「パゾリーニ」の検索結果

2022年映画ベスト10

●あなたの微笑み(リム・カーワイ)

●ケイコ、目を澄ませて(三宅唱

●ストーリー・オブ・マイ・ワイフ(イルディコー・エニェディ)

●剥製師(マッテオ・ガローネ)

●乳母(マルコ・ベロッキオ

●4つの道(アリーチェ・ロルヴァケル

●イタリア式奇想曲(マウロ・ボロニーニ/マリオ・モニチェリ/ピエル・パオロ・パゾリーニ/ステーノ/ピノ・ザック/フランコ・ロッシ

●遅い旅立ち(アリス・ヴィアル)

●フレネルの光(平井敦士)

●お嬢さん乾杯!(木下恵介)

2022-12-30

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『渇き。』 中島哲也(監督)

おっさんの匂いがしない役所広司。

「この映画、見たって言うのやめよう。だって気持ち悪いじゃん」

上映直後、橋本愛タイプの子が、小松菜奈タイプの子にそう言い放った。そのまま映画の宣伝コピーになりそうな言葉だ。

こんな気持ち悪い映画を宣伝したくないから?
こんな気持ち悪い映画を好む人間だと思われたくないから?

たぶん彼女は友達に宣伝するだろう。「気持ち悪いよー、見ないほうがいいよー、『告白』と違うからー」って。https://www.lyricnet.jp/kurushiihodosuki/2010/06/28/843/

中島監督は『告白』に安易に感動したファンの感受性を試しているのだろうか。意味を剥奪するスピード感と残虐さは、もはやレッドカードレベル。絶賛されるとブチこわしたくなる男の子の衝動か。「ボクのこと好き?本当に?ボクってこうなんだよ?ちゃんと見てくれてる?」と果てしなく鎌をかけられるような悪夢。主役のふたり、高校生の加奈子(小松菜奈)も父親の藤島(役所広司)も相当くるっているけれど、それ以上に心配になるのが監督の病だ。

アメコミとバイオレンスとファンタジーとガールズポップをコラージュするセンスは笑えるほど素晴らしいし、残虐さを美しいメロディーで中和させるテクニックは中毒性をはらむ。迷いのない編集は痛快で、クリスマスの狂騒や住宅メーカーのCMの虚飾を容赦なく暴くあたりにCMディレクターとしての破壊力が冴える。

監督が惚れ込んだキャラクターである加奈子は「相手がいちばん言ってほしいと思うことを言い、引きつけて、メチャクチャにする」女。私は最近、星野智幸の『夜は終わらない』村上春樹の『女のいない男たち』の書評を20〜30代女性向けの媒体に書いたが、これらの小説には加奈子に似た女が登場する。今、この手の古風な悪女が旬なのだ。成熟世代の男たち(中島哲也星野智幸村上春樹)がコントロール不能な女に抗いがたい魅力を感じ、自分もまた同種の衝動を抱えていることに気づく。女たちが、そういうねじれた状況を許容すれば世の中は楽しくなるのかなと思い、私は本を紹介する。

音楽のミスマッチな使い方は『アッカトーネ』(1961)の暴力シーンでバッハのマタイ受難曲を使ったパゾリーニのようだ。美しい旋律を唐突に分断するゴダールとは異なり、中島監督は音楽をファッションアイテムとして取り入れる。音楽プロデューサーの金橋豊彦氏によると、中島監督が提示した選曲の条件はスタイリッシュであること。さらに考慮すべきこととして、加奈子は「美しく、せつなくある一方で、狂った感じ」、藤島は「古臭く、男臭く、でもおっさんの匂いはしない」という方向性が求められたという。

血まみれになって汚れていく脂ぎった藤島の暴力を、かろうじて最後まで見ることができた理由はここだったのか。監督は藤島から「おっさんの匂い」だけを巧妙にそぎ落としていたのだ。それは「かっこわるい保身」と言い換えてもいい。この映画は、かっこわるい保身くささが主役の現実世界よりは、はるかにましなのである。

藤島のスーツの色に、黒ではなく白を選んだスタイリストの申谷弘美氏、坊主ではなくロンゲを選んだヘアメイクの山﨑聡氏。この2人のおかげで、藤島がイエス・キリストのように見えるシーンが生まれた。そう、彼は、世の中の十字架を一手に引き受けたヒーロー! 私には確かにそう見えたのだけど。

でもやっぱり、この映画、見たって言うのやめよう。だって気持ち悪いじゃん。

2014-6-28

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『孤独な天使たち』 ベルナルド・ベルトリッチ(監督)

たまに打ちのめされても平気。

デヴィッド・O・ラッセルの『世界にひとつのプレイブック』(2012)は、イカレたふたりについての映画だった。実際にそういう言葉で宣伝されていたのだ。同じような意味で、ロバート・ゼメキスの『フライト』(2012)も、イカレた2人についての映画だった。そして、ベルナルド・ベルトルッチの10年ぶりの新作『孤独な天使たち』(2012)も。いま最もリアルでクールな映画の主人公といえば、イカレたふたりなんじゃないかと思う。

