●トム・アット・ザ・ファーム(グザヴィエ・ドラン)
●やさしい人(ギヨーム・ブラック)
●エレナの惑い(アンドレイ・ズビャギンツェフ)
●アクト・オブ・キリング(ジョシュア・オッペンハイマー)
●そこのみにて光輝く(呉美保)
●ドライブイン蒲生(たむらまさき)
●フランシス・ハ(ノア・バームバック)
●グロリアの青春(セバスティアン・レリオ)
●罪の手ざわり(ジャ・ジャンクー)
●NO(パブロ·ラライン)
2014-12-30
2014-12-30
2014-12-30
amazon2002年から2013年まで、毎年、数日間の撮影を積み重ね、トータル45日の撮影期間で完成した映画。終了時、主役を演じたエラー・コルトレーンは18才になっていた。
エラー・コルトレーンの父をイーサン・ホーク、母をパトリシア・アークエット、姉をローレライ・リンクレイター(監督の娘)が演じており、それぞれの経年変化から目が離せない。普通の映画によくある「事実をよそおった滑らかな変化」ではなく「事実であるがゆえのグロテスクな変化」だからだ。
人は日々、成長したり老化したりするが、見た目の印象を決定づけるのは自然な経年変化ではなく、むしろ人為的なスタイルの変化なのだとこの映画は教えてくれた。髪の色や長さ、ピアス、体の動き、表情などのファッション的要素が、いかに雄弁であるか。これらに注目する限り、12年という歳月は思いのほか濃密で、子供にも大人にもいろんな浮き沈みがあるのだなと胸を打たれる。
演じている役柄やストーリーはだんだんどうでもよくなる。登場人物の見た目だけが重要になってくるのだ。観客は、まるで家族のことを心配するみたいな目線で、この長い映画を飽きずに見続けることになる。
イーサン・ホークは「妻とは離婚するが、子供の目にはそれなりにかっこよく見える父」を演じていたが、注目すべきは、彼のミュージシャン仲間で同居人のジミー。エラー・コルトレーンが10才の時、父の家に泊まると、散らかったその家にジミーがいる。「え、この人誰? 父はもしかしてゲイだったの?」と思うくらいの、ただならぬ美しいオーラを放っている。
ジミーは、8年後のライブハウスのシーンでもう一度出てくる。ギタリストの彼はバンドメンバーとともにリハーサルをやっている。エラー・コルトレーンが2階で父に悩みを相談していると、ジミーがステージから2人を見上げ「もしかして、あのときの坊やかい? まいったなあ」みたいなことを言う。父はジミーのことを「夢をあきらめた僕とは違って、こいつはまだ音楽をやっていて、いまだにかっこいいんだ」みたいなことを言う。
いや本当にジミーはかっこいい。8年前よりもずっと。彼は成長したエラー・コルトレーンにThe dog songという曲を贈るのだが、父があれこれアドバイスしていたことを、瞬時にちゃらにしてしまう説得力だ。音楽を続けるとは、この映画が示唆したような夢と生活の二択ではなく、続けずにはいられない衝動なのだと思う。それは夢ではなく才能だ。
この瞬間、映画は真のドキュメンタリーになり、主役はジミーになってしまった。なので調べた。ジミーって何者?
彼の名はチャーリー・セクストン。1985年、17才でソロデビューし、1986年には日本公演をおこない、1999年ボブ・ディランのバックバンドに加入。1987年にデヴィッド・ボウイとマイクを分け合い演奏している姿をYouTubeで見て驚愕した。YouTubeありがとう!
