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『ロビンソン三部作』パトリック・キーラー(監督)

世界の終わりへの旅は、終わらない   1

アテネフランセ文化センターで、パトリック・キーラー監督の『ロンドン』(1994)、『空間のロビンソン』(1997)、『廃墟のロビンソン』(2010)の3本を見た。いずれの主人公もロビンソンという男だ。

初めて『ロンドン』を見たのは、かつて四谷三丁目にあった旧イメージフォーラムだったと思う。橋桁が開いたタワー・ブリッジを豪華客船がゆっくりと通過する長いファーストシーンから始まり、最後まで語り手の「僕」も主役のロビンソンもスクリーンには登場しない82分の風景映画。クールすぎる映像の記憶は鮮烈だったが日本語字幕はなく「It is the journey to the end of the world.(これは世界の終わりへの旅である)」という冒頭のナレーションだけを覚えている。こんなに素晴らしい映画がそんなにネガティブな言葉で始まるのなら、この旅を永遠に続ければいいのではないかと思った。水面を打つ雨のシーンが忘れられず、『ロンドン』は最も美しいドキュメンタリー映画として心に刻まれた。

今回、字幕付きで見て、普通のドキュメンタリー映画ではないことがわかった。語り手の「僕」は豪華客船で写真を撮っていたが、以前一緒に暮らしていたロビンソンから連絡を受け、ロンドンに戻ったという設定だ。ロビンソンは大学の非常勤講師をしながらロンドン問題を研究している風変わりなシュルレアリスト。二人はロンドンにゆかりのある芸術家や思想家をたどり、社会問題に切り込むが話は飛ぶ。「僕」は自分よりもロビンソンのことをメインに語るため、主語のほとんどがロビンソンだ。よっぽど彼を愛しているのだろう。ロビンソンは、パブは怖いからあまり行かないらしく、イケアのレストランに失望したりもする。

『空間のロビンソン』は、ロンドンから約60km西のレディングに移ったロビンソンから久しぶりに連絡が入ったという設定。大学の非常勤講師の職は失ったが、広告会社からイングランド問題についての調査を依頼されたらしい。ロビンソンのエキセントリックな魅力は増し、産業構造と労働、経済格差の問題を探りつつ、出会った男と遊び翌日まで帰ってこなかったり、軍用機の部品を盗み広告会社との契約を打ち切られたり。この辺りからロビンソンについては怪しいなと思い始めた。主役不在の映像は、常に上品かつエッジィで紙芝居のように淡々と提示されるのだが。

『廃墟のロビンソン』では、レディングから約40km北西のオックスフォード近郊に放置されたトレーラーから19本のフィルム缶とノートが発見され、そのフィルムが今、上映されているという設定。撮影者は、人間という種の生き残りの可能性を調査すべく、周辺地域の風景を記録し始めたロビンソンだった。語り手は「ロビンソンの友達の愛人」であるところの女性。「ロビンソンと呼ばれる男が刑務所から出てきた」というような感じで始まり、ロビンソンは現在、行方不明らしい。

ロビンソンの目は、ロンドン郊外の標識や建築や遺跡を見つめる。同時に、地球上で最も寿命が長い地衣類、野生化したオシドリ、風にゆれる花、花粉を運ぶ蜂、小麦の収穫風景なども。何かが起こるまでじっと観察し、何も起こらなくても見続ける。だが、いつだって何かは起こっているはずだ。ひとけのない廃墟も生態系も、人間の営みと関係している。蜘蛛が延々と巣を張る行為に重なるナレーションは、リーマンショックの顛末だ。

世の中の問題に肉薄するために、多くの映画監督はまず人間を撮るが、パトリック・キーラー監督は、人間の営みの「なれの果て」の末端を凝視する。悪事をダイレクトに描かず、結果としての風景から本質をクールに暴くのだ。多くの人を魅了する美しさの中に、ヤバイものがたくさん映っている。

しかし、本当にヤバイのはロビンソンだ。「この都市の表面を凝視すれば、歴史的な出来事の分子的基礎があらわになるはずだとロビンソンは信じており、この方法で未来を見通したいと思っていた」というナレーションがあった。もう騙されない。ロビンソンはパトリック・キーラー監督をパロディ化した分身だ。思いのままに生きるこの偏屈なキャラクターにより、映画は自由を獲得した。ロビンソンの名は、ストローブ=ユイレ監督が映画化したカフカの未完の長編「失踪者」(旧題「アメリカ」)の登場人物からの引用であるらしい。パトリック・キーラー監督本人が、インタビューでそう語っていた。(つづく)

2015-10-17

『ヘカテ』 ダニエル・シュミット(監督) /

1982年の、おしゃれなメロドラマ。

ダニエル・シュミットの回顧上映特集が、アテネフランセ文化センターに引き続き、ユーロスペースでレイトショー開催されている。

中でも「ヘカテ」は「最もファッショナブルな一篇」といわれるだけあって大盛況。日本初公開当時も話題になったようだが、今やその価値はさらに高騰している。北アフリカの風景も、1930~40年代という設定も、昔のクルマも、ディオールオムも、それだけで絵になっている。撮影監督はもちろんレナート・ベルタ

砂漠の風景に重なる鮮烈なブルーのロゴ、謎の女に人生を狂わされていく外交官、反復される女の後ろ姿、寛大さと諦念の入り混じった滋味あふれるセリフを口にする上司、ふいにレコードを割る男、演劇的に決まりすぎな音楽とセリフと間合い……。でも、この映画で語られるのは、言葉はいつだって無意味だってこと。

