書くことは、戦うことだった。
なぜ、こんなシンプルな文体に力が宿るのか? 不気味なほど冷徹な意志はどこからくるのか? ハンガリーの作家、アゴタ・クリストフを世界的に有名にした「悪童日記」三部作を貫く感覚は、自分の身近からはどう転んでも生まれてきそうもない種類のものだった。
そして今、彼女の自伝ともいえる「文盲」によって、長年の疑問がとけた。
言葉を知り尽くし、美辞麗句を並べたてることは、想像力のじゃまにしかならない。作家に必要な資質とは、形容詞をたくさん知っていることでもないし、高等教育を受けていることでもない。「知らないこと」と「強いられること」が、彼女の意志を強固にし、読み書きへの熱意を切実にした。母語からドイツ語、ドイツ語からロシア語、ロシア語からフランス語へと、何度も言葉を捨てざるを得なかった運命が、真理を志向させたのだろう。彼女は、決してマスターすることのない「敵語」の違和感を永久に引き受けることを自らに課し「文盲者の挑戦」を続けようと決めたのだ。
彼女の生きるモチベーションは、戦いだ。したがって「革命と逃走の日々の高揚」を失った亡命先のスイスでの労働生活は、砂漠でしかない。言葉が通じないことが砂漠だったわけじゃなく、変化や驚きのない、判で押したような時計工場での労働生活そのものが砂漠だったのだと思う。彼女のアイデンティティは、読み書き以前に「歴史を画することになるかもしれない何かに参加しているのだという、そんな印象を抱き得た日々」だった。
アゴタ・クリストフのこのようなメンタリティは、同じハンガリー出身の女性監督、フェケテ・イボヤの映画に見い出すことができる。社会主義崩壊後、民族と言語と情報が交差する都市の熱狂を描いた「カフェ・ブタペスト」。あるいは、切実に何かを探し、移動し、サバイバルを繰り返す男のアイデンティティ・クライシスをテーマにした「チコ」。仲間のいなくなったかつての戦場を訪れるラストシーンは、まさに砂漠だ。
だが、もともと砂漠のような環境で生まれ育ち、その平穏さを愛している私は、アゴタ・クリストフの「敵語」という感覚を共有できない。平和と順応がスタンダードである私たちの日々は、革命と逃走をスタンダードとするアグレッシブな日常からはもっとも遠いのだ。「敵語」で書かれ、日本語で届けられた彼女の文章は衝撃的だが、それらが共感といえるようなヤワな次元に至ることはない。
アゴタ・クリストフは、世界的な作家になったことで、砂漠から脱出できたのだろうか?現代のフランス語圏での生活は「革命と逃走の日々の高揚」をますます遠ざけんじゃないだろうか? 彼女は今もフランス語を「敵語」と意識しているだろうか?
「悪童日記」三部作を凌駕する作品が、その後、ひとつも発表されていないという事実が、戦いという最大のモチベーションを失いつつある彼女の現状を、物語っているような気がしてならない。
2006-04-25