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『インビクタス 負けざる者たち』 クリント・イーストウッド(監督) /

世界中の共感に、誰もが共感するとは限らない。

第82回米アカデミー賞の受賞作が決まった。南アフリカ初の黒人大統領ネルソン・マンデラを演じたモーガン・フリーマンは主演男優賞を逃し、ラグビーチームを率いる主将を演じたマット・デイモンは助演男優賞を逃した。私は、米アカデミー賞への興味をますます失った。

『インビクタス 負けざる者たち』は、1995年に開催されたラグビーのワールドカップを政治に利用した指導者の物語だ。南アフリカの歴史やラグビーのルールを知らなくても楽しめるエンターテインメント映画だが、ベースはノンフィクション。試合の経過やユニフォーム、スタジアムの広告看板など、当時の状況が忠実に再現されたという。

スポーツの政治利用という、一見美しくないものを美しく見せてしまう力が、この映画にはある。主役の2人の日常が、あまりにも普通だからだ。家族、秘書、家政婦、警護班など、彼らを支えるさまざまなプロフェッションが登場するが、大役を担う2人が、仕事以前に身近な存在を大切にする姿には心を打たれる。ダイナミックにして、繊細な配慮が行き届いた映画なのだ。

撮りたいものを撮りたいように撮れてしまう才能とキャリアと説得力とネットワークを有する監督は、世界中でクリント・イーストウッドだけなのでは?と思わせる名人芸。パンフレットにはメイキングシーンが満載で、監督の姿は、誰よりも絵になっていて、かっこよすぎ。この映画は、監督賞にノミネートされるべき作品なのだろう。

サッカーのワールドカップが、南アフリカで開催される直前の公開というタイムリーさ。マンデラが退いた後はいい状況とはいえない南アフリカだが、国の歴史を美しく世界にPRするには絶好の機会である。マンデラは、ラグビーワールドカップの決勝を世界で10億人が観戦すると知り、それを利用したわけだが、イーストウッドは、そんな歴史を知らない非ラグビーファンまでをも「観戦」させることができたのだ。

この映画はまた、文学映画でもある。映画の魅力的な細部は、やがてひとつの詩に収斂されていく。不屈を意味するラテン語「インビクタス」と名付けられた16行のこの詩は、英国の詩人ウィリアム・アーネスト・ヘンリー(1849-1903)の代表作。12歳で脊椎カリエスを患い左膝から下を切断した彼は、オックスフォード大学に受かるが結核に感染し、右足切断の危機は回避するものの8年間入院。この詩は26歳のとき、退院直前の病床で綴られたものと思われる。

27年半に及んだ獄中のマンデラの魂を支え、ラグビーのワールドカップに奇跡をもたらした詩である。私ももう、忘れることはできない。こういう詩が生まれるのは、ある種の逆境からなのだろう。私たちは逆境を望む必要はないが、恐れる必要もない。それどころか、大儀ある者は決して負けないのだ。これほど勇気を与えてくれる詩があるだろうか。

だが、私が2度目にこの映画を見たときに同行してくれた人は、詩についてはぴんとこなかったという。えー、そうなの! でも、それこそが、身近な人と映画について話をする面白さ。多くを共有していると思う人でも、改めて確認すると、別のものを見ている。目の前にいても、違うことを考えている。

目の前の人が何を考えているのかもわからないのに、言語や時代を超えた詩が勇気をくれるってどういうこと? でも、よく考えると、具体的な勇気を与えてくれるのは、いつだって、身近な人のほう。抽象的・客観的な勇気は遠く離れた人が、具体的・主観的な勇気は身近な人がもたらしてくれる。この映画においても、詩の精神を共有したのは、たぶん主役の2人だけである。

2010-03-10

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『グラン・トリノ』 クリント・イーストウッド(監督) /

「不機嫌」と「やんちゃ」のあいだで。

妻を亡くしたウォルト(クリント・イーストウッド)の家の周辺は、人種のるつぼと化し、荒廃している。隣家の住人はアジア系のモン族だ。CIAは、ヴェトナム戦争でラオス高地のモン族を傭兵として雇ったが、彼らは戦後、難民として亡命。米国には現在、20数万人のモン族が暮らしているらしい。

ウォルトの頑固な不機嫌をほぐすきっかけとなるのが、隣家の姉(スー)と弟(タオ)であるという設定がすばらしい。実の子や孫にはうんざりし、モン族の年寄りとは通じ合えなくても、英語を話しジョークを解するモン族の新世代とは、新しい形の交流ができてしまうのだから。ウォルトがスーの誘いでモン族のホームパーティーに出向くシーンと、その後、意気地なしのタオに口汚い会話や男の処世術を伝授していくプロセスは、忘れられない。

