」(1985)は言葉からのアプローチが面白く、ビートとはナイーブで饒舌なイケメンのことだったのねと膝を打つ。ケルアックは映画の中で「ビートとは何?」と聞かれて「Sympathetic(共鳴すること)」とめちゃくちゃかっこよく答えていたし、ケルアックの死を伝えるニュース映像では「ビートは、ボヘミアンとヒッピーをつないだ」とあっさり説明していたけれど。

ケルアックはインタビュー番組のスタジオで、7年間の旅をタイプライターのロール紙に3週間で書き上げたという自作「On the road(路上)」のエピローグを、緩急をつけて詩のように朗読していた。以下は朗読の最終部分。

“Nobody knows what’s going to happen to anybody besides the forlorn rags of growing old, I think of Dean Moriarty, I even think of Old Dean Moriarty the father we never found. I think of Dean Moriarty. I think of Dean Moriarty.”

(誰に何が起こるかなんて、誰にもわからない。見捨てられたボロのように老いていくこと以外は。僕は友人のディーン・モリアーティのことを考える。そして、僕らが見つけることができなかった、もう一人のディーン・モリアーティである父親のことも。僕はディーン・モリアーティのことを考える。ディーン・モリアーティ、のことを。)

最後の文はアドリブで繰り返し、感動的にしめくくった。もはや俳優レベル。映画は終わり、場内にはすすり泣きが広がったので、再び驚いた!

本題は「チャパクア」だ。コンラッド・ルークスの自伝でドラッグ映画の金字塔。薬物中毒の男(監督)がフランスのサナトリウムに収容されるが、催眠療法の過程で幻覚をみる。希有な体験を自ら演じ、実験的に記録したものなのだ。ストーリーの大枠以外は、錯乱したイメージを衝動的につなげた無茶苦茶な映画だけど、ロバート・フランクのカメラは、どの瞬間を切り取っても言葉を失うかっこよさ。音楽や女優にも心をつかまれる。

この自由奔放さは何だろう。コンラッド・ルークスは某有名化粧品会社の御曹司らしいから、交友関係を生かしたセレブなキャスティングが可能で、制作費の心配もなかったのだろう。終盤、自分を見るもうひとりの自分の視点が出現するが、CGなしのダイナミックな動線には度肝をぬかれる。アンダーグラウンドな匂いを発しながらメジャーな完成度を備え、ヴェネチア映画祭では銀獅子賞を受賞した。

アメリカと西洋と東洋、多様な世界とダイレクトにつながるこの映画は、緩衝剤を排除した、光と音の直接言語。わかりやすさを拒む一方、これほど無意識に体に響く、刺激的なわかりやすさはない。ふだん目にするものの多くが、漠然と私たちを疲弊させる理由がわかる。かっこ悪いから、まわりくどいから、ピュアじゃないから、疲れるんだ。

上映作品のひとつ、ピーター・ホワイトヘッドの「スウィンギング・ロンドン1」(1967)では、20代前半のミック・ジャガーが「他人に求められることをやりたくない」というようなことを言っていた。自分が求めることをやり、嫌われても認められたら最高だ、と。

2014-4-2

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