The dog songはチャーリー・セクストンの実の息子であるマーロン・セクストンがつくった曲だとか、エラー・コルトレーンの実父もブルース・サーモンというミュージシャンで、この映画に出演してGobbelinsという曲を演奏しているとか、そんなことまでわかってしまうと、2組のリアル父子のストーリーのほうが気になりはじめ、映画のストーリーはますますどうでもよくなってしまった。
2014-12-09
ハロウィンがこんなに盛り上がるなんて思わなかった。渋谷は前日から厳戒態勢。だって怪しい人ばかりだもん。かわいいキャラばかりじゃない。魔女、ゾンビ、騎士、負傷兵、露出嬢。これじゃあ性別や国籍ばかりか加害者と被害者の区別さえつかない。ヒカリエの女子化粧室はカオスで警備員が見回っていたけど、もしやこれも仮装? 日常の真面目なドレスアップより、現実逃避の不真面目なドレスダウンのほうが面白いことは確かだけど。
映画を見たあとは、登場人物が乗り移って、声や行動が変わってしまうことがある。「トム・アット・ザ・ファーム」を見たあと、私は渋谷でやろうとしていたあれこれを全部忘れた。ケベック州の片田舎からモントリオールまで、クルマを飛ばしている気分だった。
モントリオールの広告代理店でコピーライターをやっているトムは、同性の恋人ギョームの葬儀に出席するため、ギョームの実家の農場へクルマで向かう。トムの傷心の表現の大胆さ、手際のよさ、音楽の使い方に、ただならぬ映画だなと期待が高まる。カナダの有名な戯曲の映画化だそうで、人物間のスリリングな心理戦の完成度も高い。不穏な空気に満ちたアナザーワールドにずぶずぶとはまり、閉塞感に打ちのめされる。
農場で暮らすのは、ギョームの母アガットと兄フランシス。そこにトムが加わる。やがて、アガットへの体面上ギョームの恋人にでっちあげられていた同僚のサラも呼び寄せられ4人に。トムはフランシスに演技を求められ、彼の暴力によって支配されていく。そんな場所からはさっさと逃げればいいじゃんと思うし、実際トムは逃げようとする。しかし次第に逃げられなくなっていく。
フランシスの思いはねじれている。可愛い弟への思い、自分にきつくあたる母への思い、弟の恋人であったトムへの思い。いずれも愛と嫉妬が入りまじったものだろう。
アガットの思いもねじれている。突然死んだ次男への思い、農場を一人で仕切る未婚の長男への思い、次男の親友を演じるトムへの思い。それらは愛と疑惑が入りまじったものだろう。
トムはなぜフランシスに洗脳され支配されるのか。閉ざされた場所での暴力と薬で、人はこんなふうになってしまうのか。いやそれだけじゃなかった。フランシスには、弟ギョームの要素があるのだとわかってくる。ギョームに教わったタンゴのステップでフランシスとトムが踊るとき、ギョームと同じ香水をつけたフランシスがトムに暴力行為を仕掛けるとき、それは官能の様相を呈してくるのだ。人質が犯人に特別な感情を抱くストックホルム症候群という現象が、美しい恐怖として理解できてしまう。
最終的にトムが逃げることができても、ハッピーエンドというわけじゃない。だってもともとトムは、幸せな状況から農場へやってきたわけじゃない。恋人の死という絶望の中でやってきた。そのゼロ以下の日常に、もう一度踏み出さなくてはいけない。
エンドロールで流れるのは、ゲイであり米国とカナダの二重国籍をもつルーファス・ウェインライトの「Going to a town」。胸を打つ歌詞と旋律とともに、現実に引き戻される。僕はアメリカに疲れている、と歌った曲だ。田舎に取り残されたフランシスが着ていたのは、背中に星条旗がついたボンバージャケット。傷ついた獣のような彼の姿を思い出す。
この曲のアメリカへの愛と憎しみが、アメリカを描いたわけではないこの映画とリンクする。それはトムのギョームへの思い、フランシスへの思い、同性愛への思い、モントリオールへの思い。絶望と希望は紙一重で、よく似ているってことだ。トムは農場から逃げずに、過酷な弔いを終えた。いくつかの謎を解き、我に返った。愛する人を弔うとは、こういうことなのかもしれない。
トムの演技は忘れがたい。怒り、落胆、動揺、嫌悪、衝撃。心の変化を、さざ波のように伝えることのできる希有な俳優だ。と思ったら、トムを演じたグザヴィエ・ドランは監督でもあった。主演、監督、製作、脚本、編集、衣装、英語版字幕のすべてを25歳の彼が手がけたという。金髪イケメンは仮装だったのである。