人生とは、目の前の状況を何とかすることの連続なのだろう。ウォルトは、家を修理し、芝を刈り、思い出のクルマ、グラン・トリノを磨き、不良たちの目にあまる悪行に対処する。そう、それだけでこんなドラマができあがってしまうのだから面白い。

彼は何度も銃を手にする。もう、銃なんて持ちたくないのに。アメリカという国は、引退生活すら優雅に送ることのできない国なのである。血の気の多い男の怒りを誘発する材料が、日常的にあるということだ。そしてウォルトは決定的な失敗をする。老人とは思えない<やんちゃぶり>で。

しかし、悲劇と同様、救いもまた、荒廃した状況の中にある。この状況をなんとかしたいと最後まで思えること。死ぬまで後悔をかかえ、失敗をし、それでも誇りと希望を失わないこと。かっこいい人生じゃないか? 人生は、最後までうまくなんていかない。むしろ、だんだんうまくいかなくなり、死んでいくのが人生なのだ。だからせめて、自分の気持ちに、そのつど決着をつけて生きていくしかない。穏やかな日々なんて望んではいけない。洗練なんて求めてはいけない。だって、世界が穏やかになったことなど、かつて一度もないのだから。今の世の中の状況は、年長者の責任でもあるのだから。長生きした男は、早死にした仲間の分まで責任をとり、死ぬまで戦い続けなければいけないのである。

ウォルトは、78歳のイーストウッド監督自身のようだ。『グラン・トリノ』は男の人生の美しい締めくくり方についての映画だが、オリヴェイラのようなヨーロッパの洗練からはほど遠いし、操上和美の『ゼラチンシルバーLOVE』とは対照的な軽さだと思う。イーストウッドの映画といえば、前作『チェンジリング』が公開されたばかりだが、次作はネルソン・マンデラについての映画だという。一体イーストウッドはどこへ行くのか? まだまだ本当の締めくくりは訪れそうにない。

スーの軟弱なボーイフレンドを演じているのが、イーストウッドの息子、スコット・リーヴスであることにも注目したい。彼はまだ、自分の息子にこんな情けない役しか与えないのである。主題歌は、別の息子でありミュージシャンのカイル・イーストウッドが担当しているが、こちらはすごくいい!

2009-04-29

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『ワサップ!』 ラリー・クラーク(監督) /

プラダを着ない天使たち。

サロンボーイ系とお兄系とパンク系がニアミスしたって、東京では「それが何か?」って感じだ。ファッションの違いは趣味の違いと認識されるだけで、深刻な生存競争につながることはない。だけど、移民の多いロサンゼルスのような都市では、ファッションが肌の色と同じように判断され、階級意識を浮き彫りにする。

「ワサップ!」の主役は、ロサンゼルスのサウス・セントラルで暮らす7人のティーンエイジャーたち。全員がラティーノ(ラテンアメリカ系の移民)で、パンクで、スケボー好き。つまり、とっても目立つ存在だ。なぜなら、この街の主流は、黒人のヒップホッパーだから。タイトなジーンズとTシャツに身を包み、スケボーで登校する彼らは、ヒップホッパーたちに「ワサップ、ロッカーズ!」(ロッカーたち、元気か!)と絡まれ、「ちっちぇーTシャツ!」とバカにされるのである。

そう、この映画はファッション映画。地元でも仲間が殺されちゃったりする日々なのに、彼らはビバリーヒルズに足を伸ばす。さて、どうなるか? まずは警官に咎められ、一人が拉致される。次に、ビバリーヒルズ高校のお坊ちゃまたちに攻撃される。挙句の果てには、クリント・イーストウッドみたいな映画監督に、銃を向けられる。

しかし、彼らを受け入れる人種もいる。ビバリーヒルズ高校の美人姉妹、有閑マダム、そして、彼女たちの使用人であるラティーノたち。女は、先入観なしで、男の「見た目の美しさ」を評価できるのである。とりわけ、ルックスのいいジョナサンとキコの二人はモテモテだ。

いちばん面白いのは、たまたま彼らが逃げる途中で紛れ込んだ中庭でのパーティーシーン。ジェレミー・スコット(実物)を始めとするセレブなファッションビープルたちもまた、彼らを一目で気に入る。ラティーノがスケボーでパンク。それだけで絵になるのである。浮いているのである。マイナーなのである。かっこいいのである。ラリー・クラークだって、そうやって、素人である彼らを街でスカウトしたのだろう。ファッションっていうのは、なんて危険なんだろう。それだけで、つかまったり、殺されたり、可愛がられたり、映画に出なきゃなんないはめになるのだから。

「ワサップ!」は、こうしてファッションの本質をえぐる。人種のるつぼの中でむきだしにされる、そのわかりやすい記号性と危険性を。肌の色と同じくらい自然で危険で面白いファッションに目をつけ、素人のティーンエイジャーに心を開かせ、リアルな演技をさせたラリー・クラークの手腕は、毎度のことながら、さすがなのだ。

2007-02-27

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