モロッコの領事館に赴任した若いフランス人外交官(ベルナール・ジロドー)は、たいした仕事も出世も期待できない中、植民地のエキセントリックな倦怠が渦を巻くパーティで、テラスにたたずむアメリカ女(ローレン・ハットン)と出会う。これはもう、アラン・デュカスがプロデュースするモナコのレストランでイタリア人シェフによるエスニック料理に舌鼓を打つような美味快楽としかいいようがない。実際のところ、マニアックな男やおしゃれな女や知的な老人といった多彩な人種が、たった2回しか上映されない「ヘカテ」を味わうために、週末の夜9時過ぎ、渋谷のラブホテル街に足を運んだのだ。

魔性の女に翻弄される男の話だが、男から見て女がどう見えるのかを、非常に洗練された形で描いている。普通、女のことは、ありえないほどきれいに描くか、どろどろと醜く描くかのどちらかなのに、この監督はどちらでもない。女のことをよく知っているのに、わからないふりができてしまうダニエル・シュミットという男は、正しく女性をリスペクトし、幸せにすることができた人であるはずで、この映画を見れば、魔性の女になって男を狂わせるにはどうしたらいいかがわかる。簡単なことだ。もし、そうありたいと望むのであれば。

映画は回想形式であり、男は結局のところ出世する。女のせいで死んじゃったり殺しちゃったりダメになったりしないのだ。すごくいい話じゃん。このポジティブさ、育ちのよさが、ダニエル・シュミットのセンスのよさだ。フェリーニの「道」なんかとは、格が違うのである。

蓮實重彦の「光をめぐって-映画インタビュー集」(筑摩書房)の中で、ダニエル・シュミットは「映画とは、1秒ごとに24回くり返される現実だ」というゴダールの言葉を受けて、自分はこう言い直したいと語った。
「映画とは、1秒ごとに24回くり返される嘘だ」
そして、こうも言った。
「映画とは、可能な限りの操作によって捏造されるもの」

そう、メロドラマは嘘のかたまりだ。ダニエル・シュミットは、自覚的に、とことん嘘をつく方向で、本質をあらわにする。

2007-02-06

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『10話』 アッバス・キアロスタミ(監督) /

これは、ドキュメンタリーじゃない。

女がテヘランの街を車で走り、固定されたデジタル・ビデオが車内を撮影する。監督やスタッフは同乗していない。嘘みたいにシンプルな手法の「隠し撮り風映画」だ。

彼女の息子、姉、老女、娼婦らが助手席に乗り込み、会話を交わす。「10話」から始まるからラストが「1話」。カウントダウンによって期待が高まり、オチもあるから、ちっともドキュメンタリーらしくはない。手法に関しては究極のミニマリズムなのに、監督の意図がムンムンだ。

息子を除き、助手席に座るのはすべて女。しかもほとんどが「うまくいっていない女」。彼女自身は、アートなお仕事をするバツイチの自立した美人である。

これがイランの現実?そうなのかもしれない。だけど、もっと何かあるはずでしょう、日本の女が驚くようなきらめく細部が。この映画に登場するのは、オーソドックスな話ばかりなのだ。女は失恋するとなかなか立ち直れなかったり、髪を剃っちゃったり、娼婦になっちゃったり・・・驚きがないのがこの映画の驚きで、上から見下したようなおやじっぽい視線を、主役の彼女に代弁させている感じが不快。ゴダールみたいに監督自身がぐちぐち説教する映画のほうがタチがいい。

救いは、彼女の息子が10話中4話に登場すること。彼の元気な表情が映ると、それだけでほっとする。母との会話にうんざりして外に飛び出しちゃったりする彼だが、実のところ、この映画の説教くささに耐えられないのだと思う。それを素直に暴いてしまう唯一の存在。結果的にこの映画は、子供の使い方が圧倒的にうまいキアロスタミらしい作品になっているし、やたらと作り込みの目立つイラン映画らしい作品でもある。

さて、私はその後、ドキュメンタリーのお手本のような映画を見てしまった。フレデリック・ワイズマン「DV―ドメスティック・バイオレンス」である。夫の暴力に耐えかねた女が駆け込むDV保護施設を中心にカメラが回され、演出も脚本もナレーションもない。必要な情報はすべて自然な形で語られる。職員も被害者も真剣だ。被害者の女たちが、カメラを気にせずに語るなんてありえないだろうと普通は思うし、撮影許可が下りないだろうとも想像する。でも、できるのだ。

「私は普通の体験をドキュメントすることに興味がある。家庭内暴力がありふれた人間の行動である以上、映画の題材にふさわしいと思った」とワイズマンは言う。そこには感動も共感も押し付けがましさもなく、自分の存在を消すことのセンスが際立つ。重要なのは、監督が現場から消えることではなく、いながらにして存在感を消すこと…。

ワイズマンは、山形ドキュメンタリー映画祭の機関誌「documentary box」で、アメリカの国道1号線をひたすら南下する至高のドキュメンタリーロードムービー「ルート1」を撮った故ロバート・クレーマーと対談している。「我々は見えない存在になりたいんだ」とクレーマーが言い、ワイズマンが「その通りだ」と頷く。

そしてこうも言う。「できあがった結果に何らかの意味で自分でも驚くことがなければ、映画を作る意味なんてないと思うね。そうでなければ、結果がどうなるか最初からよく分かっていることのために1年も費やすことになる」

●「10話」(アッバス・キアロスタミ)
2002年/フランス・イラン/94分/ユーロスペースで上映中
●「DV―ドメスティック・バイオレンス」(フレデリック・ワイズマン)
2001年/アメリカ/195分/アテネフランセで上映中
●「ルート1」(ロバート・クレーマー)
1989年/USAフランス/255分/アテネフランセで上映中

2003-09-09

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