汚い部屋でヘロヘロになる3時間。
ポルトガル・リスボンのスラム街。そこに住む人々の暮らしをそのまま撮ったという感じの映画だ。ヴァンダというヒロインの部屋のシーンがいちばん多いが、最初、私はヴァンダを男だと思った。声もしゃべり方もしぐさも着こなしも、女とは思えなかったのだ。
個人的な信頼関係なしに、プライベートな空間をここまで密着撮影することは不可能だろう。自室でのヴァンダは片時も麻薬を手放さず、ヤク中であることは疑う余地がない。妹と一緒にいることも多く、男が訪ねてくることもあるけれど、ほとんど布団から動こうとしないヴァンダは、ライターでアルミホイルを焙る手先だけが妙に注意深く、その行為ばかりが不毛に繰り返される。ちょっとヤバイんじゃないのお?って誰もが思うような変な咳をして、布団の上にゲーって吐いたりするヴァンダを見ていると、お願いだからその布団を今すぐ洗ってくれ!と言いたくなる。
セクシュアリティすら削ぎ落とされたかのように見えるジャンキー女の部屋を、固定カメラで延々と撮る意味があるんだろうか? ヴァンダの部屋を一歩出れば、居間には赤いソファやテレビや野菜があるし、お母さんだっているし、ヴァンダ自身もけっこう普通に生きている。ブルドーザーで破壊されつつある路地の風景や、世間から追いやられているように見える人々の会話が希望に満ちたものとは言い難いけれど、その色や光は美しい。そういうものだけを撮ってくれればよかったのに、と思うのだ。
だけどこのフィルムは、ヴァンダの部屋というホームポジションを撮らなければ、映画にならなかったかもしれない。外へ外へとカメラは出て行き、ここがリスボンのどういうスラム街で、どのような状況にあり、この国の政治経済はどうかということまでを偏った「神の視点」で斬る、凡庸な構造的ドキュメンタリーになってしまったことだろう。監督はその逆をやった。徹底して個人に迫り、個人を描写した。
自分の部屋というのは本来、人に見られたくないことをするための場所でもあるのだから、絵に描いたような幸せを享受している某国の女の部屋だって、案外こんなものかもしれない。親の目が届かない自室で危ないものを吸引したり、危ない男を連れ込んだり、危ないネット取引をしている女も珍しくないだろう。この映画は、見る人を観光客ではなく訪問者の気分にしてくれる。ヴァンダのそばにいることで、うっそーと思いながらも、いつの間にかなじんでいく感じ。どこへも移動しないのに、個人的な体験に根差したロードムービーになっている。
私は終始、ぼーっとしながらこの映画を見ていた。普段ぼーっとしてるのに、映画を見ているときだけ画面に集中しなければいけないのは不自然だ。その点、この映画は半分くらい寝ていたって大丈夫。あんた誰?って思う人も出てくるけど、自分の周囲を見回したって、よくわからない人だらけなのだから、わからない人物が存在することのほうが自然に決まってる。
娯楽映画やテレビやエンターテインメント翻訳は、とてもわかりやすくて面白いけれど、その多くをすぐに忘れてしまうのはサービス精神が過剰だからだと思う。わからないものはそのまま見たいし、翻訳は直訳のほうがいい。翻訳できない部分にこそ面白さはあるのだ。サービス精神に満ちた編集フィルムを集中して見ていても、体は何も感じない。それは受身の風景にすぎないから。
うとうとしながらヴァンダと過ごした3時間と彼女を取り巻く空気を、私は忘れないだろう。
*2000年 ポルトガル=ドイツ=スイス
*山形国際ドキュメンタリー映画祭 最優秀賞受賞
*上映中
2004-03-30
amazon