たまに打ちのめされても平気。
デヴィッド・O・ラッセルの『世界にひとつのプレイブック』(2012)は、イカレたふたりについての映画だった。実際にそういう言葉で宣伝されていたのだ。同じような意味で、ロバート・ゼメキスの『フライト』(2012)も、イカレた2人についての映画だった。そして、ベルナルド・ベルトルッチの10年ぶりの新作『孤独な天使たち』(2012)も。いま最もリアルでクールな映画の主人公といえば、イカレたふたりなんじゃないかと思う。
ただし『孤独な天使たち』には『世界にひとつのプレイブック』や『フライト』のようなドラマチックな展開はないし、イカれた部分にレッテルを貼り治療を啓蒙することもない。人はたぶん、わかりやすい困難を乗り越えて何かを達成しなくてもいいし、風変わりな点を無理に矯正しなくても美しく生きていけるのだ。
14歳の少年ロレンツォは、親に内緒でスキー合宿への参加をやめ、1週間、地下室に引きこもることにするが、そこに異母姉のオリヴィアが乱入する。ロレンツォは少々社会性にかけるオタク少年で、オリヴィアは美しくエキセントリックなヤク中だ。別の俳優では映画は成立しなかったと断言できるくらい、2人のインパクトに圧倒される。
長年、母国イタリアに否定的な思いを抱いていたベルトリッチが、30年ぶりにイタリア語で撮った。ベルトリッチはパゾリーニとロッセリーニ以外のイタリア人監督を認めていないらしく、イタリア語のクオリティには相当こだわったようだ。映画の原題は『Io e te(ぼくときみ)』。初期作品の『Partner(分身)』(1968)や『Ultimo tango a Parigi(ラスト・タンゴ・イン・パリ)』(1972)とつながっており、表現はよりみずみずしく純化している。ベルトリッチは「巨匠」ではなかったのだ。
子供の世界と大人の世界が断絶している感触は、綿矢りさの「インストール」や「蹴りたい背中」を思わせる。地下室での最後の晩餐のため、ロレンツォの家に侵入し、冷蔵庫の残りものとビールを盗み出すふたり。オリヴィアはロレンツォの母親の寝顔をじっと見つめる。オリヴィアにとって彼女は「母から夫を奪い母と自分の生活レベルを下げた憎い女」なのだから。
大人への恨みは晴らさなくちゃ、と思う。大人への恨みを晴らす前に、子供は大人になるべきじゃない。子供と大人の間を行き来するオリヴィアの言動は、どの瞬間も、何かの終わりを予感させる気迫と集中力に満ちていて切ない。
最初のシーンでロレンツォが聴いているのは、ザ・キュアーの「ボーイズ・ドント・クライ」。「どこまでイギリス好きな監督なんだ!」と思うが、最後の夜、2人が踊るシーンで流れるのは、デヴィッド・ボウイがイタリア語で歌う「ラガッツォ・ソロ、ラガッツァ・ソラ」(1970)だ。ベルトリッチは「イギリス人が歌うイタリア語」によって、自らの心境の変化まで語っているように思えてしまう。
オリヴィアは言う。「もう隠れるのはやめて。ちゃんと生きるの。たまに打ちのめされても平気よ」。ロレンツォへの鮮烈なメッセージとともに、デヴィッド・ボウイのボーカルが胸をえぐる。ベルトリッチも敬愛しているというイタリア人作詞家、モゴールがつむいだ言葉の響きがあまりに美しく感じられ、日本語に訳してみた。
「ロンリーボーイ、ロンリーガール」
離陸したぼくの心 たったひとつの思い
街が眠るあいだ ぼくは歩く
夜の瞳 闇を白く照らすあかり
ぼくに語りかける声 それは誰?
ロンリーボーイ どこへ行くの なぜそんなに苦しむの?
大きな愛を失ったのね でも愛は街にあふれている
ロンリーガール そうじゃない これは特別なんだ
愛だけじゃない 昨夜ぼくは彼女のすべてを失った
彼女は生命に彩られ 青い空みたいに もう見つけられない
ロンリーボーイ どこへ行こうとしているの?
夜は大きな海 泳ぐのに必要なら どうか私の手を
ありがとう でも今夜ぼくは死にたい
だってぼくの目の中には 天使がいる
二度と飛べない天使が 二度と飛べない天使が 二度と飛べない天使が
彼女は生命に彩られ 青い空みたいに もう見つけられない
2013-05-04
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