ただし『孤独な天使たち』には『世界にひとつのプレイブック』や『フライト』のようなドラマチックな展開はないし、イカれた部分にレッテルを貼り治療を啓蒙することもない。人はたぶん、わかりやすい困難を乗り越えて何かを達成しなくてもいいし、風変わりな点を無理に矯正しなくても美しく生きていけるのだ。

14歳の少年ロレンツォは、親に内緒でスキー合宿への参加をやめ、1週間、地下室に引きこもることにするが、そこに異母姉のオリヴィアが乱入する。ロレンツォは少々社会性にかけるオタク少年で、オリヴィアは美しくエキセントリックなヤク中だ。別の俳優では映画は成立しなかったと断言できるくらい、2人のインパクトに圧倒される。

長年、母国イタリアに否定的な思いを抱いていたベルトリッチが、30年ぶりにイタリア語で撮った。ベルトリッチはパゾリーニロッセリーニ以外のイタリア人監督を認めていないらしく、イタリア語のクオリティには相当こだわったようだ。映画の原題は『Io e te(ぼくときみ)』。初期作品の『Partner(分身)』(1968)『Ultimo tango a Parigi(ラスト・タンゴ・イン・パリ)』(1972)とつながっており、表現はよりみずみずしく純化している。ベルトリッチは「巨匠」ではなかったのだ。

子供の世界と大人の世界が断絶している感触は、綿矢りさの「インストール」「蹴りたい背中」を思わせる。地下室での最後の晩餐のため、ロレンツォの家に侵入し、冷蔵庫の残りものとビールを盗み出すふたり。オリヴィアはロレンツォの母親の寝顔をじっと見つめる。オリヴィアにとって彼女は「母から夫を奪い母と自分の生活レベルを下げた憎い女」なのだから。

大人への恨みは晴らさなくちゃ、と思う。大人への恨みを晴らす前に、子供は大人になるべきじゃない。子供と大人の間を行き来するオリヴィアの言動は、どの瞬間も、何かの終わりを予感させる気迫と集中力に満ちていて切ない。

最初のシーンでロレンツォが聴いているのは、ザ・キュアーの「ボーイズ・ドント・クライ」。「どこまでイギリス好きな監督なんだ!」と思うが、最後の夜、2人が踊るシーンで流れるのは、デヴィッド・ボウイがイタリア語で歌う「ラガッツォ・ソロ、ラガッツァ・ソラ」(1970)だ。ベルトリッチは「イギリス人が歌うイタリア語」によって、自らの心境の変化まで語っているように思えてしまう。

オリヴィアは言う。「もう隠れるのはやめて。ちゃんと生きるの。たまに打ちのめされても平気よ」。ロレンツォへの鮮烈なメッセージとともに、デヴィッド・ボウイのボーカルが胸をえぐる。ベルトリッチも敬愛しているというイタリア人作詞家、モゴールがつむいだ言葉の響きがあまりに美しく感じられ、日本語に訳してみた。

「ロンリーボーイ、ロンリーガール」

離陸したぼくの心 たったひとつの思い
街が眠るあいだ ぼくは歩く
夜の瞳 闇を白く照らすあかり
ぼくに語りかける声 それは誰?

ロンリーボーイ どこへ行くの なぜそんなに苦しむの?
大きな愛を失ったのね でも愛は街にあふれている
ロンリーガール そうじゃない これは特別なんだ
愛だけじゃない 昨夜ぼくは彼女のすべてを失った

彼女は生命に彩られ 青い空みたいに もう見つけられない

ロンリーボーイ どこへ行こうとしているの?
夜は大きな海 泳ぐのに必要なら どうか私の手を 
ありがとう でも今夜ぼくは死にたい
だってぼくの目の中には 天使がいる
二度と飛べない天使が 二度と飛べない天使が 二度と飛べない天使が

彼女は生命に彩られ 青い空みたいに もう見つけられない

2013-05-04

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『ジダン-神が愛した男』 ダグラス・ゴードン&フィリップ・パレーノ(監督) /

サッカー × アート = 見たことのない肖像。

2005年4月23日のレアル・マドリード対ビジャレアル戦。
ヨーロッパで初めて使用される高解像度カメラを含む17台のカメラがジダンを追った。
監督は、現代美術の分野で活躍する2人の映像アーティスト。この映画をジャンル分けするなら、商業映画でもなく、スポーツドキュメンタリーでもなく、ファンのための映画でもない。まだ誰もやったことのないことに挑戦した実験映画だ。

