『三姉妹 雲南の子』 ワン・ビン(監督)

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ドラマは、撮影対象の中にある。

さまざまな映画祭で大賞やグランプリをとり、国際的に高い評価を得ているワン・ビン監督。特集上映でドキュメンタリー作品3本を見た。中国からすごい人が現れたなと思う。

さびれた工場地帯を結ぶ鉄道と、その周辺に生きる人々を撮った「鉄路」(2003)は、9時間に及ぶ3部作「鉄西区」のPart3。きれいな暮らしではないが、食事時には湯気が満ちるアジアの原風景から目が離せない。監督は撮影対象の環境を尊重し、話しかけたり空気を乱したり都合よく切り取ったりしない。適切な距離を保ち、息を潜めるように撮ることで、撮られる側にも見る側にも安心感が生まれ、自由に解釈できる特別な世界が生まれるようだ。父親の拘留にショックを受けた息子が、長い沈黙の後、写真の束を取り出し訥々と話し始める時に、「ちょっといいですか?」とそれを奪い取って1枚1枚別カットで撮り直したりしないのである。ナイーブさの塊であるような息子が大切にしているものは何なのかが、そのままの形で伝わってくる。

「鳳鳴(フォンミン)— 中国の記憶」(2007)は、元新聞記者の74歳の女性が自宅で半生を語る約3時間の作品。彼女の体験のひとつひとつが、空や星の輝きまで伴って見えるよう。監督が控えめに声をかけるのは、暗くなり過ぎた部屋に電気をつけてもらう時のみ。ドラマチックに盛り上げる演出は必要ない。ドラマは彼女の中にあるからだ。家路を行く彼女の後ろ姿から始まり、執筆する後ろ姿で終わる構成も冴えている。

「三姉妹〜雲南の子」(2012)は、雲南省の高地の村で撮影された約2時間半の作品。ジャガイモを育て、わずかな家畜とともに人々が暮らす、中国で最も貧しい地域のひとつだ。
10才、6才、4才の三姉妹の母親は家を出て行き、出稼ぎ中の父親も、たまにしか帰らない。妹たちの面倒をみる長女は、学校に通うのも難しいが、ここに映っているのは圧倒的な貧しさだろうか。そうは思えない。貧しさとは比較であり、監督は豊かさと比べて同情するためでなく、理解するために三姉妹を撮っているからだ。父親と次女、三女がバスで町へ行くシーンで、初めて村の人以外のスタイルや持ち物が映り、現代の映画であることを思い出す。「鉄路」では、鉄道が道路を横切るとき、町の人々やクルマが映っていた。だけど、カメラはそっちを追わない。何かを撮ることは、何かを撮らないことであるという事実を刻み込むのみだ。

ワン・ビン監督の映画に登場する女性は、困難な状況においても別の星に住んでいるような強さを携えている。たとえば「三姉妹」の長女は、10才にして周囲への甘えや期待が希薄に見え、湿った家の中よりも、高地の開かれた風景が似合う。下界を眺める切れ長の視線とありあわせの服のリアリティは、どんなファッション写真もかなわない。父親にも次女にも三女にも似ていない彼女は、家を出た母親のDNA を受け継いでいるに違いない。

長女は男友達に「あんたの家に遊びにいっていい?」と聞く。「なんで?」とそっけない反応をする彼は、彼女と似た境遇にあり、女性に何かを与えようという余裕は感じられない。生きることに必死である父親と祖父だって似たようなもの。彼女はそろそろ村を出るべきなのだろう。チャンスが早く訪れることを願うばかりだ。

長女はぼろぼろの靴を脱ぎ、火で乾かしながら、病的な足のふやけ度を自分と比べたがる次女に言う。「そんなことを競っても、意味ないよ」。本当にそうだと思う。競うべきは足の速さや美しさであり、知識の豊かさだ。彼女は、これからの人生で直面することになる、さらに過酷な世界を予感しており、そこに踏み込んでいく覚悟を決めているのだろう。

2013-07-02

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