『トム・アット・ザ・ファーム』 グザヴィエ・ドラン(監督)

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「僕たちは、愛し方を学ぶ前に、嘘のつき方を覚えた」

ハロウィンがこんなに盛り上がるなんて思わなかった。渋谷は前日から厳戒態勢。だって怪しい人ばかりだもん。かわいいキャラばかりじゃない。魔女、ゾンビ、騎士、負傷兵、露出嬢。これじゃあ性別や国籍ばかりか加害者と被害者の区別さえつかない。ヒカリエの女子化粧室はカオスで警備員が見回っていたけど、もしやこれも仮装? 日常の真面目なドレスアップより、現実逃避の不真面目なドレスダウンのほうが面白いことは確かだけど。

映画を見たあとは、登場人物が乗り移って、声や行動が変わってしまうことがある。「トム・アット・ザ・ファーム」を見たあと、私は渋谷でやろうとしていたあれこれを全部忘れた。ケベック州の片田舎からモントリオールまで、クルマを飛ばしている気分だった。

モントリオールの広告代理店でコピーライターをやっているトムは、同性の恋人ギョームの葬儀に出席するため、ギョームの実家の農場へクルマで向かう。トムの傷心の表現の大胆さ、手際のよさ、音楽の使い方に、ただならぬ映画だなと期待が高まる。カナダの有名な戯曲の映画化だそうで、人物間のスリリングな心理戦の完成度も高い。不穏な空気に満ちたアナザーワールドにずぶずぶとはまり、閉塞感に打ちのめされる。

農場で暮らすのは、ギョームの母アガットと兄フランシス。そこにトムが加わる。やがて、アガットへの体面上ギョームの恋人にでっちあげられていた同僚のサラも呼び寄せられ4人に。トムはフランシスに演技を求められ、彼の暴力によって支配されていく。そんな場所からはさっさと逃げればいいじゃんと思うし、実際トムは逃げようとする。しかし次第に逃げられなくなっていく。

フランシスの思いはねじれている。可愛い弟への思い、自分にきつくあたる母への思い、弟の恋人であったトムへの思い。いずれも愛と嫉妬が入りまじったものだろう。
アガットの思いもねじれている。突然死んだ次男への思い、農場を一人で仕切る未婚の長男への思い、次男の親友を演じるトムへの思い。それらは愛と疑惑が入りまじったものだろう。

トムはなぜフランシスに洗脳され支配されるのか。閉ざされた場所での暴力と薬で、人はこんなふうになってしまうのか。いやそれだけじゃなかった。フランシスには、弟ギョームの要素があるのだとわかってくる。ギョームに教わったタンゴのステップでフランシスとトムが踊るとき、ギョームと同じ香水をつけたフランシスがトムに暴力行為を仕掛けるとき、それは官能の様相を呈してくるのだ。人質が犯人に特別な感情を抱くストックホルム症候群という現象が、美しい恐怖として理解できてしまう。

最終的にトムが逃げることができても、ハッピーエンドというわけじゃない。だってもともとトムは、幸せな状況から農場へやってきたわけじゃない。恋人の死という絶望の中でやってきた。そのゼロ以下の日常に、もう一度踏み出さなくてはいけない。

エンドロールで流れるのは、ゲイであり米国とカナダの二重国籍をもつルーファス・ウェインライトの「Going to a town」。胸を打つ歌詞と旋律とともに、現実に引き戻される。僕はアメリカに疲れている、と歌った曲だ。田舎に取り残されたフランシスが着ていたのは、背中に星条旗がついたボンバージャケット。傷ついた獣のような彼の姿を思い出す。

この曲のアメリカへの愛と憎しみが、アメリカを描いたわけではないこの映画とリンクする。それはトムのギョームへの思い、フランシスへの思い、同性愛への思い、モントリオールへの思い。絶望と希望は紙一重で、よく似ているってことだ。トムは農場から逃げずに、過酷な弔いを終えた。いくつかの謎を解き、我に返った。愛する人を弔うとは、こういうことなのかもしれない。

トムの演技は忘れがたい。怒り、落胆、動揺、嫌悪、衝撃。心の変化を、さざ波のように伝えることのできる希有な俳優だ。と思ったら、トムを演じたグザヴィエ・ドランは監督でもあった。主演、監督、製作、脚本、編集、衣装、英語版字幕のすべてを25歳の彼が手がけたという。金髪イケメンは仮装だったのである。
 
1989年モントリオール生まれ。19歳の初監督作品で3つの賞を受賞。「トム・アット・ザ・ファーム」は4作目で、5作目の「MOMMY」は今年のカンヌ国際映画祭ゴダールとともに審査員賞を受賞した。早く見たい。グザヴィエ・ドランの映画を見るという楽しみが、人生に加わった。

2014-11-02

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