1989年モントリオール生まれ。19歳の初監督作品で3つの賞を受賞。「トム・アット・ザ・ファーム」は4作目で、5作目の「MOMMY」は今年のカンヌ国際映画祭でゴダールとともに審査員賞を受賞した。早く見たい。グザヴィエ・ドランの映画を見るという楽しみが、人生に加わった。
2014-11-02
シンプルで硬質なのに、リリカルで鮮烈。1962年のポーランドを舞台にしたロードムービーであり音楽映画。
修道院で育った戦争孤児のアンナは18歳。修道誓願の時期が来たが、シスタ一から一度も面会に来ない肉親の存在を知らされ、修道女になる前に会ってきなさいと勧められる。アンナは外界に出て、唯一の肉親である叔母のヴァンダを訪ねる。
自分がユダヤ人で、本名がイーダであることを知るアンナ。ヴァンダと共に両親が戦時中に住んでいた家を目指すが、実はヴァンダもあるものを探している。それらを見つけることで、2 人の人生は大きく変わっていく。
ヴァンダはエキセントリックな検察官。酒を飲みながら白のヴァルトブルクを運転し、恋愛を投げやりに楽しみ、強面でやや壊れてもいる。こんな魅力的な女と4日間も一緒にいたら、イーダが影響を受けてしまうではないか。修道女の誓いを立てる前の、最初で最後の旅なのに。
イーダの硬さは簡単には崩れず、髪にはベールを被ったままだが、きっかけはファッションより前に、音楽が連れてくる。宿泊中のホテルの階下から聞こえてくるのはコルトレーンの「ネイマ」。なんて罪深く甘美なのだろう。兵役を逃れながら放浪しアルトサックスを吹くイケメンは、昼間ヴァンダの車をヒッチハイクし、ホテルまで一緒に来た男。舞台装置は完璧だ。
音楽という名の空気は、いつだって壁を越え、ピンポイントでターゲットの耳に囁く。国境や文化や言葉をすり抜ける突破力と、無関心な層には決して届かない選別力をもって。もしもイーダの心に響く音楽がロックだったら、ボサノバだったら、違う展開になっていたはず。音楽の趣味は人生を揺るがす。
イーダの場合、とりあえず初めて出会った男がそれほど悪い奴じゃなくてよかった。しかし彼女は、彼と人生を共にしようなんて思わない。初めて自由を知った彼女は、彼と生きる人生を自由とは思わないのだ。「アナと雪の女王」で13年ぶりに外界と接触し、他国の王子とあっさり恋に落ちてしまうアナとは格が違うのである。
イーダが鏡の前でベールを取り、髪をはらりとほどくシーンは「アナと雪の女王」でエルサが髪をふりほどき雪の女王に変身するシーンを思わせるが、そこにはエルサのような自己肯定の開放感はない。ポーランドとアメリカは違うし、1962年と現代は違う。イーダは自由を垣間見た瞬間に、その限界を悟っただろう。
髪を見せ、ハイヒールをはき、ドレスをまとい、酒を飲み、タバコを吸い、踊り、恋愛をすることはなんて楽しくて簡単なんだろう。なんて軽くて柔らかくて儚いんだろう。そうイーダは思ったはずなのだ。誰でもできることで状況を変えるのは難しい。柔らかさに流れるのは簡単だけど、イーダの武器は硬質さ。それを棄てない限り、彼女はたくましく生きていけるだろう。
音楽もなく規律正しい修道院での食事の時間にイーダは笑う。外界を知ってしまったら、自分だけが生き残った理由を知ってしまったら、もう他の修道女たちとは同じでいられない。彼女が今後どういう選択をしていくのか楽しみだが、イーダを演じたアガタ・チュシェブホフスカが、今後女優を続けるかどうかも興味深い(続けるつもりはないと言っているが)。
監督が「演技経験が一度もなく、演じたいとすら思っていない女の子」を探す中で主役に抜擢された彼女の第一印象は、イーダ役にはまるで似つかわしくない娘。「むやみに飾り立てたヘアスタイル、古臭い服、ウルトラクールな物腰の、人目をひくヒッピー」だったそうだ。
ヴァンダを演じたのはアガタ・クレシャという有名な女優だが、その強烈なキャラクターは、監督が慕っていた老婦人がモデル。煙草を吸い、酒を飲み、冗談を言う温かく寛大な彼女が、20代後半の頃、冷酷で狂信的なスターリン主義の検察官だったと知ったとき、ショックを受けたらしい。「このパラドックスは、何年もの間脳裏を去ることがありませんでした」と言う。
事実は想像を超え、妄想に貢献する。
2014-8-7