準備に1年、製作に1年を費やし、カンヌ国際映画祭に出品。日本では話題になりそうもなかったのに、W杯決勝の「頭突き事件」がタイムリーなプロモーションとなった。この映画(試合)の結末も、たまたま「ジダンのレッドカード退場」だったのだから。

上映時間が95分で、終盤に退場ときいて、試合の流れをリアルタイムで撮ったドキュメンタリーを想像した。ジョナサン・デミがトーキング・ヘッズのライブを撮ったパゾリーニの言葉をヒントにしたという。17人のカメラマンが、ひとりのプレーヤーを主観的に追うことで「サッカー生活」の実像に近づいた。

主観的な視点を増やすことは、ドキュメンタリーから遠ざかることを意味するんじゃないだろうか? とても広告的な実験だと思う。編集にかけた時間と作り込みの凄さは、半端じゃないはず。ジダンの息遣いまで聞こえるような臨場感ある音づくりやナレーションもそうだし、ハーフタイムには、その日に起きた世界情勢の映像が流れる。音楽は、今年のフジロックにも出演するイギリスのロックバンド、モグワイの書き下ろしだ。

*2006年フランス=アイスランド
*シネカノン有楽町で上映中

2006-07-18

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『カルヴィーノの文学講義/新たな千年紀のための六つのメモ』 イタロ・カルヴィーノ / 朝日新聞社

名前と涙―イタリア文学とストローブ=ユイレ

文学の価値を決める要素とは何か?
文体、構成、人物造詣、リアリティ、そしてユーモアである。
…などという凡庸なことをカルヴィーノは言わない。

現代イタリア文学の鬼才が出した答えは「軽さ」「速さ」「正確さ」「視覚性」「多様性」。
こんな章立てを眺めているだけでうっとりしてしまう本だけど、カルヴィーノは1984年、ハーヴァード大学で実際に6回の講義をおこなった。(6回目のテーマ「一貫性」のメモはない)

文学を語りながらイメージについて語るカルヴィーノ。文学の魅力は映画の魅力と同じじゃん!と私は思い、5つの要素にストローブ=ユイレがつながった。フランス出身だが、原作に合わせてドイツ語映画やイタリア語映画も撮っている監督夫妻だ。

彼らの映画の第一の魅力は「軽さ」だと思う。わずか18分の軽妙な処女作「マホルカ=ムフ」(1962)、あるいは、もっとも一般受けしたという「アメリカ(階級関係)」(1983-84)を見ればわかる。後者はカフカの未完の長編小説の映画化だが、船、エレベーター、バルコニー、列車へと移動する主人公の軽やかさは、何度見ても釘付け。カルヴィーノの「軽さ」についての講義も、まさにカフカの短編小説「バケツの騎士」の話でしめくくられているのだった。

「早すぎる、遅すぎる」(1980-81)という2部構成のカッコイイ映画の魅力は「速さ」。ロータリーをぐるぐる回るクルマの車窓風景から始まり、農村や工場を延々と映したり、田舎道を延々と走ったりしながら政治や歴史を語る風景ロードドキュメンタリーだ。

「視覚性」を追求した映画は「セザンヌ」(1989)。セザンヌの絵やゆかりの風景を、評伝の朗読とともに凝視することで、地層の奥や歴史までもが見えてくる。

「正確さ」なら、レナート・ベルタのカメラが冴える2本「フォルティーニ/シナイの犬たち」(1976)と「労働者たち、農民たち」(2000)だ。前者は人がしゃべり終わって沈黙した後もずーっとカメラを回し続け、ゴダールよりも徹底している。演技やそれっぽさを排除することで、引用の意味が際立つ。映画化とは、原作を正確に伝えるための方法を選ぶことなのだ。

神話、家族、故郷、対話といった「多様性」の魅力は、同じくヴィットリーニを映画化した「シチリア!」(1998)とパヴェーゼの映画化である「雲から抵抗へ」(1978)で味わえる。棒読みの演技、寓話的な物語、そしてストレートな対話の魅力は、ロッセリーニとゴダールとパゾリーニワイズマンを足したような面白さ。

原作と風景と人間へのリスペクト。そこには必然性と自由がある。「シチリア!」という映画であれば、シチリア出身者をシチリアで撮ることに最大の意味がある。料理と同じで、テクニックやレシピよりも、大切なのは素材なのだ。

ヴィットリーニといえば「名前と涙」という掌編(新読書社「青の男たち-20世紀イタリア短篇選集」に収録)が印象に残っている。よく見るために目をつぶり、そのものを描かないことで浮かび上がらせるような作品だ。ある名前を地面の奥深くに書き付ける主人公の姿を思うと、それは映画の一場面になる。その名の人物は姿を現さず、涙をふいたハンカチだけがあとに残る、失われつつある記憶についての物語。

言葉を追っているのに、いつのまにか言葉が消えてしまうような…そんな映画がいいなと思う。

2005-01-27

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